沖縄タイムスの、儀間進氏のコラム“語てぃ遊ばなシマクトゥバ”の切抜きです。
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本日の沖縄タイムスに、このコラムの掲載20年を記念しての特集記事が組まれたようです。その新聞は、間もなく事務所にも届くでしょうから、それはその時にあらためてご報告いたします。
せっかくなので、ここでは1970年の11月に『琉球弧』第二号に発表された儀間先生の論文「沖縄・方言・共通語」の中から、その一部をご紹介したいと思います。

儀間氏は、まずフランツ・ファノン「黒い皮膚・白い仮面」、柳宗悦の方言論争、沖縄人連盟九州本部による「沖縄同胞に贈るメッセージ」などを考察していくのですが、さりげなく挿入されるエピソードこそ、僕のよく知る儀間先生の真骨頂があらわれていると思うのです。

「ぼくは、学童疎開で九州に渡ったとき、鹿児島や熊本の児童たちが、教室のなかで先生と方言でやりとりをしているのを知っておどろいた。沖縄とは何という違いだったろう。沖縄では考えられないことだった。わかりにくい、という点では沖縄方言も鹿児島方言も似たりよったりでしかないのに。このように見てくると、沖縄における戦前の共通語教育政策は、植民地的だったと言い切ってよい」

こうしたエピソードは、どんな理屈よりも、沖縄も日本の他の地域と同じだとする類の意見を、沈黙させてしまう力があります。

さらに、戦後の沖縄の音楽や踊りの隆盛、またウチナーグチ復権への関心は、沖縄文化蔑視に対して押さえられていたものの噴出ではないかという記述も、単に沖縄は芸能の島だというようなステレオタイプのイメージに一石を投じます。

そして、儀間進氏は、さらに続けます。
「しかし、ぼくたちはここで、いま一度考えなおしてみたい。単に『沖縄口忘りれえからあ、沖縄人あらん』というだけでは、偏狭な昔の世界に閉じこもってしまう危険性を内包している。(中略)頑なに昔のからに閉じこもるのでなく、押し寄せてくる状況を突き破っていくためには、沖縄的なものを大事にしつつ、沖縄の文化を固持しながら再び中央に向かっていかなければならない。(中略)中央への同化を拒んでいくには中央文化に対置できる異質の沖縄文化に対する強烈な認知が必要である。みつめられることに対して、みつめかえす眼が必要だからである。」

ここから、言葉に対する高い感受性を持つ儀間氏の本領が発揮されるのです。
儀間氏は新しい(といっても1970年のことですが)沖縄の子供たちが、共通語をうまく使えるようになったことを、半ば皮肉混じりに喜ばしいことだとしながら、沖縄の同胞に、鋭い眼差しを向けていきます。

「(子供たちの使う共通語の)内容をよくみると、よそゆきのことばはうまく使いこなせるけれど、ゆかたがけの言葉が出てこない。つまり、生活語としての豊かさ、深さがない。だから一般にぼくたちの言葉は硬直した感じを与える。方言の持っている生活や感情のひだひだをすくいあげていたあの豊かな言葉は、どうして共通語のなかでは生きてこないのだろうか。」
「(ウチナーグチを愛する会などは)落日を惜しむようなものである。生活のなかに生きて動く言葉でない限り、認識としての働きも、文化の継承としての働きももち得ない。人間性の歪み、言語のひずみをなおしていくには、片隅に生きていくような慰み程度の会などでは、どうしようもないことは確かである。
(中略)言葉の問題を単独に切り離して考え、処理していくことをせずに文化の中心に据えてとらえなければならない。中央から与えられるものを絶対として受けとるのでなくて、沖縄自体の中に核をもち、逆に中央を相対化していく方向をこそ探し求めていくべきだろう。それは沖縄を掘り下げていくことによって可能だと思うのである。」


いかがでしょうか。もう40年近くも昔の文章だというのに、全く古びることなく、今でも通用するとお思いにならないでしょうか。
この儀間氏の言葉に、なお大和へ寄り添っていこうとする意識を敏感に感じ取って、儀間進もまたこの年代の多くの人たちと同じように、大和に洗脳されていると、氏の論に異を唱える沖縄の人もいるかもしれません。しかしながら僕は、そのような批判を一度棚上げして、人間・儀間進のニュートラルな精神と素直に出会っていただきたいと思うのです。
僕は儀間進氏に、心から敬意を表します。

儀間進先生。
さほどお待たせすることなく、先生のコラムの第一弾を、データ配信出来る見通しが、今日、たちました。またお会いした時、ゆっくりとお話させていただきたいと思っています。その日を、とても楽しみにしております。
第三の眼より