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KYOKOさんのことです。
ご本人のブログによると、鳩間島から小浜島に渡ったとのこと。
KYOKOさんの6月28日のブログ
元気そうですね。
海はやっぱり美しい。とっても楽しんでいるみたい。うらやましい限りです。

そのKYOKOさんから、電話がありました。たくさんの人たちとの出会いがあるらしい。

今、KYOKOさんが肌で感じているであろう空気と、私たちが東京あたりで語っている能書きと、きっとそこにはおおきな隔たりがあるのでしょう。
それから、KYOKOさんが感じているのは「沖縄」ではなく、その先にあるそれぞれの「島」。
沖縄はひとつじゃありません。

KYOKOさんの写真のブログ
竹富島や波照間島のシーサーがいっぱいですね。
いい写真が、たくさん届くのを、首を長くして待ってます。


そしてもうひとつ、とてもうれしいお知らせ。
又吉健次郎さんが第53回沖縄タイムス賞文化賞を受賞されました。その記事のコピーが今日、届きました。
記事その1
記事その2
又吉さん、おめでとうございます。
残念ながら公式Partyにはお伺いできませんが、首里の工房での酒盛りはいつですか?
是非、おしらせくださいますように。


さらにもうひとつ。
國吉眞正さんが東京学芸大学付属高等学校で、学習旅行(修学旅行)の事前学習のための「特別授業」を受け持たれたことが、琉球新報に掲載されました。
琉球新報のHP
その授業で使われたテキストを、先日の沖縄語を話す会の時に頂きました。
授業で使われたテキスト

今週の土曜日、またお伺いいたします。とても楽しみにしています。



比嘉光龍さんにお会いした時に頂いたプリントと同じものが、ネットにアップされました。
「日本語」と、「うちなぁぐち」と、「うちなぁやまとぅぐち」を比較した表です。
これは、光龍さん自身によるものです。
http://blog.goo.ne.jp…

実は先ほど、光龍さんにふたつほどの質問のメールを送っていたのです。それに対して、さっそく丁寧なお返事が届きました。
まず質問その1です。
日本語=「おじいさん」
うちなぁぐち=「たんめー(士族)」「うすめー(平民)」
うちなぁやまとぅぐち=「おじぃ」

比嘉光龍さんは、「うちなぁやまとぅぐち」について、言語学では「ミクストランゲージ(Mixed Language)」に分類され、「スラング(俗語)」と同じような言葉と定義されているとし、次のように書いていらっしゃいます。
「それをもう少しくだけて言うと『タメぐち』のようなものだと思って下さい。仲間うちで使う、仲間だけしか知らない言葉のようなものです。それは、目上の人や学校の先生などには使えない」

確かに、沖縄の地方紙のコラムなどで、お年寄りを「オジイ」や「オバア」と呼ぶ最近の風潮は失礼でけしからんというなご意見を目にしたこともあります。(僕としては、敬意と愛情を持って使われれば「スラング」も悪くはないと思っていたのですが。)
では、沖縄のお年寄りを、ウチナーグチで呼ぼうとしたとき、どのように呼べばよいのでしょうか。
目の前にいるお年寄りが元「士族」か「平民」かなどわかりません。元士族の方に「うすめー」と言ってしまったら、気を悪くされるかもしれないし、かといって誰でも彼でも「たんめー」では、男性のお客さんだれかれ構わず「社長さん」と呼ぶ安キャバレーのホステスさんみたいで、これも気が進みません。というか、どちらにしても、そうした区別のある呼び方を使うことはどうなのだろう。言葉狩りはしたくはないが、なんだか難しい。沖縄語を話す会の國吉眞正さんは、もう今は、みんな「たんめー」でいいのではないですかとおっしゃっていました。
そこで、光龍さんのご意見も、聞いてみたくなったのです。

1「おじいさんのことをどう呼べばいいのでしょうか。今はどのご老人に対しても『たんめー』でいいのでしょうか。」

それに対する光龍さんのお答えは、次のようなものでした。

これは、そうは呼べませんと答えておきます。一つに統一した呼称が必要だとの考え方から、少し視点を変えて考えてみて頂きたいのですが、明治12年までは琉球王国で身分制度が存在したので、二つ、もしくは三つの「おじいさん」の呼称が存在しました。しかし、現在のうちなぁは、複雑かつ日本と言う国の一部です。そこに琉球王国時代の身分制度の呼称をあてはめようとするとかなり無理が生じます。そこで、相手にどう呼んでほしいのか問うということが面倒でも必要だと思います。個人はそれで対応できるのでしょうが、お年寄りの総称ですが、うちなぁぐちでは「御年寄い(うとぅすい)」、もしくは「思しーじゃ方(うみしーじゃかた)」と呼べばとても丁寧ですので、お年寄りよりは良いと思います。

