7月22日木曜日: きっとでっかいゴーヤーなのに
東京の事務所のゴーヤーはどうなったろう。
携帯でもいいから画像を撮って送ってくれと指示したら、こんなちっぽけなのが届いた。

「でっかくなったなあ!」
なんてね、臨場感あるご報告をしたかったのですが。
しかし、よく見ると一週間前とあんまり変わってないかなあ。よくわかんねえや。
就業時間中の仕事。ほんのちょっとしたこと。気遣いなんてちっぽけなハナシじゃない。想像力の問題。すべての仕事に共通するでっかいこと。
萎えた気分がちっぽけな固まりになって乾燥していく。わかるかなあ。
どうかゴーヤーが萎えませんように。
ああ、このちっぽけな記事、書くの、めんどくせえ……
⇒四日後のゴーヤーへ
⇒最初のゴーヤーから見る
携帯でもいいから画像を撮って送ってくれと指示したら、こんなちっぽけなのが届いた。
「でっかくなったなあ!」
なんてね、臨場感あるご報告をしたかったのですが。
しかし、よく見ると一週間前とあんまり変わってないかなあ。よくわかんねえや。
就業時間中の仕事。ほんのちょっとしたこと。気遣いなんてちっぽけなハナシじゃない。想像力の問題。すべての仕事に共通するでっかいこと。
萎えた気分がちっぽけな固まりになって乾燥していく。わかるかなあ。
どうかゴーヤーが萎えませんように。
ああ、このちっぽけな記事、書くの、めんどくせえ……
⇒四日後のゴーヤーへ
⇒最初のゴーヤーから見る
7月22日木曜日: 読谷のチビチリガマを訪れる
沖縄タイムスの真久田さんと別れて、読谷(よみたん)に向かった。“土”のごうさんが読谷に住んでいる。そのごうさんに、チビチリガマを案内してもらうのだ。
沖縄にはたくさんの鍾乳洞がある。その自然の洞窟を沖縄の人は「ガマ」と呼ぶ。「ガマ」は、あの沖縄戦で防空壕や避難壕になった。読谷にあるチビチリガマも、そうしたガマのひとつである。
⇒読谷村戦跡めぐりマップ
小さな駐車スペースに車を止めて、ごうさんの忠告で手足に虫除けスプレーを吹きかけて、ガマの前の広場へと降りて行く。

そこにはアメシガーラという細い川が流れていた。その流れは、ガマの中へ消えていくのだが、その先、どこに繋がっているのか、誰も知らない。

「チビ」は尻のこと。「チリ」は切るという意味。つまり「チビチリ」の名は、この「尻切れトンボ」の川に由来している。

ガマの入り口にはこんな立ち入り禁止の看板が立てられている。

「ここから先は、墓となっていますので……」
「私達、肉親の骨が多数残っています」
不思議な文言である。
1945年4月1日、アメリカ軍は読谷において上陸を開始、沖縄本島における地上戦が始まる。翌々日の4月3日に、このチビチリガマで悲劇が起きるのだが、以来この場所は近寄ってはならない場所となり、人々は口を閉ざした。
1983年に刊行された『沖縄大百科事典』に「チビチリガマ」の項目はない。
下嶋哲朗氏が、読谷から開拓者として八重山に渡った当山ウトさんと出会ったのは1978年のことだった。
戦後の八重山開拓移民のことも、日本人の多くが知らない。その歴史を知ってもなお、沖縄に基地を押し付けることを致し方なしと判断する日本人がいるとしたら、日本という国など消えてしまって構わないとさえ僕は思う。しかしそれはまた別の機会に話そう。
1983年の夏、下嶋哲朗氏が中心になって調査が始まる。そして、チビチリガマであった「集団自決」の真実が明らかにされていった。

読谷村では、「村史」のうち、第五巻の資料編4 『戦時記録』 上下巻を、Web上で公開している。
⇒http://www.yomitan.jp/sonsi…
村史には読谷村の「集団自決」について、12ページに亘って記述がある。ここで、僕がそれを要約することはしない。是非ご自分でお読みいただきたい。
⇒http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/index.htm
チビチリガマの左手に大きな碑があって、次のような言葉が刻まれていた。
チビチリガマから世界へ平和の祈りを
1945年4月1日、米軍はこの読谷村の西海岸から沖縄本島へ上陸した。それは、住民を巻き込んだ悲惨な沖縄戦・地上戦であった。その日のうちに、米軍はチビチリガマ一帯に迫っていた。翌2日、チビチリガマへ避難していた住民約140名中、83名が「集団自決」をした。 尊い命を喪った。
あれから38年後、やっと真相が明らかになった。その結果、83名のうち約6割が18歳以下の子供達であった。その他、2名が米兵の手によって犠牲になった。
「集団自決」とは「国家のために命をささげよ」「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」といった皇民化教育、軍国主義による強制された死のことである。
遺族は、チビチリガマから世界へ平和の祈りを、と「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を彫刻家金城實氏と住民の協力のもとに制作した。しかし、像の完成から7ヶ月後、11月8日、心なき者らにより像は無残にも破壊された。住民は怒り、遺族は嘆いた。
全国の平和を願う人々はそのことを憤り、励ましと多大なカンパを寄せた。あれから7年が経過し平和の像の再建が実現した。チビチリガマの犠牲者への追悼と平和を愛するすべての人々の思いを込め、沖縄終戦50周年にあたり、再び国家の名において戦争への道を歩まさないことを決意し、ここに碑を建立する。
再建された平和の像は、ガマの右にある。既に黄昏近く、安物のデジカメで写すには暗かった。はたして、坐像が見えるだろうか。

M.A.P.では、先に読谷にまつわる2本の映画の上映会を開いた。
⇒第一夜【ゆんたんざ沖縄(1987年)】
⇒第二夜【チビチリガマから日本国を問う!(2010年)】
しかし告知宣伝がママならず、残念ながら多くの方にご覧頂くことができなかった。こういう作品を声高に宣伝することに何故か躊躇してしまう役者の性癖。しかし、それはプロデューサーならあってはならぬこと、忸怩たる思いである。
平和の像を制作した金城実氏は、読谷にアトリエを構えている。ごうさんのお友達である。だから、アトリエへごうさんに連れて行って貰おうと思っている。しかし今日はもう遅い。あつかましくもごうさんのお宅に泊めていただくことになった。
太陽が読谷の海に沈んでいく。

沖縄の空には雲が多い。天辺の空に雲がないことはよくあることだが、水平線近くの空は、角度の所為で大気が厚い。だから、読谷の太陽が、雲に隠れずに海に沈むことは殆どないという。

