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やはり世界遺産の中城城跡へ。
中城の寒緋桜
お金がかかるからというよりも、もう時間がないので、寒緋桜(カンヒザクラ)を撮影できたから、それでよしとして退散します。
あーあ、桜祭り、行けそうにないなあ。大城先生は、桜祭り行ったのかなあ。

そういえば、中城は文豪大城立裕の故郷です。
だから大城立裕文学碑があるのです。
大城立裕文学碑

おまけ。
ふっと、舞い降りた鳥一羽。
おまえは、本当にイソヒヨドリなのか…
太ったイソヒヨドリ
だとしたら、おまえ、太りすぎだろ…  自己嫌悪。

そのあと、大好きな古本屋“じのん”さんに寄って、伝説の文芸誌、「琉大文学」を見せてもらった。しかし、第三巻の号ばかり、それでも高価なものは一冊4,000円を超える。問題の第一巻第六号からの数号は、いったいいくらで売るのでしょう。
残念ながらお目当てのものがなかったので、代わりに小生の蔵書、「新沖縄文学」のご紹介。
沖縄タイムス社、1970年18号、特集「反復帰論」。
新沖縄文学
(下の新しめの「新沖縄文学」は、ずいぶん前に、“じのん”の前身、那覇の“ロマン書房”で買ったのです。)
「反復帰論」には、大城立裕「文化創造力の回復」と、新川明「<復帰>思想の葬送」が並んでいる……。

葬送といえば、今日は、義父の命日である。
久米島出身の義父は、日本より中国が好きだと言った。それでも、東京の結婚式には来てくれた。皇居に行ってみたいというので案内したが、実は僕も初めてだった。義父は、玉砂利にいたく感心していた。
義父は沖縄タイムスの社員であった。本と酒で暮らす余生を楽しみにしていた。いよいよそんな生活ができるはずであったのに、定年退職して間もなく、心臓の病で倒れた。連絡を受けた妻は、すぐに沖縄へ向かった。那覇空港に降りて、電話を探した。運び込まれた病院で、父ちゃんはそのまま亡くなってしまったのだと告げられた。間に合わなかった。最後に、父ちゃんは「死んでたまるか」と言ったのよと、妻は妹から聞かされた。
もし東京の病院であったなら、口には出さなかったが、その時、僕はそう思った。今はあまり聞かれなくなった「島ちゃび」とは、離島の苦しさを表す言葉だが、僕はその言葉を思い出していたのだ。だが、はたして僕は、沖縄の現実をしっかりと見ていたのか、あるいは沖縄を差別していたのか、今となってはもうわからない。
亡くなった義父の財布には、生涯一度きりの、東京への旅の航空券が、大切に収められていた。僕も妻も、とめどなく涙があふれた。
それから、もう19年になる。

あれ、いつのまにか文体が変わっちゃった。これは、「社長とは呼ばないで」ではありません!

さて、本日の珍道中はここまで。わたくし、亡き義父にお線香を手向けるため、妻の実家へと参ります。
当然のことながら妻の実家はずっと沖縄タイムスを購読。従って、先日の琉球新報のわたくしめの記事を、皆さんは読んでいらっしゃいません。というわけで、その新聞を、義理の弟の奥方が、勤務先の古新聞の中から探して出して持ってきてくれました。
それをバアちゃんは、そっとトートーメーにお供えしました。
トートーメー
19年間、毎朝毎夕届いた新聞は、まずここに供えられます。もしかすると、琉球新報がここに置かれたのは、はじめてのことなのかもしれません。来月からは夕刊がなくなります。不況と、インターネットの所為。
とうちゃん、淋しいだろうなあ。

イカの墨汁です。
イカの墨汁
「おかわりしなさい。」
「はい」
でもすごいカロリーなんだよね。また太る、心臓にもいいわけない。
でもやめられない…… 
自己嫌悪。
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知念氏とのお話がどのくらいかかるのか、全く予想がつかなかったので、この日のこの後の予定は決めていませんでした。有難いことに、すんなりとお話が出来たので、少し時間ができました。

