Banちゃんに連れられて、Banちゃんの知っている店へと向かいます。

ななしん屋の前を通って。
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「ママ、今日はごめんね、また今度きまーす」
ママはいつだって笑顔です。

国際通りを渡り、浮島通りを歩いて行ったところ。
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お店の名前? さて。目だった看板も無かったような。Banちゃんに聞いてもよくわからない。

ビールを飲みながら、又吉健次郎さんの話しをちょっとしていました。首里王府に抱えられていたクガニゼークたちは、王朝という後ろ盾が無くなってどうしたのだろう。それからカンゼークのこと、カンジャーヤーのこと。
「銀のジーファーを挿して踊られていた王府御用達の琉球舞踊も、廃藩置県の後どうやって発展してきたのか」
すると、それまでお店のマスターを相手に、カウンターで一人飲んでいた男性が、こう言ったのです。
「飾り職も踊りも、辻に引き継がれたんですよ。遊女が踊って客に見せたんです。ジーファーも、辻の遊女が挿した。すいません、口を挟んで。僕は遊女が好きで、そのへんに興味があって。」

そういえば、健次郎さんの工房に貼ってあった説明書きを思い出しました。それは結び指輪についてのもので、前にも一度M.A.P.after5でご紹介しましたが、その一部をここでもう一度……
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芹沢銈介の説によりますと、この指輪はその昔、辻町の遊女が身につけていたということです。首里王朝が衰退し、明治になってからは急激な世替わりが進み、そして戦争により遊女は姿を消しました。

確かにカウンターの男性のおっしゃるとおり、「金細工」の仕事は辻の遊女と深い関わりがあったらしい。
では、首里王朝が衰退する前はどうだったのだろうか。結び指輪は、王府が無くなって初めて辻の遊女も嵌めることができるようになったのだろうか。

実は沖縄の遊郭の歴史も古く、1672年、摂政の羽地朝秀が私娼を集めて仲島(今の泉崎)に作ったのが始まりとされます。1908(明治41)年に、その仲島と渡地(わたんじ:那覇埠頭の一角)の遊郭が辻に合併され、辻は沖縄唯一の遊郭となりました。
『沖縄大百科事典』によると、王府時代の辻は、冊封のために来島した中国人の出入りする場所であり、また薩摩から派遣される在番奉行の宿舎に出入りできる女性は辻のジュリー(娼妓)だけであったとあります。つまり、王朝時代も、王府のお抱え職人が遊女のために装飾品を提供したということも十分考えられそうです。
さらに廃藩置県(琉球処分)後も、辻は衰退することはなく、昭和10年代まで沖縄の社交の中心であり、政財界の要人から農村の男まで、あらゆる階層の者が出入りする場所でした。ということは、飾り職人の技術が首里から那覇の辻へ引き継がれたのではなく、王府管轄でなくなっただけで、辻においてそのまま生き続けていたということなのかもしれません。
僕が知りたいのは、又吉さんの受け継ごうとしている「クガニゼーク」は、こうした「首里~那覇」の地理的歴史的状況と、どのように係わり合っているものなのかという事です。
そしてまた「カンゼーク」と呼ばれるものも、この関係の中に存在していたのだろうか。「クガニゼーク」が「カンゼーク」に名前を変えたのか、あくまでも別物だったのか、いずれにしてもこれは、沖縄の「伝統」を何もかも根こそぎズタズタにしてしまった、あの戦争よりもずっと前の話なのです。

僕たちは「沖縄の伝統」という時、実はふたつの大きな悲劇があったのだということを忘れてはなりません。それは、まずは戦争のこと。そして「廃藩置県」のこと。

少し歴史の話をさせてください。
日本の学校では、「廃藩置県」は1871(明治4)年に行われたと教わります。しかしそれは「大和」だけのこと、この時点では、琉球は薩摩に支配されてはいたけれど、間違いなく独立国でした。明治政府は、日本で「廃藩置県」が行われた翌年、強引に琉球国をまず「琉球藩」とするのです。その後、色々な経緯を経て、1979(明治12)年3月27日、日本は琉球藩に廃藩置県の布達をします。そしてついに首里城は明け渡され、琉球国は滅びる。この一連の措置が、いわゆる「琉球処分」と呼ばれているものなのです。

この史実を、人民の解放と捉える人たちもいます。僕はここで、その議論をするつもりはありませんし、どんな立場もとりません。でも少なくとも、大和の「廃藩置県」と沖縄の「廃藩置県」を、同じものとして論ずることは間違っていると思います。また、「琉球処分」を考えることによって、日本の廃藩置県とはいったいなんだったのかを問い直すきっかけにもなると思うのです。

話が大きくなりすぎました。元に戻しましょう。はたして又吉健次郎さんは、自らの仕事を、あらためて「クガニゼーク」とすることによって、どの時代まで回帰されようとしているのでしょうか。
(※僕は、1880年、明治13年に新制度の学校教育が沖縄に導入された前の時点の、その頃の言葉を一度復活させることが重要なのではないかと、密かに思っているのです。何故なら、それ以後の言葉の変遷は、沖縄自身が主体的に選び取った結果ではなかったのだから。)

首里王府の時代から琉球処分を経て戦争までと、その戦争の後から現代までと、きちんと切り分けて、「クガニゼーク」と「カンゼーク」とは、いったいなんであったのか、もう少し探ってみたいと、僕は思っています。
カウンターの男性と、色々とコアな話をしていたら、店の外で入りずらそうにしている若者3人。
彼らはカウンターの男性、仲石亨さんのやっている、“MAXⅠ”と“MAXⅡ”と“CASA MAX”というお店の若い子たちでした。
どういうお店かというと、おじさんには説明しにくいんですが、要するに着るものだとかアクセサリーだとかを売っているお店。工房も持っていらして、そこでオリジナルなものも作っているのです。若くして(っていくつだか知らないけれど)たいしたものです。
そんなわけで、仲石さんは又吉さんの銀細工にもご興味があったらしいのです。
好青年3人が加わって、話は益々ヒートアップ(って俺だけか)。沖縄の工芸のこと、言葉のこと、偏屈な首里のオジイのこと。
「この店のマスターの金城さんも首里ですよ」
こいつは失礼。

