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こんなご案内を頂きました。
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場違いだとは思いつつ、ちょっとお邪魔してみることにしたのです。会社なんかを始める前は、こういう会に出席するなんて考えられないことでしたが。

会場は新百合ヶ丘にある21ホール。
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“佐藤忠男先生神奈川文化賞受賞祝賀会”
佐藤さんは日本映画学校の校長先生です。そういえば今度の市民劇で稲毛三郎を演じる石山海君は日本映画学校の出身ですね。

まずは佐藤先生の記念講演です。演題は「私の映画人生」。予定を大幅に20分もオーバー、映画のことは全くの門外漢ですが、しかしお話しは大変面白かった。

そのあと立食パーティー。
乾杯のお話しが少し長めだったので、ビールの泡が消えちゃいました。
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食べ物が出てくるとつい撮影したくなる悪い癖。
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“アルテリッカしんゆり”副実行委員長の北條秀衛さんが発起人のおひとりで、会場にいらしたので御挨拶をさせて頂きました。

昭和音大の皆さんによるミニコンサート。
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右端の演台のところにいらっしゃるのが、今度のしんゆり芸術祭に山猫合奏団が参加するにあたり、お世話になった熊谷仁士先生です。昨年の公演も観てくださったのに、その時はご挨拶もせず大変失礼いたしました。今日はしっかりと最敬礼。
熊谷先生は「白石君はよく……」と言ったあと、何故だか思わずニヤッとされました。どういう意味かしらん?

ところで、日本映画学校が今年の4月から大学になります。
祝賀会の最後、再度登壇された佐藤先生が語ったエピソード(で、また長くなった)。故今村昌平氏曰く「高校中退のやつが面白い。日本映画学校にはそんな連中を入れよう」。でも、大学になったらそうはいかないというハナシ。ユーモアでカモフラージュされたペーソスとお上への皮肉。しかし……
「普通の大学にするつもりはありません」
その力強い宣言に、会場から大きな拍手が起こったのでありました。

新百合ヶ丘のアートセンターでは、佐藤忠男先生が選りすぐった世界各国の映画が観られるのです。
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これを機会に、小さな国の映画を観始めようかな。アメリカではない国々の文化が、きっとたくさんのことを教えてくれるに違いない。そんなふうに思った夜なのでした。


1月30日日曜日: 広福寺から桝形山を歩く

今朝の富士には雲が乗っかっていた。
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何故か桝形の城址に行ってみたくなった。
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多摩の横山まで歩いていくことにした。
「そういううちにここはもう生田の杜。あれに見ゆるは、桝形の城跡……」
旅の僧は鎌倉から歩いてきた。多摩川沿い、今の府中街道あたりを歩いてきたのなら東からアクセスすることになるのだが、南や西からの道もあったのかどうか。今日の小生は世田谷街道、つまり北側の津久井道から桝形城址へ向かう。

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この“くらやみ坂”を上り切れば桝形の城跡である。
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「このあたりに、桝形の城主・稲毛三郎殿と奥方を葬った御寺があると聞いたが……」
少し上がった右側に、広福寺はある。
広福寺の北の門。参道は少し一時の方向、つまり鬼門の方角に傾いている。正面に観音堂が見える。
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その門を入る。昨年の10月31日以来の再訪である。
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本堂は左側。
鐘越しに見た本堂 
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稲毛山廣福密寺とある。
承和年間(834~848年)、慈覚大師円仁が開いた。その後荒れ寺になっていたが、1200年初頭、稲毛三郎重成が阿闍梨を招いて中興したと言われる。真言宗のお寺である。

御本尊は木造五智如来坐像。
1500年台の終わり、秀吉が天下を取った後、桃山の時代に作られた重成の坐像が祀られているのもこの本堂である。
本堂の反対側、つまり広福寺の東にはもうひとつ別の門がある。
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こちらは裏門なのだという。
しかし、本堂の正面にあるこの門が、方角からいっても本来の正門なのではないかとも思ったのだが、よく分からない。
再び境内に戻って観音堂への階段を上がる。
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「されば、稲毛三郎殿の奥津城は……」
「はい、あの奥に……」
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「奥方もともに葬られたとか……」
「お二方にふさわしく、比翼の塚でござりまする」
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手を合わせ、“くらやみ坂”を上って城跡へ向かう。
冬で木々に葉がないせいか、今日のこの坂は明るい。それでも、振り返れば、建物に遮られてもう広福寺は全く見えない。
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城跡まで、もう少し上らなければならない。
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そして……
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誰が書いたのか、四隅に東西南北の文字がある。
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今日は展望台に昇ってみることにした。
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エレベーターもあるのだが、もちろん健康ゲーム中の小生、階段を使う。
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いやはや、驚いた!
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こういう景色をご紹介するとなると、いいカメラが欲しくなる。ブログの横幅を拡げて、もっと大きなサイズの画像を貼り付けられるようにしたくなる。そうか、フォトなんとかみたいなサイトを利用してそこにリンクを貼ればいいのかな。
「どなたかお教えくだされ」
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いつも渡っている多摩川の橋も見えるではないか。
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そうか、ということは、あちらからもここが見えるわけだ。気がつかなかった。今度は向こうからこちらを撮影してみよう。

だんだんと曇が増えてきたが、富士山もまだ辛うじて見えた。
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新宿である。
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さらに右へ。
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スカイツリーが写っているのだが、お分かりになるであろうか。
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あ゛ー、いいカメラが欲しい。
ともかく、360°見渡せる絶景なのである。横浜も写したのだが残念ながらピンボケで使えない。

いつの間にか旅僧の静かな気分は何処へやら。いかんいかんと多摩の横山の連なりに目を凝らせば、よみうりランドが良く見える。
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しかし、すぐそこにあるはずの広福寺は、幾重もの木々の向こうに隠れている。
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灯台下暗し。そろそろ人生の半ばを大きく越えて、旅僧くん、少し遠くを見過ぎてはいないかと、自省している。




きっと、まだ色はいらない。
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ふじたあさや氏から、読んでおけよと言われた岩波新書の「琵琶法師」。
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《いやはや、僕が背負っているものは、ただ琵琶だけではなかったのか》
「お前ならそこまで突っ込んで考えるだとうと思って旅僧の役をつけたんだよ」
また始まった。いつもあさやさんは、こうして能天気にうそぶく。ただ何となく成り行きでこうなってしまったことを、後から尤もらしい理由をくっつけて擽っているのだろう、と、分かっているのに、こうして考え込み始めているわけだから、あさやさんの思う壺にどうやらマンマと落っこちてしまったらしい。

「東国」のアクセントについても、ちょっと迷っている。それについてご説明するために、かなり遠いところから話を始めるが、どうかついてきて頂きたい。

日本語は、どんどんと平板化してきている。

さて、そもそもイントネーションの範疇でいうところの「平板」とは何ぞや。俳優たるもの、みんなそのぐらいのことは知っているはずと思いきや、正確に理解している役者はさほど多くはない。

日本語のイントネーションで意味を成すのは、音が上から下へ変化する時だけで、下から上への変化は、基本的には話し手も聞き手も意識してはいない。
いわゆる標準語では、「箸」は( ̄_)でなければならないが、「橋」の方は(_ ̄)でも( ̄ ̄)でも構わないのだ。もちろんアクセント辞典では(_ ̄)となっているが、意味を伝えることだけにおいては、どちらでも伝わるのである。つまり、単語だけを見れば、「橋」のアクセントは平板なのである。