そこで大好きな勝連城跡へ向かいました。何年ぶりだろう。世界遺産に指定されてからは初めてです。
勝連の城壁が見えてきました。
遠く望む勝連城
よく見えませんか?
ではもう少しアップで。
望む勝連城

休憩所です。
勝連城跡休憩所
へー、こんなの出来たんだ。以前は、ほんとうに何もなかったのに。

ずいぶんと整備された坂道と、新しい階段を登り、まずは一の郭の中へ。
一の郭から見上げた三の郭。
三の郭
宇夫方隆士氏の詩画集に、この絵があります。
宇夫方隆士詩画集「城壁」

勝連の城壁の上から1
勝連最後の按司(城主)阿麻和利は、琉球統一を目指してクーデターを起こしましたが、1458年、琉球王府によって滅ぼされたとされています。
勝連の城壁の上から2
そんな歴史には疎いのですが、20年以上前のこと、誰もいない何もないこの場所に立ち、何故か涙が止まらなかった記憶が蘇ってきました。この海は、いったいいつからこれほど美しかったのだろうか。この海を、赤土で汚してはならないというふうに。
けれども今日は、どうしてもあの時の海の色が、思い出せなかったのです。
勝連の城壁の上から3

建築資材として持ち去られてしまった城壁の復元が進んでいます。
城壁の復元1

城壁の復元2
この白い石が、元からの城壁の色になるのに、どのくらいかかるのだろう。

階段を下りる
さあ、新しい階段を下りて次行こう。

左バナナ畑。右サトウキビ畑。
バナナ畑とサトウキビ畑
サトウキビ畑はお馴染みなので、バナナ畑だけをご覧あれ。
バナナ畑だけ

そして…
泡瀬の干潟です。
泡瀬干潟

埋め立てのための仮設道路。
埋め立てのための仮設道路

賛成と反対の横断幕。
賛成と反対の横断幕
その脇を、埋め立てのトラックが通り過ぎていく。
トラック

明日の仕事のために、もう眠ってしまっているだろう金城君へ。
やはり僕は、今ここでどちらかの立場に立って何かを言うことはやめておこうと思っています。決めるのは、やはりあなたたちであるべきだと思うからです。ただ、埋め立てしないという判断を選択することができないような地点へと、沖縄は追い込まれているのではないか、そしてその責任は我々にあるのではないか、そのことは、きちんと考えるべきだし、もしそうならば、沖縄に返すべきものを返すために、僕は何かをしたいと思っているのです。
(文責:高山正樹)
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沖縄市海邦2丁目7-12 “cafe casa”
cafeCASA

知念正真氏と金城君
知念正真氏と金城君の、穏やかな笑顔のスナップ。

人類館CD制作に関係する書類に、知念さんの判子を頂くということが第一の目的だったのですが、しかしそれは郵便のやり取りでも可能なこと、今回どうしても知念正真さんに直接お会いしたかったのには、特別な訳があったのです。でも、はたしてこちらのお願いを受け入れてくださるだろうか、とても自信がありませんでした。だから、知念さんの高校時代の恩師である儀間進さんに同行していただいて、あの飄々とした雰囲気で話をしやすくして頂こうなどと、よからぬことをたくらんでいたのですが、儀間先生は風邪でNG。こうなったら当って砕けろ。
その結果は、どうぞOfficial_Blogをお読みください。

ただ、お会いしてみて、今回に限っては、どんな繋がりにも頼らず、丸腰でお会いしたことが却ってよかったと思っているのです。
いや、もしかすると、金城君が同行してくれたのがよかったのかもしれないね。やっぱり、誰かに助けられているということなのかな。

Official_Siteではご紹介しなかった秘話。
戯曲「人類館」の登場人物は3名。それは何故か。何故って、3人だからこそ「人類館」の緊迫感があるわけで、その登場人物は3名以外に考えられないのですが、知念正真氏が「人類館」を書いた1976年当時、劇団創造は、その歴史の中で団員が一番減ってしまった時期で、役者も3人しかいなかったのだそうです。そういう逆境であったからこそ、「人類館」は生まれたのかもしれません。
「今は劇団員は何人くらいいらっしゃるのですか?」
「それがねえ、最初はきちんと規約も作って、参加費を募ってやっていたんだが、いい加減でねえ、やめたんだかどうだかわからないのがね…、だからよくわからん……」

