ことの発端はmixiとやらなのです。まず、下記記事をお読みください。
http://lince.jp/hito/okinawamap/tv2…
この後、コメントが付いた。どうして「くがにぜーく」が正しいなどと簡単に言えるのかというような主旨。

確かに、健次郎さんから頂いた名刺も、工房の看板も、「金細工」には「かんぜーく」のルビが振ってあった。健次郎さんの愛犬“カン吉”は、「かんぜーく」の「カン」と又吉の「吉」をとって健次郎さんが名づけたというくらいですから、「かんぜーく」が間違いだなんて、他人が簡単にとやかく言うことではない、それはその通りでしょう。
しかし、少しでも調べて素直に考えれば、やっぱり健次郎さんがやられている今現在の仕事は、「くがにぜーく」としかいいようのないものです。健次郎さん御自身も、そう認識されたということなのだと思います。健次郎さんはやはり「くがにぜーく」である、現時点で僕の知っている資料からは、そう結論するしかありません。

しかし、一方で「かんぜーく」と名乗った人たち、そう呼ばれた人たちの存在を否定するものでもありません。むしろそういう人たちがいたのならば、とっても知りたくなってきたのです。
さて、どうやって調べたらいいのだろう。
インターネットあたりで又吉健次郎さんを「かんぜーく」と呼ぶ人たちにそれを聞いても、わかるはずもありません。

そこで……

2002年に、南風原文化センターで「匠の技にふれる 黄金細工と鍛冶屋展」という企画展が開かれました。その「黄金細工」と「鍛冶屋」には、それぞれ「くがにぜーく」と「かんじゃーやー」とルビが振られてありました。しかし、僕の知る限り、「くがにぜーく」は「金細工」という表記でいいはずです。それを「黄金細工」としたことについて是非知りたいと思いました。
そしてこういうことに詳しい方がいれば、「かんぜーく」についてもはっきり説明してもらえるかもしれません。なぜ、又吉健次郎は「かんぜーく」ではなく「くがにぜーく」なのか。

話しをちょっと戻します。沖縄の言葉において、漢字とルビの関係は、とても難しいものがあります。元々ある言葉に漢字を当てたのか、最初に漢字があってその読み方を仮名で表記しているのか、それを見極めないと、関連する歴史そのものを間違えてしまうこともあるのです。

南風原の企画展において、なぜ「くがにぜーく」という言葉に「黄金細工」という文字を当てたのか、元々「黄金細工」という文字が何かの資料にあるのだろうか。

昨日の11月13日、東京から直接南風原役場に電話をして伺いました。
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対応してくださった平良さんという文化担当の女性の方は、「くがにぜーく」に「黄金細工」という文字を当てた理由について、次のように答えくださいました。

1:「かんぜーく」とはっきり区別するため。
2:2002年当時、くがにぜーくに携わっていらっしゃる方は、もう又吉健次郎さんのお一人しかいらっしゃらなくなっていた。その貴重であるということを表現するために、色々みんなで相談して「黄金」という字をあてたと記憶している。
3:また南風原町には有名な黄金森(くがにむい)があり、住んでいる方々は「こがね=くがに」といえば、自然に「黄金」という字を想い起こすという事情があった。

要するに、「くがにぜーく」に「黄金細工」という文字を当てたのだが、それには、何か歴史的学問的な事例に基づいた理由があったというわけではなさそうです。

さて、聞きたいのはここから先です。又吉さんのような飾り職人を、「かんぜーく」と呼んでいた歴史的な事実はないか、例えば健次郎さんの先代のころはどうだったのかろうか、僕はしつこく聞きました。平良さんは、それにも大変丁寧に答えてくださいました。
「多分、飾り職人のご本人は、ご自分のことを『くがにぜーく』とおっしゃることはないと思うのです。また周りの人たちは、飾り職人の方々を『かんぜーく』とは呼ばないでしょう。尊敬を込めて『くがにぜーく』と呼んでいたのだと思います。」

健次郎さんに電話をしました。
健次郎さんは、お父様が「くがにぜーく」とも「かんぜーく」とも口にされたことを聞いたことがないそうです。ただ王府に「くがにぜーく奉行」というものがあって、首里にはその職人町があった。その流れであることには間違いはないとおっしゃいました。
最近、県の金工部門の人にも「くがにぜーく」にしなさいと強く言われたそうです。
今、県内に「くがにぜーく」と書かれた史跡はひとつも残っていない。このままだと、50年たったら「くがにぜーく」という言葉は無くなってしまう。「くがにぜーく」を受け継ぐ者として、それでいいのか、なんとかしなければいけないという思いが強くなったのだと健次郎さん。

