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《10月7日(金)-1》

鈴木雄介から、こんなツイートを見つけたぞというメールが来た。
「原発関連でおバカ発言を連発している経営学者の池田信夫は『熊楠KUMAGUSU』撮影当時 NHKの社員で担当者だった うざかったんで打ち合わせで殴った事がある 改めて当時の俺を褒めてあげたい」
呟きの主は、映画監督の山本政志氏。6月30日、下北沢でお見かけした智内さんのお知り合いである。
 ⇒なんでもない下北沢の夜
M.A.P.after5でも、いつの間にか“池田信夫”のことを何度か取り上げてしまった。ウンコを踏んづけてしまったようなものである。
おっと失礼、M.A.P.after5のポリシーに反する発言であった。しかし、3.11以来、少しばかりハッキリとモノを主張しないと、きっと後で後悔すると思い始めたのである。だから、ツイッターでの突発的な無遠慮な呟きも、M.A.P.after5に転記することにしたのだ。
大震災から211日目の午前2時である。

【この日呟いたこと……】

※ミュージシャン鈴木慶一氏が入院した哲っちゃんについてツイートしていた……
「心配です。私の生涯初レコーディングは“されど私の人生”でした」
そこで僕はメンションとやらを送ってみた。
2:13
先日のライブで、哲っちゃん、皆さん体に気をつけてって言ってました。僕は「ちょっと太ったんじゃない、ダメだよ」って言われた。札幌まで見舞いに行こうかなあ、と。 @keiichi_suzuki


※いったい何時に眠ったのだろう。いったいいつ起きたのだろう。いつのまにか出掛けなければいけない時間が近づいてくる。フォローしている沖縄関連の呟き……
「基本的に沖縄の方言は「ア、イ、ウ」の3母音で構成されています」
まただ、と思いつつまた「メンション」してみた。
2:13
「沖縄の言葉は音素が少ない」と勘違いされがちですね。でも実際には少ないが「エ」も「オ」もあるし「エー」「オー」はたくさん。「声門破裂音」や「ディ」や「ファ」、音韻は日本語よりずっと豊かです。@okinawa2go



ツイッターなどというものに関わっていると、ほとんど眠っているような状態なのに、世界のいたる場所、全ての人間と繋がっていると勘違いすることがあるらしい。極めて危険である。早く、ここから離れよう……


宇夫方女史が沖縄にいる頃、小生高山正樹は午前中人形町の主治医へ。2ヶ月前に貰った薬が切れた。正月のドサクサで、禁を破ってちょいと味の濃いものを食べたりしているうちに、健康ゲームも少し飽きてきた。そんなことを思いながら、事務所に戻って仕事をする。

このブログを読んでくださる方は、小生は酒ばかり飲んでいてちっとも仕事をしていないと思われているかもしれないが、そんなことはない。昨日だって税理士さんが来て、昨年、M.A.P.で働いてくれた60人くらいの源泉徴収表を作成し、山猫合奏団の合わせの開始時間ギリギリに間に合わせたのだ。僕の健康を害しているものがあるとすれば、酒よりも仕事だ、なんてね、嘘ばっかり。
酒をやめないのなら身体を動かすしかない。今夜は市民劇の稽古である。喜多見から鹿島田の稽古場まで自転車で行く。20km弱といったところかな。自転車に乗りすぎると、精子が減少するって知ってた?まあ、もうどうでもいいけれど。

稽古場に着く頃は、もう真っ暗である。多摩川の向こう岸の東京が、なんだか異様だ。
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厳密にいえば日本語には二重母音は存在しない。たまたま母音が続けて出てくるに過ぎない。例えば英語の[day]などは「二重母音」だが、それは言語学的には1音節である。日本語で母音がふたつ繋がる場合は、あくまで2音節なので連母音という。
連母音とは、「愛(あい:ai)」とか「上(うえ:ue)」とか、母音が2回続けて出てくる場合に限っていうのではない。「貝(かい:kai)」とか「杖(つえ:tue)」とか、言葉の途中に母音がくれば、必ずそこには連母音([ai][ue])が存在する。
ところで、「音節」と「モーラ」は違うらしい。

なんでまた唐突にこんな話を始めたのか。

M.A.P.after5は、複数の連載読み物の集合体である。市民劇の成り行きだけが御所望ならば、「川崎市」のカテゴリの中の「枡形城・落日の舞い」というサブカテゴリをピックアップして読んでいただければ事足りる。だがそうはいかないのがM.A.P.after5。こっちの連載とあっちの連載が、時に化学反応を起こし始める。
「連母音」についても、今回の市民劇の稽古のハナシをしたくて持ち出してきたことなのだが、間違ったことを書かないようにと調べていたら、沖縄語と関係するとても興味深いことがたくさん見えてきたのだ。それを語るために、唐突ではあるが、言語学的な導入が必要だった。