なかなか難しいですねえ。みなさんはどうお考えでしょうか。
僕はチョイ悪おやじ。元不良なので、スラング万歳「オジイ」で、いっちゃおうかなあ。今度、儀間進先生にお会いした時に「オジイ」って、最大限の親しみを込めて呼んで見ようかな。そうしたらどうなるのでしょうか。

質問その2は長母音について。
光龍さんの作った表では、唯一「うちなぁ」だけ二重母音の二番目に小さな平仮名を使って、後は全て「ー」の文字を使っています。それは何故なんだろう。そういえば、ウチナーグチには二重母音は無いのだろうかということを考えながら、質問してみようと思ったのです。

2「うちなぁ」と「うちなー」、さらには「うちなぁー」もありそうですが、これには何かルールのようなものがあるのでしょうか。

光龍さんの回答。

これは、確かに問題ですね。私は「うちなぁ」と表記します。しかし、語尾の小さな「ぁ」ですが、これは棒線でも良いと思います。私は、うちなぁぐちを表記する時に、カタカナは何かうまく表現できていない気がしてひらがな表記にすることにしました。それらは、実践うちなあぐち教本の著者比嘉清さんや、ラジオ沖縄の伊狩典子さん、また、私のうちなぁぐち師匠である、うちなぁ芝居の名優「真喜志康忠(まきしこうちゅう)」先生の芝居を漫画化した新里堅進さんの本(琉球新報出版から三冊出ています)などを参考にする所が大きいです。

ただ、語尾の母音を棒線にするか、それとも、母音を文字化するかどうかは、私自身試行錯誤、変更に変更を繰り返して、母音はすべて棒線で書くことにしました。それならば「うちなぁ」は「うちなー」と表記しなければなりません。ただ、「うちなぁ」と言う表記だけは「ぁ」にしています。それは、沖縄タイムス紙に二年近く「光龍ぬピリンパランうちなぁぐち」と題して連載をしたのと、琉球新報紙にも「光龍ぬアハーうちなぁぐち」、また現在、おきなわJOHOという月刊情報誌に「光龍ぬうちなぁぐちアリンクリン」と書いてきたので、慣例でというところが大きいです。

(中略)

表記は高山さん御自身でお考え下さい。では、また、いつでもご質問下さい。御無礼さびら。
比嘉光龍(ふぃじゃ ばいろん)


この中略の部分には、表記について、もっと突っ込んだことが書かれてありました。光龍さんの主張は、基本的には柔軟にということなのですが、これについては当方勉強不足、もう少しそのあたりの現状を把握してからあらためてご紹介いたします。

このメールを公開することをお許しくださった比嘉光龍さんに、心から謝辞を申し上げます。


今日の“話す会”は、あれやこれやフリートーク。

“沖縄語を話す会”の表記法は、僕のようなウチナーグチ初心者には、極めてわかりやすいものです。僕は、“おきなわおーでぃおぶっく”の儀間進さんのコラムを読む企画を立てた張本人ですが、自分が読み手として参加することなど思いもよりませんでした。しかし、“沖縄語を話す会”の表記法を知ってから、もう殆ど参加するつもりになっています。

ただ、さらに深く関わっていくと、沖縄の表記について、ただ単に沖縄語の初等教育のテクニカルな問題だけでは収まらない背景も見えてきます。

たとえば「かぎやで風」。
琉球古典音楽のひとつで、その歴史については省きますが、歌詞も付いている楽曲です。
また「かぎやで風」には老人踊りも振付けられていて、古典の中ではもっとも知られた踊りです。
沖縄で何かお祝いの席などがあると、その冒頭で必ずといっていいほど踊られるし、また沖縄の結婚式に「かぎやで風」抜きなんて考えられません。それはもう「てんとう虫のサンバ」の比ではないのです。
ずいぶん前の小生の結婚式でも、かみさんの妹が踊ってくれましたし、先日の宇夫方路さんのお披露目公演の最初の演目も、やはり「かぎやで風」でした。

しかし、この「かぎやで風」を、そのまま「かぎやでふう」と読んでしまったら間違いです。「かじゃでぃふー」というのが正しい。
つまり、「かぎやで風」と書いて「かじゃでぃふー」と読むのが「正しいこと」なのです。