又吉健次郎さんは、受け継ぐ者が自分ひとりになった時、皮肉にもそれがひとりだけのものではないということに気が付いたということなのでしょう。なんとかしなければいけない、その決意には、謙虚な気持ちで自分のことを「クガニゼーク」とは呼ばずに「カンゼーク」と名乗る、などというような、ナイーブな個人的な心情の入り込む余地は、最早ないのではないかと、僕には感じられたのです。

平良さんは、金細工を研究している詳しい方がいらっしゃるので、聞いてくださるとのこと、来週から沖縄へ行くので、是非ともお伺いしようと心に決めたのでした。
(文責:高山正樹)
[subcate.クガニゼークーのこと]


『沖縄語辞典』
(昭和30年代の首里言葉の聞き取りによって編纂)

kuganizeekuu:飾り職。金属でかんざし・金具などを作るのを業とする者。
kaNzeeku:鍛冶屋。また、いかけ屋。
kaNzaa:鍛冶屋。鍛冶を業とする者。
kaNzaajaa:鍛冶小屋。

(逆引き)
:cin, kugani

※『沖縄語辞典』において[kaN]という音を含んだ語句でその[kaN]が「金」を意味するものは見つかりませんでした。


『沖縄大百科事典』

金細工(クガニゼーク):貴金属を用いて器具を製作する職人で、金具師(チングシ)ともいう。後世、錫細工をふくめて黄金(クガニ)細工とよばれる。名工として、康煕年間(1662~1722)鹿児島において技術を習得した泊村の新垣親雲上があげられる。金製品は王家御用のもの、進貢品などで、金メッキ(チンウキーン)、金張り(クガニハースン)、延べ金で中空をつくる髄打、合金から金や銀を取り出す吹き分け、合金に純金色を出す技術などがあった。
(※「後世、錫細工を含めて黄金(くがに)細工と呼ばれる」という説明だが、もともとの「クガニゼーク」という呼び方に違う文字を当てたということを言っているのかどうか、どうもはっきりしません。)

金細工(カンゼークー):舞踊劇。地方でうたわれていた金細工という音曲をもとに、明治の中ごろ仲毛芝居の役者玉城盛重が創作。(中略)歌詞は美里間切伊波村の金細工(クガニゼーク:鋳掛屋)で遊蕩者の加那兄が辻遊郭の遊女モーサーに入れあげ、やがて(中略)モーサーのカネー(玉代)の工面に困り身投げをしようとする。それを見かねたモーサーがカネーを立て替えて加那兄の体面を保ってやるという内容。


首里王府の「金奉行」について
「金具師」(※『沖縄大百科事典』「くがにぜーく」参照)「表具師」「削物師」「鞍打細工」「錫細工」「彫物細工」「縫物細工」「糸組細工」「玉貫細工」を扱う。
1733年、「金奉行所」は「小細工奉行」に改称。「小細工奉行」は廃藩置県まで存続。

首里王府の「鍛冶奉行所」について
別名「鉄奉行」。主に鉄匠を管理。
1733年「金奉行所」が「小細工奉行」になった際、「金奉行」から「錫勢頭」が、また「貝摺奉行所」から「磨物師」が「鍛冶奉行所」に移管、金属器具全般の製作に関係するようになった。(※この時、貴金属の細工が「小細工奉行」の管轄に残ったのかどうかが、手元にあるどの資料からははっきり分かりませんでした。)


「金細工の歴史」(金細工またよしHPより)
金細工の歴史は古く、尚眞王時代(1509年)にさかのぼります。当工房の初代は首里王府の命により現在の中国に留学、その技術を修得しました。別の名に〈唐行き又吉・トーチまたよし〉が記録されています。代々の祖は王府の抱え職人として、金細工奉行の采配下、守礼の門ちかくで筑登之親雲上(ちくぺーちん)の位をもらって勤めていました。王家、貴族の注文控え帳は分厚いものだったとのことです。しかし、それは昭和19年の10・10空襲で伝承の多くの道具と一緒に焼失してしまいました。その歴史は明治12年の廃藩置県、昭和の大戦、終戦、米軍統治、本土復帰で琉球史と共に大きく変わりました。金細工として長い空白の時期と荒廃の戦後。しかし、60年代にいたって、六代目誠睦に大きな転換期がおとずれました。それは曽っての民芸運動の浜田庄司・染色家の芹沢?介・版画家の棟方志功との出会いでした。 「琉球人にかえってくれ」の一言に啓発され王朝時代に帰り、銀の簪(ジーファー)・結び指輪・婚礼の房指輪の復元に精魂こめました。そして、昔ながらの技と形はこの三点にとどまっていますが、今も継承されています。

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