英語などの発音記号では、長母音は[a:]とか[i:]というふうに表記する。一方沖縄語の長母音は、例えば沖縄語辞典では[aa][ii]と表記している。しかしカナで書く時は、「ゴオヤア」とは書かず「ゴーヤー」とするのが一般的である。
 ⇒関連記事「うちなぁ」か「うちなー」か(比嘉光龍さんからの回答)
それはいったい何故なのか。音節とモーラの微妙な違いと、なにか関連があるのではないか。

また、日本語の連母音と沖縄語の長母音の関係には法則性がある。いくつか例を挙げれば、日本語の連母音[ai]は沖縄語では[e:(ee)]となり、[au]は[o:(oo)]、[oo]は[u:(uu)]となる等など。
 ⇒関連記事「うちなーぐち講座《2》の2」
今まで僕は、この関係を口蓋化や高舌化との関連で考えようとしていた。「言語の省エネ化」として、一般化できないだろうかと思ったのである。

ところが、どうもそう単純ではないらしい。話しは沖縄にとどまらないのだ。
日本の話し言葉には、古い時代から二重母音(連母音)が極めて少なかったという。二重母音が出てくると、母音融合を起こして一文字の母音(長母音の場合もある)に変換してしまう。しかし、書き言葉は依然二重母音を保持して、母音融合を起こしたがる話し言葉と対立していたというのである。やがて、書かれた文字の通りに話すことが「正しい」とされるのだが、母音融合は無くならず、江戸弁をはじめとするアウトローの方言に、たくさん受け継がれて現存している。

僕は、母音融合の有る無しを、地域差だと考えていた。だが、どうやらそうではないらしい。これを書き言葉(権威)と話し言葉(スラング)の対立として捉えたらどうなるか。すると、沖縄語(ウチナーグチ)も、新たな相貌を帯びてきて興味が尽きない。

ウチナーグチのカテゴリの下に「母音融合」というサブカテゴリを作ってみた。そして、それらのすべての記事に若干手を入れた。市民劇の話題だけが御所望の方にも、お読みいただければとてもうれしいのだが、役者には無用だろうか。

もちろん、専門的な言語学の知識を全く持たないこの僕には、母音融合の背景について、云々する能力も資格もないのだが、理が勝ちすぎている不幸な役者なので、日本の語り物のことばの形を、今一度じっくり探ってみたいと思ってしまうのだ。そんなことをしているから、自分の芝居は一向に弾けないのではあるが。

日本の語り物は二重母音(連母音)を大切に発音するという僕の思い込みが、果たして正しかったのかどうか。そういえば狂言には、特有の母音融合があるではないか。

例えば[au]は[o:]となる。
「謡う」は「うたう」ではなく、[utoo]と発音されるのがその例だ。
また、形容詞の「~しい」は「~し」となる。これは[ii]という二重母音(連母音)を嫌った結果である。
「ややこしや、ややこしや」


ほんとにややこしくなった。ここらで、話しを市民劇の稽古に戻そう。しかし少し記事が長くなりすぎた。ひとつワンブレイクを入れることにする。


昨年暮れの第1回に続き……
金城さんの沖縄料理を食べる会Part 2

今回はPushPullのスペースを借りて開催しました。
ご参加くださいました皆様、ありがとうございました。金城さんのお料理、堪能して頂けましたでしょうか。

いつものごとく、記事は、後日追記しますが…

取り急ぎ料理を撮影した画像を一枚…
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…と、いいますか、あんまりよろしい画像がないのです。
ピンボケばっかりで…
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皆様のお手元に画像等ございましたら、お送りくださいますようお願いいたします。

コメントも、記事が出来上がるのを待たずに、記憶のまだ定かなうちにお寄せくださいませ。皆様のコメントが、また新しき仲間を呼ぶことでしょう!

…っつっても、なかなかコメントしてくれない方が多くてねえ、まあ、そこがまたいいんですけどね。控えめというわけではなく(そんなやついねえってか?)、ブログにコメントなんかしんきくさいよって感じ、個人的にはとっても好き。でも、対外的にはちょっと淋しい……?

4月5日、トミヒサさんから届いた画像。その中から珠玉の一枚を先行公開。
豚の着ぐるみ。
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追記…4月21日
間もなく3週間になろうとするのに、今更追記とはなんとも間の抜けたハナシですが、M.A.P.after5ではいつものこと。どうかお許しください。
何で小生高山正樹、こんなピンクの豚の着ぐるみを着ているかというと、皆様にあらかじめお知らせしていた通り、本日のサブタイトルは『花見の宴』、着衣のどこかにピンク色をというお願いを、自ら責任もって実践したのであります。
わー(私)はわー(豚:声門破裂音)です、ってなもんだ。
そして、豚の後ろで不思議なものを眺めるかのように見上げている天使のような少年は、この日急遽私達のために三線を弾いてくださった金城さんの三線の先生、松尾慎吾さんのお子さん、みそら君であります。
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慎吾さんはみそら君が生まれるとき、分娩室で三線弾いて「童神」を歌った。すると、みそら君は泣き止んだ。なんて感動的な情景でしょう。松尾慎吾さんのご紹介はあらためて追記します。(って、いつだ?)

