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※宇夫方路2011沖縄旅日記(2)
又吉健次郎さんの工房です。
健次郎さんの結び指輪を、結婚何周年かの記念にと注文される方が時々いらっしゃるのです。その度、健次郎さんに結婚記念日に間に合うよう制作をお願いします。今日もそうして仕上がった結び指輪を受け取りにきたのです。

でも今日は健次郎さんはお留守でした。なんでも若い女性とどこかへ出掛けたとか。さて、何時に帰るか分からない。夜は夜でやっぱり若い女の子と桜坂劇場にCoocoのライブを観にいく約束があるらしい。お元気だこと。
主人不在の仕事場
仕方がないので、いつもと変わらない仕事場だけ撮影させていただいて帰ろうと立ち上がったところへ、健次郎さんがお帰りになりました。まあいいタイミング。
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実は先日の1月15日、M.A.P.after5のアクセス数が突然倍になりました。検索ワードを調べてみると、又吉健次郎さん関連の記事を目当てに来る人がその原因らしい。そこで井上真喜ちゃんに「何かあった?」と電話で聞いてみたのです。そうしたら、なんでも世界不思議発見というテレビ番組で、健次郎さんの房指輪が紹介されたのだとか。

M.A.P.では房指輪は扱っていませんが、それでも結び指輪の注文がバタバタといくつか入りました。うちのサイトでもそうなのだから、さぞ工房“またよし”は大変だったはず、こちらに入った注文の制作をお願いして大丈夫かなあと心配したのですが、いつもの通り気持ちよく請けてくださいました。

coccoの時もすごかったけれど、それにも増して今回はたくさんの問い合わせあったらしい。全国放送のテレビって、やっぱり影響力大きいんですねえ。M.A.P.にも取材来ないかなあ。

さて、高山正樹氏に頼まれたことを聞かなくっちゃ。ある小道具屋さん(実は外間小道具店)で聞いたもうひとりの金細工師のこと。
少しここまでのことを整理します。浦添美術館での展覧会の時は三人の又吉さんの作品が展示されました。又吉健次郎さん(首里の又吉)と開南で小道具店を開いていた又吉さん(那覇の又吉)と、そしてもう一人の「首里の又吉」さん(実は修さんとおっしゃいます)。那覇の又吉さんはすでにお亡くなりになりました。
 ⇒関連記事を読む
「もう修さんも作っていないはずだよ、見に行ったけど道具もなかった。小道具屋は叩いて作っているというけど、本当はもう作る人はいなくて、外国で作っているんだよ」これが健次郎さんのお答えでした。
真喜ちゃんによると、修さんはまだ作っているはず。でも、健次郎さんと修さんは同じ門中ではあるけれど、それほど親しくない。そして健次郎さんは、踊りや芝居の小道具には興味がないから、修さんのことは分からないのだと思うとのこと。
仲嶺舞踊小道具店の仲嶺眞永さんのお話しを思い出しました。
「コンクールとかに出るようなときは、いいものを挿すでしょうが、普段はもっとね。でも、それを作る人がいなくなってしまって」

民具として、本物のジーファーにこだわる健次郎さんは、それを作る技術が途絶えてしまうのはいけないと思っています。若い金細工師がいないのは食べていけないから。だったらみんなで若い職人さんを育てて、琉球舞踊の先生になったら、その人から道具を買うというシステムにすればいい。これは健次郎さんのアイデアです。
でも琉球舞踊の人たちは、家元レベルの方々でも、小道具が本物かどうかにはあまりこだわってはいません。また、たとえこだわったとしても、本物のジーファーはとっても丈夫で、母から娘に、先生から弟子にと伝えていける道具だから、新規の需要はあまりないでしょう。上等な漆器が、何百年経っても使えるために却って新しいものが売れないという事情と同じです。

一方、房指輪は手に入らなくて琉球舞踊の人たちは困っています。でもそれも、琉球新報の舞踊コンクールのルール変更で、房指輪を使わなくてはならなくなったから、それだけのことなのです。

ともかく、「もうひとりの首里の又吉」=修さんにお会いしたくなりました。もしかすると、修さんこそ「クガニゼーク」ではない小道具を作る職人「カンゼーク」なのかもしれない……