(※もしかすると平板なのは「端」( ̄ ̄)じゃないのと思い違いしている役者もいそうだが、アクセント辞典では「端」も(_ ̄)である。では何が違うのかというと、続く助詞との関係が違うのである。「端」の場合、続く助詞も下がらない。「端を」は(_ ̄ ̄)となる。上昇点は無いのと同じなので、下降点の存在しない「端を」は平板である。従って「端」という単語は「平板型」である。
一方「橋」は、それに続く助詞が下がる。「橋を」は(_ ̄_)となる。こういう単語を「平板型」に対して「尾高型」と呼ぶ。因みに「箸」は「頭高型」だ。)
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(※「尾高型」は最後をカギ括弧で表す。「尾高型」は「尾高型」「頭高型」や後から出てくる「中高型」とともに起伏式の仲間で、平板式の「平板型」とは区別される。)

つまり「東国」を(_ ̄ ̄ ̄)と読めば平板である。( ̄___)というイントネーションのほうがたぶん古い。この「東国」しかり、「北條」しかり、「民藝」「親父」しかり、どれも同じように二通りのイントネーションがあるが、古い方のイントネーションが起伏式アクセント(つまり下降点を含む言葉)なのは、日本語の平板化の現象はずっと前からあったということを証明しているのではないか。

言語の平板化は、何も日本語に限ったことではないらしい。その例をここで上げることはできないが、どうやら発音の労力を軽減しようとする言語の省エネ化現象がその原因で、それは、長い時間をかけて変化していくあらゆる言語に共通した大きな方向性なのだという。
(※もうひとつ、日本語の場合には意味と関係する下降点をなくしてしまうことで、下降点を憶えなければならないという学習の負担を軽減しているらしい。また特定のグループ内でよく使われる言葉は、他の言葉と差別化する必要性が薄く、平板化していく。「彼氏とクラブ行く」、「彼氏」も「クラブ」も若者の世界では日用品だというわけだ。)

また「中仙道」や「赤とんぼ」の現代の標準的な発音は、途中で一旦上がってその後に下降点がくる「中高型」である。それに対して古い発音は、どれも最初の音が高い「頭高型」である。これはどちらも起伏式で、つまり平板ではないのだが、この「頭高型」から「中高型」への変化も、実は省エネ化らしいのだ。「頭高型」の言葉は、声を出し始める前から声帯を強く緊張させておかなければならない。まずだらだらとしゃべり始めて、助走がついてから音を上げるという「中高型」の新しいイントネーションの方が、ずっと楽なのだ。

言葉がコミュニケーションツールである限り、省エネ化されて使い易くなることが悪いわけではない。ただ、平板型より起伏型の方が、また「中高型」や「尾高型」より「頭高型」の方が、単語そのものは際立つ。
「平板化した言葉は、舞台での表現力に乏しい。言葉の平板化は、演劇にとって困った流れだ」
いつか、ふじたあさや氏がそう語っていたことがある。

また少し、話しが変わる。
はたしてついてきて頂けているだろうか。

次は、単語ではなく文章の話し。
主語と述語、修飾する言葉と修飾される言葉の関係を正しく伝えるためにも、下降するイントネーションをどう操るかが、役者にとって大きな課題となる。基本的には、主語は述語よりも高く、修飾する言葉は修飾される言葉よりも高くなければならない。その高低の差が大きければ、意味がはっきりして理知的に聞こえ、小さければ、意味よりも情緒が立つ。あるいは、高低の差がより大きければ感情的に聞こえ、小さければ冷徹だともいえる。これは正反対のようだがそうではない。例えば「高い」という形容を強調するかしないかは、ある時は感情であり、ある時は論理的な度合の数値に左右される。

若者は、音の高さをある程度強さで置き換えることもできる。声に力のない老人は、極端な高低差で表現する。

だが、いずれの場合も、修飾関係の基本的なルールを無視して、あちこちで正しい高低差を逆転させたりし始めると、感情も論理も年齢も関係なく、台詞から伝えるべき意味が消え、ただ節の付いた臭い芝居になってしまう。

最初の読み合わせの頃は、どなたもあまりこんな間違いはしない。しかし稽古が進み、感情が入り始めると、芝居に悪臭が漂いはじめる。雰囲気のことを言っているのではない。それは好みの問題である。そうではなくて、極めて論理的な話しなのだ。つまり、意図なく主語よりも述語の音が高くなり、修飾する言葉よりも修飾される言葉が強調されると、伝えることを無視した不思議な日本語が出現するのだ。記号として従わなければならない音の高低関係のルール崩壊である。今日の読み合わせでは、いたるところでそれが起こっていた。

意味に注意を払わなくても語れるくらい台詞に慣れて、台詞に感情を盛り込む余裕ができると、往々にしてこうなる。だが、これはきっと一過性のものだろう。意味を完璧に理解して設計図を引き、さらにそのプランが頭にしっかり定着すれば、きっと消えるものだろう。皆さん、役者なのだから。

芝居の稽古において、意味が不在になるこのエアポケットのような一時期に、役者が犯すこうした間違いの多くが、先に述べた省エネと関係しているように思えてしかたがない。

日本語は、その構造上、どうしても文章全体が高い音域から下降していき、述語の音が一番低いということになる。
「僕は」「とても(1)」「重い(2)」「荷物を(3)」「持って(4)」「歩く(5)」
主語の「僕は」の音は、(1)~(3)との音とは直接的な修飾関係がないので、(1)~(3)の単語に対して高くなければいけないというようなことはない。しかし、(5)の「歩く」よりは高くなければならない。
また、(1)~(5)の音の高さは、特別な理由の無い限り、次のようでなければならない。
(1)>(2)>(3)>(4)>(5)
「>」は、それぞれ下降点であるとも言える。つまりこの文章を言うためには、これだけで最低5つの音階が必要ということになる。ところが、そう語らない役者が続出する。(1)>(2)>(3)までは問題なく来たが、さらに続けて(4)を(3)より下の音にするのはちょっと苦しいなんてことが起きる。意識して下っ腹に力を入れたりすれば出るような場合でも、それはやらない。そして(4)の頭でポンと音を上げたりする。きっと無意識である。すると途端に台詞が節に聞こえてきて臭くなる。

長い文章を語るのが難しいのは、その息の長さのためだけではない。意味を正しく伝えるために必要な音階の数は、修飾関係が多層的になればなるほど増えることになる。音階の数が多く必要になれば、当然それを表現する音域も広くなければ語れない。
(テクニカルなことを言えば、最初の(1)の始まりを高い音から始めるという緊張感を持てば、意味が分からなくても破綻なくクリアできることが多い。初見で、意味を瞬時に把握できないような複雑な文章を読まされる仕事の時は、この手を使ってきた。)

さらに各文節を見てみよう。
「荷物を(3)」「持って(4)」「歩く(5)」の中には下降点がある。この下降点のある言葉、つまり「荷物を(3)」と「持って(4)」の、その次の音がくせものなのだ。下降点のある単語を使った後は、楽に発音したいという理由で、次の単語の頭の音が高くなりがちなのである。上昇点は意識しないので、文章の論理的構造に無頓着な話し手は、音を上げることに躊躇がない。従って次の音は、上がりたいだけ上がった音で発せられるということになる。