でも、それでは何もわからないウチナーグチの初心者には難しすぎます。日本人が歴史的仮名遣いを放棄したように、この「かぎやで風」も、音のママに「かじゃでぃふー」と表記してくれれば、きっと分かり易いでしょう。
しかし、沖縄の踊りの先生や三線の先生方が、それを認めるとは到底思えません。なにしろこれは伝統的表記なのですから。沖縄で一番偉いのは、きっとこうした先生たち、その方たちの御意向に背いてことは進みません。

題名ばかりではなく、歌詞も同じようなことがいえます。
でも、沖縄の先生たちが守ろうとしているこの伝統的な表記が、極めて大和風であることを、沖縄の人たちはどう感じているのでしょうか。

もうひとつ、「かぎやで風」という表記ですが、実はこれ比較的新しい表記で、古くは「かぢやで風」でした。その変化は受け入れたのに、なぜ、さらなる変化のほうは受け入れ難いのでしょうか。これは研究課題です。

いずれにしろ、この問題を解決するのは、ウチナーンチュの人たち自身であるより他にはありません。私たちは、ただ見守ることしかできません。

そんな話をしていたら、実はねと、國吉眞正さんが見せてくださった一冊の本。
「現代仮名遣いで易しく読める沖縄の古典歌詞118」

沖縄の古典音楽歌詞
まだ、試作品ですが、國吉さんたちが編まれたものです。

下の文字をクリックすると、一頁目を見ることができます。
沖縄の古典音楽歌詞の1頁
やっぱりTOPは「かぎやで風」です。
上段に伝統的表記が書かれ、下段に、“沖縄語を話す会”の表記での歌詞が書かれています。

國吉さんはおっしゃいました。
「私たちは伝統的な表記を尊重しています」

これが出版されれば、宇夫方路はじめ、特に東京で琉球舞踊などを習っている人たちの中には、欲しいと思われる方がたくさんいるだろうと思いました。はやく出版できるようになればいいですねえ。M.A.P.にお手伝いできることがあれば嬉しいのですが。

話はさらに巡ります。

沖縄の言葉を、大和の言葉に直訳しても、なかなかその本当の意味が伝わらないということはママあることです。

例えば「なんくるないさー」。
どうにかなるさ、沖縄好きの若者に人気のウチナーグチです。
しかし、その本当の意味は、むしろ人事を尽くして天命を待つに近い。何にもしないでどうにかなるだろうと、ダラッとした心もちをいうのではありません。とことんできることをやりつくした後に、ようやく言える言葉なのです。

もうひとつ。肝苦しい(チムグルシー)。これも沖縄フリークのヤマトゥンチュにはよく知られたことばです。でもまずそれが間違い。これはウチナーヤマトゥグチ。
正しくは「チムグルサン」。
そしてその意味。直訳すれば「かわいそう」。

しかしこの言葉には、直訳しては伝わらないニュアンスがあります。
先日、沖縄で会った、玉城さん(玉城さんは「キリ学=キリ短に併設」の学生さんです)が、この話をしていました。
その日の記事へ
玉城さんに、もう一度教えてと頼んだら、メールを送ってくれました。感謝です。

では、そのご紹介。
「本田哲郎さんというカトリックの神父さんによると、日本語の『同情』や『憐れみ』という言葉が上から目線のニュアンスがあるのに対して、この沖縄の言葉の『肝(チム)グルサ』というのは、『相手の痛みに共感する』、『やむにやまれぬ気持ちで、腹わたが突き動かされる』というようなニュアンスがある」
そしてそれは、キリストの精神に近いものだと、彼女は説明してくれました。

沖縄タイムス社が刊行した『沖縄大百科事典』の「チムグルサン」の項目には、こう書かれています。
「<かわいそう>が不憫な人や気の毒な人を、できるならなんとか救ってあげたいと、自分のいる安全な高みから発しているのにたいして、<チムグルサン>は相手を見下ろす立場からではなく、気の毒な状態にいる相手のところまで降りて、相手の痛みを自分の痛みとして感じる心の働きである。」
なお、この項目を担当して執筆しているのは、儀間進さんです。

おじいさん子だった玉城さんは、バイリンガルです。日本語とウチナーグチの。

そうだ思い出した。『沖縄大百科事典』をプレゼントしてくれたのは、沖縄タイムスを定年退職してすぐ死んでしまった義理の父親。きっと玉城さんのおじいさんと、生きていれば同じくらいの歳だったんじゃないのかな。