やっぱり、小道具屋さんに何度も通って、こちらの諸々の思いをお話しして、修さんに伝えてもらうしかないのかなあ、そんな風に思ったのでした。
(宇夫方路から報告を受けた高山正樹が、宇夫方路のフリをして代筆をしました。)
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夏からずっと楽しみにしていた「さかさま執心鐘入」、いよいよ明日ですね。
特に何か用事があったわけではないのですが、ちょいとご挨拶に伺いました。
お馴染みの大城立裕先生宅です。
null最近、親子みたいです。用が無くたって教えて頂きたいことがたくさんあります。
まずは「クガニゼーク」と「カンゼーク」のこと。「クガニゼーク」のことは、はっきりしてきました。それは「クガニゼーク」が首里王朝に関わっていて、少なからず資料が残っているからです。でも今の僕が知りたいのは「カンゼーク」のことです。残念ながら大城立裕先生でも、はっきりしたことはお分かりにはなりませんでした。
立裕先生は書斎からこんな本を持って来られました。
「琉球舞踊歌劇地謡全集」です。(画像はM.A.P.所蔵本)
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この本には、こんな写真も掲載されています。
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昨夜も一緒だった関りえ子さん。
「黒島口説(くるしまくどき)」というコメント付き。

この地謡全集の40ページに、懸案の雑踊り「金細工(かんぜーく)」の歌詞が載っているのです。
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(※雑踊り「金細工(かんぜーくー)」については、過去記事に説明がありますので、どうぞそちらをお読みください。⇒http://lince.jp/hito/okinawa/kogane…
雑踊り「金細工」は明治18年に創作されたものです。
(※沖縄の廃藩置県、いわゆる「琉球処分」が明治12年ですから、首里城が明け渡されて6年後の作。「琉球処分」について⇒http://lince.jp/hito/arumise…
その地謡には、「金細工」と「鍛冶屋」(「かんじやえ」とルビが振られている)と、両方の言葉が出てきます。このことは、立裕先生も認識してはいらっしゃらなかったようです。
「伊波の金細工の加那阿兄」と「上泊鍛冶屋」。
沖縄県の運営する情報サイト「Wonder沖縄」では、それぞれ「美里村伊波の鍛冶屋の加那兄」と「上泊の鍛冶屋」と訳しています。人を指す場合と、仕事場を指す場合と、そんな区別がされているような感じです。

加那兄は、親譲りの「鞴(ふうち)」と「金具(かなぐ)」を売って辻遊廓の遊女の揚げ代を工面しようとします。「鞴」は「ふいご(吹子)」で、溶けて真っ赤になった鉄に風を送り続けて、その温度を1400℃以上に保つために必要な道具です。また「金具」のほうは、前出の「Wonder沖縄」では、「かなとこ」と訳されています。「かなとこ」を漢字で書くと「金床」で、すなわち鍛冶や金属加工を行う際に用いる作業台のことです。

果たして、遊女の真牛(モーシー)は、遊郭でジーファーを挿し、房指輪をつけて踊っていたのかどうか、加那兄は真牛に結び指輪を作ってやったことがあるのかどうか。

ところで、そもそも琉球舞踊ってなんなんだろう。琉球舞踊の現状についてはちょっと書いたことがあるし、岡本太郎の能書きも知ってはいます。でも基本的な成り立ちと変遷については、よく知らなかったなあと反省。そこで、まずはそれを調べてみよう。ということで、「カンゼーク」については、本日ココまでということに。(※琉球舞踊についての勉強成果は本記事の後ろに追加してあります。)

今日は、もうひとつ大城立裕先生に聞きたいことがありました。
船津好明さんが考案した新沖縄文字のこと。船津さんは大城立裕氏について、いつもこうおっしゃっていました。
「大城さんはウチナーグチはなくなってもいいという考えで、僕のやっていることには批判的だと思う」
しかし僕は決してそんなことは無いと思うのです。大城立裕という文学者は、その文学活動の当初から、沖縄の言葉に対して深い思いを持っていたのだと思う。ただ時代が、大城立裕の内面の襞を見なかったのです。船津さんも、大城立裕の一面だけを見て判断していらっしゃるのではないだろうか。たとえ大城さんが、ウチナーグチはなくなっていいと船津さんに言われたのだとしても、本意はそう単純なことではなかったはずだと、大城立裕の仕事を知れば知るほど、僕はそう思うのです。