追記…5月21日
前回の追記からもう一か月、こいつはいけません。いい加減誰も読んじゃあくれない記事になっちまった。でも、始末はつけないとね。
ともかく主役を紹介していないのがまずい。Yusukeさん、画像をお借りしますね。
タミーこと金城さんです。
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人指し指がなんともいいですなあ。
グツグツ……
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テカテカ……
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うまそ……

手伝う人、片野さん。
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食べる人、日高さん。

産地直送のそばも用意されてます。
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まだお預けの感じ?
でも、みそら君と日高さんは食べてますな。
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美味い料理があればあとは旨い酒。
まずは予定通り基本の泡盛“やまかわ”から。
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W山川。
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一応“花の宴”なので、“さくらいちばん” これも予定通り。
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それから黒糖酒2本。
沖永良部の“昇龍”と奄美の“菊乃露”
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そして、今比較的入手しやすい泡盛で、最も曲者はこの“白百合”
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泥くせー。しかし、なれると病みつきになる。

宴もたけなわ。いよいよ松尾慎吾さんの登場です。
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松尾さんはライブ活動の他、色々なところで三線を教えていらっしゃいます。近いところでは仙川のカルチャーセンター。宇夫方路が琉球舞踊を教えていたカルチャーセンターです。松尾慎吾さんが教えているのは民謡が中心らしい。一方、M.A.P.主催の三線教室は安富祖流の古典。仲良くしましょ。
※松尾さんの沖縄には2種類の[i]と[u]があるのだというはなし。M.A.P.音韻講座的話題で興味深い。高山正樹の研究課題になりそう。
インターネットであっちこっち松尾さんの記事を探していたら、この日の松尾さんのBlog発見。
 ⇒http://matsuoshingo.blog…
コメントしちゃおっと。

山猫合奏団、チェリストの大島君も参加してくれました。
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川岸さんもいます。國吉先生もいらっしゃいました。水才君も来てくれた。
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もちろんトミヒサさんも。
やっぱり最後はカチャーシー。
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鍋も踊ってる?
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最後はぐちゃぐちゃ。(左の方で、食ってるやついるし……)
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松尾慎吾さま、本日はほんとうにありがとうございました。

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最近事務所が忙しくて、なかなか仕事が7時までには終りません。また嬉しいことに、だんだんと“話す会”のメンバーも増えてきました。加えて車椅子の方からお問い合わせをいただいたこともあり、“喜多見で沖縄語を話す会”の会場を、階段を上がらなければならないM.A.P.事務所から、近くの公共施設に移すことにしました。
喜多見地区会館の第2会議室。
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小田急線喜多見駅から徒歩2分くらいのところです。

先々週の第5回では、日本語の「~は」を、ウチナーグチではどういうのかということを教えてもらいました。それと一緒に、代名詞も勉強したのですが、それをちょっと専門的に説明してみましょう。

      近称 中称 遠称
日本語  これ  それ  あれ
沖縄語  くり  うり  あり

ところで、沖縄語には、[e]が[i]に、[o]が[u]にという、いわゆる「三母音化」(※高舌化・高母音化)の歴史があるということは、今まで何度かお話してきました。
 ⇒「三母音」というサブカテゴリーを作りました。
(※高舌化と口蓋化の関係を研究中です。)
さて、その法則からいえば、「これ」が「くり」に、「あれ」が「あり」にという近称と遠称については、なるほどと納得がいくのですが、中称が三母音化のパターンに当てはまらないのは何故なのでしょう。日本語の中称は「それ」、そこから類推すれば「すり」となりそうなものです。
『沖縄大百科事典』の「琉球方言の代名詞」の項に、こんな一文があります。
「琉球の形は古語の〈おれ〉に対応する形にさかのぼる」
ということは、日本語の古語では、「それ」のことを「おれ」といっていたということなのでしょうか。「おれ」が三母音化すれば確かに「うり」になりますよね。また調べたらご報告します。

しかし、“喜多見で沖縄語を話す会”では、こんなややこしい専門的な勉強をしているわけではありません。今日のはなしは高山正樹の趣味ですね。だいたい、メンバーがこのブログを読んでいるってハナシは聞いたことありませんし。

で、今日は「これ(くり)」「それ(うり)」「あれ(あり)」関連のお勉強をしました。
「この」と「その」と「あの」です。ウチナーグチで言うと「くぬ」「うぬ」「あぬ」です。

