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12月22日火曜日: 玉那覇味噌醤油店

まだ見ぬ金細工師を求めて首里へ。
このあたりで聞けば誰でも知っていると仲嶺眞永さんは言われたが、道行く若い奥さまに聞いても分からない。その他に人影もなく、すると見つけたこんなお店。味噌醤油屋さんですな。ここならきっとわかるだろう。

「すいません、ちょっとお伺いしたいのですが」……
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ふと左を見ると、こんな門が。
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そこには案内看板が立っている。
“仲田殿内跡(なかだどぅんちあと)”
説明書きによると、琉球王国時代の士族、仲田親雲上(ぺーちん)の屋敷跡。「玉那覇味噌醤油」は、琉球王家御用達。現在でも手作り無添加で製造しているという。

誰も出ていらっしゃらないので、思い切って中へ。
おお、味噌だ。味噌屋だから当たり前だが、この味噌樽、僕の子どもの頃、東京でもよく見たっけ。ここでは今も計り売りしてくれるんだ。
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「はい、いらっしゃいませ」と出てきた年配の女性(お名前は「さくもと」さんとお聞きしましたが、さて)。さくもとさんのお顔は「あたしなんか撮らないで建物を撮りなさい」というお言葉に従いました。

そして、度肝を抜かれたのです。
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「この建物は、あの戦争で焼けなかったのですか」
ここで30年間働いているというさくもとさんのお話では、潰れたけれども焼けはしなかったそうで、終戦後すぐに仕事の無い女性たちが、焼け残った木材を洗って再建されたのだそうです。
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熟成した味噌の、なんともいい香りでいっぱいです。
さくもとさんは、いろいろな味噌の味見をさせてくださいました。どれもこれも深くて旨い。
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「古い庭がありますけど、ご覧になりますか」
「もちろん」
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表に出ると、煙突が。
「これはもっと高かったんですよ。でも一番最初に攻撃されてね。軍の施設だと思われたんでしょう。」

夏は、みんな涼みに来るという緑深い庭。
表の案内板にはこう書いてありました。
「庭にある井戸には二カ所に水を汲むスペースがあり、男女別々の専用の水浴場になっていたようである」
これが男性用。
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こちらが女性用。
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女性用の井戸には蓋が無いから中が見えます。深い。今はもう水は枯れているのだとか。
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「なんで男女で分かれてるんですか?」
「首里だから、男尊女卑」
そう言って、さくもとさんは笑いました。

最後に、賄(まかない)のお味噌汁を頂いたのです。
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美味であります。
そうか、この味噌ならば、お椀に入れて、それに本部あたりの鰹節とたっぷりふってお湯をかけるだけでも、十分おいしいに違いない。
「社長とは呼ばないで」に、かつてこんなこと書きました。
さくもとさんにそんな話をしたら、さくもとさんは今でも一人暮らしの男子学生なんかには、それと同じ味噌汁の食べ方を教えているんだって。
県外にも卸しているそうですが、設定された賞味期限を過ぎて売れ残ったものは返品されてくる。本当は熟成が進んでいて、おいしくなっているのに。大和の行政が決めたルールが、何か大切なものを奪っています。手作り石鹸も同じことかな。
さくもとさん。ほんとうにありがとうございました。また絶対にお邪魔します。
(その時、何かの撮影クルーが、こちらをチラ見して通り過ぎて行きました。)

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兎にも角にも、開いていることを電話で確認をして、まず仲嶺舞踊小道具店へ伺いました。ジーファーを作っているというまだ見ぬ職人さんを紹介していただくために。

今日は、お店で娘さんが帳簿を付けていらっしゃいました。奥さまも店に出ていらっしゃいました。

ジーファー作りの職人さんを紹介していただく前に、どうしても気になっていたこと、前回購入したアルミのジーファーとカミサシは、本当に叩いて作っているのかを、再度聞いてみました。

 奥さん:流し込みでしょ
 ご主人の仲嶺眞永さん:いや、叩いているさ
 僕:どんな方が作っているのですか
 眞永さん:中国とかベトナムとかで作らせている
 僕:え……


なるほど、中国やベトナムなら、叩き出しでも3,000円で出来るのかもしれない。でも、これで又吉健次郎さんとは違う系列の金細工師への糸が、ひとつプッツリ途切れました。

 眞永さん:でも品質が悪くて、10本に2,3本は不良品ですね

中に空気が入っていると、そこから折れてしまうのだそうです。

 僕:だからちゃんと叩いて空気を抜かなければいけないということなんですね

合金で作られたメッキのジーファーについても聞いてみた。

 眞永さん:ありますよ、銀の本メッキで本物とまったく変わらない。上等ですよ。
 僕:でも、メッキだから、曲がっても叩いて直すことはできないということですね
 眞永さん:そうですね、メッキが剥れてしまうからね
 僕:それが欲しいんですが、お幾らですか
 眞永さん:いくらだったかな
 娘さん:6,000円です


そして探してくださったのですが、在庫はもうありませんでした。

 僕:これを作っている方は?
 眞永さん:もう、いない


つまり、この方が那覇の又吉さんだったのです。その那覇(開南)の又吉さんがいなくなって、「クガニゼーク」は健次郎さんだけになってしまった。
奥さんのお話では、那覇(開南)の又吉さんの仕事場を訪れたことがあって、その際、ジーファーの材料となる棒を、機械で回転させながら作っていたという。それは、僕の知っている健次郎さんの仕事っぷリとは全く違うものです。つまり、叩いて作るといっても、健次郎さんのように小さな四角い塊から叩き出していくとは限らないということがわかりました。
津波三味線店で、4,500円で売っていた合金メッキのジーファーは、この仲嶺舞踊小道具店で扱っていた那覇の又吉さんのものとも異なって、ベトナムあたりで作らせたものではないかと思われたのです。
(この件については、いずれ津波三味線店に伺って聞いてみようと思っています。)