でも、新沖縄文字についてはどうだろう。立裕先生は「おもろ」などの古典的表記にも造詣が深い。そういう方にとって、船津さんの新しい文字はどういうふうに受け止められるのだろうか。
そこで僕は、思い切って、この旅の始めに西岡敏先生に語ったのと同じことを、ウチナーグチを殆ど分からない者が学ぶのに、新沖縄文字が如何に有効なアイテムであるかということを、大城先生に説明してみたのです。
沖縄国際大学の西岡ゼミの研究室に伺った時の記事
すると、大城立裕先生は即座にこう答えられました。
「なるほど、そういうふうには考えたことはなかったなあ」
この反応には驚きました。こんな若造の言うことを、とてもニュートラルに受け入れてくださった。その柔軟さに、大城立裕という文学者の、物事を極めて多面的に捉えるあり方の根本を見たような気がしたのでした。
「大城立裕」は、その一面だけしか見ない多くの論者たちから、ずっと誤解されているのかもしれません。

大城立裕先生。今日はありがとうございました。
また明日、浦添の劇場でお会いしたいと思います。

《追伸》
2001年8月に出版された『琉球楽劇集真珠道』の「口上」で、大城立裕氏は次のように書いています。
(画像再掲:関連記事⇒http://lince.jp/hito/sinsaku…
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「書く動機になったのは、琉球語(うちなーぐち)のネイティヴ・スピーカー(日本とのバイリンガル)として、組踊りの書けるおよそ最後の世代ではないか、という自覚によるもので、ほとんど責任感に発しています。」
「古典を読みなおしてみたら、あらためて自分の語彙の貧しさを嘆いています。」
また「凡例」では
「歴史的仮名遣いは『沖縄語辞典』『沖縄古語大辞典』『琉歌古語辞典』に多くを負ったが、拗音、音便などについては、現代仮名遣いに拠ったり、さらにたとえば『召しおわれ』を『召しょうれ』とするなど、若年読者のための配慮である。」とあり、さらにローマ字表記についての説明では、沖縄的音韻にも、正確を期す配慮がなされていることがわかります。(※表記についての興味深いあとがきについては、少し長いので、後日あらためて。)

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Banちゃんに連れられて、Banちゃんの知っている店へと向かいます。

ななしん屋の前を通って。
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「ママ、今日はごめんね、また今度きまーす」
ママはいつだって笑顔です。

国際通りを渡り、浮島通りを歩いて行ったところ。
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お店の名前? さて。目だった看板も無かったような。Banちゃんに聞いてもよくわからない。

ビールを飲みながら、又吉健次郎さんの話しをちょっとしていました。首里王府に抱えられていたクガニゼークたちは、王朝という後ろ盾が無くなってどうしたのだろう。それからカンゼークのこと、カンジャーヤーのこと。
「銀のジーファーを挿して踊られていた王府御用達の琉球舞踊も、廃藩置県の後どうやって発展してきたのか」
すると、それまでお店のマスターを相手に、カウンターで一人飲んでいた男性が、こう言ったのです。
「飾り職も踊りも、辻に引き継がれたんですよ。遊女が踊って客に見せたんです。ジーファーも、辻の遊女が挿した。すいません、口を挟んで。僕は遊女が好きで、そのへんに興味があって。」

そういえば、健次郎さんの工房に貼ってあった説明書きを思い出しました。それは結び指輪についてのもので、前にも一度M.A.P.after5でご紹介しましたが、その一部をここでもう一度……
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芹沢銈介の説によりますと、この指輪はその昔、辻町の遊女が身につけていたということです。首里王朝が衰退し、明治になってからは急激な世替わりが進み、そして戦争により遊女は姿を消しました。

確かにカウンターの男性のおっしゃるとおり、「金細工」の仕事は辻の遊女と深い関わりがあったらしい。
では、首里王朝が衰退する前はどうだったのだろうか。結び指輪は、王府が無くなって初めて辻の遊女も嵌めることができるようになったのだろうか。

