いつもの“おきなわ堂”今日も新商品入荷です。
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去年の7月に初めておきなわ堂の記事を書いた時、レジ周りの画像をご紹介しましたので、今日は残りの全貌をご紹介しましょう。
レジの手前にある売り場。CDなども置いてあります。
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おきなわ関連雑誌~県産本
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県産本~沖縄関連古書
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市町村史等~沖縄関連古書
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沖縄の古書店然とした古書店の2大巨頭は“じのん”さん“榕樹書林”さんで揺るがないかもしれませんが、新しい古書店の“おきなわ堂”だからこそできることがきっとあるはず。M.A.P.は今後もそれを応援していきたいと思っています。
やっぱり、考え続けること、そこからしか始まりません。金城さん、頑張りましょうね!


《おきなわ堂で買い込んだ本で、金細工関連のことを色々調べてみた》
『沖縄県史』の「民俗」の巻。
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●「鍛冶」について
「本来、カジというのは金打(かぬち)の意であり、鉄(かね)をうって農具や武器をつくるわざである。沖縄ではカニマン(小禄・大里・奥間)・チャヌチカニマン(内間)・タダナ(具志頭)・カネドノ(宮古)とよばれ申し合わせたようにカニマン墓の周囲には鉄滓が発掘されている。小禄カニマンの子孫は近世まで鍛冶を家業として世襲していたと伝えている」

※「オモロ」関連の叙述に、「カンジャイク」の文字を見つけた。
●【久志の鍛冶をうたったオモロ】
カンジャイクのオモイ
むかしのひゃくさが  いそかんざかなかんざ
このみじゃあち    たくみじゃあち
おふんなと       よやげまつの
おまでおとし      しろきろ
うきとたさ        ならえとたさ
おちゃがふうぶち   おふがま
あやのはがね     ふきぢやさば
やはあやはあと    もちもちと
おふかなか      こおかなか
おふとち        こうとち
おふばあし       こおばあし
たうちわあち      いしなめて
おくのをの       そこのおの
わきねこも       さしがたな
おうのやま       なじゃけらば
ちあげらば       おふとんぐえ、こおとんぐえ
おふとじゃあ      ことじゃあ
ひせがふか      まくぼゆん、たまみゆん
いりふまば       はいこまば
おれがしいや     よしらすな
こんとのち       このやひろ
ときのやく        ひいのやく
よおかまた       こおんまた
じょうやほか      のこゆすや、あまゆすや
ひせがほか      なみがほか
ぐじらわに       はいさばに
のみたらじ       かみたらじ
※しかし、残念ながら意味が分からない。ただ少なくとも古い時代の鍛冶屋に関するオモロであることは間違いなさそう。


『那覇市史』の「那覇の民俗」の巻。
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※『那覇市史』は昭和54年(1979年)刊。つまり六代目誠睦氏が浜田庄司氏と出会ってから10年以上経っている。

●「鍛冶屋」について
「(前略)王府は農政上各間切に鍛冶屋を置いたり、或は定期的に巡回させるような制度もあったという。
王府には金銀銅鉄の諸器製造を掌る鍛冶奉行所があって、専門職の金具師(チングシ)主取(金属の質を調べ、金銀細工を支配)、加治勢頭(鍛冶屋を支配)、磨物師(研師を支配)、錫勢頭(酒使用の錫細工を支配)がいた。(後略)」

●「鋳掛屋」について
「鍋の錮(なべのこ:ナービヌクー)という。道から『ナービナクー』と呼びながら歩くので『ナービナクー』ともいう。天秤棒に片方は鞴、片方は道具類と材料を入れた箱をかつぎ、各家庭をまわって歩く。(中略)各家から穴のあいた鍋や釜をもってくると、赤土でつくった坩堝に銑鉄をとかし穴にそそいでふさぐ。ひえたら生味噌をこすりつけて仕上げる。(中略)昭和になって鍋がアルミニウム製になると、鍋の穴の両方から鉄板を当てて漆喰ではりつけると共に穴の所をねじ釘でしめて終る。」

●「金銀細工」について
「(前略)十六世紀初頭には明君尚真王があらわれ、文化の華がさきほこった。(中略)尚真王の治政については百浦添欄干の銘や石門之東之碑文にくわしく、また現在残っている有名な文化財はこの時代のものが多い。
金銀細工にしても、この欄干の銘によると金殿玉楼が建立されて金銀で装飾され、金銀の簪によって貴賤の別を分け、金銀の器物を使用し、功績のある者には銭帛金銀を与えたとあるから相当に発達していただろう。(中略)琉球処分により琉球国が滅亡すると、直ちに他県人の支配となり生活様式をかえさせられた。琉球ものは粗悪で日本ものは優秀であるとの政治的意図をもつ教育のために琉球の伝統工芸の技術はほろんでしまい、ごく下流の人を対象にする劣った技術ばかりがわずかに残った。そして沖縄戦では人材だけでなく文化財まで失ってしまった。もはや琉球の伝統工芸は滅んでしまった。ものさえないのが多い。最近これら技術の復原をくわだてている者もいるが、もはや無理で、生活様式の変わった今日では純粋の意味で難しい。」
※「復原をくわだてている者」とは、六代目誠睦さんのことだろうか。いずれにしても、かつての琉球の金細工師は極めて複雑で精巧な作品を作っていたのである。

