09/03/14 : 朗読会の第2夜は…
カテゴリ: 代表個人の本業
⇒第一夜の記事

本日は少し抑えめ(?)の伊達裕子さん

今日は、何も語りません。
その代わり、「社長とは呼ばないで」に「朗読」というサブカテゴリーを作りました。さらにそのまたサブのカテゴリーを作って、「朗読の形而上学」という連載を始めてみました。すべてはそちらに託します。
「おきなわおーでぃおぶっく」にとっても、「山猫合奏団」にとっても、「朗読」を丸裸にして考えてみることは、きっと必要であるに違いないと思い始めているのです。
⇒「朗読」というカテゴリー
⇒朗読の形而上学
怪奇幻想朗読百物語(あやしおそろしひゃくがたり)】◆第二夜プログラム◆
〈演目〉
夏目漱石「蛇(永日小品より)」 朗読・高山正樹(特別出演)
川端康成「片腕」 朗読・河崎卓也
上田秋成「蛇性の婬(雨月物語より)」 朗読・伊達裕子
≪作者紹介≫
◆夏目漱石(なつめ・そうせき) 近代日本を代表する文豪として今も国民的人気を有する。(本名・金之助)慶応三年(1867)江戸牛込に生まれた。東大英文科を卒業後、英国留学を経て、小泉八雲の後任として一高・東大で教鞭を執る。明治三十八年、高浜虚子の励めで執筆した「吾輩は猫である」が大評判となり、「坊ちゃん」「草枕」などを発表。明治四十年、朝日新聞入社後は作家活動に専念した。漱石のもとには、後年「漱石山脈」と称される有為の門弟多数が参集し、大正五年(1916)の漱石没後も長らく文壇に影響を及ぼした。本篇は明治四十二年(1909)、大阪と東京の「朝日新聞」に連載された永日小品」の一篇(一月十四日掲載)。名高い「夢十夜」(1908)の流れを汲む小品だが、夢という仮構に依らない怪異の迫真性には、内田百聞の先駆をなす鬼気が漂う。なお作中の「貴王」とは、小泉八雲旧居にも程近い、東京大久保の鬼王神社を指す由。
◆川端康成(かわばた・やすなり) 日本初のノーベル文学賞作家という令名の陰で、川端康成は終生にわたり、死臭と霊気ただよう幽明の界を凝視しつづけた特異な作家であった。明治三十二年(1899)、大阪に生まれたが、ー歳で父と、三歳で母と、八歳で祖母と、十六歳で祖父と死別し孤児となり、伯父の家に引き取られた。中学時代から作家を志し、東大国文科在学中の大正十年、第六次「新思潮」に発表した「招魂祭一景」が菊池寛に認められ、文壇への足がかりを得る。大正十三年、「文芸時代」の創刊に参加し、以後、新感党派を代表する作家の一人として活躍。戦後は日本的伝統美の世界への沈潜を深めた。昭和四十七年(1972)自裁。著者は1920年代なかばの一時期、舶来の心霊学に関心を抱き、フラマリオンやロッジの著作を渉猟したという。「改造」昭和七年(1932)十月号に掲載された本篇は、その精華ともいうべき心霊的抒情と仄かな官能美を湛えた、愛すべき佳品である。
◆上田秋成(うえだ・あきなり) 本名東作、藤作とも。字を秋成。無腸、余斎の別号で知られている。「雨月物語」や「春雨物語」の作者として知られているが、生前はむしろ、歌人無腸の名で知られていた。ほかに俳人や茶人としての活躍があったが、生涯のうち最も力を入れたものは古典の研究であり、後半生は学問と芸文に遊ぶ文人余斎として自由な生き方をしている。秋成が生きた享保から文化にかけての時代は、文学史の上で、「文運東漸(ぶんうんとうぜん)」の時代と呼ばれている。幕初以来、全国の経済活動の中枢をにない、文化の核となってきた上方は、明和から天明にかけての時期を最後に、ようやく江戸政権の庇護のもとで自立し始めた江戸に、その位置を譲ることになった。上方文化の衰退期に、文人として生きた人間が、<秋成>であった。没年七十六歳。文化六年六月二十七日、京都百万遍にて没。墓は、南禅寺山内西福寺の内庭に今もある。
本日は少し抑えめ(?)の伊達裕子さん
紙切りしながら口上を語った河崎卓也さん
今日は、何も語りません。