「持って」の「も」が「荷物を」の「に」より低音の領域で収まっていればよいのだが、それを越えてしまうと、修飾関係が分からなくなる。何度も言うが、意味の抜けた状態で台詞を言うとそうなるのだ。イントネーションは論理の構造なくしてはありえないはずなのに、論理を失った台詞は、自分でコントロールしているつもりでも、実は無意識の領域で、省エネという全く別のエンジンに支配されていることがママある。

さて、この5つの音階を出すために必要な音域を獲得できていない役者は、どうやってこのエアポケットから脱出するのか。

極めて(1)=(2)=(3)=(4)=(5)に近くしてしまう。こうなると、もはやダイナミックな台詞は期待できないが、論理的な破綻からは逃れている。比較的ベテラン女優さんに多い。また、若い役者は強弱を駆使して補う。また語尾が消えたり、息になったりもする。
しかし話し言葉の文章におけるイントネーションの論理的構造を意識し始めれば、短期間の訓練で格段に音域は広がるであろう。逆に意識しなければ、きっといつまでも変わらない。

要するに下降点が少なければ少ないほど、日本語は楽に喋ることができるのだが、たぶん多くの役者が、自分が少エネというエンジンに捕らえられているということに気がついていないのではないか。
 ⇒関連記事【変わらぬ味・近代文学・変わりゆく言葉】

言葉は、長い時間をかけて省エネに向かって歩んでいる、それは確からしい。しかしである。ならば時代を遡れば遡るほど、人は広い音域を使って、話すという行為に、より大きな労力をあてがっていたということなのか。どうも、それは俄かには信じがたい。
もしかすると、世の中が進み、増大した情報を含む文章を(つまり複雑な修飾関係を)的確に伝達するために、せめて一個一個の単語をシンプルにする(余計な下降点は削る)必要性が出てきたということなのかもしれない。

論理は益々複雑になるが、それに伴って、ひとつひとつの言葉に存在していた言霊が、どんどんと失われていく。重要なのは関係性、そんな世界の中において、個は深化することをやめる。論理のしがらみによって平板化された言葉そのものは、古から受け継いできた豊かさを、つまり刻まれた歴史の記憶を捨て去っていく。

さてこの稽古場に集まった者たちは、ならばいったいどんな言葉を選ぶべきなのか。それを決めるのは、この芝居において、我々がどのように古の時代と対峙しようとするかにかかっている……

ずいぶんと回り道をした。最初の課題に戻ろう。
《なぜまだ「東国」のアクセントについて迷っているのか》
ここまで話せば結論は決まったように思える。古の言霊を自らの中で復権させるためには、「東国」は( ̄___)と発音されなければならないと。

しかし、それでは、まだ半分なのだ。
「足を伸ばして、東国の、鎌倉殿ゆかりの寺々に参ろうと思いまする」
短い文章である。僕はこの一節を、九州にあるボタ山のようなひとかたまりにして、まろやかに語りたいと思っている。その理由を説明するための確たる何かがあるわけではないのだが、まずはそんなものかと思って頂きたい。言霊には論理に納まりきらない姿があるということなのだ。

「東国」を(_ ̄ ̄ ̄)と発音すると、文章全体をボタ山に近づけることができるような気がする。しかしやはり「東国」は( ̄___)と言いたい。だが、そのように「東国」を「頭高型」で発音した瞬間、出現した下降点がボタ山を潰してしまうのだ。それは、僕の役者としての音域不足という技能の問題なのか、あるいは、小川信夫氏が書き、ふじたあさや氏が上演台本に手直したこの台本の文章が、現代の論理の呪縛に囚われているからなのか。
もう少し考えてみることにしようと思っている。

おまけだが……
今回の台本では、「最愛」と「友愛」と「慈愛」という言葉が使われている。それがどうもしっくりこない。鎌倉時代にそんな言葉あったのだろうか。一挙に現代に引き戻される感覚がする。そのことを問わずに放置しておいて、ちっぽけな「東国」にココまでこだわるというのも、おかしな話ではある。

でも「最愛」も「友愛」も「慈愛」も、人様の台詞だからなあ……

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宇夫方女史が沖縄にいる頃、小生高山正樹は午前中人形町の主治医へ。2ヶ月前に貰った薬が切れた。正月のドサクサで、禁を破ってちょいと味の濃いものを食べたりしているうちに、健康ゲームも少し飽きてきた。そんなことを思いながら、事務所に戻って仕事をする。

このブログを読んでくださる方は、小生は酒ばかり飲んでいてちっとも仕事をしていないと思われているかもしれないが、そんなことはない。昨日だって税理士さんが来て、昨年、M.A.P.で働いてくれた60人くらいの源泉徴収表を作成し、山猫合奏団の合わせの開始時間ギリギリに間に合わせたのだ。僕の健康を害しているものがあるとすれば、酒よりも仕事だ、なんてね、嘘ばっかり。
酒をやめないのなら身体を動かすしかない。今夜は市民劇の稽古である。喜多見から鹿島田の稽古場まで自転車で行く。20km弱といったところかな。自転車に乗りすぎると、精子が減少するって知ってた?まあ、もうどうでもいいけれど。

稽古場に着く頃は、もう真っ暗である。多摩川の向こう岸の東京が、なんだか異様だ。
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厳密にいえば日本語には二重母音は存在しない。たまたま母音が続けて出てくるに過ぎない。例えば英語の[day]などは「二重母音」だが、それは言語学的には1音節である。日本語で母音がふたつ繋がる場合は、あくまで2音節なので連母音という。
連母音とは、「愛(あい:ai)」とか「上(うえ:ue)」とか、母音が2回続けて出てくる場合に限っていうのではない。「貝(かい:kai)」とか「杖(つえ:tue)」とか、言葉の途中に母音がくれば、必ずそこには連母音([ai][ue])が存在する。
ところで、「音節」と「モーラ」は違うらしい。

なんでまた唐突にこんな話を始めたのか。

M.A.P.after5は、複数の連載読み物の集合体である。市民劇の成り行きだけが御所望ならば、「川崎市」のカテゴリの中の「枡形城・落日の舞い」というサブカテゴリをピックアップして読んでいただければ事足りる。だがそうはいかないのがM.A.P.after5。こっちの連載とあっちの連載が、時に化学反応を起こし始める。
「連母音」についても、今回の市民劇の稽古のハナシをしたくて持ち出してきたことなのだが、間違ったことを書かないようにと調べていたら、沖縄語と関係するとても興味深いことがたくさん見えてきたのだ。それを語るために、唐突ではあるが、言語学的な導入が必要だった。

英語などの発音記号では、長母音は[a:]とか[i:]というふうに表記する。一方沖縄語の長母音は、例えば沖縄語辞典では[aa][ii]と表記している。しかしカナで書く時は、「ゴオヤア」とは書かず「ゴーヤー」とするのが一般的である。
 ⇒関連記事「うちなぁ」か「うちなー」か(比嘉光龍さんからの回答)
それはいったい何故なのか。音節とモーラの微妙な違いと、なにか関連があるのではないか。

また、日本語の連母音と沖縄語の長母音の関係には法則性がある。いくつか例を挙げれば、日本語の連母音[ai]は沖縄語では[e:(ee)]となり、[au]は[o:(oo)]、[oo]は[u:(uu)]となる等など。
 ⇒関連記事「うちなーぐち講座《2》の2」
今まで僕は、この関係を口蓋化や高舌化との関連で考えようとしていた。「言語の省エネ化」として、一般化できないだろうかと思ったのである。