とっても盛り上がって、その勢いで記念撮影。
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左のでっかい人が仲石亨さんです。後ろでバンザイしてるのがお店のマスター金城正尚さんです。関りえ子さんも一緒。
撮影してくれたのはBanちゃんです。

それから、みんなで名刺交換しました。お店のマスターの金城さんの名刺も頂きました。肩書きは映像ディレクター。裏には、「どっちの料理ショー」とか「タモリ倶楽部」とか「ボキャブラ天国」とか、「主な担当番組」が印刷されてあります。でも店の名前がわからない。でも、場所覚えたから、ま、いっか。

明日、久しぶりに健次郎さんの工房に伺います。

《追伸》
MAX CASAの暖簾です。
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中華料理屋かと思ったら、よく見るとたしかに「MAX」ってなってるね。
MAXのSHOP MAP
それから、帰ってインターネットで検索したら、金城正尚さんのお店の名前が分かりました。
“立ち呑みBar Kahu-si(カフーシ)”だって。
http://www.kahu-si.com(“カフーシ”のHP)
でね、そのインフォメーションのページのNEWSによると
「2009.06.30 OKINAWAN BAR 100に掲載されました」
とあるではないですか。
こいつは大変失礼いたしました。
そして、さらに、この「OKINAWAN BAR 100」の文字をクリックすると、わが楽天市場沖縄mapに飛ぶではありませんか。
もう、びっくり!

【参考情報集】

2006年6月3日発売の「うるま」6月号。
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特集「沖縄の装身具」より
「技の語り部 金細工またよし 又吉健次郎」
(その「金細工」という文字に小さく「かんぜーく」とルビが振られている。しかしそれ以外、本文には「クガニゼーク」も「カンゼーク」も一切カナは使われていない。)
それに一つの房指輪が紹介されている。
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「(この結び指輪は)遊女が身につけていたと推測されるものをお父さんの時代に復元した作品だという。又吉さんは、それを確認するために、五年前に元遊女に会った。すると彼女は、『いー、うれーうぬ指輪あったよ。名前はむしびゆびがね』といったそうだ。その遊女の母親がしていた指輪とそっくりだと話してくれたという」
他の房指輪を見る
又吉さんのページに先立って、戦後直後から続く宝飾店が紹介されている。
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2006年7月20日に発売された雑誌「沖縄ちゃんぷるー」
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又吉健次郎さんが紹介されている。
「かつて琉球王朝が存在していたころ、王府内には、金細工奉行所(かんぜーくぶぎょうしょ)という部署が存在し、献上品の真鍮で作られた酒器や身分の高い人々がつける装飾品などをつくっていた。その金細工の職人たちは首里に工房をかまえて、現在7代目となる又吉健次郎さんの先祖も首里の一角で仕事をしてきたという。父である誠睦さんは、民藝運動を行って熱心に沖縄に通っていた濱田庄司から、『琉球人に帰ってくれ』と言われ、勤めていた宝飾店での仕事をやめ、伝統の結び指輪や房指輪の復元に取り組んだ人だ」
健次郎さんが神業だったという父6代目誠睦さんも、伝統的な飾職一筋ではなかったということである。

2008年7月13日テレビ東京「匠の肖像」
その番組HPでは次のように紹介されている。
「16世紀、琉球王朝のお抱え職人だった金細工師(かんぜーくし)たち。金や銀などを素材に、金づちで形を作り出してゆく。それは王族の装飾品を始め、宮廷の人々の日用品となりました。又吉健次郎さんは、この伝統を受け継ぐ数少ない金細工師の一人です。」

【その他】
2002年4月
 南風原文化センター
 「匠の技にふれる 黄金細工(くがにぜーく)と鍛冶屋(かんじゃーやー)展」
 ⇒関連記事を読む
2005年8月
 「JALリゾートシーホーク沖縄サマーフェスタ2005」
 そのコメント。
 「琉球王府御用達だった《金細工またよし》」
 「沖縄の銀細工の匠のことを、地元では金細工(かんぜーく)職人と呼びます。」
2007年5月8日~20日
 「琉球伝統工芸銀細工作家 又吉健次郎氏の作品展と特別イベント」
 10日:又吉氏講演会&普久原スージさんのピアノ弾語り
 ”琉球金細工(かんぜーく)と人々との出会い”
2007年8月
 浦添市美術館
 「沖縄の金細工(クガニゼーク)~失われようとするわざ・その輝き~」
 (又吉さんが提出した資料にはご自分の工房について「かんぜーくまたよし」とある。)
2008年7月
 第2回「白洲賞」受賞
 旧白洲邸武相荘のHP、牧山桂子さんの署名記事に第2回受賞者を
 「琉球伝統工芸 『金細工(かんぜーく)またよし』 七代目 又吉健次郎氏」
 と紹介している。
2009年9月1日発売の「うない」
 (「金細工」に全て「くがにぜーく」のルビが振られている。)
 ⇒関連記事を読む
2009年
 「生きる×2」テレビ朝日10月18日放送、他。
 「又吉健次郎さんは、金細工(くがにぜーく)と呼ばれる。」
 「琉球王朝時代から続く金工職人の七代目。」
 「廃藩置県や2度の大戦で殆どの職人が廃業し、現在は又吉さんの工房だけ」