«Prev || 1 | 2 | 3 || Next»
兎にも角にも、開いていることを電話で確認をして、まず仲嶺舞踊小道具店へ伺いました。ジーファーを作っているというまだ見ぬ職人さんを紹介していただくために。

今日は、お店で娘さんが帳簿を付けていらっしゃいました。奥さまも店に出ていらっしゃいました。

ジーファー作りの職人さんを紹介していただく前に、どうしても気になっていたこと、前回購入したアルミのジーファーとカミサシは、本当に叩いて作っているのかを、再度聞いてみました。

 奥さん:流し込みでしょ
 ご主人の仲嶺眞永さん:いや、叩いているさ
 僕:どんな方が作っているのですか
 眞永さん:中国とかベトナムとかで作らせている
 僕:え……


なるほど、中国やベトナムなら、叩き出しでも3,000円で出来るのかもしれない。でも、これで又吉健次郎さんとは違う系列の金細工師への糸が、ひとつプッツリ途切れました。

 眞永さん:でも品質が悪くて、10本に2,3本は不良品ですね

中に空気が入っていると、そこから折れてしまうのだそうです。

 僕:だからちゃんと叩いて空気を抜かなければいけないということなんですね

合金で作られたメッキのジーファーについても聞いてみた。

 眞永さん:ありますよ、銀の本メッキで本物とまったく変わらない。上等ですよ。
 僕:でも、メッキだから、曲がっても叩いて直すことはできないということですね
 眞永さん:そうですね、メッキが剥れてしまうからね
 僕:それが欲しいんですが、お幾らですか
 眞永さん:いくらだったかな
 娘さん:6,000円です


そして探してくださったのですが、在庫はもうありませんでした。

 僕:これを作っている方は?
 眞永さん:もう、いない


つまり、この方が那覇の又吉さんだったのです。その那覇(開南)の又吉さんがいなくなって、「クガニゼーク」は健次郎さんだけになってしまった。
奥さんのお話では、那覇(開南)の又吉さんの仕事場を訪れたことがあって、その際、ジーファーの材料となる棒を、機械で回転させながら作っていたという。それは、僕の知っている健次郎さんの仕事っぷリとは全く違うものです。つまり、叩いて作るといっても、健次郎さんのように小さな四角い塊から叩き出していくとは限らないということがわかりました。
津波三味線店で、4,500円で売っていた合金メッキのジーファーは、この仲嶺舞踊小道具店で扱っていた那覇の又吉さんのものとも異なって、ベトナムあたりで作らせたものではないかと思われたのです。
(この件については、いずれ津波三味線店に伺って聞いてみようと思っています。)

 僕:ということは、もう手に入らないということですか?
 眞永さん:いや、入りますよ


よくよく聞いてみると、注文すると持ってきてくれる人がいるのだというのです。但し、その入手先はよく分からない。持っている人を探して買ってくるのか、どこかで作らせているのか。奥さまによると、それは教えてくださらないらしい。いずれにしても、入手が困難になっているのは確かで、眞永さんはジーファーを作る技術を持っている方になんとか頼めないかと模索されているらしい。

 眞永さん:ちょっと待ってくださいね

そして見せてくださったのがこれです。
null
(※ご紹介が遅れましたが奥様のみどりさんです。なんと去年の12月にエコルマホールで宇夫方路が一緒に踊った佐藤美智子さんの親戚です。)
長くて軽いアルミの棒。
null
そうか、こういう棒から叩き出すのか。ここから先の作業専用金槌でも作れば、比較的簡単に仕上げることができるかもしれない。
でも、それは、健次郎さんが自ら名乗り、そして僕が探していた「カンゼーク」の姿ではありませんでした。もしこれが現代のカンゼークなら、健次郎さんはやっぱり「クガニゼーク」と名乗るべきだと思ったのでした。

ともかく、残された道は、紹介していただけるというまだ見ぬ金細工師にお会いすること。自前の地図を見せて、その場所を教えていただきました。

 眞永さん:有名だから、このあたりで聞けばみんな知っていると思いますよ

お礼を言い、再訪のお約束をして、僕たちはお店を後にしたのです。

» 続きを読む

11月22日日曜日: “金細工またよし”再訪

一昨日おじゃましたばかりなのに
昨日のジーファーを持って
今日また来てしまいました。

一昨日とは一本違う路地から入ろうとしたら、そこにこんな看板が。
「くがにぜーく」とルビを振られた「金細工またよし」の看板「また来てしまいました」
「誰も来なくなったらおしまいさ」
「今日はどうしても見てもらいたいものがあって」
そう言って、義理の妹が使っていたジーファーを手渡しました。
「ほー」
そう言って、又吉健次郎さんは、いきなりそのジーファーを叩き始めたのです。
null null null
見る見るうちに、曲がっていたジーファーがまっすぐになっていきました。知る人ぞ知る又吉健次郎が、記録として残すジーファー以外はもうは作らない、まして踊りのジーファーは一切作らないと宣言している名工が、昨日までカミサンの実家の箪笥の奥あたりに埋もれていた踊り用のジーファーを、たった今、僕の目の前で修理してくださっている、なんだか信じられない感じです。
「親父からこのカンカン叩く音を聞けとよく言われたが、その意味が分からなくてねえ、近頃やっと少し分かってきた」
null
「これ銀ですか? 叩いて作った銀のジーファーは折れないと聞いていたから、こんなに曲がるのは違うと思ったのですが」
「銀だから曲がる」
そうか、曲がるから折れないんだ。そうでなければポッキリ折れてしまう。
「なかなか質のいい銀を使っているんじゃないかなあ。銀貨ではなさそうだ」
「は?」
聞けば、昔はいい銀が手に入らなくて、アメリカの25セント銀貨を溶かして使ったらしいのです。
「国の象徴の硬貨を潰すのもどうかと思うが」
今から60年前、健次郎さんが20歳の頃、戦後間もなくです。でも、その頃の銀貨は、それでも比較的質が良かったのですが、その後、銀に銅を挟んだりして使えなくなったとのことでした。
(当時、健次郎さんの父上、6代目盛睦さんは、米兵向けの指輪を作られていたようです。ちなみに、盛睦さんが濱田庄司や棟方志功と出会うのはそれから10数年後、1960年代のことです。)
しかし、このジーファーは、それほど古いものではないと思います。義理の妹が踊りを始めてから購入したものだから、復帰直後くらいに作られたものなのではないでしょうか。
「この頃は丁寧な仕事をしていたんだなあ。これはなかなかいいものですよ。大切にしなければいけない」

