7月23日金曜日: お久しぶりの儀間進先生(後日執筆)
5月17日月曜日: 大江健三郎を朗読するという無謀な実験
【“大川端語りの会”で朗読の実験】
毎月第4日曜日に、武順子さんが開かれている“大川端語りの会”に、高山正樹がゲスト出演することになりました。
日時:5月23日(日)午後3時開演
場所:そら庵
(東京都江東区常盤1-1-1 Tel:050-3414-7591)
⇒そら庵のホームページ
⇒そら庵アクセスマップ
料金:1,500円(ワンドリンク付)
演目:川端康成「美しい日本の私」 朗読:武順子
大江健三郎「文学者の沖縄責任」 朗読:高山正樹
⇒そら庵のブログの告知記事
(高山正樹のコメント)
好き嫌いではない。思想的な傾向をとやかく言いたくもない。ただ、僕にとって、大江健三郎という作家が特別な何者かであったことは間違いない。
“社長とは呼ばないで”にも「大江健三郎」という文字は何度も登場する。
例えばそのうちのひとつ……
⇒ 左右を良く確認して首を吊る
「社長とは…」は、停滞している極私的なブログだが、再開すれば《過去のノート》のカテゴリに「大江健三郎」はまだまだ顔を出すことだろう。
武順子さんより朗読会出演の依頼を頂いて考えた。「社長とは…」で、やはり中断している「朗読の形而上学」と同じ思い、かつて演劇において、演劇から文学性をとことん排除して本質を追及した結果、言葉のない「舞踏」が生まれたように、「朗読」もまた他者が書いた文章を読むということ、書き手の伝えたい論理を伝達するということの可能性(あるいは不可能性)を、とことん考える実験をしてみたいと思い、武さんに無理をお願いした。
今回の実験にとって、大江健三郎の沖縄に関する文章が、今の僕の関心にも重なって最適だと考えた。そして「沖縄日記」という題材を選んだ。

上の画像は1971年の夏から73年の秋にかけて発刊された季刊誌『沖縄経験』である。季刊誌だが数が合わない。71年の冬と72年の夏が抜けている。72年の秋の4号のあと、一年後の73年秋に5号が出てそれが最後となる。

編集は大田昌秀氏と大江健三郎氏。発行人は「大江健三郎」、発行所は「大江健三郎方」となっていて大江氏個人の住所が記されている。まさに自費出版の個人雑誌。
ちなみに、第一号には、大城立裕氏が「正直になろう」という一文を、儀間進氏が「コミュニケイションとしてのコザ反米騒動」という評論を寄せている。
「沖縄日記」は、この季刊誌に大江健三郎氏が連載していた時事評論である。
“おきなわおーでぃおぶっく”でお世話になっている日本文藝家協会を通じて、大江氏に許諾申請を出した。しかし、「沖縄日記」が書き直しを経ていない「テクスト」であるからという理由で、残念ながら許可してはいただけなかった。「お許しください」という丁寧な言葉が添えられていた。
ところで、この「沖縄日記」という季刊誌がなぜ5号で廃刊になったのか、昔から気になっていたのだが定かでない。(今度、大城さんか儀間さんに伺ってみれば何か教えていただけるのだろうか。)
大江健三郎の文章を朗読することは無理かとも思ったが、やはりどうも諦められない。今一度探してみた。

『鯨の死滅する日』所収の「文学者の沖縄責任」
1926年、『中央公論』3月号に広津和郎の「さまよえる琉球人」が発表される。4月、沖縄青年同盟の抗議文が報知新聞に掲載、それを受けて広津は自ら「さまよえる琉球人」を永久に発禁とする。
1970年、沖縄側からの要望により「さまよえる琉球人」が復刻されることになるのだが、「文学者の沖縄責任」はその際、大江健三郎が『群像』に発表した文章である。
それをもって再度使用の許諾を打診していたが、本日大江健三郎氏より許可の連絡があった。
武順子さんが読まれるのは川端康成の「美しい日本の私」、これでノーベル賞作家を読むという当初の目論見を崩さずに済んだ。「美しい日本の私」で使われている言葉は、かなり難解らしい。大江健三郎の「文学者の沖縄責任」は、使われている単語そのものには特に難しいものはない。が、その論理性は一読してスッと理解できる代物ではない。