それから、玉城さんはさらにこんな話をしてくれました。

「ぬでぃん八十、ぬまんでぃん八十、ぬまんとぅちゃーすが」
どういう意味?
「酒飲んでも飲まなくても、同じ八十歳ならば、飲まなくてはどうしようか」
いいねえ、そういう言葉が沖縄にあるんだ。
少し首を傾げて考えた玉城さん、ちょっとの間があってから
「玉城家の家訓かな」
大ウケです。

これも、おじいさんの教えなのでしょうか。

僕の目標は、半年後くらいに、玉城さんとウチナーグチで会話をすることです。その時は玉城さん、よろしくね。

ということで、沖縄語を話す会の第3回のご報告を終ります。
長々と、ありがとうございました。
(文責:高山正樹)

この日の最初の記事から読む

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夕方の5時ごろ、比嘉光龍さんから電話が入った。
「今、ラジオ沖縄の本番が終ったところです。ココの一階を使わせてもらえることになったので、ココで待っていましょうね」
おっと、6時半にお会いする予定で動いていたので、ともかく大急ぎで恩名村から那覇へ向かいました。金城君と合流して、ラジオ沖縄に到着したら、「結局6時半だね」と、大きな声とおおきな笑顔の比嘉光龍さんが迎えてくれました。

初めてぃやーさゐ!
それとも
初めてぃ拝(をぅが)なびら
光龍さん、こういう場合、どちらが正しいの?
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ちょっとデカ過ぎますか?
でも、存在感はまさにこんな感じなのです。

那覇へ(なふぁかい)向かって、ラジオ沖縄に(らじおおきなわんかい)到着して…、という感じでしょうか。
この「~かい」「~んかい」、それに「~なかい」については、日本語の「~へ」と「~に」とともに、現在さらに研究中、東京に戻ったらゆっくりとここで研究発表したいと思っています。
関連記事(6月6日の沖縄語を話す会のこと)を読む

「比嘉光龍」という名前を初めて聞いたのは、儀間進さんのお話からでした。うちなーぐちについて、いったいどんな方々にご指導をお願いしたらいいのかご相談した時に、儀間さんから出てきたお名前なのです。
儀間さんから光龍さんのことを聞いた日の記事を読む

光龍さんにお会いできることになったのは、金城史彦くんのお陰、金城君のお知り合いの親川志奈子さんが光龍さんをよくご存知で、それでご紹介いただいたのです。おふたりに心から感謝です。
親川志奈子さんに会った日の記事を読む

今日のことは、“おきなわおーでぃおぶっく”のオフィシャルブログでも記事にしましたので、必ずお読みくださいね。
http://ameblo.jp/okinawaaudiobook…

比嘉光龍さんから頂いた名刺には「ふぃじゃ ばいろん」とルビが振られていました。
肩書きは「唄三線者」。
比嘉光龍さんについても、またその考え方についても、ご報告したいことはたくさんあります。でも慌てて書くことはしません。ひとつひとつ、私たちも考え、理解したうえでご紹介したいと考えているからです。

とりあえず、今日はお会いしたということと、これからいろいろとご相談することになるであろうということのご報告でした。

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あ、それからもうひとつ、比嘉光龍さんは“沖縄語を話す会”の國吉眞正さん船津好明さんもよくご存知で、尊敬もしていらっしゃることが分かって、たいへんうれしく思ったことだけは申し添えておきたいと思います。
(問題は表記ですね…)

旅の続きへ



毎月第1土曜日と第3土曜日に大崎で開かれている“沖縄語を話す会”に、先月の4日以来、2回目の見学に行って来ました。
前回の記事を読む

今日のお勉強の復習です。
「~なかい」「~かい」「~んかい」の使い分けについて。

これは、やまとぐちの「~へ」とか「~に」にあたることばです。最近は何でもかんでも「~んかい」を使ってしまうようですが、厳密には使い分けがあるらしい。で、それをここでお話したいと思ったのですが、その前に、なんだか「~へ」と「~に」の違いがとても気になってきました。「沖縄へ行く」と「沖縄に行く」の違いは何なのでしょうか。自分が使っている「日本語」も、実はよくわかっていない。それなのに、ウチナーグチの説明をしてしまうというのもいかがなものでしょうか。
まず「~へ」と「~に」の違いを調べてから、あらためて「~なかい」「~かい」「~んかい」の使い分けについて、ご報告したいと思います。
(いいなあ、こういうこだわり、と自画自賛。)