叩けば表面が荒れてツヤがなくなります。だから後は、磨かなければなりません。その作業は、磨くための道具を、専用の砥石で研ぐところから始まります。
「ずいぶん使っていなかった」
null null
ジーファーの尖った方を木の台に突き立てて固定し、道具の取っ手側を足の指で挟み、そこを支点にして、車のワイパーのように道具を動かして磨くのです。
「今度来る時までに、ちゃんと磨いておこうね」
「ほんとうですか! ありがとうございます」

それから、この刻印はなんなのでしょうか。
null
「ああ、これはね、細いところに刻印してあるから、両側が切れてしまって分かりにくいのだが……」
健次郎さんは一本のポンチを出して、それを銀片に打ちつけて見せてくださいました。
null
「これと同じ、わかる? 王府の紋だ」
なるほど、左三巴紋です。沖縄では「左御紋(フィジャイグムン)」と呼ばれました。
null
(※後でよく見てわかったことなのですが、又吉さんのポンチは渦巻きが反対、これは右三巴紋です。これはいったい……。また謎が一つ増えました。)

やはり健次郎さんは、踊りのジーファーの大きさが気になるようでした。
null null
7代目のクガニゼーク、又吉健次郎が作るジーファーは、この小さな銀の塊から叩き出していくのですが、その重さは13匁、叩き磨いていく間に1匁ほど減って、完成品は12匁くらいになる。
(※1匁=3.45g)

「このジーファーは16匁あるなあ」
null
踊りのジーファーは作らないという又吉健次郎さんが、箪笥に埋もれていた曲がった16匁のジーファーに手を入れて磨いてくださる。なんて幸せなジーファーでしょう。沖縄には、今も家のどこかに眠っているジーファーがたくさんあるのではないか、そんな気がしてきました。

ひとりの若者が、工房にやってきました。
null
「お、8代目かい?」
「いえ、違います。ちょっと興味があって、叩かせてもらいに来ました」
すると健次郎さんがおっしゃいました。
「彼女に何か作ってあげたいのだろう。最初はそんなもんだよ」

僕は彼に席を譲って、ジーファーを預けて、工房を後にしました。

» 続きを読む

カミサンの実家へ。
まずはトートーメーにウートートゥー。
null

義母の実家が本部(もとぶ)。だから伊豆味の伊佐さんに頂いたミカンを、お土産に持ってきました。シークァーサーと、それから、えーと、なんだっけかな。
null
みんなも「わからん」。

カーブチー。
null
沖縄では普通に食べる。種は多いけど、みんなやっぱりこれがおいしいって。

ここへ帰ってくると、いつも思うのです。もうひとつの沖縄がココにはある。どこにも無いココだけの沖縄。これはどうにも説明しにくい感覚です。
お義母さんがいつも作ってくれるイカの墨汁。
null
前回の墨汁(おんなじ器だ……)
20数年前、はじめて食べさせてもらった時は驚きました。まだイカ墨のスパゲッティなど見たこともない頃です。
それから数年後、今からちょうど20年前、荒尾美代さんという女性が、イカの墨汁のルーツを探ったという新聞記事を読みました。イタリア旅行中に食べたイカ墨のスパゲッティがおいしかったこと、ある本で知った沖縄の墨汁のこと、それから彼女は、日本中の海沿いの町に片っ端から電話をかけて、イカ墨の料理を探したといいます。すると北陸に一ヶ所、「くろづくり」の塩辛はあったけれど、ポピュラーな料理としては沖縄の墨汁以外にはなかった。いったい沖縄の墨汁のルーツはどこなのか。まず中国を調べたが中国では全く食べない。そこから一年かけて、世界の料理をチェック、するとキリスト教信仰の土地が浮かび上がってきた。ならば長崎にもあるはずだ、そうして見つけたのが生月島の“くろみあえ”。つまり、沖縄のイカの墨汁は、フィリピンあたりから、キリスト教の宣教師と共に沖縄にやってきたのではないか……。
さて、この仮説は正しかったのかどうか、その後の研究はどうなったのでしょう。

今やイカ墨料理はちっとも珍しくないけれど、20数年前の沖縄は、僕にとって今よりずっと異国でした。そしてその異国性は、手懐けられ利用されている現代のそれとは全く違うものでした。でも、沖縄が変わったのではありません。それをいつも教えてくれるのが、この家なのです。

結婚した頃の僕の土産ばなしは、東京のことばかりでした。でも最近は、僕が沖縄で会った人たちの話をすることが多くなりました。今は、その方がずっと話が盛り上がります。
今日は、又吉健次郎さんの話題です。
すると、義理の妹が踊りを習っている時に使っていたジーファーと房指輪が、確かどこかにしまってあるはずと、家捜しが始まりました。そうして見つかったのがこれです。まずは房指輪。null
これは型抜きしたようで、左程のものではないと感じたのですが……

気になったのはジーファーです。null
誰かが踏んずけたのか、曲がっているのですが、ずっしりと重い。
姪っ子は、興味なさそうに漫画を読み耽っています。
null
なかなかいい形をしているように思います。
null