1927年と1970年と、そして現在の2010年の状況と、広津和郎とそれを論ずる大江健三郎と、それを読む僕と、その声を聞くお客様という、極めて複雑な関係性から何が見えてくるのか、今から楽しみである。

(追伸)
辺野古が注目されている今、『鯨の死滅する日』とは、なんとも不思議な符号です。押し詰まっての告知ではありますが、お時間があれば、是非とも珍しき試み(苦痛な時間?)を味わいにおいでくださいませ。
(しかし、大江健三郎を朗読しようなんて変人はいらっしゃらないようで。でも大城立裕氏の「カクテル・パーティー」に較べれば……、いや、どっちもどっちかな。)
日時:5月23日(日)午後3時開演
場所:そら庵
(東京都江東区常盤1-1-1 Tel:050-3414-7591)
⇒そら庵のホームページ
⇒そら庵アクセスマップ
料金:1,500円(ワンドリンク付)
演目:川端康成「美しい日本の私」 朗読:武順子
大江健三郎「文学者の沖縄責任」 朗読:高山正樹
⇒そら庵のブログの告知記事
(高山正樹のコメント)
好き嫌いではない。思想的な傾向をとやかく言いたくもない。ただ、僕にとって、大江健三郎という作家が特別な何者かであったことは間違いない。
“社長とは呼ばないで”にも「大江健三郎」という文字は何度も登場する。
例えばそのうちのひとつ……
⇒ 左右を良く確認して首を吊る
「社長とは…」は、停滞している極私的なブログだが、再開すれば《過去のノート》のカテゴリに「大江健三郎」はまだまだ顔を出すことだろう。
武順子さんより朗読会出演の依頼を頂いて考えた。「社長とは…」で、やはり中断している「朗読の形而上学」と同じ思い、かつて演劇において、演劇から文学性をとことん排除して本質を追及した結果、言葉のない「舞踏」が生まれたように、「朗読」もまた他者が書いた文章を読むということ、書き手の伝えたい論理を伝達するということの可能性(あるいは不可能性)を、とことん考える実験をしてみたいと思い、武さんに無理をお願いした。
今回の実験にとって、大江健三郎の沖縄に関する文章が、今の僕の関心にも重なって最適だと考えた。そして「沖縄日記」という題材を選んだ。
上の画像は1971年の夏から73年の秋にかけて発刊された季刊誌『沖縄経験』である。季刊誌だが数が合わない。71年の冬と72年の夏が抜けている。72年の秋の4号のあと、一年後の73年秋に5号が出てそれが最後となる。
編集は大田昌秀氏と大江健三郎氏。発行人は「大江健三郎」、発行所は「大江健三郎方」となっていて大江氏個人の住所が記されている。まさに自費出版の個人雑誌。
ちなみに、第一号には、大城立裕氏が「正直になろう」という一文を、儀間進氏が「コミュニケイションとしてのコザ反米騒動」という評論を寄せている。
「沖縄日記」は、この季刊誌に大江健三郎氏が連載していた時事評論である。
“おきなわおーでぃおぶっく”でお世話になっている日本文藝家協会を通じて、大江氏に許諾申請を出した。しかし、「沖縄日記」が書き直しを経ていない「テクスト」であるからという理由で、残念ながら許可してはいただけなかった。「お許しください」という丁寧な言葉が添えられていた。
ところで、この「沖縄日記」という季刊誌がなぜ5号で廃刊になったのか、昔から気になっていたのだが定かでない。(今度、大城さんか儀間さんに伺ってみれば何か教えていただけるのだろうか。)
大江健三郎の文章を朗読することは無理かとも思ったが、やはりどうも諦められない。今一度探してみた。
『鯨の死滅する日』所収の「文学者の沖縄責任」
1926年、『中央公論』3月号に広津和郎の「さまよえる琉球人」が発表される。4月、沖縄青年同盟の抗議文が報知新聞に掲載、それを受けて広津は自ら「さまよえる琉球人」を永久に発禁とする。