この日も、太陽は海に到達する前に、灰色の雲の中に没していった。
スクで一杯。

ごうさんと奥様に感謝。
⇒旅の続きへ
沖縄にはたくさんの鍾乳洞がある。その自然の洞窟を沖縄の人は「ガマ」と呼ぶ。「ガマ」は、あの沖縄戦で防空壕や避難壕になった。読谷にあるチビチリガマも、そうしたガマのひとつである。
⇒読谷村戦跡めぐりマップ
小さな駐車スペースに車を止めて、ごうさんの忠告で手足に虫除けスプレーを吹きかけて、ガマの前の広場へと降りて行く。
そこにはアメシガーラという細い川が流れていた。その流れは、ガマの中へ消えていくのだが、その先、どこに繋がっているのか、誰も知らない。
「チビ」は尻のこと。「チリ」は切るという意味。つまり「チビチリ」の名は、この「尻切れトンボ」の川に由来している。
ガマの入り口にはこんな立ち入り禁止の看板が立てられている。

「ここから先は、墓となっていますので……」
「私達、肉親の骨が多数残っています」
不思議な文言である。
1945年4月1日、アメリカ軍は読谷において上陸を開始、沖縄本島における地上戦が始まる。翌々日の4月3日に、このチビチリガマで悲劇が起きるのだが、以来この場所は近寄ってはならない場所となり、人々は口を閉ざした。
1983年に刊行された『沖縄大百科事典』に「チビチリガマ」の項目はない。
下嶋哲朗氏が、読谷から開拓者として八重山に渡った当山ウトさんと出会ったのは1978年のことだった。
戦後の八重山開拓移民のことも、日本人の多くが知らない。その歴史を知ってもなお、沖縄に基地を押し付けることを致し方なしと判断する日本人がいるとしたら、日本という国など消えてしまって構わないとさえ僕は思う。しかしそれはまた別の機会に話そう。
1983年の夏、下嶋哲朗氏が中心になって調査が始まる。そして、チビチリガマであった「集団自決」の真実が明らかにされていった。
読谷村では、「村史」のうち、第五巻の資料編4 『戦時記録』 上下巻を、Web上で公開している。
⇒http://www.yomitan.jp/sonsi…
村史には読谷村の「集団自決」について、12ページに亘って記述がある。ここで、僕がそれを要約することはしない。是非ご自分でお読みいただきたい。
⇒http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/index.htm
チビチリガマの左手に大きな碑があって、次のような言葉が刻まれていた。
チビチリガマから世界へ平和の祈りを
1945年4月1日、米軍はこの読谷村の西海岸から沖縄本島へ上陸した。それは、住民を巻き込んだ悲惨な沖縄戦・地上戦であった。その日のうちに、米軍はチビチリガマ一帯に迫っていた。翌2日、チビチリガマへ避難していた住民約140名中、83名が「集団自決」をした。 尊い命を喪った。
あれから38年後、やっと真相が明らかになった。その結果、83名のうち約6割が18歳以下の子供達であった。その他、2名が米兵の手によって犠牲になった。
「集団自決」とは「国家のために命をささげよ」「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」といった皇民化教育、軍国主義による強制された死のことである。
遺族は、チビチリガマから世界へ平和の祈りを、と「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を彫刻家金城實氏と住民の協力のもとに制作した。しかし、像の完成から7ヶ月後、11月8日、心なき者らにより像は無残にも破壊された。住民は怒り、遺族は嘆いた。
全国の平和を願う人々はそのことを憤り、励ましと多大なカンパを寄せた。あれから7年が経過し平和の像の再建が実現した。チビチリガマの犠牲者への追悼と平和を愛するすべての人々の思いを込め、沖縄終戦50周年にあたり、再び国家の名において戦争への道を歩まさないことを決意し、ここに碑を建立する。
1995年4月2日
チビチリガマ遺族会
チビチリガマ遺族会
再建された平和の像は、ガマの右にある。既に黄昏近く、安物のデジカメで写すには暗かった。はたして、坐像が見えるだろうか。
M.A.P.では、先に読谷にまつわる2本の映画の上映会を開いた。
⇒第一夜【ゆんたんざ沖縄(1987年)】
⇒第二夜【チビチリガマから日本国を問う!(2010年)】
しかし告知宣伝がママならず、残念ながら多くの方にご覧頂くことができなかった。こういう作品を声高に宣伝することに何故か躊躇してしまう役者の性癖。しかし、それはプロデューサーならあってはならぬこと、忸怩たる思いである。
平和の像を制作した金城実氏は、読谷にアトリエを構えている。ごうさんのお友達である。だから、アトリエへごうさんに連れて行って貰おうと思っている。しかし今日はもう遅い。あつかましくもごうさんのお宅に泊めていただくことになった。
太陽が読谷の海に沈んでいく。
沖縄の空には雲が多い。天辺の空に雲がないことはよくあることだが、水平線近くの空は、角度の所為で大気が厚い。だから、読谷の太陽が、雲に隠れずに海に沈むことは殆どないという。
この日も、太陽は海に到達する前に、灰色の雲の中に没していった。
スクで一杯。
ごうさんと奥様に感謝。
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7月22日木曜日: 孤立無援の交流
沖縄タイムスへ寄った。
真久田さんに会った。
「名護市民会館の、鳩山さんが記者会見したロビーで記念撮影してきましたよ」
「あそこは観光地じゃないよ」
と、真久田さんは笑った。

もう、山猫合奏団の高山正樹ではない。
では、何の高山正樹なのか。そのあたりがよく分からなくなってきた。なぜ沖縄なのか。全て「第4の琉球処分」の所為である。
「M.A.P.という会社の代表ではないのですか」
「しばらく、許して欲しい。会社がどうかなれば、責任は全て取る」
きっと、たくさんの人に会う。けれど、というか、だからこそというか、僕の沖縄へのアプローチは、きっと孤立無援なのである。
「お願いです。くれぐれもひとつの記事だけで、何かを判断してしまうことのありませんように……」
⇒旅の続きへ
真久田さんに会った。
「名護市民会館の、鳩山さんが記者会見したロビーで記念撮影してきましたよ」
「あそこは観光地じゃないよ」
と、真久田さんは笑った。
もう、山猫合奏団の高山正樹ではない。
では、何の高山正樹なのか。そのあたりがよく分からなくなってきた。なぜ沖縄なのか。全て「第4の琉球処分」の所為である。
「M.A.P.という会社の代表ではないのですか」
「しばらく、許して欲しい。会社がどうかなれば、責任は全て取る」
きっと、たくさんの人に会う。けれど、というか、だからこそというか、僕の沖縄へのアプローチは、きっと孤立無援なのである。
「お願いです。くれぐれもひとつの記事だけで、何かを判断してしまうことのありませんように……」
⇒旅の続きへ
7月22日木曜日: 山猫ツアー最終日
前々から行ってみたい所があった。
せっかく糸満にいるのだから、と行ってみた。
糸満市の中央市場。