 僕:ということは、もう手に入らないということですか?
 眞永さん:いや、入りますよ


よくよく聞いてみると、注文すると持ってきてくれる人がいるのだというのです。但し、その入手先はよく分からない。持っている人を探して買ってくるのか、どこかで作らせているのか。奥さまによると、それは教えてくださらないらしい。いずれにしても、入手が困難になっているのは確かで、眞永さんはジーファーを作る技術を持っている方になんとか頼めないかと模索されているらしい。

 眞永さん:ちょっと待ってくださいね

そして見せてくださったのがこれです。
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(※ご紹介が遅れましたが奥様のみどりさんです。なんと去年の12月にエコルマホールで宇夫方路が一緒に踊った佐藤美智子さんの親戚です。)
長くて軽いアルミの棒。
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そうか、こういう棒から叩き出すのか。ここから先の作業専用金槌でも作れば、比較的簡単に仕上げることができるかもしれない。
でも、それは、健次郎さんが自ら名乗り、そして僕が探していた「カンゼーク」の姿ではありませんでした。もしこれが現代のカンゼークなら、健次郎さんはやっぱり「クガニゼーク」と名乗るべきだと思ったのでした。

ともかく、残された道は、紹介していただけるというまだ見ぬ金細工師にお会いすること。自前の地図を見せて、その場所を教えていただきました。

 眞永さん:有名だから、このあたりで聞けばみんな知っていると思いますよ

お礼を言い、再訪のお約束をして、僕たちはお店を後にしたのです。

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11月23日月曜日: もうひとつの沖縄(4)

今回の沖縄の旅、最後の晩餐。
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ゆし豆腐。にんじんしりしりーがある。それ以外には、特に沖縄っぽいものはない。
オリオンビールに続いて島酒。
琉球酒豪伝説とやらを飲んでおくと、次の日が楽らしい。
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進貢船の模型が飾ってある。
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そういえば“おきなわワールド”の進貢船は復活したのだろうか。最近は裏の業者用通用口から入ってそこから出るのでわからない。
ダッコちゃんがウィンクしていたり……
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アンガマのウシュマイとンミーのお面が微笑んでいたり。

お隣の与儀さんから貰ったアダンの手作り草履。
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神輿を担ぐ下町では分からないが、東京の山の手あたりの人間は、手作りの草履なんて観光地で売られている民芸品のレプリカくらいでしかお目にかからない。それが、まだここでは生きている。でも、貰ったはいいけれど、たぶんきっと誰も履かないで、このまま部屋の隅っこにずっと転がっているんだろう。そしていつしか古い記憶の中でしか見つけることができなくなるんだろうな。

命名札だって同じ。
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数年前まで、居間の壁には数十枚の命名札が貼られてあったが、家の内装を変えてから、新しい数枚だけ捨てずに取ってある程度になった。
沖縄の命名儀礼も、調べればちょいと面白い。今日のところは深入りはやめるけれど、最近の僕は、こういう時いつも、日本ではどうだったのだろうと考えるようなった。沖縄は僕にとって、日本を知る糸口でもあるらしい。

昔の話を始めると、昭和一桁生まれの義母からは、興味深い話がたくさん出てくる。
義母の童名(わらびなー)はチル。今でもヤンバルの田舎へ行けば、みんなから「ちる小(ちるぐゎー)」と呼ばれる。童名とは、戸籍上の名前とは違う、家庭内とか近所の友達の間で呼び合う名前のことである。
だが、義母には童名と今の戸籍上の名前と、その他にもう一つの名前があった。「鶴」という「やまとなー(と義母は言った)」。近所の女の子は、みんな大概「ツル」か「カメ」だった。こっちは姉がツルで妹がカメ、あちらは姉がカメで妹がツル。ツルカメだらけ。同じ苗字も多かったので、名前の前に「~の」という屋号が必要だった。
ある時、小学校の先生がこれでは拙いということで、片っ端から名前をつけた。あんたは「きみ子」あんたは「よし子」というように。その日から、義母の「やまとぅなー」は「とみ子」になった。この日はじめて聞いた話しである。
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僕は、義母の童名が「ちる」だなどとは全く知らずに、十数年前、生まれた娘に「なちる」と名づけたのである。その命名札が、今も残っているのかどうか、何となく聞くことはしなかった。

明日の朝早く、沖縄を発つ。トートーメーに線香をあげる。トートーメーの棚には、大和風の線香と平御香(ひらうくー)が置いてある。
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平御香とは沖縄の線香。6本の線香が板チョコのように並んでいて、割って使う。
この線香を見ると、いつも思い出すことがある。20年前の義父の葬式でのこと。大和から送り込まれていたのであろう若い坊主の説教。「平御香は香りがない。こんなものを使っていては、亡くなった人は成仏などできない。香りのある大和の線香を使わなければいけない。」
当時、沖縄で線香といえば、平御香の他にはなかった。僕は怒りに震えた。しかし、家族はみんな穏やかに黙って聞いている。そうでなければ、僕はその坊主をぶん殴っていたに違いない。今も思い出すたびに殴っておけばよかったと、後悔するのである。
でも、最近は平御香に火をつけた憶えが無い。今日も結局、「大和の上等線香」に火を点けて、そして手を合わせたのである。