“沖縄語を話す会”の國吉眞正さんの、敬語についてのお話には、興味深いものがありました。
沖縄では、敬語を使うべきではない者に向かって(例えば自分より年少の相手に向かって)敬語を使うと、厳しいお年寄りには叱られますよというはなし。まあ、初対面だったり、学校の先生やお医者さんだったりすると、そうでもないようですが、例えばPTAのようなコミュニティーの中で、たとえ年下であっても、大和の感覚なら敬語でやりとりするようなシチュエーションでも、ウチナーグチでは敬語を使うべきではないというような、ちょっとした感覚の違いがあるようです。このあたりに、沖縄の人の繋がりの秘密が隠されていたりして、そう思うと、ますますウチナーグチを覚えたくなりました。

さて、毎回こうしてウチナーグチのお話を伺うのはとても楽しいのですが、今日は、その他にも、二つの目的があってお邪魔しました。

ひとつは、おきなわおーでぃおぶっくの作品「人類館」の、津嘉山正種さんのウチナーグチを皆さんに聞いていただき、是非とも感想を伺いたかったのです。
最後に勉強会の貴重な時間をちょっと頂いて、CDの一部を聞いてもらいました。結果、皆さんから、大変すばらしい「那覇ことば」であるとのお言葉を頂き、ああやっぱり作ってよかったのだと、あらためて確信したのです。
ただ國吉さんによると、「ぅえー」が単なる「えー」となっていたりするようなところもあるようですが、しかしこのことは決して間違いではなく、先の、「かい」「んかい」の区別をしなくなったという状況と同じで、ウチナーグチも生きて変化していっているということを実感したのでした。残し伝えていくべきウチナーグチとは何か、やはり難しいです。

そしてもうひとつはこれです。
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今週の朝日新聞には、「生きている遺産、言葉よ、よみがえれ」と題した連載記事が、月曜日から昨日までの夕刊に、5回にわたって掲載されていました。ユネスコによると、約2,500の言語が消滅の危機にあるとのことですが、その中からいくつかをピックアップしての報告記事です。
昨日の記事はその最終回で、「琉球語」のことを扱っています。
写真に写っているのは、「琉神マブヤー」。今、沖縄の子供たちに大人気の変身ヒーローで、ふんだんにウチナーグチが使われるので、沖縄の子供たちに「琉球語」を伝えるいいきっかけになっているのです。
また、沖縄県立博物館で開催されている「しまくとぅば解説ツアー」も紹介されています。博物館の展示物を、島言葉(琉球語)で解説するという企画です。
「琉神マブヤー」も「しまくとぅばツアー」も、沖縄では話題になっているのですが、「内地」にいると、インターネットなどでアンテナを立てていない限りは、知る機会のない極めてローカルな話題です。

ところで、この新聞記事をわざわざ“沖縄語を話す会”に持参した理由は、記事に書かれたいくつかのセンテンスが気にかかったからなのです。

「ユネスコが沖縄県内の5言語のみを『独立した言語』とみなしたことへの違和感」
「残すべき琉球語とは集落ごとに800ともいわれる琉球諸言語のどの言葉なのか」


僕は、この800という数に対しちょっと疑問に思った記憶があるのです。その説明は、ここでは差し控えますが、この800という数について、國吉さんに確かめてみたかったのです。
國吉さんは大変にユーモアのある方で、「うそ八百の800だったりしてね」といたずらっぽく笑われました。
要するに、色々な考え方があるということでもあります。それはそれでとてもいいことなのですが、対立が目立っては、残せる言葉も残せなくなってしまうような気がして、何とかならないものかなあと感じているのです。

僕には、何が正しいかの判断は全く出来ません。ですから、この“沖縄語を話す会”の考え方が他に較べて優れていると言えるものでもありません。出来るだけたくさんの方々からご教授を頂きたいし、ご意見も伺いたいのです。

しかし、“沖縄語を話す会”の考えを知っていただくことも、意味があると考え、ここで少しご紹介することにしました。

“沖縄語を話す会”がこだわっているのは「表記」の問題です。そして沖縄語の表記の、ひとつの方法を、“沖縄語を話す会”は提唱されています。
その具体的な表記については、是非下記にアクセスしてみてください。
沖縄語を話す会会報創刊号PDFファイル