あぬっ人(ちょー)、いっぺー肝(ちむ)清(ちゅ)らさいびーん
あの人は、とっても心やさしいです。

美(ちゅ)ら海水族館なんてありますが、「ちゅら」に「美しい」という字を当てると、ちょっと違うのだ。「ちゅら」は「清い」というイメージに近い言葉なのだ。

こういうこだわりって、頑固な年寄りの小言なのでしょうか。そんなハナシをしながら、今日もあっという間に過ぎた2時間半でした。

今日は前回よりもちょっと増えた面子でafter勉強会。場所は“酒菜”。
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夏っちゃんのグー!
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いわゆる「沖縄の3母音」について、今まで時々書いてきました。何度も言いますが、沖縄語には[a]と[i]と[u]の3母音しかないというのは間違いです。それについては特に下記の記事をお読みください。
 ⇒http://lince.jp/hito/au-oo-uu…

今日は、「沖縄の3母音」というステレオタイプっぽい通説の問題点についてお話したいと思います。

確かにウチナーグチには、[e]と[o]の短母音は極めて少ないということは事実です。また沖縄の言葉が、3母音化という歴史を経てきたことも間違いなさそうです。
ただ、いつごろどのように3母音化が起こったのかは、以前にも書きましたが、正確には分かりません。こうした言語の3母音化という現象は、世界的、歴史的にみて珍しいことではないのですが、日本国の場合、一方に3母音化することのなかった「標準語」というものが存在しているために、それとの比較で、ウチナーグチは日本語の[e]と[o]が、それぞれ[i]と[u]に「訛(なま)った」のだというような印象を生んでいるようです。常に「標準語」を基準にして考えるという発想が、「沖縄は3母音」で、極端な場合は[e]と[i]が欠落したというような思い込みを許している側面もあるのではないのかと思うのです。

長母音を考慮すれば、沖縄語には[e]も[o]も普通にあります。これは、いったん3母音化した後に、その空いた[e]と[o]の席に、別のところから別の音が変化して入ってきたということのようです。
(短母音の[e]と[o]も、その数は極めて少ないが存在します。)

さらに沖縄語の母音は、実は「3母音」どころではなく、声門破裂音などの半母音まで考えれば、日本語より遥かに複雑なのです。日本語を使っている我々が、そうした音を聞き分けることは不可能です。なぜならば聞き分ける必要がないから。(その理由については以前の記事「沖縄語の音韻講座プロローグ」をお読みください。)だから我々は、日本語と比較して、沖縄語に不足しているものしか見ないし、見えないのです。日本語の岸から、対岸の沖縄語を眺めている限り、日本語の方に不足しているものの方は、なかなか見えてきません。ところが対岸に渡って沖縄語を身近に触れたとき、はじめてウチナーグチの音韻の豊富さを知ることができ、むしろ「日本語」が「不足」しているのだということを知るのです。
(具体的な事例については、ウチナーグチ音韻講座などで、おいおいお伝えしていきたいと思っています。)

「沖縄語は3母音」なのではなく、「3母音化」を経験した言語であるということは確かで、そしてそれが、ウチナーグチの「色あい」に大きく影響していることも事実です。しかし、それがあたかも沖縄語が日本語に較べて音の種類が少ないというような印象を生む原因になっているとしたら、それは間違いです。実は逆で、何度も言いますが、音韻に関しては、沖縄語のほうが、はるかに「標準語」よりも豊かなのです。
どうか過去の記事も、併せてお読みくだされば幸いです。
(余談ですが、世界の言語を見渡すと、日本語は極めて音韻の少ない言語だということが分かります。しかし、音韻が多いのと少ないのと、どちらが優れた言語かということは、一概に言えるものではありません。そのことはいずれまた。)

例えばです。「言葉(ことば)」という単語は、沖縄では「くとぅば」と言いますが、これはいつからそうなのでしょうか。古来沖縄に「ことば」という単語があって、それが3母音化して「くとぅば」という発音に変わっていったのでしょうか。あるいは、既に短母音が3母音的であるという沖縄の音韻体系が確立された後に、「ことば」という単語が外来語として入ってきて、それが沖縄の音韻体系にはめ込められたことによって「くとぅば」と変化したのでしょうか。
しかし、それはどうでもいいことだといえるのかもしれません。「くとぅば」という言葉が、その出自を辿れないほどにも昔から、沖縄で「くとぅば」と発音されて使われていたのならば、それはもう沖縄語なのです。「ことば」が「くとぅば」に変わったというをことさらに主張するとするならば、その基底には、日本語が沖縄語の上位言語であるという認識が隠されているのかもしれません。
「ことば」と「くとぅば」は、同等な言語の、それぞれ別の単語であっていいのです。

そこで、僕は船津好明さんに、次のような質問をしてみました。
「元来沖縄にはなかった言葉をウチナーグチを喋る中で使おうとするとき、たとえば『パソコン』は『パスクン』と言うべきなのでしょうか」
それに対する船津さんのお答えは、結論から言うと、「パソコン」は「パソコン」のママでいいのではないかということでした。仮に[e]は[i]に、[o]は[u]に言い替えて発音するということを許してしまうと、例えば「猫」ですが、沖縄では「マヤー」という別の言葉があるのに、それを使わずに「ねこ」を「にく」といって済ましてしまうというような現象が起こり始めて、残すべきウチナーグチが失われていきかねない、それは避けなければという理由をあげていらっしゃいました。