1970年、沖縄側からの要望により「さまよえる琉球人」が復刻されることになるのだが、「文学者の沖縄責任」はその際、大江健三郎が『群像』に発表した文章である。
それをもって再度使用の許諾を打診していたが、本日大江健三郎氏より許可の連絡があった。
武順子さんが読まれるのは川端康成の「美しい日本の私」、これでノーベル賞作家を読むという当初の目論見を崩さずに済んだ。「美しい日本の私」で使われている言葉は、かなり難解らしい。大江健三郎の「文学者の沖縄責任」は、使われている単語そのものには特に難しいものはない。が、その論理性は一読してスッと理解できる代物ではない。
1927年と1970年と、そして現在の2010年の状況と、広津和郎とそれを論ずる大江健三郎と、それを読む僕と、その声を聞くお客様という、極めて複雑な関係性から何が見えてくるのか、今から楽しみである。
(追伸)
辺野古が注目されている今、『鯨の死滅する日』とは、なんとも不思議な符号です。押し詰まっての告知ではありますが、お時間があれば、是非とも珍しき試み(苦痛な時間?)を味わいにおいでくださいませ。
(しかし、大江健三郎を朗読しようなんて変人はいらっしゃらないようで。でも大城立裕氏の「カクテル・パーティー」に較べれば……、いや、どっちもどっちかな。)
喜納昌吉のライブで初めて会った天空企画の智内好文さんからご案内をいただいていた今日のイベント。
『ポスト噂の眞相』プレゼンツ
普天間移設問題と沖縄
日時:5月16日(日)19:00~
会場:Naked Loft
出演:岡留安則、宮台真司、保坂展人
残念ながら仕事が山積みで伺えなかったが、ニコニコ動画とやらで中継していたらしく、その後もインターンネットで見ることができるようだ。《官僚・米軍・マスコミ》対《民主党》という構造の認識は、喜納昌吉ライブでの対談と共通する。巨大メディアの情報ばかりに触れているとなかなか聞こえてこない意見。賛同するかどうかはともかくも、一度聞いておいても損ではないかも。但し60分×3本。覚悟してご覧あれ。
⇒1/3 ⇒2/3 ⇒3/3
さて、智内さんの天空企画とは何かというと、本の編集プロダクション。いい企画を考えて出版社に持ち込む。
僕の書斎にも、天空企画が関わっている本が何冊か並んでいた。

どちらも、かなり著名な方々が名を連ねている本だが、ここではM.A.P.に縁のある方々だけご紹介しよう。
2009年2月刊の『沖縄ちゅーん』には、松元裕之氏が「『アメリカー』なゲート通りに、今日も『唄』は流れて……」というコラムを書いている。また岡本ホーテンさんが「島うた」について書いていたり、BIGINにインタビューしていたりする。松元さんもホーテンさんも、先日の喜納昌吉ライブで初めてお会いした方である。
また『ウチナー・ポップ』の方は1997年の刊行だからかなり古いが、そこには儀間進さんが「ウチナーグチ会話講座」なるものを書かれている。また今は亡き船越義彰氏が沖縄の妖怪「キジムナー」についての素敵な文章を寄せている。
残念ながらM.A.P.に縁はないが、細野晴臣氏の「与那国~精霊の島巡礼記」。そうなんだよなあ、M.A.P.には離島の風が欠落しているんだ、そんなことを思わせる文章である。
それから、文庫本も見つけた。
知恵の森文庫の『オキナワドリーム』

2003年の発行だが、松元裕之さんが沖縄の埋立事情に疑問を呈している。
また比嘉バイロンさんがインタビューを受けている。
2003年ではM.A.P.はまだ存在していなかったが、前身のM企画で、ただただ地図の仕事をしていた頃。
M.A.P.はヒヨッコなのである。
『ポスト噂の眞相』プレゼンツ
普天間移設問題と沖縄
日時:5月16日(日)19:00~
会場:Naked Loft
出演:岡留安則、宮台真司、保坂展人
