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11月23日月曜日: もうひとつの沖縄(4)

今回の沖縄の旅、最後の晩餐。
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ゆし豆腐。にんじんしりしりーがある。それ以外には、特に沖縄っぽいものはない。
オリオンビールに続いて島酒。
琉球酒豪伝説とやらを飲んでおくと、次の日が楽らしい。
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進貢船の模型が飾ってある。
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そういえば“おきなわワールド”の進貢船は復活したのだろうか。最近は裏の業者用通用口から入ってそこから出るのでわからない。
ダッコちゃんがウィンクしていたり……
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アンガマのウシュマイとンミーのお面が微笑んでいたり。

お隣の与儀さんから貰ったアダンの手作り草履。
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神輿を担ぐ下町では分からないが、東京の山の手あたりの人間は、手作りの草履なんて観光地で売られている民芸品のレプリカくらいでしかお目にかからない。それが、まだここでは生きている。でも、貰ったはいいけれど、たぶんきっと誰も履かないで、このまま部屋の隅っこにずっと転がっているんだろう。そしていつしか古い記憶の中でしか見つけることができなくなるんだろうな。

命名札だって同じ。
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数年前まで、居間の壁には数十枚の命名札が貼られてあったが、家の内装を変えてから、新しい数枚だけ捨てずに取ってある程度になった。
沖縄の命名儀礼も、調べればちょいと面白い。今日のところは深入りはやめるけれど、最近の僕は、こういう時いつも、日本ではどうだったのだろうと考えるようなった。沖縄は僕にとって、日本を知る糸口でもあるらしい。

昔の話を始めると、昭和一桁生まれの義母からは、興味深い話がたくさん出てくる。
義母の童名(わらびなー)はチル。今でもヤンバルの田舎へ行けば、みんなから「ちる小(ちるぐゎー)」と呼ばれる。童名とは、戸籍上の名前とは違う、家庭内とか近所の友達の間で呼び合う名前のことである。
だが、義母には童名と今の戸籍上の名前と、その他にもう一つの名前があった。「鶴」という「やまとなー(と義母は言った)」。近所の女の子は、みんな大概「ツル」か「カメ」だった。こっちは姉がツルで妹がカメ、あちらは姉がカメで妹がツル。ツルカメだらけ。同じ苗字も多かったので、名前の前に「~の」という屋号が必要だった。
ある時、小学校の先生がこれでは拙いということで、片っ端から名前をつけた。あんたは「きみ子」あんたは「よし子」というように。その日から、義母の「やまとぅなー」は「とみ子」になった。この日はじめて聞いた話しである。
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僕は、義母の童名が「ちる」だなどとは全く知らずに、十数年前、生まれた娘に「なちる」と名づけたのである。その命名札が、今も残っているのかどうか、何となく聞くことはしなかった。

明日の朝早く、沖縄を発つ。トートーメーに線香をあげる。トートーメーの棚には、大和風の線香と平御香(ひらうくー)が置いてある。
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平御香とは沖縄の線香。6本の線香が板チョコのように並んでいて、割って使う。
この線香を見ると、いつも思い出すことがある。20年前の義父の葬式でのこと。大和から送り込まれていたのであろう若い坊主の説教。「平御香は香りがない。こんなものを使っていては、亡くなった人は成仏などできない。香りのある大和の線香を使わなければいけない。」
当時、沖縄で線香といえば、平御香の他にはなかった。僕は怒りに震えた。しかし、家族はみんな穏やかに黙って聞いている。そうでなければ、僕はその坊主をぶん殴っていたに違いない。今も思い出すたびに殴っておけばよかったと、後悔するのである。
でも、最近は平御香に火をつけた憶えが無い。今日も結局、「大和の上等線香」に火を点けて、そして手を合わせたのである。

《おまけ》
義母にも「カンゼークー」のことを聞いてみた。
「来ていたさ、なーびなくーさ。鍋とかヤカンとか、直しにきていたさ」
「いつごろですか?」
「戦前かねー」
眞永座の仲嶺眞永さんのお話とはずいぶん違う……

11月23日月曜日: 浦添美術館訪問

2007年の8月31日から9月9日まで、「沖縄の金細工~うしわれようとするわざ・その輝き~」という展覧会が、浦添市美術館で開催されました。
(余談ですが、実はこの時、又吉健次郎氏が宇夫方隆士氏に、ぜったい詩画集の展覧会をやったほうがいいと、乗り気ではない隆士氏に代わって、浦添美術館の空いている日を押さえてしまったのです。それがきっかけで、隆士氏は沖縄タイムスの新聞小説の挿絵を描くことになり、我々M.A.P.は隆士氏を通じて、沖縄タイムスの文芸部長さんから大城立裕氏を紹介いただきました。なんだか不思議。)