刻印がふたつ。なんだろう。
null
下の方の刻印は、文字が書いてあるようですが、最近老眼が進んで、全く読めません。
姪っ子に頼むと、あっさり「シルバー」。
null
なんだって!
「すいません。このジーファー、ちょっとお借りできませんか? 明日、健次郎さんのところへ、これ持って、もう一度行って来ます。」
もしかするとこの家には、たくさんのお宝が隠されているのかもしれない。
夏からずっと楽しみにしていた「さかさま執心鐘入」、いよいよ明日ですね。
特に何か用事があったわけではないのですが、ちょいとご挨拶に伺いました。
お馴染みの大城立裕先生宅です。
null最近、親子みたいです。用が無くたって教えて頂きたいことがたくさんあります。
まずは「クガニゼーク」と「カンゼーク」のこと。「クガニゼーク」のことは、はっきりしてきました。それは「クガニゼーク」が首里王朝に関わっていて、少なからず資料が残っているからです。でも今の僕が知りたいのは「カンゼーク」のことです。残念ながら大城立裕先生でも、はっきりしたことはお分かりにはなりませんでした。
立裕先生は書斎からこんな本を持って来られました。
「琉球舞踊歌劇地謡全集」です。(画像はM.A.P.所蔵本)
null
この本には、こんな写真も掲載されています。
null
昨夜も一緒だった関りえ子さん。
「黒島口説(くるしまくどき)」というコメント付き。

この地謡全集の40ページに、懸案の雑踊り「金細工(かんぜーく)」の歌詞が載っているのです。
null
(※雑踊り「金細工(かんぜーくー)」については、過去記事に説明がありますので、どうぞそちらをお読みください。⇒http://lince.jp/hito/okinawa/kogane…
雑踊り「金細工」は明治18年に創作されたものです。
(※沖縄の廃藩置県、いわゆる「琉球処分」が明治12年ですから、首里城が明け渡されて6年後の作。「琉球処分」について⇒http://lince.jp/hito/arumise…
その地謡には、「金細工」と「鍛冶屋」(「かんじやえ」とルビが振られている)と、両方の言葉が出てきます。このことは、立裕先生も認識してはいらっしゃらなかったようです。
「伊波の金細工の加那阿兄」と「上泊鍛冶屋」。
沖縄県の運営する情報サイト「Wonder沖縄」では、それぞれ「美里村伊波の鍛冶屋の加那兄」と「上泊の鍛冶屋」と訳しています。人を指す場合と、仕事場を指す場合と、そんな区別がされているような感じです。

加那兄は、親譲りの「鞴(ふうち)」と「金具(かなぐ)」を売って辻遊廓の遊女の揚げ代を工面しようとします。「鞴」は「ふいご(吹子)」で、溶けて真っ赤になった鉄に風を送り続けて、その温度を1400℃以上に保つために必要な道具です。また「金具」のほうは、前出の「Wonder沖縄」では、「かなとこ」と訳されています。「かなとこ」を漢字で書くと「金床」で、すなわち鍛冶や金属加工を行う際に用いる作業台のことです。

果たして、遊女の真牛(モーシー)は、遊郭でジーファーを挿し、房指輪をつけて踊っていたのかどうか、加那兄は真牛に結び指輪を作ってやったことがあるのかどうか。

ところで、そもそも琉球舞踊ってなんなんだろう。琉球舞踊の現状についてはちょっと書いたことがあるし、岡本太郎の能書きも知ってはいます。でも基本的な成り立ちと変遷については、よく知らなかったなあと反省。そこで、まずはそれを調べてみよう。ということで、「カンゼーク」については、本日ココまでということに。(※琉球舞踊についての勉強成果は本記事の後ろに追加してあります。)

今日は、もうひとつ大城立裕先生に聞きたいことがありました。
船津好明さんが考案した新沖縄文字のこと。船津さんは大城立裕氏について、いつもこうおっしゃっていました。
「大城さんはウチナーグチはなくなってもいいという考えで、僕のやっていることには批判的だと思う」
しかし僕は決してそんなことは無いと思うのです。大城立裕という文学者は、その文学活動の当初から、沖縄の言葉に対して深い思いを持っていたのだと思う。ただ時代が、大城立裕の内面の襞を見なかったのです。船津さんも、大城立裕の一面だけを見て判断していらっしゃるのではないだろうか。たとえ大城さんが、ウチナーグチはなくなっていいと船津さんに言われたのだとしても、本意はそう単純なことではなかったはずだと、大城立裕の仕事を知れば知るほど、僕はそう思うのです。

でも、新沖縄文字についてはどうだろう。立裕先生は「おもろ」などの古典的表記にも造詣が深い。そういう方にとって、船津さんの新しい文字はどういうふうに受け止められるのだろうか。
そこで僕は、思い切って、この旅の始めに西岡敏先生に語ったのと同じことを、ウチナーグチを殆ど分からない者が学ぶのに、新沖縄文字が如何に有効なアイテムであるかということを、大城先生に説明してみたのです。
沖縄国際大学の西岡ゼミの研究室に伺った時の記事
すると、大城立裕先生は即座にこう答えられました。
「なるほど、そういうふうには考えたことはなかったなあ」
この反応には驚きました。こんな若造の言うことを、とてもニュートラルに受け入れてくださった。その柔軟さに、大城立裕という文学者の、物事を極めて多面的に捉えるあり方の根本を見たような気がしたのでした。
「大城立裕」は、その一面だけしか見ない多くの論者たちから、ずっと誤解されているのかもしれません。

大城立裕先生。今日はありがとうございました。
また明日、浦添の劇場でお会いしたいと思います。

《追伸》
2001年8月に出版された『琉球楽劇集真珠道』の「口上」で、大城立裕氏は次のように書いています。
(画像再掲:関連記事⇒http://lince.jp/hito/sinsaku…
null
「書く動機になったのは、琉球語(うちなーぐち)のネイティヴ・スピーカー(日本とのバイリンガル)として、組踊りの書けるおよそ最後の世代ではないか、という自覚によるもので、ほとんど責任感に発しています。」
「古典を読みなおしてみたら、あらためて自分の語彙の貧しさを嘆いています。」
また「凡例」では
「歴史的仮名遣いは『沖縄語辞典』『沖縄古語大辞典』『琉歌古語辞典』に多くを負ったが、拗音、音便などについては、現代仮名遣いに拠ったり、さらにたとえば『召しおわれ』を『召しょうれ』とするなど、若年読者のための配慮である。」とあり、さらにローマ字表記についての説明では、沖縄的音韻にも、正確を期す配慮がなされていることがわかります。(※表記についての興味深いあとがきについては、少し長いので、後日あらためて。)