残念ながら仕事が山積みで伺えなかったが、ニコニコ動画とやらで中継していたらしく、その後もインターンネットで見ることができるようだ。《官僚・米軍・マスコミ》対《民主党》という構造の認識は、喜納昌吉ライブでの対談と共通する。巨大メディアの情報ばかりに触れているとなかなか聞こえてこない意見。賛同するかどうかはともかくも、一度聞いておいても損ではないかも。但し60分×3本。覚悟してご覧あれ。
⇒1/3 ⇒2/3 ⇒3/3
さて、智内さんの天空企画とは何かというと、本の編集プロダクション。いい企画を考えて出版社に持ち込む。
僕の書斎にも、天空企画が関わっている本が何冊か並んでいた。
どちらも、かなり著名な方々が名を連ねている本だが、ここではM.A.P.に縁のある方々だけご紹介しよう。
2009年2月刊の『沖縄ちゅーん』には、松元裕之氏が「『アメリカー』なゲート通りに、今日も『唄』は流れて……」というコラムを書いている。また岡本ホーテンさんが「島うた」について書いていたり、BIGINにインタビューしていたりする。松元さんもホーテンさんも、先日の喜納昌吉ライブで初めてお会いした方である。
また『ウチナー・ポップ』の方は1997年の刊行だからかなり古いが、そこには儀間進さんが「ウチナーグチ会話講座」なるものを書かれている。また今は亡き船越義彰氏が沖縄の妖怪「キジムナー」についての素敵な文章を寄せている。
残念ながらM.A.P.に縁はないが、細野晴臣氏の「与那国~精霊の島巡礼記」。そうなんだよなあ、M.A.P.には離島の風が欠落しているんだ、そんなことを思わせる文章である。
それから、文庫本も見つけた。
知恵の森文庫の『オキナワドリーム』
2003年の発行だが、松元裕之さんが沖縄の埋立事情に疑問を呈している。
また比嘉バイロンさんがインタビューを受けている。
2003年ではM.A.P.はまだ存在していなかったが、前身のM企画で、ただただ地図の仕事をしていた頃。
M.A.P.はヒヨッコなのである。
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5月15日土曜日: 新宿~喜多見
【今日が“沖縄本土復帰記念日”だということを忘れていた】
池袋から《再び新宿》へ。
久しぶりの市場寿司。久しぶりの菊地さん。久しぶりの渡口さん。

⇒前回の市場寿司
今日は、ナーファンチュ(那覇人)の夏っちゃんを連れて行ったから、渡口さんは今までに無く饒舌に、昔の沖縄のを語った。
そして、記念撮影まで付き合ってくれた。

菊地さんと、今度は喜多見で飲む約束をして、お開きにしたのだった。
《喜多見》の改札を出るとAFROISMのAtsushi君にバッタリ会った。

ふたりとも、忘れてないよね、あのことさ。
久しぶりの市場寿司。久しぶりの菊地さん。久しぶりの渡口さん。
⇒前回の市場寿司
今日は、ナーファンチュ(那覇人)の夏っちゃんを連れて行ったから、渡口さんは今までに無く饒舌に、昔の沖縄のを語った。
そして、記念撮影まで付き合ってくれた。
菊地さんと、今度は喜多見で飲む約束をして、お開きにしたのだった。
《喜多見》の改札を出るとAFROISMのAtsushi君にバッタリ会った。
ふたりとも、忘れてないよね、あのことさ。
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11月20日金曜日: 素敵な仲間がたくさんできました
10ヶ月ぶりの“じんじん”です。
⇒前回“じんじん”に行った日の記事4ヶ月ぶりの儀間進さんです。
⇒前回、宇夫方が儀間進さんにお会いした日の記事
そして2ヶ月前、宇夫方路が“儀間進のコラムを読む”那覇チームの皆さんとお会いしました。前回は6名のメンバーのうち2名でしたが、その後メンバーが1名増えて、今日はその7名のうち4名の方が集まってくださいました。僕は皆さんと初対面です。
⇒前回2名の方と宇夫方がお会いした時の記事
