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11月22日日曜日: もうひとつの沖縄(3)

親戚10名ほどで飲みに出る。こういう場合、沖縄では「~人」とは言わず、たいがい「~名(めい)」という。でも、普天間移転反対の集会に集まった人数は21,000名とは言わない。それは沖縄でも21,000人という。
この「~名」と「~人」の使い分けの基本は、名前の把握できるリストがあれば「~名」、不特定多数ならば「~人」ということらしい。それならば、言葉が乱れているのは「大和」の方だ。
今のマスコミは客観性を装って「~人」しか使わない。「日本人」は、それに影響されたのか。
マスコミが「~名」を避けるのは「~名」が軍隊で使われていたからというような話もあって定かではないが、それなら沖縄から最初に「~名」が消えてもよさそうなものだがそうはなっていない……

てなことを考えているうちに、おもろまち(新都心)の居酒屋に着いた。
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大きな居酒屋。

その昔、沖縄の飲み屋には泡盛などなかった。主流はスコッチやウィスキー。島酒は家で飲むもの、高いお金を出して飲むようなものではないと、沖縄の人たちは思っていた。
1960年、岡本太郎はこう書いた。
「聞くと、ここの人はあまり泡もりを飲まなくなった、せいぜい場末のおでん屋か屋台みたいなところで、肩身せまくこっそりやっているという。そこで製造業もだんだん衰えて廃業するものが出てきているそうだ。もっとも酒にかぎらず、土地で出来たものというとどうも卑しいように思いこみ、舶来はすべて上等と考える沖縄的コンプレックスがある。――なんてことを聞くと、くすぐったくなってくる。それなら日本の方が御本家だ。」

今は沖縄の飲み屋で泡盛のない店など見たことがない。

今や泡盛と沖縄料理と三線、それが沖縄の飲み屋の定番。ところが、そういう店は地元の年配の方か観光客ばかりで、沖縄の若者たちはあまり見かけない。
でも、この店にはたくさんいた。逆に、観光客らしい人はいない。何の不思議もない、当たり前のこと。

といって、メニューに沖縄的料理がないのかといえば、そんなことはない。各種チャンプルー、ラフティー、しまらっきょのてんぷら、たいがいある。
でも、みんなは焼き鳥や寿司を頼む。にんじんしりしりーなんて頼むのは僕だけだ。
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細くて、なよなよしている。カミサンの作るにんじんしりしりーはもっとシャキシャキしていて旨いのだが。

カラオケボックスなんぞに行ってみた。
普通の歌(って、何が普通なのかよく分からんが)に交じって、沖縄のインディーズの曲があったりする。
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これがなかなかいい。
そして、手拍子も掛け声も、全て裏打ちなのであった。

11月22日日曜日: もうひとつの沖縄(2)

宇夫方隆士夫妻と路女史。
親子水入らずの、ささやかな出版記念パーティー。
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お寿司とワイン。沖縄色、ゼロ。
宇夫方隆士の本音

これを沖縄ではないというなかれ。
これも、もう一つの沖縄です。沖縄に住む人の数だけ、沖縄があるのです。

沖縄、浦添、国立劇場おきなわ、楽屋口。
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本番前、津嘉山正種さんは屋外の喫煙所で、ひとり風に打たれていらっしゃいました。煙草を吸っていたのかどうか、それはわかりません。
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色々ありましたが初めてこの沖縄で、聞かせていただきます。
「カミサンの実家の家族を招待したのです」
津嘉山さんはニッコリと笑われました。