» 続きを読む

11月20日金曜日: 那覇のジーファー

“金細工またよし”の工房へ伺いました。
M.A.P.に注文が入って、それで制作をお願いしていた結び指輪を受け取るのが目的だったのですが、工房に上がると、いきなり又吉健次郎さんは、「あんたには感謝しているよ」とおっしゃられた。なんのことかと思えば、房指輪の意味のこと、「クガニゼーク」のこと。
「前からこれでいいのかなあと思っていたんだけれどね、あんたに言われて、あれがきっかけでちゃんとすることにしたんだ。」
健次郎さんがそう決められたという話は、前から宇夫方路に聞いていたことです。でも考えてみれば、そのはなしの後、僕が健次郎さんと直接お会いするのは今日がはじめてのこと、つまり健次郎さんは、僕ごとき者にも、きちんと礼を尽くしてくださったのだということに、後になって思い当たりました。なんとも頭が下がるばかりです。
関連記事を読む
null
工房の看板、パンフレット、ホームページ、それから県の資料、それら全て直すことにされたそうです。
「大変ですねえ」
「一年ぐらいかかるかな」
「パンフレットだっていっぱい残ってるのに。僕の所為ですかね」
「いや、これはやらんといけないことだから」
健次郎さんご自身も熟考された結論なのだと安堵しました。

しかし、又吉健次郎さんが背負おうとしている伝統が「クガニゼーク」であるとしても、又吉さんの工房の看板は何故か最近まで「かんぜーく」だった。どうして「クガニゼーク」が「カンゼーク」と名乗ることになったのか、それについてあらためて伺ってみたのですが、残念ながら、やはり明確なことはわかりませんでした。

何年か前まで、踊りの小道具を作る、やはり「かんぜーく」を看板に掲げる工房があったそうです(※注)。銀のジーファーを1本2万円にも満たない値段で売っていた。材料の銀だけだって相当高くなっているのに。健次郎さんは、何故そんなに安く売るのかとその方に聞いたことがあったそうです。すると「仕事がなくなるのがこわくて値上げできない」という答えが返ってきた。
(※注:健次郎さんが首里の又吉と呼ばれていたのに対し、この方は那覇の又吉と呼ばれていた方であると思われます。)
気持ちも分からないではないと、健次郎さんは、ご自分の若い頃の話をしてくださいました。人がたくさん通るところに店を開いてはみたが、全く売れなかったはなし。

今だって、一週間どこからも連絡のないことがある。そんな時はとっても不安になる。

その踊りの小道具を作っていた「カンゼーク」の方はお亡くなりになった。踊りの人たちはとっても困ったはずなのですが、誰一人として健次郎さんに相談しに来る方はいなかったそうです。

いつから飾り職人は踊りの先生に頭が上がらなくなってしまったのか。対等だったはずなのに。

昔、ある時、お店に一人のおじいさんが来てこういった、なんで「クガニゼーク」というか知っているか、それは高い金細工を注文する時は、手付金として小金を置いていくからだ。クガニゼークが一番偉いんだ、なぜなら、頭の上に挿すジーファーを作っているから。だから一番上なんだ。

お父様である6代目の技術は神業だったというはなし。小物を作るための小さな道具しかないのに、それでおおきなものも作った。どうするとそんなことができるのか、今となっては知る由もない。ある時、父はそうして作ったヤカンを抱えて出ていった。戻ってきたとき、ヤカンは食料に換わっていた……。

健次郎さんは僕たちに1本のジーファーを見せてくださいました。千葉県に住んでいる方が大切に所蔵していたジーファー。それは時代を感じさせ、小ぶりの、実に美しい姿をしている逸品でした。
null
「ジーファーは女性の姿をしているのだが、これは那覇のジーファーでね、首里のジーファーに較べて顔が小さくて、首の角度が少し深い。完璧な形だ」
はっきりと見えない刻印。
null
「たぶん父の作ったものだと思うんだが」

那覇のジーファー、そして踊りの小道具…… もしかすると、それが「かんぜーく」と何か関係があるのでは? いや、決して先走ってはいけません。それはゆっくり調べればいい。

健次郎さんは、ジーファーの良し悪しを確かめる秘密の方法を教えてくださいました。このジーファーは見事に……
いえ、このお話はココまでです。
「この方法で僕の作ったジーファーを調べられたら困るからなあ」

又吉健次郎さんは、今の踊りのジーファーは大きすぎるとおっしゃいます。バランスも悪い。踊りの美意識はそれでいいのだろうかと思ってしまう。
「僕はあくまでも民具を作っているんだ。踊りのためだけの道具は作らない」
だからジーファーばかりではなく、房指輪も、踊り用の注文にはお応えにならないでしょう。
実は今日、宇夫方路は、来年やる予定にしている教師免許取得のお披露目公演のために、ジーファーを作って頂けないだろうか、無理を承知で頼んでみるつもりだったのです。でも、健次郎さんは踊り用でなくても、もうジーファーは、「クガニゼーク」の伝統のために、資料館のようなところ以外には作ることをしないと決められた。体力的にもそれが精一杯。それを知っては、もうお願いすることなどできるものではありません。きっぱりと諦めました。
でも、踊り続けるためには、ジーファーはどうしても必要なのです。さてどうしようか、宇夫方は、これからゆっくり考えることでしょう。

「あんたほど、一生懸命聞きに来て、一生懸命調べてくれた人はいなかったよ。」
又吉健次郎さんは、そう僕におっしゃってくださいました。
「何かわかったら教える。新しい資料もみんな送る。僕の言ったこと、何でもインターネットに書いてもいいよ」

ありがとうございます。健次郎さん。また来ます。


おまけです。
12月に又吉健次郎さんとcoccoの対談があるとのこと。「対談の相手は是非又吉さんに」、coccoのご指名なのだそうです。対談が終わったら報告してあげるから、ブログのネタにしなさいと、健次郎さんは言ってくださいました。楽しみだなあ。