《おまけ》
義母にも「カンゼークー」のことを聞いてみた。
「来ていたさ、なーびなくーさ。鍋とかヤカンとか、直しにきていたさ」
「いつごろですか?」
「戦前かねー」
眞永座の仲嶺眞永さんのお話とはずいぶん違う……

11月23日月曜日: 浦添美術館訪問

2007年の8月31日から9月9日まで、「沖縄の金細工~うしわれようとするわざ・その輝き~」という展覧会が、浦添市美術館で開催されました。
(余談ですが、実はこの時、又吉健次郎氏が宇夫方隆士氏に、ぜったい詩画集の展覧会をやったほうがいいと、乗り気ではない隆士氏に代わって、浦添美術館の空いている日を押さえてしまったのです。それがきっかけで、隆士氏は沖縄タイムスの新聞小説の挿絵を描くことになり、我々M.A.P.は隆士氏を通じて、沖縄タイムスの文芸部長さんから大城立裕氏を紹介いただきました。なんだか不思議。)

8月28日付けの「沖縄タイムス」に、この展覧会を紹介する記事が掲載され、そこには次のような一文がありました。
「琉球では、金銀を扱う金細工(クガニゼーク)、錫・銅を扱う錫細工(シルカニゼーク)の金工職人がいた」
もしかすると、浦添市美術館に行けば、何かわかるかもしれない、そう思って訪ねてみました。
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その時のチラシをコピーしてくださいました。
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他にも、又吉健次郎さんの工房の案内や名刺などもファイリングされていましたが、それらには「カンゼーク」と書かれてありました。
「なぜカンゼークではなく、クガニゼークとしたのですか」
「この時の展覧会は、又吉さんだけではなく、クガニゼーク全体を紹介する企画だったので」
僕の問いの立て方がまずかったのかもしれませんが、なんとなく意外なお答えでした。それまで、漠然として、「カンゼーク」という大きなくくりのなかの一分野が「クガニゼーク」なのかもしれないと思い始めていたのに、お答えの印象はその逆です。でも、それは要するに、カンゼークについての見解が定まっていない、というか、「カンゼーク」の言葉にこだわることに大した意味はないという感じなのです。

今回の旅で、「カンゼーク」の本質にどうしてもたどりつけないもどかしさがどんどん増大してきています。しかし、もしかすると、僕の求める明確な答えなどハナから無かったのではないか、ここに至って、そんな風に思えてきました。「カンゼーク」の原点を求めても、そんなものは初めから存在しない。「カンゼーク」という言葉は、廃藩置県以後の大きな変化の中で生まれてきた、比較的新しい言葉なのではないか。「金細工」と書いて「カンゼーク」と読むのは、元来のウチナーグチでは考えにくいけれど、大和の感覚を通すと、「クガニゼーク」より、一見自然で、かつ沖縄風に聞こえてきます。

さて、この僕の推測は正しいのかどうか、まだ調べる本もある、聞ける人もいます。
もう少し、「カンゼーク」の影を、追ってみようと思っています。

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きのう閉まっていたお店へ、諦めきれずに再訪しました。
それは仲嶺舞踊小道具店。
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踊りで使うジーファーは、ここで売っているものがいいという噂を聞いたのです。ジーファーを作っている「クガニゼーク」は、もう又吉健次郎さんしかいない。ならば、ここで売られている踊り用のジーファーを作っているのは、いったい誰なのだろう。もしかすると、「カンゼーク」の謎を解く手掛かりがあるかもしれない……

しかし、残念ながら今日も人の気配はありません。仕方が無い、あきらめて帰ろうとしたその時でした。
向かいのお店のお兄さんが、近くで遊んでいた子どもに声を掛けた。
「お客さんが来ているよ」
すると、その子どもがこちらに向かって
「ちょっと待ってください。今おじいちゃんを呼んできます」
そう言って、お隣のお家に消えたのです。
「ありがとうございました。」と、向かいのお店にお礼を言って待つこと数分。
「お待たせしました」と、お店を開けてくださったのがこの方です。
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どことなく垢抜けして、キリリとしたお顔立ち。後で名刺を頂いて分かったことなのですが、劇団眞永座の座長、仲嶺眞永さんでいらっしゃいました。納得であります。
昭和10年のお生まれ。昭和28年に沖縄芝居の役者になったが、昭和46年、生活のために小道具製作に専念することにした。でも、やはり舞台への想いが強く、2年前、眞永座を旗揚げた。その舞台には、八木政男さんも、北村三郎さんも出演された。

「カンゼークについてお伺いしたいのですが」
「カンゼークというのは鋳掛屋ですよ。壊れた鍋やヤカンを直す職人です。ナービナクークーサビラー、鍋の修理をいたしましょうと掛け声をかけながら旅をした。数年前までこのあたりにも来ていましたよ」
数年前というのは、果たしていつごろなのだろう……
「鍛冶屋の仲間ですよ」
「カンジャーヤーとはどう違うのですか?」
「カンジャーヤーは仕事場を持っていて、もっと大きなものも作ったが、カンゼークは小さな道具箱を持って小さなものを直す仕事。カンジャーヤーより下に見られていた。」