ロビーへ。
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拝啓、津嘉山正種様。
舞台、拝見させていただきました。この舞台を、CDとして残したことが間違いではなかったと、あらためて確信しました。そして、その仕事をさせてくださった津嘉山さんはじめ青年座関係の皆様に、重ねて感謝申し上げたい気持ちでいっぱいです。
招待した妻の家族が、今日の舞台にどんな感想を持ったのか、とても興味があるのですが、僕はきっと、それについて聞くことはしないでしょう。
僕は、妻の家族から、敢えて離れて座りました。それは、彼らが舞台を観て泣くにしても笑うにしても、僕はその傍にいてはならないという気がしたからなのです。僕を知らない人ならば、僕が隣に座っても、僕は見知らぬ路傍の石なので、その人は自由に笑うことも泣くこともできるでしょう。でも、妻の家族にとっては、もはや僕は路傍の石ではありえないのです。
やがて客席の明かりが落ちていきます。密かに僕は、この後この劇場が、津嘉山さんのウチナーグチで大きな笑いに包まれることを期待していました。30数年前の、あの伝説の舞台がそうであったように。
しかし、そうはなりませんでした。それが残念なことなのかどうか、僕にはよくわかりませんが、きっと今日のお客様は、70年代の沖縄の人々よりもはるかに冷静であり、幸福であり、そして、諦めに包まれているのかもしれないと思ったのです。そして、みんな静かに涙されていた。
とすると、僕が人類館をCDにしようと決意した個人的な一つの事件、家事をしていた僕の妻が、青年座にお借りした人類館の記録DVDから流れ出てくる言葉、僕には全く理解できない言葉を聞いてゲラゲラと笑っていたのは、妻が不幸だということなのでしょうか。まあ、たとえそうだとしても、妻はまだ諦めてはいないのだと納得しておきましょう。
昨日は、隣の大劇場で大城先生の新作組踊りがあって、僕はそちらを観るために来ていたのですが、一般のお客さんに混じって、ロビーの椅子でひとり小劇場の開場を待っている知念正真さんをお見かけしました。
「ちょっと早く来すぎてしまった」
僕は開場前の小劇場に潜り込んで、制作の紫雲さんに、知念先生が既に来ていらっしゃることを伝えました。紫雲さんはあわてて知念さんを呼びにいかれた。
「彼は人付き合いが下手でね」
そんな幸喜さんの言葉を思い出したのです。
今度、もう一度知念さんを訪ねて、たくさんのお話を聞かせて貰おう、今、なぜかとてもそう思っています。今日の舞台のことも、妻の家族には聞けないが、知念さんには是非とも聞いてみたいと思うのです。もし聞けたなら、またお手紙でご報告します。
これからも、津嘉山さんがこの舞台を持って全国を巡り、沖縄の心を伝え続けられますこと、心より願っております。
今日は、ほんとうにありがとうございました。
(2009年11月22日 高山正樹)

是非、下記記事をお読みください。
知念正真さんにお会いした日のこと。爆笑に包まれた初演のこと。
つかこうへいの芝居は泣けてしかたないといった加藤新吉氏のこと。

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ロビーで、人類館以外のCDも売ってくださいました。
諸々清算。
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ありがとうございました。

妻の実家へ戻ると、こんなCMをやっていた。
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介護保険のご案内。
「だいわはうちゅ」とは全く違う、泥臭い沖縄の普通のおじさん。
そういえば、役所広司さん相手の映画監督役、変わりましたねえ。ところで、あのコマーシャルは沖縄でやってたのかなあ。

11月22日日曜日: あっち・そっち・こっち

県立博物館ミュージアムショップ“ゆいむい”
人類館のCDを納入。
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店長の池宮城さんは、うぶかたパパの隆士さんのお友達。
大城立裕氏の著作に並んで、宇夫方隆士詩画集「幻影」販売中。
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紅型のポストカード。どこかで見た図柄。
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そうだ、生活の柄のクラゲだ。
この紅型を制作した りえさんの旦那さま、宜保聡さんが、今、久茂地で展覧会を開いていると、池宮城さんに教えてもらいました。生活の柄ルートと博物館ルート、ふたつ繋がれば会いに行く、これM.A.P.の鉄則。
那覇久茂地の青砂工芸館。
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宜保聡さんです。奥さまは育児休暇中。
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お子様のために作った七五三の着物の前で。パパ渾身の作。
「小物も作ってはいるのですが……」
聡さんの目は、反物に向いている。
紙漉きの上江洲睦君のことを、何となく思い出しました。紙そのものを売りたいという我々の提案に「まだまだ修行が足りない」と言った上江洲君。
のんびりと考えればいい……
ステキな名刺を頂戴しました。
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「今度は、“生活の柄”あたりで……」

ジュードーチョップへ
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看板猫チャミと、お別れする日も近い?
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ついに、裏チョップ作品の販売を開始しました。
楽天市場“沖縄map”JudoChop「カバン」のページ
あっち、そっち、こっち。
だが、もう一軒、ちょいと行きたいところがあった。ここ、ジュードーチョップからすぐ近く。だが、残念ながら人の気配が無い。そうなると、どうしても行きたくなった。
明日もある。