ちょっと前の、又吉健次郎さんとcoccoさんの記事です。よろしければお読みください。
http://lince.jp/hito/husayubiwa…

» 続きを読む

Banちゃんに連れられて、Banちゃんの知っている店へと向かいます。

ななしん屋の前を通って。
null
「ママ、今日はごめんね、また今度きまーす」
ママはいつだって笑顔です。

国際通りを渡り、浮島通りを歩いて行ったところ。
null
お店の名前? さて。目だった看板も無かったような。Banちゃんに聞いてもよくわからない。

ビールを飲みながら、又吉健次郎さんの話しをちょっとしていました。首里王府に抱えられていたクガニゼークたちは、王朝という後ろ盾が無くなってどうしたのだろう。それからカンゼークのこと、カンジャーヤーのこと。
「銀のジーファーを挿して踊られていた王府御用達の琉球舞踊も、廃藩置県の後どうやって発展してきたのか」
すると、それまでお店のマスターを相手に、カウンターで一人飲んでいた男性が、こう言ったのです。
「飾り職も踊りも、辻に引き継がれたんですよ。遊女が踊って客に見せたんです。ジーファーも、辻の遊女が挿した。すいません、口を挟んで。僕は遊女が好きで、そのへんに興味があって。」

そういえば、健次郎さんの工房に貼ってあった説明書きを思い出しました。それは結び指輪についてのもので、前にも一度M.A.P.after5でご紹介しましたが、その一部をここでもう一度……
null
芹沢銈介の説によりますと、この指輪はその昔、辻町の遊女が身につけていたということです。首里王朝が衰退し、明治になってからは急激な世替わりが進み、そして戦争により遊女は姿を消しました。

確かにカウンターの男性のおっしゃるとおり、「金細工」の仕事は辻の遊女と深い関わりがあったらしい。
では、首里王朝が衰退する前はどうだったのだろうか。結び指輪は、王府が無くなって初めて辻の遊女も嵌めることができるようになったのだろうか。

実は沖縄の遊郭の歴史も古く、1672年、摂政の羽地朝秀が私娼を集めて仲島(今の泉崎)に作ったのが始まりとされます。1908(明治41)年に、その仲島と渡地(わたんじ:那覇埠頭の一角)の遊郭が辻に合併され、辻は沖縄唯一の遊郭となりました。
『沖縄大百科事典』によると、王府時代の辻は、冊封のために来島した中国人の出入りする場所であり、また薩摩から派遣される在番奉行の宿舎に出入りできる女性は辻のジュリー(娼妓)だけであったとあります。つまり、王朝時代も、王府のお抱え職人が遊女のために装飾品を提供したということも十分考えられそうです。
さらに廃藩置県(琉球処分)後も、辻は衰退することはなく、昭和10年代まで沖縄の社交の中心であり、政財界の要人から農村の男まで、あらゆる階層の者が出入りする場所でした。ということは、飾り職人の技術が首里から那覇の辻へ引き継がれたのではなく、王府管轄でなくなっただけで、辻においてそのまま生き続けていたということなのかもしれません。
僕が知りたいのは、又吉さんの受け継ごうとしている「クガニゼーク」は、こうした「首里~那覇」の地理的歴史的状況と、どのように係わり合っているものなのかという事です。
そしてまた「カンゼーク」と呼ばれるものも、この関係の中に存在していたのだろうか。「クガニゼーク」が「カンゼーク」に名前を変えたのか、あくまでも別物だったのか、いずれにしてもこれは、沖縄の「伝統」を何もかも根こそぎズタズタにしてしまった、あの戦争よりもずっと前の話なのです。

僕たちは「沖縄の伝統」という時、実はふたつの大きな悲劇があったのだということを忘れてはなりません。それは、まずは戦争のこと。そして「廃藩置県」のこと。

少し歴史の話をさせてください。
日本の学校では、「廃藩置県」は1871(明治4)年に行われたと教わります。しかしそれは「大和」だけのこと、この時点では、琉球は薩摩に支配されてはいたけれど、間違いなく独立国でした。明治政府は、日本で「廃藩置県」が行われた翌年、強引に琉球国をまず「琉球藩」とするのです。その後、色々な経緯を経て、1979(明治12)年3月27日、日本は琉球藩に廃藩置県の布達をします。そしてついに首里城は明け渡され、琉球国は滅びる。この一連の措置が、いわゆる「琉球処分」と呼ばれているものなのです。

この史実を、人民の解放と捉える人たちもいます。僕はここで、その議論をするつもりはありませんし、どんな立場もとりません。でも少なくとも、大和の「廃藩置県」と沖縄の「廃藩置県」を、同じものとして論ずることは間違っていると思います。また、「琉球処分」を考えることによって、日本の廃藩置県とはいったいなんだったのかを問い直すきっかけにもなると思うのです。

話が大きくなりすぎました。元に戻しましょう。はたして又吉健次郎さんは、自らの仕事を、あらためて「クガニゼーク」とすることによって、どの時代まで回帰されようとしているのでしょうか。
(※僕は、1880年、明治13年に新制度の学校教育が沖縄に導入された前の時点の、その頃の言葉を一度復活させることが重要なのではないかと、密かに思っているのです。何故なら、それ以後の言葉の変遷は、沖縄自身が主体的に選び取った結果ではなかったのだから。)

首里王府の時代から琉球処分を経て戦争までと、その戦争の後から現代までと、きちんと切り分けて、「クガニゼーク」と「カンゼーク」とは、いったいなんであったのか、もう少し探ってみたいと、僕は思っています。
カウンターの男性と、色々とコアな話をしていたら、店の外で入りずらそうにしている若者3人。
彼らはカウンターの男性、仲石亨さんのやっている、“MAXⅠ”と“MAXⅡ”と“CASA MAX”というお店の若い子たちでした。
どういうお店かというと、おじさんには説明しにくいんですが、要するに着るものだとかアクセサリーだとかを売っているお店。工房も持っていらして、そこでオリジナルなものも作っているのです。若くして(っていくつだか知らないけれど)たいしたものです。
そんなわけで、仲石さんは又吉さんの銀細工にもご興味があったらしいのです。
好青年3人が加わって、話は益々ヒートアップ(って俺だけか)。沖縄の工芸のこと、言葉のこと、偏屈な首里のオジイのこと。
「この店のマスターの金城さんも首里ですよ」
こいつは失礼。