これが、僕の探していた答えなのでしょうか。よくわからない。だが、まだ繋がらないものがある。辻の遊女が踊っていた踊り。その頭に挿していたジーファー。それはいったい誰が作っていたのか。そのジーファーは又吉健次郎さんが受け継ぐ「クガニゼーク」の作るジーファーと何がどう違うのだろう。
仮に、雑踊の「金細工(カンゼーク)」のように、遊女のジーファーを直していたのが「カンゼーク」であったとしたら、僕が持ち込んだジーファーを直してくださる健次郎さんは、それこそ「カンゼーク」の仕事をしているということなのではないか……。

お店で売っているジーファーを見せていただきました。
ジーファーとカミサシ(男性用のかんざし)、どちらも3,000円とのこと。カミサシの方は他に耳かきのような押差(オシザシ)がついて2本セットです。
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軽い。
「アルミです。」
「流し込み(鋳型)ですか」
「いえ、叩いて作っていますよ」
「そうなんですか」
僕には、道具を見る目はありません。でも、どうしても眞永さんの言葉を信じることができない。眞永さんは、何か勘違いをされているのではないだろうか。いくらアルミとはいえ、叩いて3,000円はあり得ない。
(※ちなみに「津波三味線店」という那覇のお店では、踊り用の合金メッキのジーファーが4,500円で売っています。また、健次郎さんのおっしゃっていた那覇の又吉さんが、アルミのジーファーも、ちゃんと叩いて作っていたという話を聞いたことがあるのですが、まさか3,000円ということはなかったと思うのです。)
  ⇒那覇の又吉さんについて書いてある記事
「又吉健次郎さんがジーファーを作っていますよね」
「ああ、コンクールとかに出るようなときは、いいものを挿すでしょうが、普段はもっとね。でも、それを作る人がいなくなってしまって」
「その方は、那覇の又吉さんでは」
「いや、なくすわけにはいかないのでね。頼んで作ってもらっています。」
何だか頭の中がシクシクしてきました。「クガニゼーク」を継承する又吉さんたちではなく、僕の全く知らない別の「金細工」の世界が、どこかにあるのでしょうか。
「その人のところへご案内しましょうか」
「え、それはうれしい。ありがとうございます。」
「今日はこれから出かけなければならないので、明日か……」
「明日、東京に戻らなければならないのです。今度来た時に是非とも」

僕は、ジーファーとカミサシのセットを購入して、お店を後にしたのです。
  ⇒上原直彦氏が書いた仲嶺真永さんのこと

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11月22日日曜日: “金細工またよし”再訪

一昨日おじゃましたばかりなのに
昨日のジーファーを持って
今日また来てしまいました。

一昨日とは一本違う路地から入ろうとしたら、そこにこんな看板が。
「くがにぜーく」とルビを振られた「金細工またよし」の看板「また来てしまいました」
「誰も来なくなったらおしまいさ」
「今日はどうしても見てもらいたいものがあって」
そう言って、義理の妹が使っていたジーファーを手渡しました。
「ほー」
そう言って、又吉健次郎さんは、いきなりそのジーファーを叩き始めたのです。
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見る見るうちに、曲がっていたジーファーがまっすぐになっていきました。知る人ぞ知る又吉健次郎が、記録として残すジーファー以外はもうは作らない、まして踊りのジーファーは一切作らないと宣言している名工が、昨日までカミサンの実家の箪笥の奥あたりに埋もれていた踊り用のジーファーを、たった今、僕の目の前で修理してくださっている、なんだか信じられない感じです。
「親父からこのカンカン叩く音を聞けとよく言われたが、その意味が分からなくてねえ、近頃やっと少し分かってきた」
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「これ銀ですか? 叩いて作った銀のジーファーは折れないと聞いていたから、こんなに曲がるのは違うと思ったのですが」
「銀だから曲がる」
そうか、曲がるから折れないんだ。そうでなければポッキリ折れてしまう。
「なかなか質のいい銀を使っているんじゃないかなあ。銀貨ではなさそうだ」
「は?」
聞けば、昔はいい銀が手に入らなくて、アメリカの25セント銀貨を溶かして使ったらしいのです。
「国の象徴の硬貨を潰すのもどうかと思うが」
今から60年前、健次郎さんが20歳の頃、戦後間もなくです。でも、その頃の銀貨は、それでも比較的質が良かったのですが、その後、銀に銅を挟んだりして使えなくなったとのことでした。
(当時、健次郎さんの父上、6代目盛睦さんは、米兵向けの指輪を作られていたようです。ちなみに、盛睦さんが濱田庄司や棟方志功と出会うのはそれから10数年後、1960年代のことです。)
しかし、このジーファーは、それほど古いものではないと思います。義理の妹が踊りを始めてから購入したものだから、復帰直後くらいに作られたものなのではないでしょうか。
「この頃は丁寧な仕事をしていたんだなあ。これはなかなかいいものですよ。大切にしなければいけない」

叩けば表面が荒れてツヤがなくなります。だから後は、磨かなければなりません。その作業は、磨くための道具を、専用の砥石で研ぐところから始まります。
「ずいぶん使っていなかった」
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ジーファーの尖った方を木の台に突き立てて固定し、道具の取っ手側を足の指で挟み、そこを支点にして、車のワイパーのように道具を動かして磨くのです。
「今度来る時までに、ちゃんと磨いておこうね」
「ほんとうですか! ありがとうございます」