実際に儀間進さんのコラムを読んで録音するのは少し先になりそうですが、その準備段階として、とてもステキな広がりが見えてきました。
沖縄語を話す会の國吉眞正さんにも、大変お世話になっています。今日のところは、その全てをミステリーということにしておきますが、近日中に、色々な発表ができると思っています。
それにしても、今日はわたくし高山正樹が喋りすぎました。まずは僕の知っている大好きな儀間さんを、どうしても皆さんに伝えたくて仕方が無かったのです。本当は儀間先生がいらっしゃるのだから、儀間さんご本人のお話をたくさん聞けばよかったのに。
⇒わたくし高山正樹が儀間進さんのことを書いた文章
しかし、やっぱり今日も儀間進さんは儀間進さんでした。
「訛っている言葉なんてない。みんな同じ言葉なんですよ」
ややもすると首里や那覇の言葉が正しいといいたくなる、それを笑顔でたしなめる儀間さん。それは儀間さんのエッセイそのものです。
「はいさい」。沖縄の挨拶としてよく知られた言葉です。しかし女性は「はいさい」とは言わない。「はいたい」が正解。そのことも、コアな沖縄フリークたちには常識になりつつあります。でも、この日、儀間さんは教えてくださいました。女性が「はいたい」というのは、首里や那覇あたりでのこと。ちょっと北に行けば男も女も「はいさい」と言っています。
(もちろん、これにも注釈があります。北部でも、「はいさい」と「はいたい」を言い分けるところもある。どちらの方が多いかは定かではありません。)
さらに田舎へ行けば「さい」も言わずに「はい」だけ。
「まるで英語のようだ」
ウチナーグチは一筋縄ではいかない、と、ますます気が引き締まります。たとえば、と僕は思うのです。「沖縄の標準語」ということを、慎重に考えてみるのはどうだろう。首里という政治・文化の中心地。那覇という街の経済の力。沖縄芝居の心。先日会ったうるま市のおばあさんのように、日本の標準語と、沖縄の標準語と、そして自分の間切りの言葉と、とりあえず三つの言葉を勉強してみるというのはどうだろう。
⇒うるま市のおばあさんに会った日のこと
(でも、それには異論があるでしょう。宮古や石垣などは全く別の言語なのですから。使われている音韻さえ違う。首里や那覇の言葉に関わる人たちが、それぞれの地域はそれぞれでおやりなさいというのは簡単です。しかし、首里や那覇だからできるという状況もあるのではないでしょうか。たとえば鹿児島県の奄美はどうするのだろう。沖縄県の条例からは漏れてしまう。間切りが違えば言葉が違う沖縄。いったいどうすればいいのか。このことはいずれ考えたいと思います。)
昼間、大城立裕さんに「新沖縄文字」について話したことを、僕は儀間さんに報告しました。
「驚きました。こんな若造の意見をきちんと聞いてくださり、ご自分にはなかった視点だということを認めてくださった。大城さんは、とても柔軟な頭脳をお持ちだということを、あらためて感じました。」
儀間さんはそれに対して、次のように答えられたのです。
「そうですね。彼のそういう柔軟さのことを、一番分かっているのは、僕だと思うんだ。」
その言葉に、僕は鳥肌が立ちました。
あの琉大文学時代にあったこと、それは調べれば調べられます。ここで僕が書くことは控えましょう。そのかわり、「社長とは呼ばないで」という怪しげなブログに書いた文章ふたつ、どうかお読みください。
⇒儀間進氏の「ほんとうのはなし」(儀間進氏のひとつの負い目)
⇒三太郎からのバースデーカード(儀間進氏のふたつ目の負い目)
そして、今まで儀間さんが話されたユーモアたっぷりの大城立裕氏のことを、きっといつかここでお話できる日が来るだろうと、確信したのでした。
今日も、じんじんのマスターが、こんな差し入れをしてくださいました。

マスター、いつもありがとうございます。