ところが、どうもそう単純ではないらしい。話しは沖縄にとどまらないのだ。
日本の話し言葉には、古い時代から二重母音(連母音)が極めて少なかったという。二重母音が出てくると、母音融合を起こして一文字の母音(長母音の場合もある)に変換してしまう。しかし、書き言葉は依然二重母音を保持して、母音融合を起こしたがる話し言葉と対立していたというのである。やがて、書かれた文字の通りに話すことが「正しい」とされるのだが、母音融合は無くならず、江戸弁をはじめとするアウトローの方言に、たくさん受け継がれて現存している。

僕は、母音融合の有る無しを、地域差だと考えていた。だが、どうやらそうではないらしい。これを書き言葉(権威)と話し言葉(スラング)の対立として捉えたらどうなるか。すると、沖縄語(ウチナーグチ)も、新たな相貌を帯びてきて興味が尽きない。

ウチナーグチのカテゴリの下に「母音融合」というサブカテゴリを作ってみた。そして、それらのすべての記事に若干手を入れた。市民劇の話題だけが御所望の方にも、お読みいただければとてもうれしいのだが、役者には無用だろうか。

もちろん、専門的な言語学の知識を全く持たないこの僕には、母音融合の背景について、云々する能力も資格もないのだが、理が勝ちすぎている不幸な役者なので、日本の語り物のことばの形を、今一度じっくり探ってみたいと思ってしまうのだ。そんなことをしているから、自分の芝居は一向に弾けないのではあるが。

日本の語り物は二重母音(連母音)を大切に発音するという僕の思い込みが、果たして正しかったのかどうか。そういえば狂言には、特有の母音融合があるではないか。

例えば[au]は[o:]となる。
「謡う」は「うたう」ではなく、[utoo]と発音されるのがその例だ。
また、形容詞の「~しい」は「~し」となる。これは[ii]という二重母音(連母音)を嫌った結果である。
「ややこしや、ややこしや」


ほんとにややこしくなった。ここらで、話しを市民劇の稽古に戻そう。しかし少し記事が長くなりすぎた。ひとつワンブレイクを入れることにする。


1月18日火曜日: 多摩の横山の北東の端

今日は世田谷通り(津久井道)の多摩川の橋から、富士山がよく見える。
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1月9日には霞んでいた「多摩の横山」も見渡せる。
桝形城址はこの画像の左、津久井道の反対側にある。
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その右。
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さらに右、中央あたりによみうりランド。
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ここから見通せる「多摩の横山」はこのあたりまでだ。
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遠い山並みではなく、その手前に見える森のような丘陵がきっと「多摩の横山」だ。しかしこれは「多摩の横山」のごく一部。画像奥(南)の港北ニュータウン、右(西)方向の多摩ニュータウンから八王子ニュータウンまでも、かつては「多摩の横山」だったらしい。つまり「多摩の横山」の大部分が、開発の波に晒された。
我が家も、ふじたあさや先生のお宅も、スッポリと「多摩の横山」の範囲の中だ。あさやさんの家の裏手には涼しげな木々が生い茂っていたが、数年前に宅地開発があって、以前とは様変わり、夏の温度がずいぶん上がったのではなかろうか。我が家の近くからもだんだんと野原が消えていく。しかし、文句の言える立場ではない。自分だって自然を潰して開いた土地に、後から入ってきたのだ。同じ穴の狢である。狢が増えた分、山から狸がいなくなった。スタジオジブリの映画「平成狸合戦ぽんぽこ」は、ここの開発を題材にしているのだと、後から知った。

今日は仕事の後、M.A.P.沖縄関連サークルの合同新年会である。
三重生活。


カテゴリ: 川崎市
多摩の横山のイメージが伝わるような写真がなんとか撮影できないかと考えているのですが。今日も本部のベランダからの風景を撮影。ずっと向こうにうっすらと写っている富士山、分かりますか。
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よく分からない? じゃあアップ。
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よみうりランドの観覧車が見えますが、そのあたりの距離のところに多摩の横山があるのです。
体調もやっと戻ってきました。今日は元気に市民劇、今年になって2回目の稽古です!というつもりで出かけて行ったのですが……
「あら、この前の稽古の日、旅僧さんどうしたんですか」
などと言われ??
どうやら「2回目の稽古」は一昨日の11日だったらしい。

わたくし、自分のスケジュールを明日までしか把握していないのです。朝事務所に行って、ボードを見てその日と次の日のスケジュールをチェックします。事務所に行かない日は電話で聞きます。明後日のことは聞きません。聞いても忘れるから。明後日のことは明日決める。そんなわけだから、10日にダウンして自宅で臥せっていた僕は、12日に何があるか、全く頭の中から抜け落ちていたのです。
どうしてもやらなければならないことがあれば、事務所の誰かが連絡くらいしてくるだろうと高をくくっていました。ところが、業務に関係していない市民劇のことなど、会社の連中の念頭には無かったようで。

というわけで、わたくし、11日の稽古のことは、すっかり失念しておりました。皆様、大変失礼いたしました。そこで、私の役名は「旅僧」ではありますが、その法名を「失念」とすることにいたしました。
「失念した」の「失念」のアクセントは(_ ̄ ̄ ̄)ですが、法名なら( ̄___)ですな、ハハ……。

この日の稽古のダメ出しで、あさや先生は「東国」を( ̄___)と発音していらっしゃいましたねえ。2回も。僕もそう読みたいなあ。

7日の稽古で、ふじたあさや氏は鼻濁音のことを指摘していました。11日の稽古のことは知らないのですが、この日の読み合わせでも、何にも変わってはいませんでした。
僕個人としては、いわゆる標準語のルールとは関係なく、鼻濁音とそうでない音を、場面や個性に応じて使い分ければいいと思うのですが、今の状態はそれとはだいぶ違う。きっと、最後までこのままでしょうね。アクセントも同じこと。

稽古が終わって、近くのお店でちょっと一杯。
居酒屋ますき
6回目の「飲み」。新しい方2名。累計19名。(※小川信夫先生宅へのお年始と、稽古場での親睦会は除く)
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左手前から時計回りにご紹介。
まずは石山海くん。日本映画学校演出科出身。今回の芝居では主人公の稲毛三郎重忠を演じます。彼、パパになったばかりらしい。彼の明るい性格がこの芝居を支えます。そしてそんな彼を支える奥さんは間違いなくもっと偉い。
そのお隣はミズノタクジ氏。超電磁劇団ラニョミリという集団の中心人物。どこやら海の向こうの大学で舞踏などを学んでいらしたらしい。
男優不足なので、頼朝と農兵の二役を演じます。残念ながら踊る場面はみられそうもありませんが。父上の水野哲夫氏が代表をなさっている京浜協同劇団を、彼が退団されたその理由は不明?
そして井上思麻さんは中西和久さんが主催する京楽座の女優さんです。彼女の役は侍女・楓。
最も上座には福留千惠さん。堂々と北条政子の役です。適役? 彼女の自己紹介は、「私のダンナは野球選手の福留孝介のいとこです」。
中谷麻由子さん。超電磁劇団ラニョミリの女優さんで、里の子どもを、手を抜くことなくちゃんと演じています。だから僕は、いつも感心しています。
海浩気くんも京楽座の所属。畠山二郎重保と北条義時を演じます。さて彼がいったいどんな「はんぱない」演技をするのか、ちょっと興味が沸いてきました。注目。
寄せ集めの今回の集団、散漫になりそうな読み合わせ、それをきっちり芯になって引き締めているのが隈本吉成先輩。小沢昭一氏が1975年から5年間限定で立ち上げた芸能座のご出身です。京楽座の中西和久さんは隈本さんの高校の一年先輩とのことですが、中西さんは隈本さんに一年遅れて芸能座に入団されました。現在はザ・スーパー・カムパニイに所属。
(因みに、演出のふじたあさや氏は、芸能座で若手の俳優に演技を教える講師をしていました。)
そして最後がとのぎひろこさん。最近、ミズノタクジ氏を追いやって、超電磁劇団ラニョミリの代表に就任しました。福留さんとダブルで北条政子を演じます。こちらは彼女の学歴のママに……