それから、この刻印はなんなのでしょうか。
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「ああ、これはね、細いところに刻印してあるから、両側が切れてしまって分かりにくいのだが……」
健次郎さんは一本のポンチを出して、それを銀片に打ちつけて見せてくださいました。
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「これと同じ、わかる? 王府の紋だ」
なるほど、左三巴紋です。沖縄では「左御紋(フィジャイグムン)」と呼ばれました。
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(※後でよく見てわかったことなのですが、又吉さんのポンチは渦巻きが反対、これは右三巴紋です。これはいったい……。また謎が一つ増えました。)

やはり健次郎さんは、踊りのジーファーの大きさが気になるようでした。
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7代目のクガニゼーク、又吉健次郎が作るジーファーは、この小さな銀の塊から叩き出していくのですが、その重さは13匁、叩き磨いていく間に1匁ほど減って、完成品は12匁くらいになる。
(※1匁=3.45g)

「このジーファーは16匁あるなあ」
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踊りのジーファーは作らないという又吉健次郎さんが、箪笥に埋もれていた曲がった16匁のジーファーに手を入れて磨いてくださる。なんて幸せなジーファーでしょう。沖縄には、今も家のどこかに眠っているジーファーがたくさんあるのではないか、そんな気がしてきました。

ひとりの若者が、工房にやってきました。
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「お、8代目かい?」
「いえ、違います。ちょっと興味があって、叩かせてもらいに来ました」
すると健次郎さんがおっしゃいました。
「彼女に何か作ってあげたいのだろう。最初はそんなもんだよ」

僕は彼に席を譲って、ジーファーを預けて、工房を後にしました。

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カミサンの実家へ。
まずはトートーメーにウートートゥー。
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義母の実家が本部(もとぶ)。だから伊豆味の伊佐さんに頂いたミカンを、お土産に持ってきました。シークァーサーと、それから、えーと、なんだっけかな。
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みんなも「わからん」。

カーブチー。
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沖縄では普通に食べる。種は多いけど、みんなやっぱりこれがおいしいって。

ここへ帰ってくると、いつも思うのです。もうひとつの沖縄がココにはある。どこにも無いココだけの沖縄。これはどうにも説明しにくい感覚です。
お義母さんがいつも作ってくれるイカの墨汁。
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前回の墨汁(おんなじ器だ……)
20数年前、はじめて食べさせてもらった時は驚きました。まだイカ墨のスパゲッティなど見たこともない頃です。
それから数年後、今からちょうど20年前、荒尾美代さんという女性が、イカの墨汁のルーツを探ったという新聞記事を読みました。イタリア旅行中に食べたイカ墨のスパゲッティがおいしかったこと、ある本で知った沖縄の墨汁のこと、それから彼女は、日本中の海沿いの町に片っ端から電話をかけて、イカ墨の料理を探したといいます。すると北陸に一ヶ所、「くろづくり」の塩辛はあったけれど、ポピュラーな料理としては沖縄の墨汁以外にはなかった。いったい沖縄の墨汁のルーツはどこなのか。まず中国を調べたが中国では全く食べない。そこから一年かけて、世界の料理をチェック、するとキリスト教信仰の土地が浮かび上がってきた。ならば長崎にもあるはずだ、そうして見つけたのが生月島の“くろみあえ”。つまり、沖縄のイカの墨汁は、フィリピンあたりから、キリスト教の宣教師と共に沖縄にやってきたのではないか……。
さて、この仮説は正しかったのかどうか、その後の研究はどうなったのでしょう。

今やイカ墨料理はちっとも珍しくないけれど、20数年前の沖縄は、僕にとって今よりずっと異国でした。そしてその異国性は、手懐けられ利用されている現代のそれとは全く違うものでした。でも、沖縄が変わったのではありません。それをいつも教えてくれるのが、この家なのです。

結婚した頃の僕の土産ばなしは、東京のことばかりでした。でも最近は、僕が沖縄で会った人たちの話をすることが多くなりました。今は、その方がずっと話が盛り上がります。
今日は、又吉健次郎さんの話題です。
すると、義理の妹が踊りを習っている時に使っていたジーファーと房指輪が、確かどこかにしまってあるはずと、家捜しが始まりました。そうして見つかったのがこれです。まずは房指輪。null
これは型抜きしたようで、左程のものではないと感じたのですが……

気になったのはジーファーです。null
誰かが踏んずけたのか、曲がっているのですが、ずっしりと重い。
姪っ子は、興味なさそうに漫画を読み耽っています。
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なかなかいい形をしているように思います。
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刻印がふたつ。なんだろう。
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下の方の刻印は、文字が書いてあるようですが、最近老眼が進んで、全く読めません。
姪っ子に頼むと、あっさり「シルバー」。
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なんだって!
「すいません。このジーファー、ちょっとお借りできませんか? 明日、健次郎さんのところへ、これ持って、もう一度行って来ます。」
もしかするとこの家には、たくさんのお宝が隠されているのかもしれない。

11月20日金曜日: 那覇のジーファー

“金細工またよし”の工房へ伺いました。
M.A.P.に注文が入って、それで制作をお願いしていた結び指輪を受け取るのが目的だったのですが、工房に上がると、いきなり又吉健次郎さんは、「あんたには感謝しているよ」とおっしゃられた。なんのことかと思えば、房指輪の意味のこと、「クガニゼーク」のこと。
「前からこれでいいのかなあと思っていたんだけれどね、あんたに言われて、あれがきっかけでちゃんとすることにしたんだ。」
健次郎さんがそう決められたという話は、前から宇夫方路に聞いていたことです。でも考えてみれば、そのはなしの後、僕が健次郎さんと直接お会いするのは今日がはじめてのこと、つまり健次郎さんは、僕ごとき者にも、きちんと礼を尽くしてくださったのだということに、後になって思い当たりました。なんとも頭が下がるばかりです。
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工房の看板、パンフレット、ホームページ、それから県の資料、それら全て直すことにされたそうです。
「大変ですねえ」
「一年ぐらいかかるかな」
「パンフレットだっていっぱい残ってるのに。僕の所為ですかね」
「いや、これはやらんといけないことだから」
健次郎さんご自身も熟考された結論なのだと安堵しました。