また、この表記の考え方については下記に船津好明さんの文章がありますので、どうぞお読みください。
船津好明さんの報告と提案PDFファイル

要するに「琉球語」に特有な発音に新しい仮名文字を作って対応させるべきということなのですが、確かに、最初は新しい「かな」に違和感を覚えたことも事実です。しかし、ちょっとこの表記方法に慣れてくると、正しい発音で沖縄語を覚えようとする者にとっては、大変分かりやすくて有効であるという実感を得ることができたということもまた事実なのです。
おきなわおーでぃおぶっくに、儀間進氏の「語てぃ遊ばなシマクトゥバ」というエッセイ集をたくさんの若者で読もうという企画がありますが、僕は、“沖縄語を話す会”の表記方法を知って、僕も読み手として参加することにしました。それほどハードルが低くなったと思っているのです。
現状、なかなか読み手が集まらずに困っていたのですが、この表記方法と出会ったお陰で、もっとたくさんの方々に声を掛けることができそうです。

もし「うちなーぐち」に興味のある方がいらっしゃいましたならば、是非ともメッセージをお送りくださいませ。


昨夜は鳥の研究。本日はガラっと変わってウチナーグチの研究です。

ウチナーグチの母音について、[e]が[i]に、[o]は[u]に変わるので、だから[a]、[i]、[u]の三つしかないのだというような言われ方を、よく耳にすることがあります。これって、ちょっと昔、かの伊波普猷先生が、何かの書物で書いてしまって、それが定説っぽく伝わったので、そう思い込んでいる人たちが多いということらしいのです。

ちなみに、[e]が[i]に、[o]が[u]に変わることを高舌化(高母音化)といいます。[a]と[i]と[u]は、極めて区別しやすい安定した母音なので、この三つしか母音を持たない言語は、アラビア語やブライ語など、世界中にいくらでもあります。

しかし実際は、沖縄語の母音は三つだけではありません。確かに、短母音での[e]と[o]は極めて少ないのですが、皆無ではありません。例えば「蝶」のことをハベル(haberu)というように、[e]や[o]の短母音も存在するのです。
また、連母音[ai]は長母音[e:]に、同様に[au]が[o:]に変わるというのも、ウチナーグチの特徴で、つまり[e]と[o]も、長母音でならいくらでも存在するということですね。

この[ai]→[e:]、[au]→[o:]という変化は言語学的には普遍的な現象で、この変化によって3母音体系から5母音体系に移行した言語も多いのです。サンスクリット語などもそれです。逆に5母音から3母音へ単純化された言語もあり、ウチナーグチもそのひとつだということになっていますが、ということは、ウチナーグチはその後、再び[e]と[o]を、[e:][o:]という形で組み込んだということなのでしょうか。

もともと日本語の母音は8音だったとか6音だったとか、いろいろな説があるのですが、ともかくそれよりもずっと前の紀元300年くらいに沖縄と大和のことばは分化されたというのが、今のところ一番有力な説ではあるらしいのです。しかし、もともと大和の言葉の基本母音は3音であって、だからウチナーグチは、こうした音韻に関しても古い大和言葉を残しているのかもしれないというような試論もないわけではありません。だとすると、大きく変化したのは大和の言葉のほうだということになりますね。でも、この説はちょっと無理があるかな。

それはそれとして、ウチナーグチに見られる変化と同様の現象は、大和の言葉にもあります。
ちゃきちゃきの江戸弁では、大根を「でーこん」、大概にしろは「テーゲーにしやがれ」といいます。どうです、これ、ウチナーグチで起こった変化と全く同じです。といってもこの音の変化は、やっぱり世界中にある現象なので、特にウチナーグチと大和の言葉を、ことさら関連付ける類の話ではありません。

ほかにも東北弁と比較するのもとてもおもしろいのですが、今日のところはこの辺で。

さて、今、僕に興味があるのは、こうした変化が何故起こるのかということなのです。もちろん政治や経済の「力」が大きく影響してきたということも否定できません。時にその「力」が、理不尽な「暴力」であったこともあるわけで、それは決して許されることではありません。しかし、長い歴史における言葉の変化を知れば知るほど、行きつ戻りつ、大きなうねりを伴いながらも、人智の及ばない根源的な何ものかへ向かって変わっていこうとする「言葉の不思議」も見えてくるのです。そうしたとき、言葉の平板化も、鼻濁音の衰退も、「ら抜きことば」も、言葉の乱れとは全く別の顔を見せ始めるのです。