皆さんきっと芝居をこよなく愛していらっしゃる。というより、俳優として演ずるということが、皆さんにとって人生における最大関心事なんだろうと感じてしまったのです。
すると途端に僕は、自分がここにいてはいけないのではないかと考え始めた。そしてずっと、沖縄の言葉と、古の大和の言葉の、その対峙する文化、などということに思いをはせていたのです。僕は確かに現代の只中にあるのだが、「演ずる」という行為を、単なる個の感覚として語るだけなら、僕はそれよりも、「個」とは無関係に、「言葉」が背負っている過去の総体というものを想うほうに、はるかに関心があるのだ、というふうに。

また、僕の悪い癖が始まりました。

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1月12日水曜日: 菅薬師堂の十二神将

今日は菅薬師堂の初薬師である。午前9時。僕はまだフラフラしている。
午後にはどうしても事務所に行かなければならない。薬師堂の厨子の撮影と例の十二神将の件は、今日を逃すと、いつになるか分からないので、なんとしても午前中に片付けたい。体は本調子に程遠く、もう少しゆっくり寝ていたかったのだが、気合を入れて薬師堂へ向かった。

しかし……
閉まっていた薬師堂

でも昨年10月に市民劇御一行様で訪れた時と同じ、薬師堂を管理されている奥様がいらっしゃって、今日も本堂の鍵を開けてくださった。
「何時からなんですか」
「人が来れば」
「初薬師なのに、人、少ないんですねえ」
お正月だけですねえ」
境内には焚き火の準備があった。護摩焚きをするらしい。午後から近隣の顔役の方々が集まってくる。本堂で食事をして、夕方くらいまでは飲んでいるらしい。

ご本尊が安置された厨子。三度目の挑戦だがやっぱりつまらない写真。
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最近すっかりカメラ小僧の白石准ちゃんを呼ぼうかとも思ったのだが、そんなことしたら益々作曲しなくなりそうだ。せめて僕ひとりくらいは彼に無言のプレシャー(無言じゃないか)をかけておかないと、撮影旅行に行って来るなんて言い出しかねないからなあ。

さて、懸案の12人の怒れる男(?)たちなのであるが……
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近隣の御長老に伺えば何かが分かるかもしれないと思っていたのだが、午後まで待ってはいられない。
菅薬師堂の十二神将の説明
そこで、書斎に戻ってもう一度じっくりネットで調べてみることにした。
すると「十二神将が十二支のどれに対応するかは経典によってまちまちである」ということが分かった。毘羯羅を子として始め宮毘羅の亥で終わるというのが、確かに一番ポピュラーであるらしい。菅薬師堂にあった案内に則して言えば、左の毘羯羅から右端の宮毘羅に向かって「子」「丑」「寅」……とあてはめていけばいい。そうすると、正月の記事で書いたように、安底羅は「申」、摩虎羅が「卯」、迷企羅は「寅」となる。ネットの多くはこのパターンしか書いていない。
しかし、その逆周りのもの、つまり、宮毘羅を子にして毘羯羅の亥で終わるものもあるというのだ。それがここ菅薬師堂の十二神将のパターンではないか。つまり、間違いでもなんでもなかったのである。
そのほかにも、招杜羅を子にして真達羅を亥にするもの、毘羯羅を子にして招杜羅を亥にするものがあり、合計「四つのパターンがある」と書かれたサイトを見つけて、ひとつ懸案が消えたと僕は喜んでいる。
とはいうものの、それが本当に正しいのかどうか、保障の限りではない。ネットの情報を使うのは難しいとあらためて思う。

ところで、汚れたガラスがなければ、安物のデジカメでも、もう少しいい写真が撮れるのになあ。
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准ちゃん、なんかいい方法あるかね。
いやダメ、今の言葉忘れて。
憎まれ役のプロデューサー、強面の十二神将は、温和な本地仏の本性を隠しておかなければならないのである。

今日の午後は、喜多見の事務所で「東京ニャイト倶楽部」の録音である。准坊に作曲の進捗状況を厳しく聞かなければならない。むふふ……


カテゴリ: 川崎市
今日は年明け最初の稽古だったので、少し早めに切り上げて、そのまま親睦会を兼ねた新年会となりました。
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1月2日の記事の「おまけ」で、「5月のしんゆり芸術祭で、山猫合奏団は『象』、高山正樹は『僧』になる」なんてわけのわからないことを書きましたが、実はこの「枡形城・落日の舞い」が、今年の川崎しんゆり芸術祭に特別参加するのです。

というわけで、この日は、しんゆり芸術祭関係の方々も稽古を見学にいらっしゃっていました。

川崎市文化財団副理事長、北條秀衛さんのご挨拶です。
北條秀衛さん
「北條」といえば、今回のお芝居では北条時政が悪役。一つ前の記事の続きですが、その「北条」を(_ ̄ ̄ ̄)と読むか( ̄___)と読むかみたいな話にもなっています。というのも、副理事長の北條さんが、御自分の苗字を( ̄___)と発音されるから。まあ、普通なら(_ ̄ ̄ ̄)なんでしょうけれど。

その後、出演者の自己紹介などあったりして、その際、僕が迂闊にも今年のしんゆり芸術祭に山猫合奏団が参加することをお話ししたりしたものですから、北條さんや芸術祭の実行委員会の方に気づかれて、後で声を掛けられました。本来ならばこちらから御挨拶に行かなければならないところなのに、大変失礼いたしました。そして名刺交換などさせていただいたわけですが、元来名刺は大嫌い、名刺交換などできることなら一生やりたくない性分なのに、企画制作会社の代表という立場上、小姑みたいな社員から名刺は持ったかといちいち注意されるわけで。

あーあ、来賓の方々と名刺交換している役者がいるって、感じ悪いよなあと思いつつ、これも仕事と割り切ったのですが、実は少しだけ内心憂鬱になっていたのでした。

そんなわけで、いよいよ今日からひとりひとり捕まえて写真を撮って、このブログでご紹介をと思っていたのですが、その意気込みが萎えました。

それでもあちらから声を掛けて貰えれば気分も晴れます。
「すっごい近いんですよね」
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そうなんです。
今回、ボランティアで衣裳をお手伝いしてくださることになった松延さんです。でも本当は劇団四季でもお仕事をされるようなプロです。それが地元のお芝居だということで、お手伝いに手を上げてくださったのだとか。頭が下がります。
松延さんのご自宅は我が家から数分。すっごい近い。でも一度もお見かけしたことがありません。なにしろ僕は、日曜だろうが祝日だろうが、明るい時間に家の近所を歩くことなんて殆どないのですから。
プロでお使いのお名前は違うようですが、今日のところは松延さんにしておきましょう。
これ、我が家のご近所の、その松延さん自家製の“のらぼう”の種です。
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まだ見ぬ“のらぼう”の本体、いったいいつになったら出会えるのだろう。