この日は、船津さんと國吉さんと、帰りの電車でも、話は尽きることがなかったのでした。
ちょっと長くなったので、重要な告知は後日にしましょうね。

それから【補足】ですが……
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まずは…
過去の記事を加筆更新しました。
沖縄語を話す会夏の宴(7/4)

一昨日、昨日、そして今日、三段落ちの猫。
なんと無防備な。
籠の外で寝る猫(一郎)
籠から出しても、どうやら君たちは、野良にはなれそうもない。

横目で猫を見て、こいつら幸せなのか不幸なのか、そんなことを考えながら書斎に入る。

ウチナーグチの音韻について、そのうちきちんと体系的にまとめてご説明しますなどと、春ごろ、このブログに書いた。
http://lince.jp/hito/okinawamap…
しかしながら、言語学をきちんと勉強しなければ、なかなか無責任な説明などできないことが分かってきた。

『沖縄語辞典』の「母音音素」の説明の中に、こういう記述がある。
「発音のしかたは大体標準語のそれに近いが、uは円唇母音であり、oは標準語のそれと同じ、ないし、わずかに広めである。」

なんとも厄介である。
円唇母音とは唇を丸くする、要するにちょっと口をとんがらす感じだろうか。ならば「標準語」はとんがらさないのかといえばそうでもない。例えば江戸っ子の無声音、寿司の[su]の[u]は、ほとんど平べったい口のママ出す[u](非円唇母音)だが、関西人が「すし」と言えば、ちょっと粘った有声音の「su]となって、この場合は明らかに円唇母音である。
明石家さんまが「すし食った」と言ったならの記事

沖縄語を話す会の勉強会で、ネイティブな沖縄の方が、ヤマトンチュの喋るウチナーグチは何だか違うとおっしゃっていたが、たぶん、こうしたわずかな違いが、その方の違和感の正体なのだろう。そう思うと、ちょいと絶望的になる。

沖縄語を覚えるのに、なにも言語学など必要ではない。わかっちゃいるが、小生、こういうアプローチをしなければ気がすまない。他にもそういう性質(たち)の人たちが、少数だとしてもきっといるに違いないと、そういう御同輩に満足いただけるような説明をするために、もう少し頑張って勉強してみようと思っている。

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まず、M.A.P.after5うちなーぐち講座《1》の記事をお読み頂きたい。
http://lince.jp/hito/okinawamap/benkyoukai…

ヤコブソンの「一般言語学」の中に、こんな記述を見つけた。
「私が子供のとき見た変化を例にとると、標準ロシア語の母音のパターンに一つの顕著な変化が起こった.無強勢の、特に強勢のある音節の直前の位置で、/e/と/i/の二つの音素は、モスクワで私の祖父母の世代には区別されていた.私どもや、もっと若い世代のことばでは、この二つの音素は、一つの/i/になってしまっている.中間の世代、すなわち私どもの父母の世代では、この区別は任意的である.(中略)たとえばわれわれは、保守的に話すときは昔風のことばを使う.モスクワのロシア語で、私どもの父母の世代は、親しい間のおしゃべりでは、強勢のない/e/と/i/を区別しなかった.二つの音素を融合させてしまうという、新しいやり方をするのは、実際の年齢よりも若く見られるためである.」

ウチナーグチを考えようとする者にとって、実に興味深い記述ではないか。ヤコブソンは、ただ単にエピソードを語っているわけではない。彼はここから、文化の構造の全貌を、言語という地平で解き明かそうとするのである。

例えば、今ここでご紹介する余裕も能力もないが、ヤコブソンの「失語症」に関する考察は、ウチナーグチと大和の言葉の間に起きたダイナミズムを考える上で、極めて示唆に富むように思われる。そこに、個別の歴史という特殊性を重ね合わせた時、失ってはならぬもの、回復しなければならぬもの、変わっていっていいものを峻別する可能性が開けるのではないかとさえ思うのである。

ああ、この書斎に篭っていると、これが会社のブログであることを、すっかり忘れてしまう。頭を冷やして、少しばかり限定的な話をしよう。

やはりヤコブソンの「一般言語学」から。
「発生的には相対的な広さと狭さで対立し、聴覚的にはエネルギーの高度集中と低度集中(集約/拡散)で対立する口蓋母音は、若干の言語ではある位置では[ae](発音記号のaとeのくっついたやつのつもり。)―[e]で、他の位置では[e]―[i]で具現され、したがって、同じ音[e]が、ある位置では拡散の項を具現し、ある位置では同じ対立の他方、すなわち集約の項を具現することになる.双方いずれの位置においても、関係は依然として同一である.二つの開口度、これに対応して二つのエネルギーの集中度(最大度と最少度)が、双方いずれの位置においても対立している.」