実は沖縄の遊郭の歴史も古く、1672年、摂政の羽地朝秀が私娼を集めて仲島(今の泉崎)に作ったのが始まりとされます。1908(明治41)年に、その仲島と渡地(わたんじ:那覇埠頭の一角)の遊郭が辻に合併され、辻は沖縄唯一の遊郭となりました。
『沖縄大百科事典』によると、王府時代の辻は、冊封のために来島した中国人の出入りする場所であり、また薩摩から派遣される在番奉行の宿舎に出入りできる女性は辻のジュリー(娼妓)だけであったとあります。つまり、王朝時代も、王府のお抱え職人が遊女のために装飾品を提供したということも十分考えられそうです。
さらに廃藩置県(琉球処分)後も、辻は衰退することはなく、昭和10年代まで沖縄の社交の中心であり、政財界の要人から農村の男まで、あらゆる階層の者が出入りする場所でした。ということは、飾り職人の技術が首里から那覇の辻へ引き継がれたのではなく、王府管轄でなくなっただけで、辻においてそのまま生き続けていたということなのかもしれません。
僕が知りたいのは、又吉さんの受け継ごうとしている「クガニゼーク」は、こうした「首里~那覇」の地理的歴史的状況と、どのように係わり合っているものなのかという事です。
そしてまた「カンゼーク」と呼ばれるものも、この関係の中に存在していたのだろうか。「クガニゼーク」が「カンゼーク」に名前を変えたのか、あくまでも別物だったのか、いずれにしてもこれは、沖縄の「伝統」を何もかも根こそぎズタズタにしてしまった、あの戦争よりもずっと前の話なのです。

僕たちは「沖縄の伝統」という時、実はふたつの大きな悲劇があったのだということを忘れてはなりません。それは、まずは戦争のこと。そして「廃藩置県」のこと。

少し歴史の話をさせてください。
日本の学校では、「廃藩置県」は1871(明治4)年に行われたと教わります。しかしそれは「大和」だけのこと、この時点では、琉球は薩摩に支配されてはいたけれど、間違いなく独立国でした。明治政府は、日本で「廃藩置県」が行われた翌年、強引に琉球国をまず「琉球藩」とするのです。その後、色々な経緯を経て、1979(明治12)年3月27日、日本は琉球藩に廃藩置県の布達をします。そしてついに首里城は明け渡され、琉球国は滅びる。この一連の措置が、いわゆる「琉球処分」と呼ばれているものなのです。

この史実を、人民の解放と捉える人たちもいます。僕はここで、その議論をするつもりはありませんし、どんな立場もとりません。でも少なくとも、大和の「廃藩置県」と沖縄の「廃藩置県」を、同じものとして論ずることは間違っていると思います。また、「琉球処分」を考えることによって、日本の廃藩置県とはいったいなんだったのかを問い直すきっかけにもなると思うのです。

話が大きくなりすぎました。元に戻しましょう。はたして又吉健次郎さんは、自らの仕事を、あらためて「クガニゼーク」とすることによって、どの時代まで回帰されようとしているのでしょうか。
(※僕は、1880年、明治13年に新制度の学校教育が沖縄に導入された前の時点の、その頃の言葉を一度復活させることが重要なのではないかと、密かに思っているのです。何故なら、それ以後の言葉の変遷は、沖縄自身が主体的に選び取った結果ではなかったのだから。)

首里王府の時代から琉球処分を経て戦争までと、その戦争の後から現代までと、きちんと切り分けて、「クガニゼーク」と「カンゼーク」とは、いったいなんであったのか、もう少し探ってみたいと、僕は思っています。
カウンターの男性と、色々とコアな話をしていたら、店の外で入りずらそうにしている若者3人。
彼らはカウンターの男性、仲石亨さんのやっている、“MAXⅠ”と“MAXⅡ”と“CASA MAX”というお店の若い子たちでした。
どういうお店かというと、おじさんには説明しにくいんですが、要するに着るものだとかアクセサリーだとかを売っているお店。工房も持っていらして、そこでオリジナルなものも作っているのです。若くして(っていくつだか知らないけれど)たいしたものです。
そんなわけで、仲石さんは又吉さんの銀細工にもご興味があったらしいのです。
好青年3人が加わって、話は益々ヒートアップ(って俺だけか)。沖縄の工芸のこと、言葉のこと、偏屈な首里のオジイのこと。
「この店のマスターの金城さんも首里ですよ」
こいつは失礼。

とっても盛り上がって、その勢いで記念撮影。
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左のでっかい人が仲石亨さんです。後ろでバンザイしてるのがお店のマスター金城正尚さんです。関りえ子さんも一緒。
撮影してくれたのはBanちゃんです。

それから、みんなで名刺交換しました。お店のマスターの金城さんの名刺も頂きました。肩書きは映像ディレクター。裏には、「どっちの料理ショー」とか「タモリ倶楽部」とか「ボキャブラ天国」とか、「主な担当番組」が印刷されてあります。でも店の名前がわからない。でも、場所覚えたから、ま、いっか。