しかし、又吉健次郎さんが背負おうとしている伝統が「クガニゼーク」であるとしても、又吉さんの工房の看板は何故か最近まで「かんぜーく」だった。どうして「クガニゼーク」が「カンゼーク」と名乗ることになったのか、それについてあらためて伺ってみたのですが、残念ながら、やはり明確なことはわかりませんでした。

何年か前まで、踊りの小道具を作る、やはり「かんぜーく」を看板に掲げる工房があったそうです(※注)。銀のジーファーを1本2万円にも満たない値段で売っていた。材料の銀だけだって相当高くなっているのに。健次郎さんは、何故そんなに安く売るのかとその方に聞いたことがあったそうです。すると「仕事がなくなるのがこわくて値上げできない」という答えが返ってきた。
(※注:健次郎さんが首里の又吉と呼ばれていたのに対し、この方は那覇の又吉と呼ばれていた方であると思われます。)
気持ちも分からないではないと、健次郎さんは、ご自分の若い頃の話をしてくださいました。人がたくさん通るところに店を開いてはみたが、全く売れなかったはなし。

今だって、一週間どこからも連絡のないことがある。そんな時はとっても不安になる。

その踊りの小道具を作っていた「カンゼーク」の方はお亡くなりになった。踊りの人たちはとっても困ったはずなのですが、誰一人として健次郎さんに相談しに来る方はいなかったそうです。

いつから飾り職人は踊りの先生に頭が上がらなくなってしまったのか。対等だったはずなのに。

昔、ある時、お店に一人のおじいさんが来てこういった、なんで「クガニゼーク」というか知っているか、それは高い金細工を注文する時は、手付金として小金を置いていくからだ。クガニゼークが一番偉いんだ、なぜなら、頭の上に挿すジーファーを作っているから。だから一番上なんだ。

お父様である6代目の技術は神業だったというはなし。小物を作るための小さな道具しかないのに、それでおおきなものも作った。どうするとそんなことができるのか、今となっては知る由もない。ある時、父はそうして作ったヤカンを抱えて出ていった。戻ってきたとき、ヤカンは食料に換わっていた……。

健次郎さんは僕たちに1本のジーファーを見せてくださいました。千葉県に住んでいる方が大切に所蔵していたジーファー。それは時代を感じさせ、小ぶりの、実に美しい姿をしている逸品でした。
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「ジーファーは女性の姿をしているのだが、これは那覇のジーファーでね、首里のジーファーに較べて顔が小さくて、首の角度が少し深い。完璧な形だ」
はっきりと見えない刻印。
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「たぶん父の作ったものだと思うんだが」

那覇のジーファー、そして踊りの小道具…… もしかすると、それが「かんぜーく」と何か関係があるのでは? いや、決して先走ってはいけません。それはゆっくり調べればいい。

健次郎さんは、ジーファーの良し悪しを確かめる秘密の方法を教えてくださいました。このジーファーは見事に……
いえ、このお話はココまでです。
「この方法で僕の作ったジーファーを調べられたら困るからなあ」

又吉健次郎さんは、今の踊りのジーファーは大きすぎるとおっしゃいます。バランスも悪い。踊りの美意識はそれでいいのだろうかと思ってしまう。
「僕はあくまでも民具を作っているんだ。踊りのためだけの道具は作らない」
だからジーファーばかりではなく、房指輪も、踊り用の注文にはお応えにならないでしょう。
実は今日、宇夫方路は、来年やる予定にしている教師免許取得のお披露目公演のために、ジーファーを作って頂けないだろうか、無理を承知で頼んでみるつもりだったのです。でも、健次郎さんは踊り用でなくても、もうジーファーは、「クガニゼーク」の伝統のために、資料館のようなところ以外には作ることをしないと決められた。体力的にもそれが精一杯。それを知っては、もうお願いすることなどできるものではありません。きっぱりと諦めました。
でも、踊り続けるためには、ジーファーはどうしても必要なのです。さてどうしようか、宇夫方は、これからゆっくり考えることでしょう。

「あんたほど、一生懸命聞きに来て、一生懸命調べてくれた人はいなかったよ。」
又吉健次郎さんは、そう僕におっしゃってくださいました。
「何かわかったら教える。新しい資料もみんな送る。僕の言ったこと、何でもインターネットに書いてもいいよ」

ありがとうございます。健次郎さん。また来ます。


おまけです。
12月に又吉健次郎さんとcoccoの対談があるとのこと。「対談の相手は是非又吉さんに」、coccoのご指名なのだそうです。対談が終わったら報告してあげるから、ブログのネタにしなさいと、健次郎さんは言ってくださいました。楽しみだなあ。

ちょっと前の、又吉健次郎さんとcoccoさんの記事です。よろしければお読みください。
http://lince.jp/hito/husayubiwa…

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Banちゃんに連れられて、Banちゃんの知っている店へと向かいます。