[e]が[i]に、[o]が[u]に変わる高舌化は、口や舌の動きが小さくなるので、一種の省エネですね。そのようして労力を減らしておきながら、空いた[e]と[o]の席に、まったく別の出自をもつ連母音を長母音化して座らせたウチナーグチ。これ、勉強を始めたばかりの僕には、なんとも不思議なことなのです。
1から24までの正方形の駒を、1個の隙間を利用して順番に並び替えていく、あの懐かしいパズルを思い浮かべます。
今のコンピューターには、ハードディスクの中のデータを整理してくれる「デフラグ」という機能があります。あれ、結構時間が掛かりますよね。なんだか言葉も、それに似た作業を、気の遠くなるような年月をかけて行っているのではないのか、そう思えてきたのです。

生きたウチナーグチを残す、そうしたいと思って「おきなわおーでぃおぶっく」の新しい企画を始めたわけですが、しかしほんとうの意味での生きたウチナーグチとはどういうものなのだろう、甘受すべき変化も、見極めなければならないのではないか、なんだか迷宮の入口に立っているような、そんな不安に僕は包まれています……

というようなことを考えながら、「沖縄語を話す会」の勉強会へお伺いしたのでした。
上級者と初心者に別れての勉強。僕は初心者のテーブルに席を頂き、見学させていただきました。
本日のテーマは「無(ね)ーらん」の二つの使い方について。
「飲んでない」をこの表現を使っていうと「ぬでーねーらん」といいます。
「飲んでしまった」は「ぬでぃねーらん」といいます。
これって、よく使われる表現なのですが、難しくないですか。飲んだのか飲まないのか、真逆の意味です。病院で薬を飲んだか飲まないか、間違えて看護士さんに伝えたら大変なことになってしまいます。

グループごとの勉強会を適当なところで切り上げて、後半はみんないっしょになって昔物語(んかしむぬがたい)を読みます。
今日の題材は「大里ぬ鬼(うふじゃとぅぬうに)」です。
このはなし、オバアから聞いたことがあるよとか、うちのほうではこういうんだとか、実に楽しく豊かなひと時です。

あっという間の2時間半、とても楽しい時間を過ごさせていただきました。もっとたくさんのことをご紹介したいのですが、間違ったことをお伝えしてはいけないので、僕自身もう少し勉強してから、お話ししたいと思っています。

【復習】
この勉強会で習っているのは、基本的には首里の言葉ということで、帰ってからちょっと調べてみたのですが、沖縄本島の中部、今帰仁(なきじん)地方では、なんと「飲んでない」も「飲んでしまった」も、どちらも
「ぬでぃねん」
というのだそうです。では、どのように区別するのでしょうか…
それは「飲んでない」の方を
「ぬでぃ ねん↑」
と微妙な間を入れて上昇調で言うことによって区別するのだそうです。
うーん、ウチナーグチのCD、やはりハードルはかなり高そうですねえ。

訳あって、もう「さき、ぬまん」


昨日、録音終了後、ささやかなお疲れさん会をしました。
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(野郎どもはiPhoneの液晶を見つめているの図)

一夜明ければ、次へ向かって走り出さなければなりません。
船津好明さんのご紹介で、「沖縄語を話す会」の事務局長、國吉眞正さんに、新宿でお会いしました。
國吉眞正さん
(國吉さんの右には、もう一人いらっしゃるのですが、今日のところはご紹介を控えます。)

たっぷりと5時間近く、お話ししました。ウチナーグチについて、お伝えしたいことが山のようにあるのですが、しかし、ブログというような時間にせっつかれた場所では、なかなかご報告することは困難です。したがって、慌てて語ることは諦めました。いずれアカデミックに、“おきなわおーでぃおぶっく”のOfficial_Siteに専用のページを作成して、そこできちんとまとめようと考えています。

とはいえ、今までのブログ記事と関連のあることを、エピソードっぽくご披露しましょう。

まずは鼻濁音のはなし。
去年の12月、アナウンス講座なるものを見学した際に、僕はこんなことを書きました。まずはお読みください。
http://lince.jp/hito…

3ヶ月前は、ずいぶんと講座の先生に気を使って書いているようですが、あらためて僕は、「鼻濁音が日本語の美点というのはおかしい」と、大きな声で叫びたい気持ちになってきました。
沖縄には鼻濁音はありません。それは、なにも沖縄に限ったことではないのです。日本のかなり多くの地域で、鼻濁音などないのですから。