8月28日付けの「沖縄タイムス」に、この展覧会を紹介する記事が掲載され、そこには次のような一文がありました。
「琉球では、金銀を扱う金細工(クガニゼーク)、錫・銅を扱う錫細工(シルカニゼーク)の金工職人がいた」
もしかすると、浦添市美術館に行けば、何かわかるかもしれない、そう思って訪ねてみました。
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その時のチラシをコピーしてくださいました。
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他にも、又吉健次郎さんの工房の案内や名刺などもファイリングされていましたが、それらには「カンゼーク」と書かれてありました。
「なぜカンゼークではなく、クガニゼークとしたのですか」
「この時の展覧会は、又吉さんだけではなく、クガニゼーク全体を紹介する企画だったので」
僕の問いの立て方がまずかったのかもしれませんが、なんとなく意外なお答えでした。それまで、漠然として、「カンゼーク」という大きなくくりのなかの一分野が「クガニゼーク」なのかもしれないと思い始めていたのに、お答えの印象はその逆です。でも、それは要するに、カンゼークについての見解が定まっていない、というか、「カンゼーク」の言葉にこだわることに大した意味はないという感じなのです。

今回の旅で、「カンゼーク」の本質にどうしてもたどりつけないもどかしさがどんどん増大してきています。しかし、もしかすると、僕の求める明確な答えなどハナから無かったのではないか、ここに至って、そんな風に思えてきました。「カンゼーク」の原点を求めても、そんなものは初めから存在しない。「カンゼーク」という言葉は、廃藩置県以後の大きな変化の中で生まれてきた、比較的新しい言葉なのではないか。「金細工」と書いて「カンゼーク」と読むのは、元来のウチナーグチでは考えにくいけれど、大和の感覚を通すと、「クガニゼーク」より、一見自然で、かつ沖縄風に聞こえてきます。

さて、この僕の推測は正しいのかどうか、まだ調べる本もある、聞ける人もいます。
もう少し、「カンゼーク」の影を、追ってみようと思っています。

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きのう閉まっていたお店へ、諦めきれずに再訪しました。
それは仲嶺舞踊小道具店。
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踊りで使うジーファーは、ここで売っているものがいいという噂を聞いたのです。ジーファーを作っている「クガニゼーク」は、もう又吉健次郎さんしかいない。ならば、ここで売られている踊り用のジーファーを作っているのは、いったい誰なのだろう。もしかすると、「カンゼーク」の謎を解く手掛かりがあるかもしれない……

しかし、残念ながら今日も人の気配はありません。仕方が無い、あきらめて帰ろうとしたその時でした。
向かいのお店のお兄さんが、近くで遊んでいた子どもに声を掛けた。
「お客さんが来ているよ」
すると、その子どもがこちらに向かって
「ちょっと待ってください。今おじいちゃんを呼んできます」
そう言って、お隣のお家に消えたのです。
「ありがとうございました。」と、向かいのお店にお礼を言って待つこと数分。
「お待たせしました」と、お店を開けてくださったのがこの方です。
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どことなく垢抜けして、キリリとしたお顔立ち。後で名刺を頂いて分かったことなのですが、劇団眞永座の座長、仲嶺眞永さんでいらっしゃいました。納得であります。
昭和10年のお生まれ。昭和28年に沖縄芝居の役者になったが、昭和46年、生活のために小道具製作に専念することにした。でも、やはり舞台への想いが強く、2年前、眞永座を旗揚げた。その舞台には、八木政男さんも、北村三郎さんも出演された。

「カンゼークについてお伺いしたいのですが」
「カンゼークというのは鋳掛屋ですよ。壊れた鍋やヤカンを直す職人です。ナービナクークーサビラー、鍋の修理をいたしましょうと掛け声をかけながら旅をした。数年前までこのあたりにも来ていましたよ」
数年前というのは、果たしていつごろなのだろう……
「鍛冶屋の仲間ですよ」
「カンジャーヤーとはどう違うのですか?」
「カンジャーヤーは仕事場を持っていて、もっと大きなものも作ったが、カンゼークは小さな道具箱を持って小さなものを直す仕事。カンジャーヤーより下に見られていた。」

これが、僕の探していた答えなのでしょうか。よくわからない。だが、まだ繋がらないものがある。辻の遊女が踊っていた踊り。その頭に挿していたジーファー。それはいったい誰が作っていたのか。そのジーファーは又吉健次郎さんが受け継ぐ「クガニゼーク」の作るジーファーと何がどう違うのだろう。
仮に、雑踊の「金細工(カンゼーク)」のように、遊女のジーファーを直していたのが「カンゼーク」であったとしたら、僕が持ち込んだジーファーを直してくださる健次郎さんは、それこそ「カンゼーク」の仕事をしているということなのではないか……。