ななしん屋の前を通って。
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「ママ、今日はごめんね、また今度きまーす」
ママはいつだって笑顔です。

国際通りを渡り、浮島通りを歩いて行ったところ。
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お店の名前? さて。目だった看板も無かったような。Banちゃんに聞いてもよくわからない。

ビールを飲みながら、又吉健次郎さんの話しをちょっとしていました。首里王府に抱えられていたクガニゼークたちは、王朝という後ろ盾が無くなってどうしたのだろう。それからカンゼークのこと、カンジャーヤーのこと。
「銀のジーファーを挿して踊られていた王府御用達の琉球舞踊も、廃藩置県の後どうやって発展してきたのか」
すると、それまでお店のマスターを相手に、カウンターで一人飲んでいた男性が、こう言ったのです。
「飾り職も踊りも、辻に引き継がれたんですよ。遊女が踊って客に見せたんです。ジーファーも、辻の遊女が挿した。すいません、口を挟んで。僕は遊女が好きで、そのへんに興味があって。」

そういえば、健次郎さんの工房に貼ってあった説明書きを思い出しました。それは結び指輪についてのもので、前にも一度M.A.P.after5でご紹介しましたが、その一部をここでもう一度……
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芹沢銈介の説によりますと、この指輪はその昔、辻町の遊女が身につけていたということです。首里王朝が衰退し、明治になってからは急激な世替わりが進み、そして戦争により遊女は姿を消しました。

確かにカウンターの男性のおっしゃるとおり、「金細工」の仕事は辻の遊女と深い関わりがあったらしい。
では、首里王朝が衰退する前はどうだったのだろうか。結び指輪は、王府が無くなって初めて辻の遊女も嵌めることができるようになったのだろうか。

実は沖縄の遊郭の歴史も古く、1672年、摂政の羽地朝秀が私娼を集めて仲島(今の泉崎)に作ったのが始まりとされます。1908(明治41)年に、その仲島と渡地(わたんじ:那覇埠頭の一角)の遊郭が辻に合併され、辻は沖縄唯一の遊郭となりました。
『沖縄大百科事典』によると、王府時代の辻は、冊封のために来島した中国人の出入りする場所であり、また薩摩から派遣される在番奉行の宿舎に出入りできる女性は辻のジュリー(娼妓)だけであったとあります。つまり、王朝時代も、王府のお抱え職人が遊女のために装飾品を提供したということも十分考えられそうです。
さらに廃藩置県(琉球処分)後も、辻は衰退することはなく、昭和10年代まで沖縄の社交の中心であり、政財界の要人から農村の男まで、あらゆる階層の者が出入りする場所でした。ということは、飾り職人の技術が首里から那覇の辻へ引き継がれたのではなく、王府管轄でなくなっただけで、辻においてそのまま生き続けていたということなのかもしれません。
僕が知りたいのは、又吉さんの受け継ごうとしている「クガニゼーク」は、こうした「首里~那覇」の地理的歴史的状況と、どのように係わり合っているものなのかという事です。
そしてまた「カンゼーク」と呼ばれるものも、この関係の中に存在していたのだろうか。「クガニゼーク」が「カンゼーク」に名前を変えたのか、あくまでも別物だったのか、いずれにしてもこれは、沖縄の「伝統」を何もかも根こそぎズタズタにしてしまった、あの戦争よりもずっと前の話なのです。

僕たちは「沖縄の伝統」という時、実はふたつの大きな悲劇があったのだということを忘れてはなりません。それは、まずは戦争のこと。そして「廃藩置県」のこと。

少し歴史の話をさせてください。
日本の学校では、「廃藩置県」は1871(明治4)年に行われたと教わります。しかしそれは「大和」だけのこと、この時点では、琉球は薩摩に支配されてはいたけれど、間違いなく独立国でした。明治政府は、日本で「廃藩置県」が行われた翌年、強引に琉球国をまず「琉球藩」とするのです。その後、色々な経緯を経て、1979(明治12)年3月27日、日本は琉球藩に廃藩置県の布達をします。そしてついに首里城は明け渡され、琉球国は滅びる。この一連の措置が、いわゆる「琉球処分」と呼ばれているものなのです。

この史実を、人民の解放と捉える人たちもいます。僕はここで、その議論をするつもりはありませんし、どんな立場もとりません。でも少なくとも、大和の「廃藩置県」と沖縄の「廃藩置県」を、同じものとして論ずることは間違っていると思います。また、「琉球処分」を考えることによって、日本の廃藩置県とはいったいなんだったのかを問い直すきっかけにもなると思うのです。

話が大きくなりすぎました。元に戻しましょう。はたして又吉健次郎さんは、自らの仕事を、あらためて「クガニゼーク」とすることによって、どの時代まで回帰されようとしているのでしょうか。
(※僕は、1880年、明治13年に新制度の学校教育が沖縄に導入された前の時点の、その頃の言葉を一度復活させることが重要なのではないかと、密かに思っているのです。何故なら、それ以後の言葉の変遷は、沖縄自身が主体的に選び取った結果ではなかったのだから。)