沖縄の市場といえば、那覇の公設市場ばかりがクローズアップされ、観光客でごった返している。しかし流行のラー油をバーター販売していたり、いい意味でも悪い意味でも、観光客慣れを越え「観光客ズレ」してさえいる。20年前はもう少し素朴であったと記憶する。
もしかすると、ここ糸満の市場には、それよりももっと前の沖縄が残っているのではないか、そんなことを漠と思っていた。しかしそれも「オレは少し沖縄に詳しいぞ」という大和人(ヤマトゥンチュ)の勝手な視線なのかもしれないのだが。
残念ながら2台つるんだ車をうまく停められる場所がなくて、やっぱり那覇の公設市場で昼飯を食うことにしたのだが、今日のところはかえってそれでよかったのかもしれない。物見遊山な気分ではない時に、いつかゆっくり来てみようと思う。

ここにもキジムナーフェスタのビラが。なんだか遠い昔の出来事のようだ。
《那覇公設市場》
昨年の11月以来のご紹介。
物見遊山なら、ここがいい。築地と外国人観光客のような軋轢は一切ない。店と客との思惑が一致しているから。
今日の曇り空を感じさせない華やか(?)さ。

こいつはチマグーか?

⇒テビチとチマグーについて
高山正樹の義理の父親が大好きだった中味。中味汁に中味ソバ。

「沖縄産」の本場もの。
でも、高山正樹は苦手。曰く、でも最近は食べていないから、もしかして食べやすくなっているのかも。豆腐ようや泡盛のように。

へえ、牛の中味なんてあるんだ。でも、安い。「日本産」なのに。

日本産の牛より沖縄産の豚のほうが上等。
新宿京王百貨店の沖縄展で買って5月22日に食べた肉はこのお店の商品だった。。

新宿に来ていた親父さんに挨拶をしようと思ったのだが、残念ながらこの日は不在。(もしかすると、いつもいないのかもしれない……)
一階の市場で魚を買って二階の食堂で料理してもらうのもここの定番。

満腹。

(食い尽くされた夜行貝の殻)
⇒白石准氏のブログ(公設市場一階の画像満載)
⇒白石准氏のブログ(公設市場の二階で食ってる食ってる)
那覇空港へ。
⇒白石准氏のブログ(那覇空港の3人)
これで、山猫合奏団2010沖縄ツアーの終了です。このツアーがいい形で次に繋がっていきますように。
そうして、みんなそれぞれの活動の場へ散っていったのでした。
しかし、高山正樹と宇夫方路の旅はまだまだ続きます。
⇒旅の続きへ
せっかく糸満にいるのだから、と行ってみた。
糸満市の中央市場。
沖縄の市場といえば、那覇の公設市場ばかりがクローズアップされ、観光客でごった返している。しかし流行のラー油をバーター販売していたり、いい意味でも悪い意味でも、観光客慣れを越え「観光客ズレ」してさえいる。20年前はもう少し素朴であったと記憶する。
もしかすると、ここ糸満の市場には、それよりももっと前の沖縄が残っているのではないか、そんなことを漠と思っていた。しかしそれも「オレは少し沖縄に詳しいぞ」という大和人(ヤマトゥンチュ)の勝手な視線なのかもしれないのだが。
残念ながら2台つるんだ車をうまく停められる場所がなくて、やっぱり那覇の公設市場で昼飯を食うことにしたのだが、今日のところはかえってそれでよかったのかもしれない。物見遊山な気分ではない時に、いつかゆっくり来てみようと思う。
ここにもキジムナーフェスタのビラが。なんだか遠い昔の出来事のようだ。
《那覇公設市場》
昨年の11月以来のご紹介。
物見遊山なら、ここがいい。築地と外国人観光客のような軋轢は一切ない。店と客との思惑が一致しているから。
今日の曇り空を感じさせない華やか(?)さ。
こいつはチマグーか?
⇒テビチとチマグーについて
高山正樹の義理の父親が大好きだった中味。中味汁に中味ソバ。
「沖縄産」の本場もの。
でも、高山正樹は苦手。曰く、でも最近は食べていないから、もしかして食べやすくなっているのかも。豆腐ようや泡盛のように。
へえ、牛の中味なんてあるんだ。でも、安い。「日本産」なのに。
日本産の牛より沖縄産の豚のほうが上等。
新宿京王百貨店の沖縄展で買って5月22日に食べた肉はこのお店の商品だった。。
新宿に来ていた親父さんに挨拶をしようと思ったのだが、残念ながらこの日は不在。(もしかすると、いつもいないのかもしれない……)
一階の市場で魚を買って二階の食堂で料理してもらうのもここの定番。
満腹。
(食い尽くされた夜行貝の殻)
⇒白石准氏のブログ(公設市場一階の画像満載)
⇒白石准氏のブログ(公設市場の二階で食ってる食ってる)
そうして、レンタカーを一台だけ返しに行きました。

那覇空港へ。
⇒白石准氏のブログ(那覇空港の3人)
これで、山猫合奏団2010沖縄ツアーの終了です。このツアーがいい形で次に繋がっていきますように。
そうして、みんなそれぞれの活動の場へ散っていったのでした。
しかし、高山正樹と宇夫方路の旅はまだまだ続きます。
⇒旅の続きへ
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7月22日木曜日: 僕ら、歌うのが仕事なのです。
辺野古のことを考えながら、ペンションを引き上げるために片付けをしていました。
《恩納村》
昨夜までのゴミは、届ければルミさんが処理をしてくださるとのこと。荷物とゴミ袋を車に積み込んで、ムーンビーチ前のルミさんのお店“華絵”に向かいました。

この度は色々とお世話になりました。

ずっと「ルミさん」と呼んできましたが、本名は宮崎るみ子さんです。

近くに来たために、カメラの餌食になっていまったスタッフの皆様です。

最後にコーヒーまで頂いて、いよいよお別れです。
また、お会いできることを信じて。
あれ……

旦那さん、村会議員に立候補するの?とルミさんに聞いたら
「そうらしいね」
だって。
《糸満市》
そのあと、みんなでデジタルピアノを沖縄水産高校へお返しに行きました。
水産高校の前の道で、白石准が何かを見つけたらしい。

蟻と蝉。

アリ、見えますか?