侍女・楓を演じる神野美奈実さんと関昭三さんのツーショット。
神野美奈実さんと関昭三さん
神野さんは劇団東少の役者さんです。(契約なのか団員なのかは存じ上げませんが。)劇団東少の代表相羽源之助氏とは旧知です。その縁で、今から35年ほど前、劇団東少の旅公演に大道具で行ったことがあります。

舞台監督に飲みに連れて行かれて、そして割り勘でした。いい経験しました。
もう時効でしょうから言っちゃいますけど、楽屋では、ベテラン役者さんたちが出番ぎりぎりまで花札をやっていらっしゃいました。
「~さん、間もなくです!」
「はいはい、わかりましたよ、それ坊主!」
座布団めがけてパシッ!っとやって立ち上がる、みたいな。

これぞドサ廻りって感じだったなあ。あんな状況でも、舞台に立てば皆さん巧かった。あれこそプロ、そんなことを言ったら、現代の進化した演劇に携わる志高い役者さんたちに叱られますね、きっと。でもね、僕はあの時代のああいう役者さんに、一種の凄みを感じました。役者のプロとして生きていくって、こういうことかと思ったのです。
35年も前のことですから、きっと僕の夢の中の出来事です。どうかこの話しは忘れてください。

でも、僕が神野さんのお芝居を観させていただいたのは東少の舞台ではありません。和泉屋染物店で一緒だった伊餘田笑子ちゃんのお芝居を観に行った時、神野さんは主演、キツネを背負ってるイタコのばばさまの役をやっていらっしゃいました。

最近の役者さんは、商業演劇でもない限り、大きな舞台に立つ機会が少なくなってきました。でも劇団東少は比較的大きいところでやられることが多いのではないでしょうか。神野さんには、大きな舞台に数多く立たれてきた底力みたいなものがあるような気がします。300人の劇場ならすばらしいのだが、700人の劇場、特に箱物行政で作られた多目的ホールなんかでは全く通用しない演技、それはよくあることで。
今度の多摩市民館のキャパは908人。川崎市教育文化会館にいたっては1961人ですからねえ。

さてさて、共演者のお芝居についてあれこれお話しするのはきっとタブー、これからは控えることにいたしましょう。ただ、旅僧という役を頂いて、今回の市民劇のレポーターみたいな気分になっているのです。あたり障りなくお伝えできることはお伝えしてまいりましょうか。

その1。神野美奈実さんのもうひとつの顔は、エステティシャンです。

その2。最後にみんなで集合写真を撮影しました。
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その3はまた今度……



カテゴリ: 川崎市
年明け最初の稽古です。
場所は、川崎区にある京浜協同劇団の稽古場。
京浜協同劇団の看板
「全日本リアリズム演劇会議」か、歴史を感じますねえ。

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僕の名前が抜けていたチラシですが、それも修正してくださいました。
しかし「順不同」ってなんなのでしょう。決してデジタルでランダムな処理をしたわけでもなさそうですし、後から付け加えた僕の名前が最後というのが、ランダムでない証拠。まあ「順不同」というのは、並べた順に特段の意味はありませんから気にしないでくださいという意味なのでしょうからいいんですけれど、これだけの人数の最後に並べられると、いくら「順不同」と但書があっても、なんとなくこそばゆい感じがするのです。真ん中あたりにそっと紛れ込まして頂ければ心穏やかだったのに、なんて。

新しいチラシでは最後なのですが、実際の舞台ではどうやら最初に声を発することになるらしい。役名は「旅僧(たびそう)」。いわば能におけるワキ。ストーリーテラーに話すきっかけを与え、それから始まる物語では聞き手という役どころです。

芝居は旅僧の名乗りから始まります。そして主人公稲毛三郎重成の妻である綾子の化身の蝶に誘われ広福寺にたどり着く。そこで、ひとりの老女に出会います。その老女は、かつて重成の侍女頭であった八重。この八重がこの芝居のストーリーテラーで、目の前の旅僧に昔を語って聞かせるという形で舞台の前半は進んでいくのです。
つまり、本筋だけなら旅僧なんていなくても十分成立するのですが、しかしそのスパイスみたいな存在によって、芝居は二重三重の構造となって深さが増すというわけ。古の平安を現代に繋ぐ役割といっては言い過ぎでしょうか。しかし、スパイスは好みの別れるところ、なんとも責任重大であります。

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さて、配役が100%決まっての初稽古、まずは頭から読み方や発音、アクセント(日本語の場合はイントネーションと言ったほうが適切かもしれませんが)などのチェックです。「鼻濁音が乱れていますねえ」という演出ふじたあさや氏の指摘。軽いジャブですな。

しかし、沖縄の言葉やその歴史を学び初めてから、僕は鼻濁音についての印象がすっかり変わってしまいました。特に最近、唄三線で古典を習うようになって、意識しないと出てしまう鼻濁音を、逆に封印する練習ばかりしているのです。鼻濁音を一切使わないというのもなかなか難しいのです。

でも、今回は平安の時代劇をやろうとしているわけですから、鼻濁音を「正しく」使うことは、必要なことなのでしょう。ただ、あたかも役者はいつでも「正しい鼻濁音」を使わなければならないと言い切ってしまうような表現は、それは違うのではないかと思うようになりました。

今までもM.A.P.after5や「社長とは呼ばないで」などで、鼻濁音について色々と書いてきました。そのいくつかをどうかお読みください。
 ⇒沖縄語の音韻講座、プロローグ(1)
 ⇒日本語の二大美点?
こんなことを言うから僕はまた敵を作るわけなのですが、性分なので仕方がありません。

仕方ないついでにもうひとつ言っちゃうことにします。

旅僧の「名乗り」は次のような台詞です。
「これは、諸国一見の僧です。このほど鎌倉に参り、寺社をめぐり、いくさの跡を尋ねての帰り道、足を伸ばして、東国の、鎌倉殿ゆかりの寺々に参ろうと思いまする。」

僕はこの中の「東国(とうごく)」のアクセントを( ̄___)と読んだのです。しかしこれに対して、ある超有名劇団のベテラン俳優さんからこんな御指摘を頂きました。「東国」を( ̄___)と読んでは「唐の国」に聞こえる。(_ ̄ ̄ ̄)が正しいのではないか。
ありがたき御教授、まず僕は、素直に受け入れて読み直することにしました。しかし何故かしっくりこない。
僕が「東国」を( ̄___)と読んだのには、それなりのワケがあって、僕の固い脳みそが、その「ワケ」をリセットできずにいるらしいのです。
「東国」を( ̄___)と読んで「唐の国」に聞こえるか否かはともかくとして、「東国」という言葉を実生活で使うことがあったとしたら、確かにおっしゃられる通り、僕も間違いなく(_ ̄ ̄ ̄)と発音します。にもかかわらず、この芝居において「東国」を( ̄___)と読みたいと思ったのは何故なのか。

その大きな要因として、この芝居の冒頭の「名乗り」を、「様式的」にしなければならないということがありました。
といって、能や狂言そのままに演ずるわけでもない。いったいどのように「様式的であること」を表現すればいいのか、まだまだ決めることはできません。そこでまず僕は、一音一音を浄瑠璃のように粒立てて語ってみること、そしてそれに加えて、「東国」を( ̄___)と読んでみることで、古典的な様式の「感じ」を付加することが出来るのではないかと思ったのです。
そう思ったのは感覚でしかありません。しかしその感覚は、僕のいくつかの知識やこれまでの経験によって、僕自身にはそれなりに根拠がありました。