そして、この日初めてお会いした皆さま。今日はちょっと遠慮してご紹介を控えましたが、もしお許しいただけるのなら、次回は是非とも皆さん一人ひとりのウチナーグチに対する熱い思いをご紹介させていただきたいと思っています。
宜(ゆた)さる如(ぐとぅ)御願(うにげ)ーさびら
⇒前回“じんじん”に行った日の記事4ヶ月ぶりの儀間進さんです。
⇒前回、宇夫方が儀間進さんにお会いした日の記事
そして2ヶ月前、宇夫方路が“儀間進のコラムを読む”那覇チームの皆さんとお会いしました。前回は6名のメンバーのうち2名でしたが、その後メンバーが1名増えて、今日はその7名のうち4名の方が集まってくださいました。僕は皆さんと初対面です。
⇒前回2名の方と宇夫方がお会いした時の記事
実際に儀間進さんのコラムを読んで録音するのは少し先になりそうですが、その準備段階として、とてもステキな広がりが見えてきました。
沖縄語を話す会の國吉眞正さんにも、大変お世話になっています。今日のところは、その全てをミステリーということにしておきますが、近日中に、色々な発表ができると思っています。
それにしても、今日はわたくし高山正樹が喋りすぎました。まずは僕の知っている大好きな儀間さんを、どうしても皆さんに伝えたくて仕方が無かったのです。本当は儀間先生がいらっしゃるのだから、儀間さんご本人のお話をたくさん聞けばよかったのに。
⇒わたくし高山正樹が儀間進さんのことを書いた文章
しかし、やっぱり今日も儀間進さんは儀間進さんでした。
「訛っている言葉なんてない。みんな同じ言葉なんですよ」
ややもすると首里や那覇の言葉が正しいといいたくなる、それを笑顔でたしなめる儀間さん。それは儀間さんのエッセイそのものです。
「はいさい」。沖縄の挨拶としてよく知られた言葉です。しかし女性は「はいさい」とは言わない。「はいたい」が正解。そのことも、コアな沖縄フリークたちには常識になりつつあります。でも、この日、儀間さんは教えてくださいました。女性が「はいたい」というのは、首里や那覇あたりでのこと。ちょっと北に行けば男も女も「はいさい」と言っています。
(もちろん、これにも注釈があります。北部でも、「はいさい」と「はいたい」を言い分けるところもある。どちらの方が多いかは定かではありません。)
さらに田舎へ行けば「さい」も言わずに「はい」だけ。
「まるで英語のようだ」
ウチナーグチは一筋縄ではいかない、と、ますます気が引き締まります。たとえば、と僕は思うのです。「沖縄の標準語」ということを、慎重に考えてみるのはどうだろう。首里という政治・文化の中心地。那覇という街の経済の力。沖縄芝居の心。先日会ったうるま市のおばあさんのように、日本の標準語と、沖縄の標準語と、そして自分の間切りの言葉と、とりあえず三つの言葉を勉強してみるというのはどうだろう。
⇒うるま市のおばあさんに会った日のこと
(でも、それには異論があるでしょう。宮古や石垣などは全く別の言語なのですから。使われている音韻さえ違う。首里や那覇の言葉に関わる人たちが、それぞれの地域はそれぞれでおやりなさいというのは簡単です。しかし、首里や那覇だからできるという状況もあるのではないでしょうか。たとえば鹿児島県の奄美はどうするのだろう。沖縄県の条例からは漏れてしまう。間切りが違えば言葉が違う沖縄。いったいどうすればいいのか。このことはいずれ考えたいと思います。)
昼間、大城立裕さんに「新沖縄文字」について話したことを、僕は儀間さんに報告しました。
「驚きました。こんな若造の意見をきちんと聞いてくださり、ご自分にはなかった視点だということを認めてくださった。大城さんは、とても柔軟な頭脳をお持ちだということを、あらためて感じました。」
儀間さんはそれに対して、次のように答えられたのです。
「そうですね。彼のそういう柔軟さのことを、一番分かっているのは、僕だと思うんだ。」
その言葉に、僕は鳥肌が立ちました。