僕たち、やっぱりアリではなさそうです。セミやキリギリスです。でもね、セミもキリギリスも遊んでいるわけではない。歌うのが仕事なのです。だから、何があっても、お客さまに楽しんでいただかなければならないのです。どんなに憂鬱なことがあっても、それを隠して舞台に上がります。ルミさんが、でっかいホテルのロビーを、美しい花で飾るように。
辺野古のこと、決して忘れているわけではありません、と、僕は一生懸命、自分を納得させようとしていたのでした。
⇒旅の続きへ
《恩納村》
昨夜までのゴミは、届ければルミさんが処理をしてくださるとのこと。荷物とゴミ袋を車に積み込んで、ムーンビーチ前のルミさんのお店“華絵”に向かいました。
この度は色々とお世話になりました。
ずっと「ルミさん」と呼んできましたが、本名は宮崎るみ子さんです。
近くに来たために、カメラの餌食になっていまったスタッフの皆様です。
最後にコーヒーまで頂いて、いよいよお別れです。
また、お会いできることを信じて。
あれ……
旦那さん、村会議員に立候補するの?とルミさんに聞いたら
「そうらしいね」
だって。
《糸満市》
そのあと、みんなでデジタルピアノを沖縄水産高校へお返しに行きました。
水産高校の前の道で、白石准が何かを見つけたらしい。
蟻と蝉。
アリ、見えますか?
僕たち、やっぱりアリではなさそうです。セミやキリギリスです。でもね、セミもキリギリスも遊んでいるわけではない。歌うのが仕事なのです。だから、何があっても、お客さまに楽しんでいただかなければならないのです。どんなに憂鬱なことがあっても、それを隠して舞台に上がります。ルミさんが、でっかいホテルのロビーを、美しい花で飾るように。
辺野古のこと、決して忘れているわけではありません、と、僕は一生懸命、自分を納得させようとしていたのでした。
⇒旅の続きへ
7月22日木曜日: 辺野古に行って考えたこと
《そして……》
朝、ちょっと早起きして、楠定憲さんと宇夫方路さんと、辺野古まで行ってみました。
宇夫方さんは、昨日の喧騒の後片づけがあるから行かないと言ったのですが、無理やり引っ張っていきました。M.A.P.で、これだけ沖縄のことに関わっているのだから、一度は見ておいて欲しいと思ったからです。
楠さんも黙って付き合ってくれました。若い頃、酒を飲みながら、アイヌのこと、沖縄のこと、ずいぶん話しました。たいがい楠さんは聞き役だったけれど。
⇒“社長とは呼ばないで”の「アイヌのこと」のカテゴリ
⇒“社長とは呼ばないで”の「沖縄のこと」のカテゴリ
沖縄らしくない小雨が降っています。空はどんよりと曇っています。
coccoの“ジュゴンの見える丘”、そのyouTubeの画像の中でcoccoが呼んだ「馬鹿みたいにきれいな海」を僕は見たいと思っていました。しかし……
車を小半時ほど走らせると、ジュゴンが棲息するという大浦湾が見えてきました。

この海が、大規模なアオサンゴ群のある生物の宝庫なのか。僕は曇った空を恨めしいと思いました。もしも降り注ぐ太陽の光に照らされた海が、圧倒的な美しさで僕たちに迫ってきてくれたとしたら、僕の脳みそに巣食う政治的なあらゆる理屈を消し去ってくれたかもしれない。そうすれば無条件に美しい海を守ろうという感情が僕を満たしたに違いない、僕はそうなることを、少し恐れながらも期待していたのです。
しかし、空も、海も、沿道の集落も、「内地」の伊豆あたりの、梅雨時の風景と、少しも変わることはありませんでした。否応なしに、僕の中で全てが冷静に相対化されていきます。

日々間断ない現実の生活と、ジュゴンが棲む海の観念的な美しさが、天秤を静かに揺らし続けています。
何かを理由に、基地の移設に反対をする人々。

「私たちの土地に」と書いてあるのだから、きっと地元の人なのでしょうね。

支援者らしい皆さんは、いったいどこから来たのだろう。普段、何をしている方たちなのだろう。国際反戦沖縄集会で、「大和から来た人たちは沖縄で活動しないで大和に帰ってください」と言ったUさんのような人たちが増えていることを、この方たちは知っているのだろうか。

(※Uさんとは誰なのか、いずれお話ししたいと思っています。)
ここで、6月26日の伊波洋一氏の講演で聞いた話、知った事実をご紹介したいと思います。

普天間の海兵隊基地の移転先はグアムに決定していて、その米軍の計画は既定路線としてすでに進められているというのです。移転先がグアムになった経緯と理由は色々とあるのですが、ともかく、ここ辺野古に普天間の基地機能が移転してくることは100%ないと伊波氏は語りました。しかし、アメリカ政府はそのことを認めない。日本外務省も、たとえグアム移転という米軍情報を得ていたとしても、表向き政府間の協議で決められたことしか公式には認めることはしません。ではなぜ、これほど辺野古の話が持ち上がるのか。そのもっとも大きな理由は、海兵隊海外移転費用を日本に負担させる条件を整えるためです。
またこんな話も聞かれました。最後の質疑応答で、高江についての質問が出た時、伊波氏はそれに対して、沖縄の米軍基地が国外に移転する場合、それに見合った基地を日本のどこかに作る(それは現状沖縄でしかないのですが)という決まりがあり、それが「高江のヘリパッド」なのだ答えました。
びっくりしました。本当なのだろうか、本当だとしたら、どれだけの日本人がその事実を知っているのだろうか。
基地を1減らせば、どこかで1を増やす。これはアメリカが日本に対しての威信を維持しておくために必要な措置で、それ以外に特段の理由はなく、ただ基地の量に応じて支払われる「思いやり予算」がこれを支える実質的な背景だというのです。本当にそんなことで、住民の生活がズタズタにされてしまうというのか。
もしも普天間のグアム移転が既に決まっていることだとしたら、反対すればするほど、日本が米軍に出すお金を引き上げるためだけにやっていることになりはしないか。そんなふうにも考えられてしまうことが実に厄介なのです。
(※例えば、沖縄の基地反対運動は、基地の賃貸料を引き上げるためにあるという話も、まことしやかに語られることでもあります。)
来た道を帰ります。まだ通行止めだけれども、ほぼ完成している立派な直線道路は、新基地へおおきな車輌でもいけるようにと作られている道です。旧道は新しい道にウネウネとまとわりつくように通っています。