日本語のアクセント(イントネーション※以後アクセントに統一)は、大雑把に言えば東と西の系統に大別され、いわゆる「標準語」はもちろん関東系、特段の地域性を芝居に持たせないのならば、たいがいそれ準じます。まして今回の芝居は東京に近い川崎の郷土劇なのですから、「標準語」のルールに従うのは当然でしょう。

しかし、古くは日本において関西のアクセントしかなかったという説を聞いたことがあります。少なくとも、古典的な芸能の多くは、京都あたりで成立したようです。「東国」を( ̄___)と発音するのが関西系のアクセントであるかどうか、その正確な知識は持ち合わせていないのですが、古典芸能のアクセントが、いわゆる標準語のアクセントとちょくちょくこれに類した差異を示すという感覚が僕にはあります。
そこで、(_ ̄ ̄ ̄)と発音するのが現代ではしっくりくる言葉を、あえて( ̄___)と発音することによって、一種の古典的な雰囲気が表現できるかもしれない、これが、僕がこのアクセントを選択した「ワケ」です。

そうした「理屈」が独り善がりなものであれば、勿論とっとと捨て去るべきですが、さて。

今から30年以上前のこと、「宗論」を演じたことがあります。しかしそれは狂言でも落語でもなく、台詞つきの日舞でした。
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指導してくださったのは名古屋の花柳流の重鎮、花柳芳五三郎師の御曹司である花柳伊三郎さんです。その冒頭にこんな台詞がありました。
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「まかりいでたる者は、都、東国の僧でござる。この度、思いたって……」

これが伝統的な台詞、文言であるのかどうかは不案内なのですが、少なくとも狂言の名乗りではありません。狂言の名乗りなら「このあたりの者でござる」というだけ、名乗らないのが狂言の名乗りで、こんな風に素性を明かしてしまう名乗りは狂言にはありません。
もしかすると、伊三郎さんの実験的創作であったのかもしれませんが。

この時、この「東国」を( ̄___)と伊三郎さんの口伝で語った微かな記憶が僕にはあるのです。とはいえ、名古屋出身の伊三郎さんですから、それだけの原因で( ̄___)と発音されたのかもしれません。だとすれば、これもいつまでもこだわるような話しではありませんが、確かにその時の経験によって、ひとつの感覚が植えつけられたということも事実のようです。

それから数年後こと、ひょんなことから、僕は講釈師の小金井芦州の弟子となり、今はなき本牧亭で前座を務めるような短い一時期がありました。
 ⇒28年の時を隔てて【小金井芦州のこと】
僕は芦州からよく「訛ってやがるなあ」と言われました。子供の頃3年ほど京都に住んでいましたが、これでも山の手生まれの山の手育ちです。訛っている自覚は全くないのですが、どうやら標準語と江戸弁の講談とでは、その発音もアクセントも似て非なるものだったようです。

講談には台本があります。しかし、修行はもちろん全て口伝です。
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最後の講釈師と言われた名人との一対一の稽古、それは貴重な時間でした。そしてこの経験においても、「東国」を( ̄___)と発音する「感覚」は、むしろ補強されたというふうに、今思い起こしてみると感じるのです。

最近、落語を演ずる機会がありました。三笑亭夢丸さんの新江戸噺のひとつ、「紅い手」という怪談噺を朗読するという企画です。
その「紅い手」の中に、「中仙道」という言葉が出てきました。普通に語れば「なかせんどう」は(_ ̄ ̄___)です。それが山の手で育った僕の感覚です。しかし、夢丸さんからお借りしたテープでは、師匠は( ̄_____)と語っていらっしゃいました。落語は個々自由な芸ではありますが、言葉の発音やアクセントなどの基本は口伝です。何度かその通りになぞっているうちに、なるほどこの方が、落語にはしっくりくると感じられ始めたのです。終演後、文芸評論家の大友浩さんとお話をさせて頂きました。その際、大友さんも中仙道をやはり( ̄_____)とおっしゃられたのを聞いて、なるほどとあらためて納得したのでした。

後で調べて分かったことなのですが、中仙道を( ̄_____)というアクセントは、少し古い言い方であるらしいのです。東海道もやはり古くは( ̄_____)といっていたらしい。そういえば小金井芦州の「芦州(ろしゅう)」も、若い人たちは(_ ̄ ̄先生)と言っていましたが、年配の方々は( ̄__さん)と呼んでいらっしゃいました。

因みに、僕の手元にあるNHK編の『アクセント事典』(昭和41年発行)には、「中仙道」も「東海道」も、そして「東国」も、ふたつのアクセントが併記されているということを付け加えておきましょう。しかし全て二字目上がりのほうが先の表示ではありますが。
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さてここで、ご存知の方も多いでしょうが、山田耕筰氏が作曲した「赤とんぼ」の歌詞の「あかとんぼ」のイントネーションについてお話しようと思いました。しかし、先にご紹介した大友浩さんが、それについて僕などよりはるかに深い薀蓄を書いていらっしゃるサイトを見つけたので、そのリンクを貼り付けておくことにします。是非お読みください。
 ⇒http://www.honza.jp/author/5/otomo_hiroshi…
(※但し『アクセント事典』では「あかとんぼ」は(_ ̄ ̄__)の記述しかなく、落語では常識という( ̄____)の記載はありません。)

さて、では「東国」をどうするか、いまだ結論は出ていないのです。しかしです。僕は始めに「『東国』を( ̄___)と読んで『唐の国』に聞こえるか否かはともかくとして」と書きました。しかし、舞台の上でお客様に言葉を伝えるのが仕事の役者たるもの、発した言葉が正確な意味で伝わるかどうかは、「ともかくとして」しまうようなことではないはずです。その意味では、僕のアクセントについて御指摘くださった大先輩のお言葉には、しっかりと耳を傾けなければならないのだろうと思います。
(文責:髙山正樹)


ということで(というか、にも関わらず、というか)、色々な方に聞いてみることにしたのです。そしてまずは身近な方々に聞いてみることにしました。それから、今後も引き続き聞いてみようと思っているのです。粘着気質の役者の試み。それらは《続き》でご覧あれ……

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昨夜は本部に泊まり。
そして朝。

12月4日の富士山
12月4日の富士山

そして今日の富士山。
今日の富士山
富士山の手前に見える山並みは丹沢にしては少し近過ぎる。もう少し近距離の神奈川の山地であろうか。富士山は11月の半ばからもう真っ白で、以降どの日の画像の富士山も同じ様子だが、手前の立ち木の葉の繁り方が違う。

ここは8階である。狛江市の町並み、その先に多摩川が流れ、その向こう岸が川崎市多摩区、よみうりランドの高台も見える。
「桝形城・落日の舞い」に、こんな稲毛三郎重成の台詞がある。
「多摩川沿いに多摩の横山に並んだ稲毛一族の山城は、すべて鎌倉の北の守りだ。」
その「多摩の横山」あたりまで見渡せているはずだ。山といっても100mもない丘である。標高83.9mの桝形山は左の方、さらに低いところにある小沢城址は、画像中央から少し右といったところだろうか。

