「行った事がないのなら、定番の“美(ちゅ)ら海水族館”にでも行こうか」

國吉眞正先生
この旅の始め、那覇空港には「美ら島沖縄総体2010」という横断幕が張られていました。その時にも少し書きましたが、もう沖縄で「ちゅら」という言葉に「清ら」という字を当てているのを見つけるのは、かなり難しいことになってしまったようです。沖縄県の広報誌でさえ「美ら島沖縄」というくらいなのですから。
このM.A.P.after5のブログもそうです。竹原さんの仙川のお店の名前は「美ら風」だし、オオシッタイの上山弘子さんの藍染は「美ら藍」です。どちらも「ちゅらかじ」「ちゅらえ」と、読み方にはこだわっているんですけどね。きっと國吉先生にすればおっしゃりたいことがたくさんおありでしょうね。

でも、僕はこうも思うのです。沖縄の「ちゅら」は「清ら」でなければならないと、ナイチャーの僕が語ってはいけないのではないか、それもナイチャーが都合の良いイメージを沖縄に押し付けることではないのか。
それならば、「ちゅら」を「美ら」として、それが日本に浸透していって、その結果、沖縄から大和を逆照射するように、大和の「美」の概念に「清い」という意味を、大和の「美しさ」が捨ててきた「清らかさ」を、再び取り戻すことになるのだとすれば、それはそれでありなのかもしれない……

名護から58号線を離れて海洋博公園に向かいます。進行方向左側に、東シナ海のきれいな海が拡がります。思わず車を停めて海を眺めることにしました。
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確かに、美しいのです。きっと、あの頃よりも。

僕が初めてこの道を通ったのは、今から二十数年前、沖縄海洋博が開かれたのは1975年の7月から76年の1月ですから、すでにそれから10年は経っていたのだと思います。でもリゾートホテルや何やらの建設で、まだまだたくさんのダンプカーが土煙を上げて走っていました。海は、箇所箇所赤土で汚れていたように記憶しています。その時の海の記憶よりも、今日の海は美しい。

でも……
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護岸工事が施された海。あの頃の沖縄に、こんな海はなかった。そしてこんなに晴れているのに、この海はどこかくすんでいます。
20数年前の沖縄の海は、リゾート開発が進む地域は別として、本島でさえとても美しかったのです。今でこそ那覇空港近くの海は赤茶けていますが、当時は空港へ着陸する寸前に飛行機の窓から見下ろす海も、やっぱりものすごくきれいでした。

この話を、津嘉山正種さんにしたことがあります。すると、津嘉山さんはこうおっしゃられました。
「そうですね、確かに20年前の沖縄の海は、今よりずっときれいだった。でも、僕の子どもの頃の海は、あなたが見た20年前の海の、何十倍も美しかったのですよ」

僕は、またしてもやってきた憂鬱を感じながら、ある評論を思い出していました。

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琉球大学法文学部准教授の新城郁夫氏は、「沖縄海洋博」を、沖縄本土復帰の成功をアピールする国家統合の祭典であった規定する。また、沖縄の海洋民族としての文化を展示した「沖縄館」は、日本の国家再編の中に沖縄を位置づけ組み入れたのだと。確かに、その展示の中心を担ったのは、戦後沖縄文学の代表的作家、大城立裕氏であったことは間違いない。

また……

知念正真氏の『人類館』初演の台本には、海洋博の沖縄館が出てくる。

「本日は沖縄海洋博へようこそ。こちらは、沖縄館でございます。」
(屋良知事のあいさつ抜粋。又は皇太子の声がテープで入る。海洋博開会のあいさつ。調教師は口を合わせて、アテレコのよう。(中略)当然のことながら、海洋博に血道を上げる、調教師の台詞など、今はもう聞こえない。「海、その望ましい未来」なぞ倒産企業さながら、泡沫の如く消え去ってしまい、後には、虚しく口をパクパクさせつづける調教師がいるのみである……。)

新城郁夫氏は、1903年の「人類館」と1975年の海洋博における「沖縄館」が同じ構造であるということを、「知念正真氏は非常に鋭敏な歴史的政治的感覚ではっきりと把握し批判した」と述べるのである。

そして沖縄海洋博以降、沖縄の自然破壊は進み、沖縄の経済は反動で一時大不況に陥ったのである。
この時の白石准のブログ記事(UFOが見えたらしい)
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