なぜ? 基地ができないことが分かっているのになぜ?
ひとつは土建業者の利権。それも本土の業者。もうひとつ、自衛隊としては米軍の要求で基地ができることを願っているらしい。その後を自衛隊が使うため。土地が返還されてしまったあとに、自衛隊基地を作ることは不可能だから。
色々なことが絡み合っていて、僕にはこの中から真実を見極めることが全くできないのです。考えれば考えるほど、口は重たく閉じようとします。それでも僕は、必死に語り伝えたいと思っています。僕が見たもの、聞いたもの、考えたこと。
さらに口を重たくするサイトを見つけました。辺野古の人たちと基地の友好的な関係を案内するサイトです。
⇒http://www.henoko.uchina.jp/index…
⇒http://www.henoko.uchina.jp/base…
サンディエゴでの日米安全保障条約50周年記念イベントとイメージが重なっていきます。
辺野古の海が決定的に美しかったならば、こんな憂鬱に見舞われることはなかったのではないだろうか。まず現実を知ること、それが一番大切なことなのだと思うことに変わりはないのですが、しかし現実を見て知って物事を判断することの危うさもまたあるのだということを、僕は思っていたのでした。
⇒沖縄を見ずに「沖縄」を書くと決めた木下順次のこと
⇒旅の続きへ
朝、ちょっと早起きして、楠定憲さんと宇夫方路さんと、辺野古まで行ってみました。
宇夫方さんは、昨日の喧騒の後片づけがあるから行かないと言ったのですが、無理やり引っ張っていきました。M.A.P.で、これだけ沖縄のことに関わっているのだから、一度は見ておいて欲しいと思ったからです。
楠さんも黙って付き合ってくれました。若い頃、酒を飲みながら、アイヌのこと、沖縄のこと、ずいぶん話しました。たいがい楠さんは聞き役だったけれど。
⇒“社長とは呼ばないで”の「アイヌのこと」のカテゴリ
⇒“社長とは呼ばないで”の「沖縄のこと」のカテゴリ
沖縄らしくない小雨が降っています。空はどんよりと曇っています。
coccoの“ジュゴンの見える丘”、そのyouTubeの画像の中でcoccoが呼んだ「馬鹿みたいにきれいな海」を僕は見たいと思っていました。しかし……
車を小半時ほど走らせると、ジュゴンが棲息するという大浦湾が見えてきました。
この海が、大規模なアオサンゴ群のある生物の宝庫なのか。僕は曇った空を恨めしいと思いました。もしも降り注ぐ太陽の光に照らされた海が、圧倒的な美しさで僕たちに迫ってきてくれたとしたら、僕の脳みそに巣食う政治的なあらゆる理屈を消し去ってくれたかもしれない。そうすれば無条件に美しい海を守ろうという感情が僕を満たしたに違いない、僕はそうなることを、少し恐れながらも期待していたのです。
しかし、空も、海も、沿道の集落も、「内地」の伊豆あたりの、梅雨時の風景と、少しも変わることはありませんでした。否応なしに、僕の中で全てが冷静に相対化されていきます。
日々間断ない現実の生活と、ジュゴンが棲む海の観念的な美しさが、天秤を静かに揺らし続けています。
何かを理由に、基地の移設に反対をする人々。
「私たちの土地に」と書いてあるのだから、きっと地元の人なのでしょうね。
支援者らしい皆さんは、いったいどこから来たのだろう。普段、何をしている方たちなのだろう。国際反戦沖縄集会で、「大和から来た人たちは沖縄で活動しないで大和に帰ってください」と言ったUさんのような人たちが増えていることを、この方たちは知っているのだろうか。
(※Uさんとは誰なのか、いずれお話ししたいと思っています。)
ここで、6月26日の伊波洋一氏の講演で聞いた話、知った事実をご紹介したいと思います。
普天間の海兵隊基地の移転先はグアムに決定していて、その米軍の計画は既定路線としてすでに進められているというのです。移転先がグアムになった経緯と理由は色々とあるのですが、ともかく、ここ辺野古に普天間の基地機能が移転してくることは100%ないと伊波氏は語りました。しかし、アメリカ政府はそのことを認めない。日本外務省も、たとえグアム移転という米軍情報を得ていたとしても、表向き政府間の協議で決められたことしか公式には認めることはしません。ではなぜ、これほど辺野古の話が持ち上がるのか。そのもっとも大きな理由は、海兵隊海外移転費用を日本に負担させる条件を整えるためです。
またこんな話も聞かれました。最後の質疑応答で、高江についての質問が出た時、伊波氏はそれに対して、沖縄の米軍基地が国外に移転する場合、それに見合った基地を日本のどこかに作る(それは現状沖縄でしかないのですが)という決まりがあり、それが「高江のヘリパッド」なのだ答えました。
びっくりしました。本当なのだろうか、本当だとしたら、どれだけの日本人がその事実を知っているのだろうか。
基地を1減らせば、どこかで1を増やす。これはアメリカが日本に対しての威信を維持しておくために必要な措置で、それ以外に特段の理由はなく、ただ基地の量に応じて支払われる「思いやり予算」がこれを支える実質的な背景だというのです。本当にそんなことで、住民の生活がズタズタにされてしまうというのか。
もしも普天間のグアム移転が既に決まっていることだとしたら、反対すればするほど、日本が米軍に出すお金を引き上げるためだけにやっていることになりはしないか。そんなふうにも考えられてしまうことが実に厄介なのです。
(※例えば、沖縄の基地反対運動は、基地の賃貸料を引き上げるためにあるという話も、まことしやかに語られることでもあります。)
来た道を帰ります。まだ通行止めだけれども、ほぼ完成している立派な直線道路は、新基地へおおきな車輌でもいけるようにと作られている道です。旧道は新しい道にウネウネとまとわりつくように通っています。
なぜ? 基地ができないことが分かっているのになぜ?
ひとつは土建業者の利権。それも本土の業者。もうひとつ、自衛隊としては米軍の要求で基地ができることを願っているらしい。その後を自衛隊が使うため。土地が返還されてしまったあとに、自衛隊基地を作ることは不可能だから。
色々なことが絡み合っていて、僕にはこの中から真実を見極めることが全くできないのです。考えれば考えるほど、口は重たく閉じようとします。それでも僕は、必死に語り伝えたいと思っています。僕が見たもの、聞いたもの、考えたこと。
さらに口を重たくするサイトを見つけました。辺野古の人たちと基地の友好的な関係を案内するサイトです。
⇒http://www.henoko.uchina.jp/index…
⇒http://www.henoko.uchina.jp/base…
サンディエゴでの日米安全保障条約50周年記念イベントとイメージが重なっていきます。