とっても盛り上がって、その勢いで記念撮影。
null
左のでっかい人が仲石亨さんです。後ろでバンザイしてるのがお店のマスター金城正尚さんです。関りえ子さんも一緒。
撮影してくれたのはBanちゃんです。

それから、みんなで名刺交換しました。お店のマスターの金城さんの名刺も頂きました。肩書きは映像ディレクター。裏には、「どっちの料理ショー」とか「タモリ倶楽部」とか「ボキャブラ天国」とか、「主な担当番組」が印刷されてあります。でも店の名前がわからない。でも、場所覚えたから、ま、いっか。

明日、久しぶりに健次郎さんの工房に伺います。

《追伸》
MAX CASAの暖簾です。
null
中華料理屋かと思ったら、よく見るとたしかに「MAX」ってなってるね。
MAXのSHOP MAP
それから、帰ってインターネットで検索したら、金城正尚さんのお店の名前が分かりました。
“立ち呑みBar Kahu-si(カフーシ)”だって。
http://www.kahu-si.com(“カフーシ”のHP)
でね、そのインフォメーションのページのNEWSによると
「2009.06.30 OKINAWAN BAR 100に掲載されました」
とあるではないですか。
こいつは大変失礼いたしました。
そして、さらに、この「OKINAWAN BAR 100」の文字をクリックすると、わが楽天市場沖縄mapに飛ぶではありませんか。
もう、びっくり!

» 続きを読む

ことの発端はmixiとやらなのです。まず、下記記事をお読みください。
http://lince.jp/hito/okinawamap/tv2…
この後、コメントが付いた。どうして「くがにぜーく」が正しいなどと簡単に言えるのかというような主旨。

確かに、健次郎さんから頂いた名刺も、工房の看板も、「金細工」には「かんぜーく」のルビが振ってあった。健次郎さんの愛犬“カン吉”は、「かんぜーく」の「カン」と又吉の「吉」をとって健次郎さんが名づけたというくらいですから、「かんぜーく」が間違いだなんて、他人が簡単にとやかく言うことではない、それはその通りでしょう。
しかし、少しでも調べて素直に考えれば、やっぱり健次郎さんがやられている今現在の仕事は、「くがにぜーく」としかいいようのないものです。健次郎さん御自身も、そう認識されたということなのだと思います。健次郎さんはやはり「くがにぜーく」である、現時点で僕の知っている資料からは、そう結論するしかありません。

しかし、一方で「かんぜーく」と名乗った人たち、そう呼ばれた人たちの存在を否定するものでもありません。むしろそういう人たちがいたのならば、とっても知りたくなってきたのです。
さて、どうやって調べたらいいのだろう。
インターネットあたりで又吉健次郎さんを「かんぜーく」と呼ぶ人たちにそれを聞いても、わかるはずもありません。

そこで……

2002年に、南風原文化センターで「匠の技にふれる 黄金細工と鍛冶屋展」という企画展が開かれました。その「黄金細工」と「鍛冶屋」には、それぞれ「くがにぜーく」と「かんじゃーやー」とルビが振られてありました。しかし、僕の知る限り、「くがにぜーく」は「金細工」という表記でいいはずです。それを「黄金細工」としたことについて是非知りたいと思いました。
そしてこういうことに詳しい方がいれば、「かんぜーく」についてもはっきり説明してもらえるかもしれません。なぜ、又吉健次郎は「かんぜーく」ではなく「くがにぜーく」なのか。

話しをちょっと戻します。沖縄の言葉において、漢字とルビの関係は、とても難しいものがあります。元々ある言葉に漢字を当てたのか、最初に漢字があってその読み方を仮名で表記しているのか、それを見極めないと、関連する歴史そのものを間違えてしまうこともあるのです。

南風原の企画展において、なぜ「くがにぜーく」という言葉に「黄金細工」という文字を当てたのか、元々「黄金細工」という文字が何かの資料にあるのだろうか。

昨日の11月13日、東京から直接南風原役場に電話をして伺いました。
null
対応してくださった平良さんという文化担当の女性の方は、「くがにぜーく」に「黄金細工」という文字を当てた理由について、次のように答えくださいました。

1:「かんぜーく」とはっきり区別するため。
2:2002年当時、くがにぜーくに携わっていらっしゃる方は、もう又吉健次郎さんのお一人しかいらっしゃらなくなっていた。その貴重であるということを表現するために、色々みんなで相談して「黄金」という字をあてたと記憶している。
3:また南風原町には有名な黄金森(くがにむい)があり、住んでいる方々は「こがね=くがに」といえば、自然に「黄金」という字を想い起こすという事情があった。

要するに、「くがにぜーく」に「黄金細工」という文字を当てたのだが、それには、何か歴史的学問的な事例に基づいた理由があったというわけではなさそうです。

さて、聞きたいのはここから先です。又吉さんのような飾り職人を、「かんぜーく」と呼んでいた歴史的な事実はないか、例えば健次郎さんの先代のころはどうだったのかろうか、僕はしつこく聞きました。平良さんは、それにも大変丁寧に答えてくださいました。
「多分、飾り職人のご本人は、ご自分のことを『くがにぜーく』とおっしゃることはないと思うのです。また周りの人たちは、飾り職人の方々を『かんぜーく』とは呼ばないでしょう。尊敬を込めて『くがにぜーく』と呼んでいたのだと思います。」

健次郎さんに電話をしました。
健次郎さんは、お父様が「くがにぜーく」とも「かんぜーく」とも口にされたことを聞いたことがないそうです。ただ王府に「くがにぜーく奉行」というものがあって、首里にはその職人町があった。その流れであることには間違いはないとおっしゃいました。
最近、県の金工部門の人にも「くがにぜーく」にしなさいと強く言われたそうです。
今、県内に「くがにぜーく」と書かれた史跡はひとつも残っていない。このままだと、50年たったら「くがにぜーく」という言葉は無くなってしまう。「くがにぜーく」を受け継ぐ者として、それでいいのか、なんとかしなければいけないという思いが強くなったのだと健次郎さん。

