今回の宇夫方女史の沖縄出張は、なかなかタイトなスケジュールだったようで、又吉健次郎さんから懸案の「クガニゼーク」についての話を聞く時間的余裕は全くなかったようです。

従って、健次郎さんからの新しい情報を待ってからと考えていた井上真喜ちゃんに貸してもらったDVDですが、ここでその内容をご紹介してしまおうと思います。

このDVDには2007年の夏、浦添美術館で開催された「沖縄の金細工」という展覧会で行われた粟国恭子さんの講演が収録されています。
 ⇒粟国恭子さんの自己紹介
粟国さんについては、BOOKS“じのん”店長の天久さんも、金細工のことならたぶん一番詳しい方なのではないかとおっしゃっていました。

さて、今僕が一番知りたいことは、元来「金細工」は「くがにぜーく」といわれていたことはほぼ確からしいが、それが何故現在の沖縄の多くの人が「かんぜーく」という呼んでなんとも不思議と思わなくなってしまったのか、その背景にはどんな状況の変遷があったのかということである。
首里王朝末期から、その崩壊とともに「金細工」という職人も歴史の表から消えていったのだが、その直前にはどう呼ばれていたのか、やがて戦後大和の濱田庄司や棟方志功などによって又吉一族の「金細工」が見出されることになるだが、その時はぞれぞれどう呼ばれ、あるいはどう名乗っていたのか。

結論からいうと、このDVDは、残念ながら僕の疑問に答えてはくれませんでした。この展覧会で扱っているのは沖縄の金属加工全般で、その興味は、今残っているジーファーや房指輪というごく一部の工芸ではなく、むしろ歴史の中で失われてしまった極めて高度な細かい彫金や刀を作る技術などのに向けられているようで、近代の歴史には全く言及されませんでした。
null

それでも、「くがにぜーく」と「かんぜーく」という名称について全く触れられなかったというわけではありません。そのあたりの粟国さんの解説をいくつか拾ってみましょう。

今の職人さんには「かんぜーく」でいいよという方もおられることや、今や「かんぜーく」の方が一般的だと思っている人たちが多いということを認めながら、この時の展覧会の表記を「くがにぜーく」という言葉に統一したことの理由として、1534年の冊封使・陳侃の使録に「金」のことを「孔加尼(クガニ)」と記録されていることを上げています。ただ粟国さんは、これはウチナーグチではないとおっしゃる。しかし、「孔加尼」というのは実音に当てられた文字なのではないか、ならば当時の琉球では、金を「くがに」と言っていた証拠ではないのかと思ったのですが、そのあたりは、収録された講演ではさらりと通り過ぎました。いずれにしろ、「かんぜーく」でも「くがにぜーく」でも間違いではないというご見解のようです。
僕には彼女が言葉に関してさほどの興味を持ってはいらっしゃらないのではないかという印象を受けました。「金細工」をどう呼ぼうとも、こうした研究に障壁はないということなのでしょう。でもだからといって、僕の疑問と興味が消えるものでもありません。

去年の9月、琉球王府の金属に関する奉行所について色々と調べてこのブログでもご報告しました。
 ⇒又吉健次郎の「黄金細工」とは(09/11/14)
その時も、文字は残っていても、それをどう読んでいたのかについては、やはりどうもはっきりしませんでした。
粟国さん講演でも、「金細工」の管轄が「金奉行」→「小細工奉行」→「鍛冶奉行」というふうに移っていって、結局鉄を扱う「鍛冶奉行」が金属全てを管理するようになったということを説明されていますが、「金奉行」の読み方については、「くがにぶぎょう」でいいだろうという学者の意見を紹介するだけで、それも当時どう呼んでいたか(分からないといえばそれまでなのですが)ではなく、ただ今の研究において使う言葉として適切かどうかに限った話のように聞こえました。

できれば粟国さんにお会いする機会を作って、是非とも僕の疑問について、ご教授いただきたいと思っています。