八木政男さんとお会いした時にも、この話題が上りました。
http://lince.jp/hito…
ウチナーグチに「はなむにー」という言葉があります。まあこれは、風邪なんか引いたときの「鼻声」みたいな状態を指す言葉ですが、沖縄では鼻濁音も同様に笑われる対象、風邪ひきの優男(やさおとこ)がもてるのは、江戸という街だけということなのかもしれません。
役者の場合、経験上、標準語なら鼻濁音であることが正しい場合でも、時に確信犯的に鼻濁音を採用しないことがあります。そういう経験談を、去年もアナウンス講座の先生にお話ししてみたのですが、黙って無視されました。
また鼻濁音には強弱があって、時に鼻にかかる度合いが強くて、鼻濁音としては実にすばらしいのですが、しかしなんとも気持ちが悪いという場合もあるのです。
おきなわおーでぃおぶっくのCDのはなしですが、津嘉山正種氏の「人類館」のこと、ウチナーグチの部分は当然ですが、地の文でも、本来は鼻濁音でなくてはならない箇所の多くを、津嘉山さんは鼻濁音で語ってはいません。この「人類館」という作品にとっては、それが正解であり、「美しい」と思うのです。
そして昨日、あの、久米明さんの「ノロエステ鉄道」の朗読でさえ同じだったのです。伺ったところによると、久米さんは「沖縄を読む」ということで、鼻濁音をどうするか、かなりお考え下さったようです。結果、大城立裕先生がおっしゃった「鼻濁音の気持ち悪さ」は完全に払拭され、逆に「清い」美しさが加味されたと思います。

沖縄という風土の中で、鼻濁音に出会うと、とても違和感を感じます、そんなお話を、今日もしたのでした。鼻濁音は美しいものだ、それが正しい日本語なのだということが、まことしやかに語られるのはいかがなものでしょうかと。

もうひとつ。「わー」のはなし。
「私」も「豚」も、ウチナーグチではどちらも「わー」だというはなしです。
FM世田谷の“せたがやじーん”に出演した時もこの話をしました。
http://lince.jp/hito…
儀間進さんとの雑談をご紹介した時も、「わー」のしゃべり方について触れました。
http://lince.jp/hito…

つまり、「私」も「豚」も「わー」であるという言い方は、実は正しくありません。「私」も「豚」も、ひらがなで表記するならどちらも「わー」と書くしかないということなのです。
言語学的に言うと、豚の方の「わ」は声門破裂音(Glottal_stop)という子音です。声門(声帯)を閉じた状態から、発声と同時に声門を開いて声を出す破裂音なのです。国際音声記号では、クエスチョンマーク(?)から下の点を外したような記号が使われます。PCではこんな記号はありませんから、ここでは便宜上「?」で代用しますが、「私」の「わー」の「わ」は「wa」で「豚」の「わー」の「わ」は「?wa」です。
これをむりやりひらがなを使って表記しようとすると、「ぅわ」というのが一番近いのかもしれません。しかしやっぱり近いだけで「ぅわ」ではないということが問題なのです。ウチナーグチに触れたことのない大和の人たちには、この「わ」の前の「ぅ」は聞き取れません。というより、「ぅ」ではないのです。日本語の感覚で「ぅわ」を読んでしまうと、それはやっぱり「うわ」であって、これは声門破裂音ではありません。

母音と「わ行」と「や行」と、それらの関係については、そのうちきちんと体系的にまとめてご説明したいと思います。
また、ウチナーグチの表記についても、いろいろな考え方があるようで、もう少しきちんと調べて、その勉強結果をご報告したいと思っています。少々お待ちくださいませ。

その他、「口蓋化」や「高舌化」など、なんだかちょっとおもしろくなってきました。ウチナーグチを考えることで、日本語を再発見することにもなりそうです。
(文責:高山正樹)

おなかすいた…
そうだ、喜多見のお寿司屋さんにいた菊地さんとこ行こう!
「おや、久しぶりだねえ」
菊地さん
今は歌舞伎町で板さんやってます。
花粉症で鼻声(ハナムニー)の男が江戸前の寿司を食う…
ご馳走さんでした。

さあ、帰ろう(けえろう、これも高舌化?)…
夜の新宿


前明星大学経済学部教授、現法政大学沖縄文化研究所研究員、船津好明さんと新宿でお会いしました。
船津さん
メインの肩書きは沖縄語教育研究所長。元創造の女優さん、桑江テル子さんのお知り合いです。劇団創造の又吉さんにご紹介していただいたのです。東京近郊にいらっしゃってウチナーグチの話せる方を紹介してくださることになりました。

ウチナーグチをしゃべりたいというたくさんの若者たちを集める、なかなか大変ですが、一歩一歩こうして進んでいくしかありません。焦らず地道に。ああ、でも儀間さんのために、早く形にしたいなあ。

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高山正樹 Masaki Takayama
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