その代わり、「社長とは呼ばないで」に「朗読」というサブカテゴリーを作りました。さらにそのまたサブのカテゴリーを作って、「朗読の形而上学」という連載を始めてみました。すべてはそちらに託します。
「おきなわおーでぃおぶっく」にとっても、「山猫合奏団」にとっても、「朗読」を丸裸にして考えてみることは、きっと必要であるに違いないと思い始めているのです。
⇒「朗読」というカテゴリー
⇒朗読の形而上学
怪奇幻想朗読百物語(あやしおそろしひゃくがたり)】◆第二夜プログラム◆
〈演目〉
夏目漱石「蛇(永日小品より)」 朗読・高山正樹(特別出演)
川端康成「片腕」 朗読・河崎卓也
上田秋成「蛇性の婬(雨月物語より)」 朗読・伊達裕子
≪作者紹介≫
◆夏目漱石(なつめ・そうせき) 近代日本を代表する文豪として今も国民的人気を有する。(本名・金之助)慶応三年(1867)江戸牛込に生まれた。東大英文科を卒業後、英国留学を経て、小泉八雲の後任として一高・東大で教鞭を執る。明治三十八年、高浜虚子の励めで執筆した「吾輩は猫である」が大評判となり、「坊ちゃん」「草枕」などを発表。明治四十年、朝日新聞入社後は作家活動に専念した。漱石のもとには、後年「漱石山脈」と称される有為の門弟多数が参集し、大正五年(1916)の漱石没後も長らく文壇に影響を及ぼした。本篇は明治四十二年(1909)、大阪と東京の「朝日新聞」に連載された永日小品」の一篇(一月十四日掲載)。名高い「夢十夜」(1908)の流れを汲む小品だが、夢という仮構に依らない怪異の迫真性には、内田百聞の先駆をなす鬼気が漂う。なお作中の「貴王」とは、小泉八雲旧居にも程近い、東京大久保の鬼王神社を指す由。
◆川端康成(かわばた・やすなり) 日本初のノーベル文学賞作家という令名の陰で、川端康成は終生にわたり、死臭と霊気ただよう幽明の界を凝視しつづけた特異な作家であった。明治三十二年(1899)、大阪に生まれたが、ー歳で父と、三歳で母と、八歳で祖母と、十六歳で祖父と死別し孤児となり、伯父の家に引き取られた。中学時代から作家を志し、東大国文科在学中の大正十年、第六次「新思潮」に発表した「招魂祭一景」が菊池寛に認められ、文壇への足がかりを得る。大正十三年、「文芸時代」の創刊に参加し、以後、新感党派を代表する作家の一人として活躍。戦後は日本的伝統美の世界への沈潜を深めた。昭和四十七年(1972)自裁。著者は1920年代なかばの一時期、舶来の心霊学に関心を抱き、フラマリオンやロッジの著作を渉猟したという。「改造」昭和七年(1932)十月号に掲載された本篇は、その精華ともいうべき心霊的抒情と仄かな官能美を湛えた、愛すべき佳品である。
◆上田秋成(うえだ・あきなり) 本名東作、藤作とも。字を秋成。無腸、余斎の別号で知られている。「雨月物語」や「春雨物語」の作者として知られているが、生前はむしろ、歌人無腸の名で知られていた。ほかに俳人や茶人としての活躍があったが、生涯のうち最も力を入れたものは古典の研究であり、後半生は学問と芸文に遊ぶ文人余斎として自由な生き方をしている。秋成が生きた享保から文化にかけての時代は、文学史の上で、「文運東漸(ぶんうんとうぜん)」の時代と呼ばれている。幕初以来、全国の経済活動の中枢をにない、文化の核となってきた上方は、明和から天明にかけての時期を最後に、ようやく江戸政権の庇護のもとで自立し始めた江戸に、その位置を譲ることになった。上方文化の衰退期に、文人として生きた人間が、<秋成>であった。没年七十六歳。文化六年六月二十七日、京都百万遍にて没。墓は、南禅寺山内西福寺の内庭に今もある。

伊達さんのコメント
第1夜、2夜とゲスト出演して頂きありがとうございました。
ご一緒させて頂いて、朗読に求められているものがどういうものであるのかよくわかりました。
「今回は少し控えめ?」、前回は「重箱に詰め込まないで」とのこと・・・言いたくないけれど「朗読って難しい!」
沢山の貴重なアドバイスありがとうございました。また機会がありましたらよろしくお願いします。