辺野古の海が決定的に美しかったならば、こんな憂鬱に見舞われることはなかったのではないだろうか。まず現実を知ること、それが一番大切なことなのだと思うことに変わりはないのですが、しかし現実を見て知って物事を判断することの危うさもまたあるのだということを、僕は思っていたのでした。
⇒沖縄を見ずに「沖縄」を書くと決めた木下順次のこと
⇒旅の続きへ
ややこしいことのふたつめ。
Bar“土”のマスターごうさんの日記を、ごうさんに許可を貰って、ここに「沖縄通信」として転載します。
【沖縄通信 No.6】(from ごうさん)
第27回 6・23 国際反戦沖縄集会で
「大和から来た人たちは沖縄で活動しないで、大和に帰ってください」
「大和で活動してください」
演説の終わりで、Uさんは、このことを強調して演壇から下りた。
司会のHさんが
「ここにはいろんな考え方の人が集まっていますので、Uさんのように考えてる人もいますね」
と、フォローすると、
会場前列から「Uの意見を弱めるような発言をするな」と、声が上がった。
「Tさん、それなら、壇上に上がって、自分の意見を言ってください」
Tさんは壇上に上がり、更に民族主義的な、大和排斥的なことを言ったらしい。
聴衆の中の一人として、知花昌一が声を上げた。
「Tさん、やまとんちゅうにもうちなんちゅうにもいろんな人がいる。
排斥するよりも、力を合わせて運動を展開していくほうが活路が開けるんじゃないだろうか?
実際、辺野古新基地建設阻止運動は大和から来た人たちが半数以上いて、運動を支えている。
うちなーのことはうちなんちゅうでやる、と言ってるあなた自身、現地に行って、行動してるの?」
と知花昌一が問いかけると、Tさんは
「確かに知花さんは現地に行って戦ってるけど、うちなんちゅのみんなが知花昌一になれるわけじゃない」
と言い放って、議論はちょんちょん。
という一幕があって、その夜、金城実アトリエで、そんなこんなを議論した。
チェ・ゲバラはアルゼンチン出身だが、カストロやキューバの人たちから迎え入れられ、キューバ革命の大いなる力になったのではないか?
人頭税廃止運動を展開し、琉球王国によって課せられた重い人頭税に苦しんでいる宮古島の人々を重税から開放した。運動の中心人物は新潟出身の中村十作ではなかったか?
今、沖縄から靖国を問う裁判、靖国訴訟を支え続けてくれてる人々のほとんどは大和から来てる人たちだ。
だから、大和だウチナー(ウチナーで括ってしまったら、ヤイマーもミャーコも排除されるのだが)だのと、こだわりを捨て、世界規模で沖縄の基地のことなどを考える方向性をもっと浸透させなければ。
それをみんなに解ってもらうためにはどうしたらいいのか?
沖縄の住民の人たちのパワーをもともっと引き出すには何が必要なのか?
ということなどなどを、深夜まで、酒を酌み交わしながら、非国民的男どもは延々と語り合ったのだ。
しかし、沖縄県民は今回の選挙で
変節を繰り返してるあい子さまを選び、筋金入りの山城さんを見放したのだ。
いったい自分たちの将来を...
投票率は全国最下位。
あの県民大会などの怒りをどこに持って行けばいいのか解らなくなったのか?
日本にもアメリカにも沖縄にも民主主義は死語なのだろうか...
※6・23 国際反戦沖縄集会の会場にぼくはいなかったので、やりとりの正確さ詳しさが欠けてるだろうと思います。
【11月17日に追伸】
僕はこのごうさんの日記を転載するにあたり、この出来事について、何かを言おうとずっと考えていました。でも、なかなか書けずにいました。
この頃、多くの沖縄の人たちが大和を憎み始めているという印象を強く受けていました。だから、知花昌一さんの発言に救われた思いがして、そのことを書きたかったのですが、Uさんの名誉を傷つけることなく書くにはどうしたらよいかと考えていたのです。
さらにある日のこと、「やまとんちゅ」の運動家に寛容であった知花さんが、「もう独立しかないのではないかと思い始めている」と発言された場に居合わせることになりました。とうとうココまできたかと、その時僕は思いました。権力に対する闘争である限り、共闘は可能でしょう。しかし、独立運動となれば話は別です。支援はできても、知花さんの立つ場所とこちらとの間には、絶望的な溝が横たわっている、そんなことを考えていたら、ますますコメントできなくなっていきました。
(※その日の記事も、まだアップできずにいます。)
その頃から、沖縄のために活動している「やまとんちゅ」に対して、度々疑問を感じるようになりました。しかしなかなか説明しがたい。どういえばいいのでしょう、例えば活動家たちは、自分の考えの正しさを、あまりに天真爛漫に信じ過ぎているのではないか……
結果僕は、Uさんの「民族主義」に激しい嫌悪を感じながら、その一方で、Uさんの気持ちを尊重したいという思いに駆られるようになりました。
しかしUさんは、そういう僕と、「天真爛漫な活動家」とを全く区別しないでしょう。僕はUさんから拒絶されているのです。
だから、もう黙って転載だけしておくしかないと思ったのですが、結局少し語り過ぎてしまいました。
でも、これでようやく、辺野古のことを書く準備ができました。
⇒旅の続きへ
Bar“土”のマスターごうさんの日記を、ごうさんに許可を貰って、ここに「沖縄通信」として転載します。
【沖縄通信 No.6】(from ごうさん)
第27回 6・23 国際反戦沖縄集会で
「大和から来た人たちは沖縄で活動しないで、大和に帰ってください」
「大和で活動してください」
演説の終わりで、Uさんは、このことを強調して演壇から下りた。
司会のHさんが
「ここにはいろんな考え方の人が集まっていますので、Uさんのように考えてる人もいますね」
と、フォローすると、
会場前列から「Uの意見を弱めるような発言をするな」と、声が上がった。
「Tさん、それなら、壇上に上がって、自分の意見を言ってください」
Tさんは壇上に上がり、更に民族主義的な、大和排斥的なことを言ったらしい。
聴衆の中の一人として、知花昌一が声を上げた。
「Tさん、やまとんちゅうにもうちなんちゅうにもいろんな人がいる。
排斥するよりも、力を合わせて運動を展開していくほうが活路が開けるんじゃないだろうか?
実際、辺野古新基地建設阻止運動は大和から来た人たちが半数以上いて、運動を支えている。
うちなーのことはうちなんちゅうでやる、と言ってるあなた自身、現地に行って、行動してるの?」
と知花昌一が問いかけると、Tさんは
「確かに知花さんは現地に行って戦ってるけど、うちなんちゅのみんなが知花昌一になれるわけじゃない」
と言い放って、議論はちょんちょん。