ちょいとウチナーグチからズレるかなと思いながら、僕は、書斎の中で、まるでお経のような声を出してみる。
「あ」から「い」に向かってだんだん音を変えていく。しかし、なかなかうまくいかない。なぜなら、「い」に比べて「あ」は、舌の位置が奥の方にあるからだ。そのことを理解して、口の形を変えながら、舌をだんだん前に移していくことを意識するとうまくいく。しかし、その間に「え」の音は聞こえてこない。
今度は、「あ」を発音したまま、まず舌を前の方に移してみる。すると[ae](発音記号のaとeのくっついたやつのつもり)の音になるではないか。そして、この日本語にはない[ae]から「い」に向かってだんだん音を変えようとしてみると、意外に簡単に出来る。舌はそのまま、唇を、ただ横に拡げていけばいいだけである。そして、[ae]の音は、きちんと途中「え」を通過しながら「い」の音にたどり着く。つまり、「え」と「い」は、舌の位置が同じ位置(前)にあるからだ。「あ」から「い」に移動した時は、ショートカットしてしまったために、唇の横の広がりが「え」と同じ時、舌の位置は、まだ「え」よりも奥にあったというわけである。

口を横に拡げる、それはイコール舌の位置が下から上に上がっていくことと同じ(厳密にいえば違うのだが)。要するに、「え」と「い」は近しい関係。「え」の時の舌を、上に上げると「い」になるのだ。「お」と「う」も同じ関係にある。「お」の舌の位置を上げれば「う」になる。これを「上舌化(高舌化)」、」という。ウチナーグチは、かつてこの「上舌化(高舌化)」が起こったというのが定説である。「雨(あめ)」が「あみ」に、「雲(くも)」が「くむ」に。
これを、ヤコブソンが示したロシアの事例([e]→[i])を比較すると、とても興味深い。

それにしても、ローマン・ヤーコブソンの「一般言語学」という本は、20年以上も前に、文化人類学や構造主義の本を読み漁っていた頃に買ったもの、まさか今になってまたこの本を開くことになろうとは。しかし、あまりにも難解に過ぎる。近いうちに、もう少し簡単な言語学の本を、見つけてこようと思っている。でないと、生きているうちにウチナーグチをマスターすることなど絶対にできない。

しかし、こういう性格なのです。許してください。

さて、今日の本題に入る前に、もう少し寄り道をさせてください。

初めて沖縄語を話す会にお邪魔した時(4/4)に、沖縄の3母音についてお話ししました。
まずそちらを、是非お読みください。
http://lince.jp/hito/okinawamap/benkyoukai…

その復習と補足です。

《復習》
大和の母音の[e]が、ウチナーグチでは[i]に、[o]は[u]となる。
それでよく沖縄語は3母音という言われ方をするが、実はそれは間違いである。
短母音の[e]も[o]も、数は極めて少ないが、存在する。
長母音の[e:]と[o:]は、いくらでもある。
大和の[ai]が[e:]、[au]が[o:]となる。
《補足》極めて少ない[e]も[o]について。
それらの多くは感動詞(ane=あれ)か、擬声語(horohoro=衣ズレの音)である。
それらの言葉の殆どに、[e]や[o]を使わない言い方(変わり語形)がある。(三百=[sanbeku]には、[sanbyaku]という言い方もある。)
上記以外の言葉は、唯一、haberu=蝶のみである。
(コメントの【補足】も、必ず併せてお読みください。7/11追記)

さて、ここからです。(いつもM.A.P.after5の“うちなーぐち講座”はややこしいので、頑張ってついて来てくださいね。)
M.A.P.after5では上記のように説明はしたものの、実は、一つの疑問があったのです。
上に述べた[ai]→[e:]、[au]→[o:]という「ルール」の他に、大和の二重母音や長母音と沖縄の長母音との関係には、もっと多くのルールがあります。例えば、[ou]及び[oo]は[u:]となる。(通りtoori→tu:ri※注)
しかし「扇」はうちなーぐちでは「おーじ」です。なぜ「うーじ」とならないのだろうか……
※注:「トゥーリ」は[tu:]か[tuu]か、これについてもお話ししたいことがありますが、これは別の機会に…

そして、色々と調べ始めたのです。でも、ウチナーグチに関するものをいくら探しても、満足のいく答えは見つかりませんでした。ところが、日本語の歴史に、この疑問を解く糸口があったのです。

日本の鎌倉時代から室町時代にかけて(1200年頃)「オ列の長母音」は、口の開き方の広い狭いによって区別がありました。口を広く開けた方を「開音」、狭い方を「合音」といいます。
「開音」は[au]が長音化したもの[ɔ:]、「合音」は[ou]が長音化したも[o:]です。
つまり「扇」がウチナーグチで「o:ji」となったということは、「扇」の「おー」が、もともと「開音」であったからではないのか。つまり、平仮名で「扇」を表記すれば、「扇」は「あうぎ」だったということなのです。
(但し、元禄時代、紀元1700年頃には、大和ではこの発音の区別は無くなっていたようです。けれども、文字としては「あうぎ」という風に書き分けていたのでしょう。)