そしてもうひとつ。
「今まで沖縄の人間は、本当に抵抗したことがないのではないかと思うのですよ」
ほんとうに穏やかな知念正真さんの、ぽつりと言われたこの言葉を、どうやら僕は、一生忘れることはないだろうと思うのです。
(文責:高山正樹)
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2月 3日火曜日: 沖縄出張3日目の午前中

まずは沖縄県立博物館へ。
前回訪問時の記事
Official_Blogを読む
ミュージアムショップ“ゆいむい”にて。
Official_Blogと同じアングルの画像です。
記念撮影
違うのは笑顔です。
今回の旅のテーマの一つは、笑顔なのです。
但し、こんな笑顔が簡単に生まれるわけではありません。店長の池宮城さん(中央)と宇夫方路さんの父上隆士さんとは、前の旧県立博物館の「友の会」でご一緒だったお友達なのです。その関係で、ここで我々のCDも置かせてもらえています。
これってコネ?
沖縄では人との繋がりが、「本土」よりもずっと重要なことです。良くも悪くも。

紅型の品物がたくさん。
紅型

紅型の小物
ちょっと高くてもいいものをお土産にしたいなら、ここはお勧めです。
紅型作者の金城君を「引き回す」のは昼から。能書きが聞けなくて残念。

こんな小物を見つけました。
オキナワウラジロガシのドングリ
南の島の不思議な木の実、オキナワウラジロガシ。
説明書きによると、奄美大島から西表島に分布しているブナ科の植物とのこと。その種子は日本最大のドングリ。
あれ、沖縄にドングリ、あったのか。
私事ではございますが、四半世紀以上前に沖縄から出てきた小生の妻は、秋になると東京の自宅近くの公園で拾ったドングリを箱詰めにして、沖縄へ送っていました。沖縄にはドングリがないから、甥や姪に見せたやりたいという理由で。送られた方はいい迷惑(?)、しばらくするとドングリから虫が一斉に顔を出すのですからね。しかしそれでも、「沖縄にもドングリはあるから、わざわざ送ってくれなくても結構だ」というようなお断りの連絡は来ませんでした。
最近、どんどんと沖縄オバア化していく妻なのですが、東京に出てくる前には、那覇の保育園で保母さんをしていました。例えば園児たちを連れて、近所の公園なんかに遊びに行ったのだろうに。そこには、ドングリは落ちていなかったのでしょうか。
ミステリーです。
帰ったら、カミサンに問いただしてみようと思っています。そのためには、証拠品として、このドングリ、買っていかなきゃね。

ともかく、僕は四半世紀の間、「沖縄にはドングリがない」と思い込み、「どんぐりころころ」などという童謡を、全国一律に歌わせるなんておかしいと、居酒屋なんかで、偉そうなことを語っていたわけです。
わたくしの所為で、間違った沖縄情報を信じてしまった人がいるとしたら、ああ、どうしましょう。
関係各位どの、ごめんなさい。謹んでお詫びいたします。

金城君との待ち合わせ時間にはまだだいぶん時間があるので、NHK沖縄へ。
NHK沖縄放送局入口
身長180cmを越えるような放送部長さん。
「宣伝のための宣伝はしませんが、結果的に宣伝になってしまうことは問題ないと思っています。」
しかし、全国一律の番組を作るには、やはり戦争がらみの話題が早道だということらしい。まずは番組制作依頼の企画書を作って、タイミングを図って提出してくださいとのこと。感触は悪くない。
深く考えると動けなくなる場合もあります。どんな方途を使っても、まずは発言権を得て、我々を認知してもらうことも必要なのです。ドングリのことならいざ知らず、泡瀬の干潟のことや、ヤンバルの森のことを、まず知ってもらうためにも、です。

今日も、長い一日になりそうです。
(文責:高山正樹)
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高山正樹 Masaki Takayama
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