という一幕があって、その夜、金城実アトリエで、そんなこんなを議論した。
チェ・ゲバラはアルゼンチン出身だが、カストロやキューバの人たちから迎え入れられ、キューバ革命の大いなる力になったのではないか?
人頭税廃止運動を展開し、琉球王国によって課せられた重い人頭税に苦しんでいる宮古島の人々を重税から開放した。運動の中心人物は新潟出身の中村十作ではなかったか?
今、沖縄から靖国を問う裁判、靖国訴訟を支え続けてくれてる人々のほとんどは大和から来てる人たちだ。
だから、大和だウチナー(ウチナーで括ってしまったら、ヤイマーもミャーコも排除されるのだが)だのと、こだわりを捨て、世界規模で沖縄の基地のことなどを考える方向性をもっと浸透させなければ。
それをみんなに解ってもらうためにはどうしたらいいのか?
沖縄の住民の人たちのパワーをもともっと引き出すには何が必要なのか?
ということなどなどを、深夜まで、酒を酌み交わしながら、非国民的男どもは延々と語り合ったのだ。
しかし、沖縄県民は今回の選挙で
変節を繰り返してるあい子さまを選び、筋金入りの山城さんを見放したのだ。
いったい自分たちの将来を...
投票率は全国最下位。
あの県民大会などの怒りをどこに持って行けばいいのか解らなくなったのか?
日本にもアメリカにも沖縄にも民主主義は死語なのだろうか...
※6・23 国際反戦沖縄集会の会場にぼくはいなかったので、やりとりの正確さ詳しさが欠けてるだろうと思います。
【11月17日に追伸】
僕はこのごうさんの日記を転載するにあたり、この出来事について、何かを言おうとずっと考えていました。でも、なかなか書けずにいました。
この頃、多くの沖縄の人たちが大和を憎み始めているという印象を強く受けていました。だから、知花昌一さんの発言に救われた思いがして、そのことを書きたかったのですが、Uさんの名誉を傷つけることなく書くにはどうしたらよいかと考えていたのです。
さらにある日のこと、「やまとんちゅ」の運動家に寛容であった知花さんが、「もう独立しかないのではないかと思い始めている」と発言された場に居合わせることになりました。とうとうココまできたかと、その時僕は思いました。権力に対する闘争である限り、共闘は可能でしょう。しかし、独立運動となれば話は別です。支援はできても、知花さんの立つ場所とこちらとの間には、絶望的な溝が横たわっている、そんなことを考えていたら、ますますコメントできなくなっていきました。
(※その日の記事も、まだアップできずにいます。)
その頃から、沖縄のために活動している「やまとんちゅ」に対して、度々疑問を感じるようになりました。しかしなかなか説明しがたい。どういえばいいのでしょう、例えば活動家たちは、自分の考えの正しさを、あまりに天真爛漫に信じ過ぎているのではないか……
結果僕は、Uさんの「民族主義」に激しい嫌悪を感じながら、その一方で、Uさんの気持ちを尊重したいという思いに駆られるようになりました。
しかしUさんは、そういう僕と、「天真爛漫な活動家」とを全く区別しないでしょう。僕はUさんから拒絶されているのです。
だから、もう黙って転載だけしておくしかないと思ったのですが、結局少し語り過ぎてしまいました。
でも、これでようやく、辺野古のことを書く準備ができました。
⇒旅の続きへ
※この記事は、実は8月13日に書いたものである。
沖縄ツアーの記事がなかなか書けずに、ようやく21日のご報告まで書き終わって、いよいよ22日というところで、ハタと止まった。22日は、朝、辺野古に行ったのだが、その報告をする前に、面倒な記事をふたつばかり書かなければならない。
ひとつめ。
6月26日、僕は宜野湾市長伊波洋一の講演を聞きに行った。そして記事を書いた。
⇒http://lince.jp/hito/hidakatotinai…
その中で、サンディエゴ市の上級政策補佐官が、普天間飛行場受け入れを示唆している、という話をご紹介した。そして、その話には補足が必要なので、その時、ちょうどサンディエゴに行っていた宇夫方女史が帰ってくるのを待って、現地の情報を加味してあらためて書くと言った。その「ひとつめ」がまだ書けずにいる。
宇夫方路は6月29日に帰ってきているのだから、もうひと月半になる。それなのに、約束した記事が書けないのには理由がある。
僕は宇夫方女史に、はたしてサンディエゴの一般の住民たちは、基地のことをどう考えているのかということを聞いてきて欲しいと連絡をしたのだ。その実際に現地で聞いた声が、僕が加味したいと考えた情報であった。しかし残念ながら、僕のメッセージが彼女に伝わったのは、彼女がサンディエゴを離れたあとだったのである。
そこで宇夫方女史の帰国後、サンディエゴでお世話になった日本人向けフリーペーパー“ゆうゆう”のスタッフ、Noriko_Sato_Sahara(佐藤紀子)さんに宇夫方のほうからメールを送ってもらって、このM.A.P.after5を御案内したうえで、僕が知りたかった内容を質問してみたのである。
佐藤さんからは「週末に記事を読んで、お答えします」という嬉しいお返事をいただいた。
しかし、結局未だにそのお答えが届かない。多忙な方なので、もしかするとお忘れなのかもしれないとも思ったが、催促のメールを差し上げるのは控えている。
僕の質問をお送りするよりも前に、佐藤さんが取材で撮影されたサンディエゴの6月の催し物の画像を、こちらのブログで紹介してもよろしいということで大量にお送りくださっていた。そのうちの“赤い靴像除幕式”の画像は、既に7月4日の記事でご紹介した。“少女像贈呈祝賀昼餐会”の画像は、それより前の6月28日の記事に追加でアップした。
大量の画像データをお送りくださったことに感謝し、また大変お手間を取らせてしまったのではないかと恐縮もしている。
しかし、そんな面倒なことをしてくださったにもかかわらず、その後の質問に対するお答えは届かない。もしかすると、とても答えにくい質問を僕はしてしまったのかもしれない。我々はできるだけ中立にと記事を書いているつもりなのだが、それでも反米反基地の傾向は否めない。あるいはそれがお気に召さなかったのかもしれない。
ともかくここで、佐藤さんが送って下さった画像データのうち、まだご紹介していない画像、“赤い靴像除幕式”の前日(6月26日)に開催された日米安全保障条約50周年記念イベントの画像をアップしておくので、どうかご覧いただきたい。
質問のお答えは、今少し待ってみようと思っている。
※そして11月12日に追記。
いくらなんでも、もうお答えはいただけないだろう。残念ながら現地の一般の方々の声は聞かぬまま、伊波洋一氏(今現在沖縄県知事戦を戦っている)の講演で聞いたサンディエゴの基地事情をご報告したいと思う。
