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5月27日水曜日: 世界の中心になりたくて

青年座さんよりお誘いを頂いて、下北沢の本田劇場へ。
本田劇場

大量の芝居のチラシ。
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この中から選んでもらわなくてはならないのですから、お芝居で食べていくのは、並大抵のことではありません。

中心に本日の“その受話器はロバの耳”のパンフレットを据えて…
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まわりを、M.A.P.に御縁のある方々が関わっている芝居のチラシを集めてみました。

昨年の11月以来の青年座のお芝居です。
へそ島の話。へそ島は世界の中心か、はたまた辺境の地なのか。東京に本社がある会社のお客様コールセンターが、このへそ島にあるのです。何一つ無駄のないとてもよくできたプロット。事務所内とデッキを隔てる衝立の使い方などもお見事で、すごく楽しませていただきました。
でもまあ、世の中そんなすっきりと整理できるものでもないし、人間も会社も、もう少し複雑なんだよなあ。

実際、沖縄にはそんなお客様コールセンターがたくさんあります。仕事のない沖縄で、求人倍率が1より高いのは建設関係の仕事とこのコールセンターのオペレーターの仕事だけ。つまりそれだけつらい仕事らしいのです。管理職はみんな内地から来た人たちで占められ、現地採用された人が昇進することは極めて難しい。そういう会社の姿勢を批判するのは簡単だけれど、やはりそれほど単純ではないのだろうと思うのです。

終演後、食品市場の焼き鳥屋さんへ
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〆はカレー。
カレー屋さんの小笠原杏緒ちゃん
杏緒ちゃん、11月に、沖縄で会おう。
その時どれだけ痩せてるか、勝負だね。

5月25日月曜日: …な夜

デカダンス、な夜
夜の書斎

どうやら、腱鞘炎なんだとか…
シクシクと、痛む、夜。

5月25日月曜日: うぶ沖縄報告5月の2の5

朝起きて、ホテルの部屋のテレビをつけると…
あ!井上真喜ちゃんの「シーサーえかきうた」だ!
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今日、東京へ戻りまーす!
(うぶかた)


俳句は「詠む」といいます。重要なのは韻律、言葉の調べです。それは時間の流れの中の強弱であり、抑揚であり、リズムです。言語学的には、文字で記録されない性質のことを「韻律」というのです。
俳句は元々庶民の遊びでした。やがて17世紀になって、松尾芭蕉が、その俳句の芸術性を高めたのだといわれています。

今日の芭蕉翁は、しっとりと雨に濡れていました。
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先日の松尾芭蕉翁の記事を読む。

お隣のそら庵で、野口田鶴子さんの朗読を聞きました。
須賀敦子の「アスフォデロの野をわたって」(『ヴェネツィアの宿』より)。

“大川端語りの会”のちらしを見る!
野口さんの朗読は独特で素敵でした。それはきっと、オペラで鍛えられたしっかりとした声と息遣い、それに加えて、イタリア語の発音の素養も、きっと影響しているのではないかと思われて、それは余人には真似ができないものだと感じられました。
独特であるということは、表現者にとって貴重な財産ですが、その獲得は並大抵のことではありません。素人の、ちょっと変わった読み方とは、全く異質のものです。

英語圏では、歌や楽器の演奏と同列に、朗読という芸能があったと聞いています。例えば詩などは、いかに感情をこめて韻律を浮かび上がらせるかが、朗読の重要な要素でした。野口さんは、イタリア北部で語られる古詩の抑揚に魅せられた経験があって朗読を始められたとのこと、イタリアにも、朗読の伝統があるということなのでしょうか。

はたして、日本語はどうなのでしょう。
漢字という表意文字をふんだんに使うことによって、より豊かな内容を表現することを選んだ日本の近代小説は、表音文字の欧米とは全く事情が違います。
(※厳密には漢字は表意文字ではありません。厳密な表意文字は、音とは全く無関係な記号ですから読むことは出来ません。漢字のように、音で読むことの出来るものは表語文字というのが正確な表現です。)
つまり、日本語には音だけで意味を伝えることが極めて困難な文章がたくさんあるのです。難しい言葉を使っているからだということではありません。そのことはどんな言語でも同じことです。しかし日本語には、同音異義語がたくさんある、そこに困難のひとつの原因があるのです。
もうひとつ、欧米の言葉が強弱なら、日本語は高低、強弱はいくらでも変化がつけられますが、高低には限界がある……、これ以上のややこしい話は、また別のどこかでということにしましょう。

ともかく、もし日本で朗読というものに関わろうとするなら、音だけで意味を伝えるという課題にどう立ち向かうのか、演者は常に問われているのです。
しかし、そんなことは考えずに、韻律の美しさだけを追い求めればいいのだ、もしかすると、そういう朗読のあり方も、それはそれでありなのかもしれない、そんなことを考えさせられた今日の野口さんの朗読でした。しかしやはり一方で、それには意味を伝えることを諦めるという断固たる覚悟も、また必要なのかもしれないと感じて、正直に言うと、今日の天気のように、うす曇りで憂鬱な気分が、僕の脳みその半分を支配しているのです。
いずれにしても、この大きな課題に対する無頓着さが、日本における朗読の限界、いまひとつ超えられない「何ものか」の原因ではないかと思うのです。

芭蕉のような天才の出現を待つより他はない、なんて、ちょいと大げさに過ぎるでしょうか。

宮澤賢治の「虔十公園林」をお読みになった武順子さんに、車で送っていただきました。
武順子さん

ついつい話し込んで、結局、自宅の近くまで。ありがとうございました。
いずれ御一緒できることを、楽しみにしております。
それまでに、日本の文学を声に出して読むという営みが、いったいどういうことなのかを、もう少し見極めてみたいと思っています。

朗読の形而上学連載中


5月 7日木曜日: 右肩下がり…

5月3日に、久しぶりに金城君の沖縄通信が届いた。
しかしながら、それは4月12日のことを綴った記事であった。
さて、どうしよう…
季節感あふれる素敵な記事だから、思い切って4月12日まで遡って差し込むことにした。

差し込み記事第七弾くらいです!
金城君の沖縄通信no.3

それにしても、しんゆりの本番の日の朝から、右肩がどうしようもなく痛い。日に日に悪化して、痛みは二の腕にまで降りてきた。どうやら50肩というやつらしい。
こんなことで、チェロが弾けるのか…ってなんのこと?

会社は、上がってるんだか、下がってるんだか。

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冷やすべきか、暖めるべきか…


高山正樹 Masaki Takayama
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