明日、久しぶりに健次郎さんの工房に伺います。

《追伸》
MAX CASAの暖簾です。
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中華料理屋かと思ったら、よく見るとたしかに「MAX」ってなってるね。
MAXのSHOP MAP
それから、帰ってインターネットで検索したら、金城正尚さんのお店の名前が分かりました。
“立ち呑みBar Kahu-si(カフーシ)”だって。
http://www.kahu-si.com(“カフーシ”のHP)
でね、そのインフォメーションのページのNEWSによると
「2009.06.30 OKINAWAN BAR 100に掲載されました」
とあるではないですか。
こいつは大変失礼いたしました。
そして、さらに、この「OKINAWAN BAR 100」の文字をクリックすると、わが楽天市場沖縄mapに飛ぶではありませんか。
もう、びっくり!

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ことの発端はmixiとやらなのです。まず、下記記事をお読みください。
http://lince.jp/hito/okinawamap/tv2…
この後、コメントが付いた。どうして「くがにぜーく」が正しいなどと簡単に言えるのかというような主旨。

確かに、健次郎さんから頂いた名刺も、工房の看板も、「金細工」には「かんぜーく」のルビが振ってあった。健次郎さんの愛犬“カン吉”は、「かんぜーく」の「カン」と又吉の「吉」をとって健次郎さんが名づけたというくらいですから、「かんぜーく」が間違いだなんて、他人が簡単にとやかく言うことではない、それはその通りでしょう。
しかし、少しでも調べて素直に考えれば、やっぱり健次郎さんがやられている今現在の仕事は、「くがにぜーく」としかいいようのないものです。健次郎さん御自身も、そう認識されたということなのだと思います。健次郎さんはやはり「くがにぜーく」である、現時点で僕の知っている資料からは、そう結論するしかありません。

しかし、一方で「かんぜーく」と名乗った人たち、そう呼ばれた人たちの存在を否定するものでもありません。むしろそういう人たちがいたのならば、とっても知りたくなってきたのです。
さて、どうやって調べたらいいのだろう。
インターネットあたりで又吉健次郎さんを「かんぜーく」と呼ぶ人たちにそれを聞いても、わかるはずもありません。

そこで……

2002年に、南風原文化センターで「匠の技にふれる 黄金細工と鍛冶屋展」という企画展が開かれました。その「黄金細工」と「鍛冶屋」には、それぞれ「くがにぜーく」と「かんじゃーやー」とルビが振られてありました。しかし、僕の知る限り、「くがにぜーく」は「金細工」という表記でいいはずです。それを「黄金細工」としたことについて是非知りたいと思いました。
そしてこういうことに詳しい方がいれば、「かんぜーく」についてもはっきり説明してもらえるかもしれません。なぜ、又吉健次郎は「かんぜーく」ではなく「くがにぜーく」なのか。

話しをちょっと戻します。沖縄の言葉において、漢字とルビの関係は、とても難しいものがあります。元々ある言葉に漢字を当てたのか、最初に漢字があってその読み方を仮名で表記しているのか、それを見極めないと、関連する歴史そのものを間違えてしまうこともあるのです。

南風原の企画展において、なぜ「くがにぜーく」という言葉に「黄金細工」という文字を当てたのか、元々「黄金細工」という文字が何かの資料にあるのだろうか。

昨日の11月13日、東京から直接南風原役場に電話をして伺いました。
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対応してくださった平良さんという文化担当の女性の方は、「くがにぜーく」に「黄金細工」という文字を当てた理由について、次のように答えくださいました。

1:「かんぜーく」とはっきり区別するため。
2:2002年当時、くがにぜーくに携わっていらっしゃる方は、もう又吉健次郎さんのお一人しかいらっしゃらなくなっていた。その貴重であるということを表現するために、色々みんなで相談して「黄金」という字をあてたと記憶している。
3:また南風原町には有名な黄金森(くがにむい)があり、住んでいる方々は「こがね=くがに」といえば、自然に「黄金」という字を想い起こすという事情があった。

要するに、「くがにぜーく」に「黄金細工」という文字を当てたのだが、それには、何か歴史的学問的な事例に基づいた理由があったというわけではなさそうです。

さて、聞きたいのはここから先です。又吉さんのような飾り職人を、「かんぜーく」と呼んでいた歴史的な事実はないか、例えば健次郎さんの先代のころはどうだったのかろうか、僕はしつこく聞きました。平良さんは、それにも大変丁寧に答えてくださいました。
「多分、飾り職人のご本人は、ご自分のことを『くがにぜーく』とおっしゃることはないと思うのです。また周りの人たちは、飾り職人の方々を『かんぜーく』とは呼ばないでしょう。尊敬を込めて『くがにぜーく』と呼んでいたのだと思います。」