サンディエゴの基地は(サンディエゴに限らずアメリカ国内の基地は全てということらしい)、市民の住居とは数十キロ離れていて(法律で決まっているらしい)、騒音や危険が市民に及ぶことは決してない。仮に決まっている距離以内に誰かが住めば、移動しなければならないのは基地の方だという。だから、基地を新たに作った場合、その周り数十キロの範囲は人が住んではいけないという法律をまず作るのだという。サンディエゴにおける基地と住民は、基地はただ市民に利益をもたらす存在として、いたって友好な関係にあるというのだ。そしてサンディエゴ市には、まだまだ基地を受け入れる余地があり、誘致した基地は、さらに市を潤すことになる。従って、サンディエゴは普天間の米軍基地の受け入れを表明したのだと。
そんなサンディエゴの市民たちは、遠く離れた沖縄の基地事情を全く知らない。「世界一危険な基地」と呼ばれる普天間基地の航空写真をアメリカ人に見せると、こんな基地が存在するなんて信じられないことだと誰もが驚くという。アメリカだったら、絶対に許されない基地だと。
僕は8月13日にアップした日米安全保障条約50周年記念イベントの画像に一切コメントをつけるのをやめることにした。この記事の「»続きを読む」にアップした大量の画像をご覧になって、皆さんは何を感じるだろうか。このM.A.P.after5は、なかなかコメントしていただけないブログ、歯がゆいが、全てこちらの責任と、半ば諦めている。
面倒な記事のふたつめは次の記事で。
⇒旅の続きへ
見ていただきたい画像は……
沖縄ツアーの記事がなかなか書けずに、ようやく21日のご報告まで書き終わって、いよいよ22日というところで、ハタと止まった。22日は、朝、辺野古に行ったのだが、その報告をする前に、面倒な記事をふたつばかり書かなければならない。
ひとつめ。
6月26日、僕は宜野湾市長伊波洋一の講演を聞きに行った。そして記事を書いた。
⇒http://lince.jp/hito/hidakatotinai…
その中で、サンディエゴ市の上級政策補佐官が、普天間飛行場受け入れを示唆している、という話をご紹介した。そして、その話には補足が必要なので、その時、ちょうどサンディエゴに行っていた宇夫方女史が帰ってくるのを待って、現地の情報を加味してあらためて書くと言った。その「ひとつめ」がまだ書けずにいる。
宇夫方路は6月29日に帰ってきているのだから、もうひと月半になる。それなのに、約束した記事が書けないのには理由がある。
僕は宇夫方女史に、はたしてサンディエゴの一般の住民たちは、基地のことをどう考えているのかということを聞いてきて欲しいと連絡をしたのだ。その実際に現地で聞いた声が、僕が加味したいと考えた情報であった。しかし残念ながら、僕のメッセージが彼女に伝わったのは、彼女がサンディエゴを離れたあとだったのである。
そこで宇夫方女史の帰国後、サンディエゴでお世話になった日本人向けフリーペーパー“ゆうゆう”のスタッフ、Noriko_Sato_Sahara(佐藤紀子)さんに宇夫方のほうからメールを送ってもらって、このM.A.P.after5を御案内したうえで、僕が知りたかった内容を質問してみたのである。
佐藤さんからは「週末に記事を読んで、お答えします」という嬉しいお返事をいただいた。
しかし、結局未だにそのお答えが届かない。多忙な方なので、もしかするとお忘れなのかもしれないとも思ったが、催促のメールを差し上げるのは控えている。
僕の質問をお送りするよりも前に、佐藤さんが取材で撮影されたサンディエゴの6月の催し物の画像を、こちらのブログで紹介してもよろしいということで大量にお送りくださっていた。そのうちの“赤い靴像除幕式”の画像は、既に7月4日の記事でご紹介した。“少女像贈呈祝賀昼餐会”の画像は、それより前の6月28日の記事に追加でアップした。
大量の画像データをお送りくださったことに感謝し、また大変お手間を取らせてしまったのではないかと恐縮もしている。
しかし、そんな面倒なことをしてくださったにもかかわらず、その後の質問に対するお答えは届かない。もしかすると、とても答えにくい質問を僕はしてしまったのかもしれない。我々はできるだけ中立にと記事を書いているつもりなのだが、それでも反米反基地の傾向は否めない。あるいはそれがお気に召さなかったのかもしれない。
ともかくここで、佐藤さんが送って下さった画像データのうち、まだご紹介していない画像、“赤い靴像除幕式”の前日(6月26日)に開催された日米安全保障条約50周年記念イベントの画像をアップしておくので、どうかご覧いただきたい。
質問のお答えは、今少し待ってみようと思っている。
※そして11月12日に追記。
いくらなんでも、もうお答えはいただけないだろう。残念ながら現地の一般の方々の声は聞かぬまま、伊波洋一氏(今現在沖縄県知事戦を戦っている)の講演で聞いたサンディエゴの基地事情をご報告したいと思う。
サンディエゴの基地は(サンディエゴに限らずアメリカ国内の基地は全てということらしい)、市民の住居とは数十キロ離れていて(法律で決まっているらしい)、騒音や危険が市民に及ぶことは決してない。仮に決まっている距離以内に誰かが住めば、移動しなければならないのは基地の方だという。だから、基地を新たに作った場合、その周り数十キロの範囲は人が住んではいけないという法律をまず作るのだという。サンディエゴにおける基地と住民は、基地はただ市民に利益をもたらす存在として、いたって友好な関係にあるというのだ。そしてサンディエゴ市には、まだまだ基地を受け入れる余地があり、誘致した基地は、さらに市を潤すことになる。従って、サンディエゴは普天間の米軍基地の受け入れを表明したのだと。
そんなサンディエゴの市民たちは、遠く離れた沖縄の基地事情を全く知らない。「世界一危険な基地」と呼ばれる普天間基地の航空写真をアメリカ人に見せると、こんな基地が存在するなんて信じられないことだと誰もが驚くという。アメリカだったら、絶対に許されない基地だと。
僕は8月13日にアップした日米安全保障条約50周年記念イベントの画像に一切コメントをつけるのをやめることにした。この記事の「»続きを読む」にアップした大量の画像をご覧になって、皆さんは何を感じるだろうか。このM.A.P.after5は、なかなかコメントしていただけないブログ、歯がゆいが、全てこちらの責任と、半ば諦めている。
面倒な記事のふたつめは次の記事で。
⇒旅の続きへ
見ていただきたい画像は……
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