11月22日日曜日: “金細工またよし”再訪

一昨日おじゃましたばかりなのに
昨日のジーファーを持って
今日また来てしまいました。

一昨日とは一本違う路地から入ろうとしたら、そこにこんな看板が。
「くがにぜーく」とルビを振られた「金細工またよし」の看板「また来てしまいました」
「誰も来なくなったらおしまいさ」
「今日はどうしても見てもらいたいものがあって」
そう言って、義理の妹が使っていたジーファーを手渡しました。
「ほー」
そう言って、又吉健次郎さんは、いきなりそのジーファーを叩き始めたのです。
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見る見るうちに、曲がっていたジーファーがまっすぐになっていきました。知る人ぞ知る又吉健次郎が、記録として残すジーファー以外はもうは作らない、まして踊りのジーファーは一切作らないと宣言している名工が、昨日までカミサンの実家の箪笥の奥あたりに埋もれていた踊り用のジーファーを、たった今、僕の目の前で修理してくださっている、なんだか信じられない感じです。
「親父からこのカンカン叩く音を聞けとよく言われたが、その意味が分からなくてねえ、近頃やっと少し分かってきた」
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「これ銀ですか? 叩いて作った銀のジーファーは折れないと聞いていたから、こんなに曲がるのは違うと思ったのですが」
「銀だから曲がる」
そうか、曲がるから折れないんだ。そうでなければポッキリ折れてしまう。
「なかなか質のいい銀を使っているんじゃないかなあ。銀貨ではなさそうだ」
「は?」
聞けば、昔はいい銀が手に入らなくて、アメリカの25セント銀貨を溶かして使ったらしいのです。
「国の象徴の硬貨を潰すのもどうかと思うが」
今から60年前、健次郎さんが20歳の頃、戦後間もなくです。でも、その頃の銀貨は、それでも比較的質が良かったのですが、その後、銀に銅を挟んだりして使えなくなったとのことでした。
(当時、健次郎さんの父上、6代目盛睦さんは、米兵向けの指輪を作られていたようです。ちなみに、盛睦さんが濱田庄司や棟方志功と出会うのはそれから10数年後、1960年代のことです。)
しかし、このジーファーは、それほど古いものではないと思います。義理の妹が踊りを始めてから購入したものだから、復帰直後くらいに作られたものなのではないでしょうか。
「この頃は丁寧な仕事をしていたんだなあ。これはなかなかいいものですよ。大切にしなければいけない」

叩けば表面が荒れてツヤがなくなります。だから後は、磨かなければなりません。その作業は、磨くための道具を、専用の砥石で研ぐところから始まります。
「ずいぶん使っていなかった」
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ジーファーの尖った方を木の台に突き立てて固定し、道具の取っ手側を足の指で挟み、そこを支点にして、車のワイパーのように道具を動かして磨くのです。
「今度来る時までに、ちゃんと磨いておこうね」
「ほんとうですか! ありがとうございます」

それから、この刻印はなんなのでしょうか。
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「ああ、これはね、細いところに刻印してあるから、両側が切れてしまって分かりにくいのだが……」
健次郎さんは一本のポンチを出して、それを銀片に打ちつけて見せてくださいました。
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「これと同じ、わかる? 王府の紋だ」
なるほど、左三巴紋です。沖縄では「左御紋(フィジャイグムン)」と呼ばれました。
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(※後でよく見てわかったことなのですが、又吉さんのポンチは渦巻きが反対、これは右三巴紋です。これはいったい……。また謎が一つ増えました。)

やはり健次郎さんは、踊りのジーファーの大きさが気になるようでした。
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7代目のクガニゼーク、又吉健次郎が作るジーファーは、この小さな銀の塊から叩き出していくのですが、その重さは13匁、叩き磨いていく間に1匁ほど減って、完成品は12匁くらいになる。
(※1匁=3.45g)

「このジーファーは16匁あるなあ」
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踊りのジーファーは作らないという又吉健次郎さんが、箪笥に埋もれていた曲がった16匁のジーファーに手を入れて磨いてくださる。なんて幸せなジーファーでしょう。沖縄には、今も家のどこかに眠っているジーファーがたくさんあるのではないか、そんな気がしてきました。

ひとりの若者が、工房にやってきました。
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「お、8代目かい?」
「いえ、違います。ちょっと興味があって、叩かせてもらいに来ました」
すると健次郎さんがおっしゃいました。
「彼女に何か作ってあげたいのだろう。最初はそんなもんだよ」

僕は彼に席を譲って、ジーファーを預けて、工房を後にしました。

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高山正樹 Masaki Takayama
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