又吉健次郎さんは、受け継ぐ者が自分ひとりになった時、皮肉にもそれがひとりだけのものではないということに気が付いたということなのでしょう。なんとかしなければいけない、その決意には、謙虚な気持ちで自分のことを「クガニゼーク」とは呼ばずに「カンゼーク」と名乗る、などというような、ナイーブな個人的な心情の入り込む余地は、最早ないのではないかと、僕には感じられたのです。

平良さんは、金細工を研究している詳しい方がいらっしゃるので、聞いてくださるとのこと、来週から沖縄へ行くので、是非ともお伺いしようと心に決めたのでした。
(文責:高山正樹)
[subcate.クガニゼークーのこと]

» 続きを読む

楽屋にて

美しい……
null null
又吉健次郎さんのジーファー(簪)が、この立ち姿を表わしているということを、真喜ちゃんの作った番組で知りました。
http://lince.jp/hito/tintao…

記念の集合写真です。
null

そして…
null null
今日は宮城文子さんのお誕生日だったのです。ケーキとお花のサプライズ。
宮城文子さんの記事
文子さんは宮城巳知子さんのご長男のお嫁さんです。結婚してからずっとこちらで暮らしていました。ご自身も仕事を持っています。でも、沖縄で暮らす巳知子さんもだいぶお歳を召されました。そこで、12月に東京を引きあげて、お義母さんと同居することになったのです。文子さんは一言も文句を言わず、「当然のこと」として受け入れたらしい。東京あたりで生まれた親戚関係の希薄な私たちには、沖縄の家族の繋がりの強さを感じさせられた「事件」でした。
そんなこともあってか、文子さんの目には光るものが……

じゃあ、先、行ってるよん……
null

新宿“かりゆし”へ
お行儀のいい感じ……
null null null
カウンターもひっそりと。
女性はしーちゃんです。関りえ子琉球舞踊研究所にいた方で宇夫方路の先輩です。
このもの静かなお二人が、やがて……

» 続きを読む

米須さん當間さんと再会を約束して別れた後、井上真喜ちゃんとお食事です。真喜ちゃんお薦めの店へ。食いしん坊の真喜ちゃんはおいしい店をたくさん知っているので、真喜ちゃんと一緒にご飯を食べるのがいつも楽しみです。
今日は牧志にある「青島(ちんたお)食堂」に来ました。

null

ちなみに100店シリーズの「昼ごはん夜ごはん」でも紹介されています。
http://www.ownmap.jp/100series/lunch_and_dinner…

このお店の一押しの水餃子と、真喜ちゃん一押しのトマトと玉子の炒め物と、お腹を空かせた私が食べたかったひき肉かけご飯(魯肉飯)と、坦々麺と似ている麺(坦ズン麺)を注文しました。(空腹の私に歯止めは利かないのです。)

ここは真喜ちゃんがまだ沖縄に旅行者として来ていたころによく訪れたお店、でも沖縄に住むようになってからは、真喜ちゃんも今日が始めて。なぜ遠ざかっていたかというと、看板が新しくなって「カフェ」という文字が書き加えられていて、それがソコハカとなく怪しさを醸し出して、それで何となく入れなくなったのだとか。

null

たしかにソフトドリンクのメニューが増えてはいる。
「でも他は昔のマンマだ。よかった。おいしい。」
皆さんも是非行ってみてください。
ちなみに100店シリーズの「カフェ」には紹介されてません。

今日はお酒抜き。なぜならカフェだから、というのは冗談、真喜ちゃん昨日までとっても忙しくてお疲れだったから。
なぜ忙しかったのかというと、又吉健次郎さんのドキュメンタリーTV番組のディレクターをしていたから。

又吉健次郎さんの仕事を残したいと、フリーのディレクター井上真喜が2年前にテレビ局に出していた企画、それが忘れたころに動き出す、こんなこともあるんですね。又吉さんは沖縄タイムス賞を受賞したし、時代が又吉健次郎を発見したということなのかな。

そういえば、自分の仕事を画像で残そうとしているという話を、又吉さんから聞いていましたっけ。
その時の記事を読む

沖縄屈指の名カメラマンが撮影して下さって、映画のように美しい画像が撮れました。
又吉健次郎さんの作ったジーファー(簪)を挿すために、琉球結髪の第一人者小波則夫さんが沖縄民謡の第一人者大城美佐子さんの髪を結う、そんな場面もあって、それは見逃せない貴重な画像です。

又吉健次郎さんが語る飄々とした言葉の数々、でもそれらの言葉は、実は深いところで、又吉さんのたったひとつの思いにつながっていたのだということが、この番組の制作を通じてわかったと真喜ちゃん。そんなミステリーの謎解きは番組の最後で、だから今日は内緒です。

番組は「生きる×2」。副題が「琉球金細工・最後の職人」。
放送予定は…
【沖縄】
10月10日(土)朝5時45分からRBC
10月11日(日)朝5時30分からOTV
【関東圏】
10月18日(日)朝5時20分からテレビ朝日

番組紹介の詳細は民間放送教育協会のホームページをご覧ください。でも、放送の一週間前にならないと番組内容などアップしないみたいだけれど。
民間放送教育協会のホームページ
他の地域の「生きる×2」の放送予定などはこちらからどうぞ。
テレビ朝日の「生きる×2」のページ

さあ井上真喜ちゃん、11月は“おきなわおーでぃおぶっく”「儀間進のコラムを読む」のディレクター、よろしくね。

お疲れの真喜ちゃんと別れても、宇夫方路の沖縄の夜はまだまだ終わらないのでした。だってここ、パラダイス通りが近いんですもの……



【宇夫方路の沖縄報告】
朝一番、いつもの通り調布からバス。
朝の調布駅前

この日は遅れることもなく、順調に那覇空港に到着。その足で、大城立裕先生のお宅へ向かいました。
そうだ、ご報告していませんでしたが、この度、私の父、宇夫方隆士の詩画集を、M.A.P.で出版することになりました。
詩画集「幻影」
詩画集「幻影」表紙
10月10日、出版予定です