健次郎さんに電話をしました。
健次郎さんは、お父様が「くがにぜーく」とも「かんぜーく」とも口にされたことを聞いたことがないそうです。ただ王府に「くがにぜーく奉行」というものがあって、首里にはその職人町があった。その流れであることには間違いはないとおっしゃいました。
最近、県の金工部門の人にも「くがにぜーく」にしなさいと強く言われたそうです。
今、県内に「くがにぜーく」と書かれた史跡はひとつも残っていない。このままだと、50年たったら「くがにぜーく」という言葉は無くなってしまう。「くがにぜーく」を受け継ぐ者として、それでいいのか、なんとかしなければいけないという思いが強くなったのだと健次郎さん。

又吉健次郎さんは、受け継ぐ者が自分ひとりになった時、皮肉にもそれがひとりだけのものではないということに気が付いたということなのでしょう。なんとかしなければいけない、その決意には、謙虚な気持ちで自分のことを「クガニゼーク」とは呼ばずに「カンゼーク」と名乗る、などというような、ナイーブな個人的な心情の入り込む余地は、最早ないのではないかと、僕には感じられたのです。

平良さんは、金細工を研究している詳しい方がいらっしゃるので、聞いてくださるとのこと、来週から沖縄へ行くので、是非ともお伺いしようと心に決めたのでした。
(文責:高山正樹)
[subcate.クガニゼークーのこと]

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“ゆーゆーらーさん”でお昼。
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「ゆーゆーらーさん」とは、ゆったりいこうよ、みたいな感じ。

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フーチバーが別のお皿に。お好みでトッピングしてねということですね。

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御馳走様でした。

又吉さんの工房へ向かいます。
金細工“またよし”の看板

又吉健次郎さんです。
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又吉さんに初めて会った日のこと
若い人たちにがんばって貰いたい、私が参加することで華やかになり、後方支援になるならと、作品提供にも快くOKしてくださいました。こんなうれしいことはありません。
けれども、一緒に働いていらっしゃる姪御さんが、何でも引き受けて無理をして、後でうちあたいするんだからと心配されていらっしゃいました。うーん、この「うちあたいする」のニュアンスは難しいなあ。後で反省しちゃうというような感じでしょうか、でも、「うちあたい」には、ほんとうはもっと豊かなイメージが含まれてるんですよねえ。

ともかく、ご無理はさせられませんので、十分に配慮させていただきたいと思っています。

というわけで、ちょっと作品のご紹介。
房指輪という古式豊かな婚礼の指輪には、素朴な形の七飾りがついています。房指輪というものがどういう歴史を辿ってきたものなのかなどについては、ここで説明する余裕はないのですけれど、房指輪ばかりではなく、健次郎さんは、その七飾りのひとつひとつをペンダントにしたものも作っていらっしゃいます。
それがこれです。
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眩しい……!
もちろん、鎖まで全て銀です。

そしてもうひとつの指輪、“結び指輪”
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工房の入口に貼ってあった説明書きを引用させていただきます。

 2本の銀線を加熱して、親指と人差し指で結んだ指輪、その結び目には男と女の出会いと絆を表しているようにもみえます。
 1950年代、染色家の芹沢銈介の供した資料を版画家の棟方志功が図案にした一枚のスケッチをもとに六代目誠睦が生みだすように復元したのがこの結び指輪です。
 芹沢銈介の説によりますと、この指輪はその昔、辻町の遊女が身につけていたということです。首里王朝が衰退し、明治になってからは急激な世替わりが進み、そして戦争により遊女は姿を消しました。この150年の間に遊女が手にしていた銀の結び華は消えてしまったのです。
 世界のどこにでもなく、沖縄の、首里の、この工房にある一個の結び指輪は、長い年月を経て、遠い道程をたどって、こうして、いま、この金床の上にあるのです。琉球史の浮き沈みの中で咲いた結び指輪は今、多くの人とむすばれ親しまれています。


トンテンカン、カンカンカン…
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じいじが かんかんすると かんきち も わんわん

今度来たときには、無理をしていただかなくても大丈夫な作品を決定して、そして、お孫さんと、かんきち君にも会えるかな。

第5報に続く



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高山正樹 Masaki Takayama
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