その横山の麓あたりでは、今でも“のらぼう(野良坊と書くとか)”という野菜が作られているらしい。僕は今度の台本で初めてそんな名産のあることを知った。家の連中にも教えてやろうと話してみたのだが、「知ってるよ」と、あっさりした無感動の返答が帰ってきた。年中ではないが、“のらぼう”は近くのスーパーでも売られているという。子供が通っていた小学校の給食には、ちょくちょく食材として使われていたらしい。なんのことはない、“のらぼう”を知らなかったのは、子供の運動会に一度も顔を出したことのない父親だけであった。

その小学校の校歌を作詞されたのが、「桝形城・落日の舞い」の作者である小川信夫先生。子供たちは、例えば沖縄で初めて芥川賞を受賞した沖縄文学界の第一人者、大城立裕先生と親父が仕事をしていても、「ふーん」てなもんだが、自分の小学校の校歌を作詞した先生に会ったと言ったら「すごい」ときた。

昨年暮れ、その小川先生からお誘いを受けていた。そこで今日、お年賀に伺った。「桝形城・落日の舞い」の制作を担当されている関昭三さんもいらっしゃった。関さんは川崎市民劇場の代表、その前身は、かの京浜労演で、関さんはその創設から携わっていらっしゃる。

1967年の山本安英の会「夕鶴」から始まる川崎の市民演劇鑑賞会のおおよそ300回の上演記録を眺めれば、日本の新劇の歴史そのものを見るようだ。

……文化座「炎の人」、劇団東演「どん底」、文学座「女の一生」、俳優座「人形の家」、東京芸術座「蟹工船」、三十人会「日本の教育1960」、東京演劇アンサンブル「ガリレオガリレイの生涯」、劇団仲間「森は生きている」、民藝「奏山木の木の下で」、テアトル・エコー「11ぴきのねこ」、青年座「からゆきさん」、劇団四季「エクウス」、文化座「サンダカン八番娼館」、前進座「さんしょう太夫」、五月舎「薮原検校」、フォーリーズ「おれたちは天使じゃない」、自由劇場「上海バンスキング」、文化座「おりき」、こまつ座「國語元年」、青年座「ブンナよ木からおりてこい」、知人会「薮原検校」、劇団昴「アルジャーノンに花束を」……

しかし、それよりも前、京浜工業地帯の労働者に演劇という文化の種を蒔こうとした時代の話が興味深かった。だいたい「労演」にしても「労音」にしても、政党的な匂いをどうしても拭い去ることができない。振り返れば、それが演劇にとって「正しいあり方」であったのかどうか、決していい印象ばかりではない。とはいえ、演劇に刺激を受けた労働者によって日本を変えるという野望が、大きなエネルギーを持っていたことだけは確かだ。だが、関昭三さんが半世紀もの間、演劇鑑賞会の仕事を続けてこられたのは、そんな大層な理由とは少し違うところにあったようだ。演劇に携わる人たちが、実に楽しそうに生き生きとしていた。その魅力が、きっと関さんをこの世界に繋ぎとめた。そうだからこそ、回りの人たちも関さんを信頼して支えてこられたのかもしれない。そんなお人柄が今の関さんからにじみ出ている。

「川崎の労働者」と聞けば、僕はどうしても「沖縄」を思い起さずにはいられない。京浜労演はその立ち上げの頃、沖縄から出稼ぎに来ていた労働者の人々との関わりもあったのかどうか、でも、この日はそこまでお聞きすることはできなかった。いずれお伺いする機会があればとも思っているのだが。

左から、関昭三さん、岩崎明さん(小川先生の古いお知り合い)、そして小川信夫先生ご夫妻である。
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その後、僕と関さんが交代して記念撮影。
只今撮影中。
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小川先生、今日はご馳走様でした。
[subcate.枡形城・落日の舞い]
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1月 1日土曜日: 元日の菅薬師堂

カテゴリ: 川崎市
《2011年元日》
徹底して無信心である。初詣など、行った記憶がない。
自宅から歩いて5分の菅薬師堂。
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へえ、結構たくさん来るんだなあ。

年とって、信心深くなったからというわけでもない。

去年の12月3日から、薬師堂の行事日程が気になっていた。
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なぜなら、「桝形城・落日の舞い」に、菅薬師堂の場面があったから。
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それでもって今日来たのかといえば、それも少し違う。喜多見氷川神社のお祭りの時にも思ったのだが、川崎の市民劇に関わることになって、自分の住んでいる土地について、あまりにも知らないということを、柄にもなく反省した。だから来たのである。

去年、特別に中を見せて頂いた本堂が、元日の今日は参詣者のために開かれていた。
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前回、ピンボケ画像をご紹介したご本尊が納められた厨子。
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本堂の外で手を合わせる方々になんとなく申し訳なくて、あわててシャッターを押したので、今回もつまらない写真しか撮れなかった。今月の12日、初薬師の日に再訪しようと思っている。

また本堂には薬師如来の信者を守護する十二神将も安置されている。今年の干支の卯、安底羅とある像を撮影してみた。
安底羅
因みに、安底羅の本地仏(ほんじぶつ)は観音菩薩らしい。本地仏とは本来の姿。本来の姿とは仏教の仏で、その仮の姿が神道の神だという。温和な顔をした像が怒りの表情の神に変身して悪を懲らしめる映画「大魔神」を思い出した。
しかし、いろいろと調べてみると、なんだかおかしい。安底羅は申(さる)の神らしいのだ。卯(うさぎ)なら摩虎羅(まこら)ではないのか。
隣の阿弥陀如来の化身である迷企羅も、寅(とら)ではなく酉(とり)だし、如意輪観音の頞儞羅も辰(たつ)ではなくて未(ひつじ)らしい。
(※しかし、摩虎羅(まこら)の本地仏である大威徳明王は西方の守護者である。卯は正反対の東を指す。西なら酉。)
いったい、この食い違いは何なのだろう。さっぱりわからなくなってきた。まさか菅薬師堂の張り紙が間違っているなんてことはないだろうと思うのだが、なんとも謎である。

「桝形城・落日の舞い」の本番で、なんとかここの獅子舞を舞台に乗せようと画策しているらしいのだが、はたして実現するのかどうか。
小さな宝物殿に獅子頭が納められていて、ガラス越しに見ることができる。
ガラス越しの獅子頭
菅に獅子舞は近隣で農を営む名家の長男によって引き継がれてきた。その歴代の舞手の名が掲示されてある。
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境内で、甘酒が振舞われていた。
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よく見ると、皆さん獅子舞のはっぴを着ていらっしゃった。
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ご挨拶をしようかとも思ったのだが、ここに住んで20年、これまでの不義理が頭をかすめて迷った。そういえば今日はフト思いついて財布も持たずにサンダルがけでやってきた。賽銭箱を素通りして写真を撮って甘酒を頂いた。これでは挨拶などできるわけがない。一度家まで引き返して小銭を持って出直しても、10分とかからないほどの近所なのだが、正月の怠惰でそれもしなかった。まったくもっていやはやである。

薬師様の命日は9月12日。菅の獅子舞はその日に一番近い日曜日に行われる。ということは、今年は9月11日の日曜日だ。いずれにしても「落日の舞い」の本番前には、残念ながら見ることはできない。
その代わり、菅の獅子舞の画像がたくさん掲載されているサイトを見つけたのでご覧あれ。出演者が舞うことになるやも知れぬ。どうぞご参考に。
 ⇒http://hadachi0505.style.coocan.jp/sanpomiti/sisimai…


高山正樹 Masaki Takayama
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