お店で売っているジーファーを見せていただきました。
ジーファーとカミサシ(男性用のかんざし)、どちらも3,000円とのこと。カミサシの方は他に耳かきのような押差(オシザシ)がついて2本セットです。
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軽い。
「アルミです。」
「流し込み(鋳型)ですか」
「いえ、叩いて作っていますよ」
「そうなんですか」
僕には、道具を見る目はありません。でも、どうしても眞永さんの言葉を信じることができない。眞永さんは、何か勘違いをされているのではないだろうか。いくらアルミとはいえ、叩いて3,000円はあり得ない。
(※ちなみに「津波三味線店」という那覇のお店では、踊り用の合金メッキのジーファーが4,500円で売っています。また、健次郎さんのおっしゃっていた那覇の又吉さんが、アルミのジーファーも、ちゃんと叩いて作っていたという話を聞いたことがあるのですが、まさか3,000円ということはなかったと思うのです。)
  ⇒那覇の又吉さんについて書いてある記事
「又吉健次郎さんがジーファーを作っていますよね」
「ああ、コンクールとかに出るようなときは、いいものを挿すでしょうが、普段はもっとね。でも、それを作る人がいなくなってしまって」
「その方は、那覇の又吉さんでは」
「いや、なくすわけにはいかないのでね。頼んで作ってもらっています。」
何だか頭の中がシクシクしてきました。「クガニゼーク」を継承する又吉さんたちではなく、僕の全く知らない別の「金細工」の世界が、どこかにあるのでしょうか。
「その人のところへご案内しましょうか」
「え、それはうれしい。ありがとうございます。」
「今日はこれから出かけなければならないので、明日か……」
「明日、東京に戻らなければならないのです。今度来た時に是非とも」

僕は、ジーファーとカミサシのセットを購入して、お店を後にしたのです。
  ⇒上原直彦氏が書いた仲嶺真永さんのこと

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那覇にもジュンク堂がある。かつて、ダイエー那覇店(旧ダイナハ)があったビルの1階から3階までがジュンク堂書店。
沖縄本コーナーの傍に貼ってあったポスター。七三刈り上げの津嘉山正種氏発見。
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沖縄で瀬長亀次郎を知らない人はいません、なんて、ちょっと沖縄をかじったヤマトゥンチュにありがちな、ステレオタイプの思い込みでしょうか。

国際通りから平和通りに入ったところにある花笠食堂。
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アイスティー飲み放題。
ライスは白飯と赤飯と玄米から選べる。昔はジュシーも選べたはず、とはカミサンの記憶だが、最近の彼女はテーゲーさが増してきているので、情報の正確性は疑わしい。
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普通の沖縄の家庭料理。検索して出てくるブログなどでは、結構皆さんおいしいという評価。否定はしません。家庭料理が不味いわけない。でも、東京あたりで普通の家庭料理屋をやろうとしたら、相当美味しくなければ商売にはならないでしょう。沖縄は違う。むしろ普通の家庭料理のママがいい。このことは、東京の沖縄居酒屋でも同じことがいえる。それをどう考えるかは色々。

メニューによっては、モズクかぜんざいが選べる。
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沖縄で「ぜんざい」といえば氷ぜんざいだろうと選んだが、やってきたのは違った。
考えてみれば氷がそんな昔からあるわけない。現代だって家庭で氷イチゴを食べるなんて、「家庭でたこ焼き」に匹敵する一大イベントだ。
テーゲーなカミサンによると、オバーたちはこれを甘菓子と言っていたらしい。ということは、ぜんざいといえばこの甘菓子のことだったのかと聞けば、あたしの子どもの頃はもう氷があったと睨まれた。なんで睨まれたのだろう。よくわからん。
ともかく、僕はこの「ぜんざい」は苦手です。

食べ過ぎました。おなか一杯。店を出て、デジタルカメラでもう1ショット。
(左の奥にお店があります。お客さんが続々と……)
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でも、このアベックは、結局入りませんでした。

M.A.P.after5でも、一度くらいは有名な公設市場を紹介しておかないとねえ。
豚みっつ。
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色鮮やかな南国のお魚たちは、次の機会に。

2階の食堂へ。
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食べたわけではないですよ。トイレを借りました。

外へ出て。外といってもアーケード。
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ゴーヤーを買ったりして……
これからちょっと行きたいところがあるのです。


高山正樹 Masaki Takayama
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