首里王府の時代から琉球処分を経て戦争までと、その戦争の後から現代までと、きちんと切り分けて、「クガニゼーク」と「カンゼーク」とは、いったいなんであったのか、もう少し探ってみたいと、僕は思っています。
カウンターの男性と、色々とコアな話をしていたら、店の外で入りずらそうにしている若者3人。
彼らはカウンターの男性、仲石亨さんのやっている、“MAXⅠ”と“MAXⅡ”と“CASA MAX”というお店の若い子たちでした。
どういうお店かというと、おじさんには説明しにくいんですが、要するに着るものだとかアクセサリーだとかを売っているお店。工房も持っていらして、そこでオリジナルなものも作っているのです。若くして(っていくつだか知らないけれど)たいしたものです。
そんなわけで、仲石さんは又吉さんの銀細工にもご興味があったらしいのです。
好青年3人が加わって、話は益々ヒートアップ(って俺だけか)。沖縄の工芸のこと、言葉のこと、偏屈な首里のオジイのこと。
「この店のマスターの金城さんも首里ですよ」
こいつは失礼。

とっても盛り上がって、その勢いで記念撮影。
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左のでっかい人が仲石亨さんです。後ろでバンザイしてるのがお店のマスター金城正尚さんです。関りえ子さんも一緒。
撮影してくれたのはBanちゃんです。

それから、みんなで名刺交換しました。お店のマスターの金城さんの名刺も頂きました。肩書きは映像ディレクター。裏には、「どっちの料理ショー」とか「タモリ倶楽部」とか「ボキャブラ天国」とか、「主な担当番組」が印刷されてあります。でも店の名前がわからない。でも、場所覚えたから、ま、いっか。

明日、久しぶりに健次郎さんの工房に伺います。

《追伸》
MAX CASAの暖簾です。
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中華料理屋かと思ったら、よく見るとたしかに「MAX」ってなってるね。
MAXのSHOP MAP
それから、帰ってインターネットで検索したら、金城正尚さんのお店の名前が分かりました。
“立ち呑みBar Kahu-si(カフーシ)”だって。
http://www.kahu-si.com(“カフーシ”のHP)
でね、そのインフォメーションのページのNEWSによると
「2009.06.30 OKINAWAN BAR 100に掲載されました」
とあるではないですか。
こいつは大変失礼いたしました。
そして、さらに、この「OKINAWAN BAR 100」の文字をクリックすると、わが楽天市場沖縄mapに飛ぶではありませんか。
もう、びっくり!

» 続きを読む

「クガニゼーク」と「カンゼーク」のことを伺おうと、文化担当の平良さんという女性にお会いするために南風原町役場を訪ねたのは、一昨日の17日のことでした。
その日は組踊りの稽古を見学させていただいていたのですが、途中ちょっと抜けて、そこから500mほどのところにある役場まで歩いていきました。
案内所で伺うと平良さんは南風原文化センターにいらっしゃるとのこと。その文化センターは役場の隣にあったのですが、最近さらに500mほど先に移転したらしい。
「歩いて行かれるのですか」
もちろん歩きますとも。どうぞご心配なく。沖縄の人はほんとに歩かない。

新しい文化センターは旧陸軍病院壕跡のすぐそばにありました。
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大きな地図で見る

東京で電話した時、親切に対応してくださった学芸員の平良次子さんに、あらためてお話しを伺う事ができました。
まず電話で聞いた話の内容(11/14日の記事)を読む
残念ながら特に新しいお話しは出てこなかったのですが、それだけに電話でも精一杯の対応をしてくださったのだということがよくわかったのです。
さらに平良さんはその電話の後、金細工について詳しい方にわざわざ聞いてもくださったようで、ただ「カンゼーク」についてはやはりよくわからない、また「クガニゼーク」に「黄金細工」という文字をあてたのは、南風原文化センターで開催された「黄金細工と鍛冶屋展」以外にはないということを教えてくださいました。

今回の旅のテーマのひとつである「クガニゼーク」について、南風原文化センターで聞くことはもうありません。それなのに今日再度訪れたのには、ふたつのわけがあったのです。
そのひとつは、一昨日は時間がなくて見ることができなかった常設展を、どうしても見学したいと思ったからです。

「御真影」と「教育勅語」を保管する奉安殿のこと。
「慰安所」で「慰安婦」にされたのは、辻の女性(今回の旅の隠されたテーマ)であったということ。
「沖縄語を以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」の命令。新垣弓太郎が妻の墓に刻んだ「妻タガ子 日兵逆殺」という文字のこと。
南風原の、ある地域のこと。
一人でも戦死者が出た家79.9%
一家全滅した家17.6%

思った通り、細やかでじっくり練られたたいへん見ごたえのある展示でした。沖縄へ来て、とりあえず「ひめゆり」だけは押さえて、ついでにお土産屋さんをウロウロするというのもいいけれど、是非ともこの南風原文化センターと、裏の黄金森(クガニムイ)にある旧陸軍病院壕跡へ行くというコースを検討してみることをお勧めしたいと思います。

南風原町史第3巻「南風原が語る沖縄戦」
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1,000円は破格に安い。
「行政のやることですから利益を出してはいけません。印刷代を回収しようとも思っていません。皆さんに知って戴くことが重要なのですから」

「黄金森」です。
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あのナゲーラ壕も、ここ南風原と那覇の間にあるのです。
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あの宮城巳知子さんの、ずいせん学徒隊の辿った道なのです。
ナゲーラ壕に行った時の記事

そして、南風原文化センターを訪れたもうひとつの理由。それはここ南風原が、“琉球絣のふるさと”だということ。でもこれは、今日のところはミステリーということにしておきたいと思います。

平良次子さんと記念撮影。
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病院壕跡への入口。
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黄金森は、実に穏やかに佇んでいたのです。
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高山正樹 Masaki Takayama
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