これで、なぜ「扇」がウチナーグチで「うーじ」ではなく「おーじ」となるのか、そのことの説明がつきました。満足。

比嘉光龍さんにお会いした時、この話をしたら、「それ自分で考えたの」と、光龍さんの大きな目が、さらに大きくなりました。

このことに関連して、高山正樹は「社長とは呼ばないで」に、またわけのわからないことを書きました。
http://lince.jp/mugon…

【補足】
例えば「王子」も沖縄語では「おーじ」となります。これも「扇」と同じ事情なのですが、但し、この場合の「お」は声門破裂音ではない「お」なので、新沖縄文字を提唱する船津さんの表記法に従って「をーじ」としました。しかし、「を」と書くと、どうしても[wo]という発音を想起します。確かに現代日本では「を」は[o]と発音されるということになっているので、声門破裂音ではない「お」の文字として「を」使用するのは一見問題なさそうにも思えますが、大和の古典芸能の世界では、いまだ「を」を[wo]と発音しています。この伝統的な発音は、芸能の世界では今後も受け継がれていくでしょう。
従って、「新沖縄文字」においても、無用な混乱を避けるために、声門破裂音ではない「お」については、新規に文字を考案することを、私は提案したいと思っています。
本記事において、そのあたりの事情を解説せずに、「王子」を「開音」の例として使っていたため、とても分かりにくい説明に「なっていました。そこで、「王子」に関する部分を削除し、この補足を付記することにしました。
(2011年2月5日高山正樹)

しかしです。ここで新たな疑問が沸き起こってきたのです。

1:元来古く(日本の鎌倉時代以前の)沖縄で、その頃は大和でもそうだったように、[au]または[ɔ:]と発音されていたものが、大和とは全く違った音韻変化の道を辿って[o:]に変わっていったのか。
2:あるいは、元禄時代以前に大和からやってきた言葉の[au]または[ɔ:]が、既に確立されていた沖縄の音韻体系の中に組み込まれて、[o:]と言い換えられたのか。
3:はたまた、元禄時代以後、すでに大和では発音の区別が無くなっていたのに、大和から文字としてやってきたものに「あう」と「おう」の区別があったため、沖縄ではそれを音でも区別したということなのか。

ああ、興味は尽きません。
このことは、沖縄の歴史的仮名遣いをどう考えるのかという問題と、深く関わっているのではないか、そうとも思われてきました。

ともかくです。何百年も頑なに保持してきた仮名遣い(蝶々=てふてふetc.)を、日本は明治になってあっさりと放棄してしまったわけですが、その大和では失われてしまった区別が、その成り立ちや変遷がどうであれ、ウチナーグチに[o:]と[u:]という音の違いとして、はっきりとした形で残っているということは間違いなさそうで、とても興味深いことです。

もちろん、全てをひとつの公式に当てはめてしまうことは大変危険ですが、そのことをわきまえていれば、公式を探り出そうとすることは、極めて深く、楽しいことです。
そして、ウチナーグチを通して日本語を考える、これは日本を相対化するという、日本が国際社会で真に自立するために必要でありながら、しかし日本人が極めて苦手とする思考回路を鍛えるために、とても有効なことでもあると思ったのです。

【追伸】
そうしたら、沖縄語辞典に、こんなことがあっさりと書かれていたことを、後になって知りました。
「標準語の『開音』に対応するooは首里方言でooに、また『合音』に対応する標準語のooは首里方言でuuに、それぞれ対応するのが普通である」
うーん、『沖縄語辞典』は、たいしたもんだ。

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昨夜は鳥の研究。本日はガラっと変わってウチナーグチの研究です。

ウチナーグチの母音について、[e]が[i]に、[o]は[u]に変わるので、だから[a]、[i]、[u]の三つしかないのだというような言われ方を、よく耳にすることがあります。これって、ちょっと昔、かの伊波普猷先生が、何かの書物で書いてしまって、それが定説っぽく伝わったので、そう思い込んでいる人たちが多いということらしいのです。

ちなみに、[e]が[i]に、[o]が[u]に変わることを高舌化(高母音化)といいます。[a]と[i]と[u]は、極めて区別しやすい安定した母音なので、この三つしか母音を持たない言語は、アラビア語やブライ語など、世界中にいくらでもあります。

しかし実際は、沖縄語の母音は三つだけではありません。確かに、短母音での[e]と[o]は極めて少ないのですが、皆無ではありません。例えば「蝶」のことをハベル(haberu)というように、[e]や[o]の短母音も存在するのです。
また、連母音[ai]は長母音[e:]に、同様に[au]が[o:]に変わるというのも、ウチナーグチの特徴で、つまり[e]と[o]も、長母音でならいくらでも存在するということですね。

この[ai]→[e:]、[au]→[o:]という変化は言語学的には普遍的な現象で、この変化によって3母音体系から5母音体系に移行した言語も多いのです。サンスクリット語などもそれです。逆に5母音から3母音へ単純化された言語もあり、ウチナーグチもそのひとつだということになっていますが、ということは、ウチナーグチはその後、再び[e]と[o]を、[e:][o:]という形で組み込んだということなのでしょうか。