●「戦前の黄金細工(クガニゼーク)」について
「昔、金銀細工は鍛冶奉行所が掌り、専門職の金具師主取が支配していた。従って王府御用のものは鍛冶奉行所でつくられたので、廃藩置県で奉行所が廃止されると、高級なものをつくる機会もないままにその技術はうもれたと考えられる。」
「金銀細工師のことを黄金細工(クガニゼーク)とも黄金者(クガニー)ともいうが、その材料は金(黄金:クガニ)、銀(南鐐:ナンジャ)、銅(アクガニ)、すず(錫:シジ)およびその合金で、真鍮(鍮石:チジャク)の利用が多かった。細工物に鋳物を使うことは少なく、ほとんど鍛錬によって作った。」
※「クガニゼーク」に黄金細工という字を当てたのは南風原文化センターで開催された「黄金細工と鍛冶屋展」以外にはないと聞いていたが、ここで使われてる。沖縄には、まだ研究の尽くされていないことがたくさんのあるのだろう。(⇒http://lince.jp/hito/haebaru…
※少なくとも戦前までは「クガニゼーク」だったらしい。一方「カンゼーク」という言葉は、『那覇市史』には出てこない。


●「鎖指輪(クサイミイービガニ)」について
「貴族の花嫁の指輪といわれ、金製で一センチぐらいのくさりに三センチぐらいの平板を魚、鳥、蝶の形につくって下げてある。両手の中指にさす。これを銀製にして舞踊に用いられることがあるが、昔からあったか不明である。
※平板の意味に関して、浜田庄司氏の影響なのだろうか。●「結指輪(ムスビイービナギー)」について
「銀線二本を結んだ形の指輪があって辻の女に与えるものであるとの話がある。」
※何とも心もとない表現である。大和から来た沖縄を賛美する文化人を、冷ややかに見つめている感じもするのだが。
ちなみに、又吉健次郎氏は「結び指輪」を、今後「むすびゆびがに」と言おうと思っているとのことであった。

●「簪」より「ジーファー」について
「ジーファーは頭、首、竿からなり。頭は船底形のさじ型で大きい。首は六角柱で竿も六角柱で先太だが首と竿の接する所は打違えてある。竿の先端はやや鋭い六角錐になっている。(中略)銀、銅簪はすべて打って作ってあるが、金簪だけは竿が髄打になっている。」
「明治末期になってアルミニウムで簪をつくった。値が安いのと軽いので士族も百姓もさすようになって、身分の区別ができなくなった。」

ジーファーに関する参考:『沖縄大百科事典』より
●「簪(かんざし)」
「王府時代、常時髪にさした髪飾りで、身分を表示した。金・銀・真鍮・べっ甲・木などのほか、明治以降はアルミ簪もあった。1509年(尚真33)に初めて簪の制が定められたが、簪をさす風習はそれ以前にさかのぼる。(中略)女の本簪ジーファーは、上流の黄金簪から、按司夫人以下士女の銀簪、平民の真鍮簪・角簪・べっ甲簪にいたるまで長短細太の差はあるが、いずれもほとんど同型である。(中略)女簪は髷とともに南方系であり、身分の表示、髪飾りであると同時に常時身につけている武器でもあった。
●「簪の制」
「(前略)女子の本簪である半月形のジーファーは、上下の階層とも同型である。側差と呼ぶ副簪は、士女以上が正装時にさす。王妃・聞得大君はふだんは半月形の黄金簪をさすが、大礼時には王妃は鳳凰型黄金簪、聞得大君は竜文黄金大簪をさす。世子妃以上は本・副とも黄金、王女・王子妃は黄金本簪に銀副簪、按司夫人以下平の士女までは本・副簪とも銀、下士以下は常時銀の本簪だけをさす。百姓は木簪であるが、貴族に仕える者および富者は、礼装時にはべっ甲簪をさす。漁民は魚の骨ジーファーをさす。」


ひとつここらで、「くがにぜーくとかんぜーく」の中間報告をしてみようと思う。
沖縄における鉄を扱う技術と、金属で装飾品をつくる工芸とは、別の系統であったことは間違いなさそうである。そして、又吉健次郎氏は後者の「くがにぜーく」を受け継ぐ者であると、そう規定してかまわないと考える。
しかしながら、次のことをも指摘しておきたいと思うのである。
かつての絢爛豪華な琉球の金細工のうち、今現在健次郎さんが受け継ぐものは、「ジーファー」「房指輪」「結び指輪」という極めて小さな3点のみでしかない。
さらに、「ジーファー」は装飾品でありながら、また実用的な民具でもあり、材質が違う同じ形の簪を百姓も挿していた。
「房指輪」には、明治以降の琉球舞踊の強い影響が見られる。
また「結び指輪」は、辻の女性のものだといわれ、琉球王府との関係は一切不明である。
僕は今後、又吉さんの作品にある、いわば境界線的な要素と、いまだに出自のよくわからない「かんぜーく」という言葉の関わりを、もう少し探ってみたいと考えている。
ただ、ここまでのところの印象でいえば、「かんぜーく」という言葉は、かなり手垢にまみれているということだ。いったいそれは誰のどのような手垢なのか、ますます興味が膨らんでいる。