で、本日は、その詩画集の推薦文を、大城先生にお願いをしに伺ったのです。
もともとこの出版のハナシは、又吉健次郎さんが火付け役のひとりで、やはり今度の詩画集に一文を寄せてくださるのですが、今日大城先生のところへ行くという話を、ちょっと又吉健次郎さんにお話したら、是非とも同行してご挨拶に伺いたいと健次郎さん。先日、沖縄タイムス賞を受賞された時、大城先生からお祝いのお葉書を戴いたので、そのお礼をしたいということでした。
というわけで、私と父と又吉健次郎さんと、3名でお邪魔しました。

大城立裕先生のお宅にて

大城先生は又吉健次郎さんへの手紙について、受賞パーティーに行っても大勢の人で、肝心の受賞者御本人には会えないことが多いので、パーティーに行かずにお手紙をお出しになったのだそうです。

大城先生と又吉健次郎さんの会話…
「どうして『くがにぜーく』といわずに『かんぜーく』と言うの?」
「まあいいかな、と思ってたんですが、やっぱりちゃんとしようかな」
健次郎さんの、いい感じのテーゲーさ。
「かんぜーく」は鋳掛屋のことで、銀細工職人のことは「くがにぜーく」というのが正解なのです。私、ちっとも知りませんでした(汗)。
又吉健次郎さんも、だんだん大御所になってしまって、きちんと伝統を背負わなければならなくなったということなのかもしれません。

大城先生から名刺を頂戴した又吉健次郎氏、「私の名刺は『くがにぜーく』と直してからあげましょうね」と、ご自分の名刺はお出しになりませんでした。

今現在、ネットで「かんぜーく」を検索すると「金細工」のルビとしていくらでも出てきますが、「くがにぜーく」は殆ど出てきません。なんでこんなことになってしまってんでしょうかねえ。
ともかく、いつのまにかそれが定着しちゃって、又吉さん御自身も「まあいいか」というテーゲーな感じでそれに乗っちゃったのかもしれませんね。なにしろ、ご自分の名刺の肩書きもそれで印刷しちゃったくらいなんですから。
それから、又吉さんの工房の表札にも「かんぜーく」というルビがふってあるんですよ。証拠写真は下の記事でご確認を。
http://lince.jp/hito/okinawamap/matayosi…

さて、いよいよ……
房指輪の七つの房の意味のミステリー解明の時がやってきたようです。
まずはこちらの記事をお読みください。
http://lince.jp/hito/kouboumatayosi…

今、又吉さんの工房で作っている房指輪の説明では、7つの種類は「魚」「灯明」「鳩」「扇」「花」「蝶」「葉」となっています。しかし、この中の「灯明」は実は「ざくろ」ではないか、また「鳩」は「桃」ではないかという説もある、又吉さんは、「ざくろ」と「桃」の方が本当かもしれないと仰っていました。
null null
しかし、房指輪が今こうして形になっているのは、ヤマトの陶芸家である濱田庄司さんが、又吉さんのお父様である6代目の誠睦さんに復元を託してくださったおかげなのだと又吉さんはおっしゃいます。「灯明」も「鳩」も、当時、濱田庄司さんが、沖縄で残されている房指輪を探し出し、その形を見たり調べたりしながら、一つずつ意味を解明をして、ようやくたどり着いたものなのです。健次郎さんは、その濱田さんとお父様の出会いを大切にしたいがゆえに、そのままの説明で通していらしたそうです。
楽天市場沖縄map「房ネックレス灯」
楽天市場沖縄map「房ネックレス鳩」

ちなみに結び指輪はあの版画家棟方志功さんが復元したデザインなのです。
楽天市場沖縄map「房指輪」

高山正樹が又吉健次郎さんの工房に伺った時も、健次郎さんはこの話をしてくださいました。それを聞いた高山が、是非そのお話を、ブログなどで紹介させていただけないだろうかとお願いしたところ、快くご承諾してくださいました。
また、健次郎さんも、その時のことがきっかけで、やはり「ざくろ」や「桃」のことも、きちんと伝えて残しておこうという気持ちになったのだそうです。
「M.A.P.のおかげです。ありがとう。」
又吉さんは、そうおっしゃってくださいました。

琉球王朝からの金細工の伝統を継いでいらっしゃる方は、もう今は又吉健次郎さん一人だけとなってしまいました。今まで何人か健次郎さんの元で修行をしたお弟子さんもいらしたそうですが、みんな途中でいなくなってしまう。それは仕方ないことだとも思うのだが、このままでは健次郎さんが亡くなったら伝統が途絶えてしまう。それを危惧され、せめて映像で残しておこう、そうすればもしまたやろうという人が出てきたときに、それを見て始めることが出来る、そう思い立って、たくさんの方に頼み込んで協力をしてもらい、現在8割方完成しました。ジーファーの説明の為に、髪結いの小波さん、そのモデルには大城美佐子さんなどなど、みなさん快く引き受けてくださったそうです。

その中で、房指輪についても、「ざくろ」や「桃」のことを、きちんと説明をすることにしたと、又吉健次郎さんは仰っていました。

大城先生に父の詩画集の校正版をお渡しして、お読みになってもしよろしければ推薦文をお願いしますとお願いしました。
先生は一寸ごらんになって「いい絵ですね」と。あとで父は「みんな絵はいいねえと言ってくださるけど、詩の事は何も言わない」と言っていましたが、父もせっかち、お渡ししたばかりで、まだお読みにもならないうちに、コメントなんか言えませんよね。
大城先生は楽しい仕事を下ってありがとうございますと言ってくださいました。

null null

新報ホールに行かなければならないので、1時間ほどで失礼致しました。

【一方、東京で台本を読み続ける高山正樹の息抜き】
今日のゴーヤー、今日の雌花!
null
明後日のゴーヤーへ


«Prev || 1 | 2 | 3 || Next»
高山正樹 Masaki Takayama
人気ブログランキングへ