もともと日本語の母音は8音だったとか6音だったとか、いろいろな説があるのですが、ともかくそれよりもずっと前の紀元300年くらいに沖縄と大和のことばは分化されたというのが、今のところ一番有力な説ではあるらしいのです。しかし、もともと大和の言葉の基本母音は3音であって、だからウチナーグチは、こうした音韻に関しても古い大和言葉を残しているのかもしれないというような試論もないわけではありません。だとすると、大きく変化したのは大和の言葉のほうだということになりますね。でも、この説はちょっと無理があるかな。

それはそれとして、ウチナーグチに見られる変化と同様の現象は、大和の言葉にもあります。
ちゃきちゃきの江戸弁では、大根を「でーこん」、大概にしろは「テーゲーにしやがれ」といいます。どうです、これ、ウチナーグチで起こった変化と全く同じです。といってもこの音の変化は、やっぱり世界中にある現象なので、特にウチナーグチと大和の言葉を、ことさら関連付ける類の話ではありません。

ほかにも東北弁と比較するのもとてもおもしろいのですが、今日のところはこの辺で。

さて、今、僕に興味があるのは、こうした変化が何故起こるのかということなのです。もちろん政治や経済の「力」が大きく影響してきたということも否定できません。時にその「力」が、理不尽な「暴力」であったこともあるわけで、それは決して許されることではありません。しかし、長い歴史における言葉の変化を知れば知るほど、行きつ戻りつ、大きなうねりを伴いながらも、人智の及ばない根源的な何ものかへ向かって変わっていこうとする「言葉の不思議」も見えてくるのです。そうしたとき、言葉の平板化も、鼻濁音の衰退も、「ら抜きことば」も、言葉の乱れとは全く別の顔を見せ始めるのです。

[e]が[i]に、[o]が[u]に変わる高舌化は、口や舌の動きが小さくなるので、一種の省エネですね。そのようして労力を減らしておきながら、空いた[e]と[o]の席に、まったく別の出自をもつ連母音を長母音化して座らせたウチナーグチ。これ、勉強を始めたばかりの僕には、なんとも不思議なことなのです。
1から24までの正方形の駒を、1個の隙間を利用して順番に並び替えていく、あの懐かしいパズルを思い浮かべます。
今のコンピューターには、ハードディスクの中のデータを整理してくれる「デフラグ」という機能があります。あれ、結構時間が掛かりますよね。なんだか言葉も、それに似た作業を、気の遠くなるような年月をかけて行っているのではないのか、そう思えてきたのです。

生きたウチナーグチを残す、そうしたいと思って「おきなわおーでぃおぶっく」の新しい企画を始めたわけですが、しかしほんとうの意味での生きたウチナーグチとはどういうものなのだろう、甘受すべき変化も、見極めなければならないのではないか、なんだか迷宮の入口に立っているような、そんな不安に僕は包まれています……

というようなことを考えながら、「沖縄語を話す会」の勉強会へお伺いしたのでした。
上級者と初心者に別れての勉強。僕は初心者のテーブルに席を頂き、見学させていただきました。
本日のテーマは「無(ね)ーらん」の二つの使い方について。
「飲んでない」をこの表現を使っていうと「ぬでーねーらん」といいます。
「飲んでしまった」は「ぬでぃねーらん」といいます。
これって、よく使われる表現なのですが、難しくないですか。飲んだのか飲まないのか、真逆の意味です。病院で薬を飲んだか飲まないか、間違えて看護士さんに伝えたら大変なことになってしまいます。

グループごとの勉強会を適当なところで切り上げて、後半はみんないっしょになって昔物語(んかしむぬがたい)を読みます。
今日の題材は「大里ぬ鬼(うふじゃとぅぬうに)」です。
このはなし、オバアから聞いたことがあるよとか、うちのほうではこういうんだとか、実に楽しく豊かなひと時です。

あっという間の2時間半、とても楽しい時間を過ごさせていただきました。もっとたくさんのことをご紹介したいのですが、間違ったことをお伝えしてはいけないので、僕自身もう少し勉強してから、お話ししたいと思っています。

【復習】
この勉強会で習っているのは、基本的には首里の言葉ということで、帰ってからちょっと調べてみたのですが、沖縄本島の中部、今帰仁(なきじん)地方では、なんと「飲んでない」も「飲んでしまった」も、どちらも
「ぬでぃねん」
というのだそうです。では、どのように区別するのでしょうか…
それは「飲んでない」の方を
「ぬでぃ ねん↑」
と微妙な間を入れて上昇調で言うことによって区別するのだそうです。
うーん、ウチナーグチのCD、やはりハードルはかなり高そうですねえ。

訳あって、もう「さき、ぬまん」


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高山正樹 Masaki Takayama
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