あの琉大文学時代にあったこと、それは調べれば調べられます。ここで僕が書くことは控えましょう。そのかわり、「社長とは呼ばないで」という怪しげなブログに書いた文章ふたつ、どうかお読みください。
⇒儀間進氏の「ほんとうのはなし」(儀間進氏のひとつの負い目)
⇒三太郎からのバースデーカード(儀間進氏のふたつ目の負い目)
そして、今まで儀間さんが話されたユーモアたっぷりの大城立裕氏のことを、きっといつかここでお話できる日が来るだろうと、確信したのでした。
今日も、じんじんのマスターが、こんな差し入れをしてくださいました。
マスター、いつもありがとうございます。
そして、この日初めてお会いした皆さま。今日はちょっと遠慮してご紹介を控えましたが、もしお許しいただけるのなら、次回は是非とも皆さん一人ひとりのウチナーグチに対する熱い思いをご紹介させていただきたいと思っています。
宜(ゆた)さる如(ぐとぅ)御願(うにげ)ーさびら
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9月26日土曜日: 青島(ちんたお)食堂で井上真喜ちゃんと
100店(飯-003)
米須さん當間さんと再会を約束して別れた後、井上真喜ちゃんとお食事です。真喜ちゃんお薦めの店へ。食いしん坊の真喜ちゃんはおいしい店をたくさん知っているので、真喜ちゃんと一緒にご飯を食べるのがいつも楽しみです。
今日は牧志にある「青島(ちんたお)食堂」に来ました。

ちなみに100店シリーズの「昼ごはん夜ごはん」でも紹介されています。
⇒http://www.ownmap.jp/100series/lunch_and_dinner…
このお店の一押しの水餃子と、真喜ちゃん一押しのトマトと玉子の炒め物と、お腹を空かせた私が食べたかったひき肉かけご飯(魯肉飯)と、坦々麺と似ている麺(坦ズン麺)を注文しました。(空腹の私に歯止めは利かないのです。)
ここは真喜ちゃんがまだ沖縄に旅行者として来ていたころによく訪れたお店、でも沖縄に住むようになってからは、真喜ちゃんも今日が始めて。なぜ遠ざかっていたかというと、看板が新しくなって「カフェ」という文字が書き加えられていて、それがソコハカとなく怪しさを醸し出して、それで何となく入れなくなったのだとか。

たしかにソフトドリンクのメニューが増えてはいる。
「でも他は昔のマンマだ。よかった。おいしい。」
皆さんも是非行ってみてください。
ちなみに100店シリーズの「カフェ」には紹介されてません。
今日はお酒抜き。なぜならカフェだから、というのは冗談、真喜ちゃん昨日までとっても忙しくてお疲れだったから。
なぜ忙しかったのかというと、又吉健次郎さんのドキュメンタリーTV番組のディレクターをしていたから。
又吉健次郎さんの仕事を残したいと、フリーのディレクター井上真喜が2年前にテレビ局に出していた企画、それが忘れたころに動き出す、こんなこともあるんですね。又吉さんは沖縄タイムス賞を受賞したし、時代が又吉健次郎を発見したということなのかな。
そういえば、自分の仕事を画像で残そうとしているという話を、又吉さんから聞いていましたっけ。
⇒その時の記事を読む
沖縄屈指の名カメラマンが撮影して下さって、映画のように美しい画像が撮れました。
又吉健次郎さんの作ったジーファー(簪)を挿すために、琉球結髪の第一人者小波則夫さんが沖縄民謡の第一人者大城美佐子さんの髪を結う、そんな場面もあって、それは見逃せない貴重な画像です。
又吉健次郎さんが語る飄々とした言葉の数々、でもそれらの言葉は、実は深いところで、又吉さんのたったひとつの思いにつながっていたのだということが、この番組の制作を通じてわかったと真喜ちゃん。そんなミステリーの謎解きは番組の最後で、だから今日は内緒です。
番組は「生きる×2」。副題が「琉球金細工・最後の職人」。
放送予定は…
【沖縄】
10月10日(土)朝5時45分からRBC
10月11日(日)朝5時30分からOTV
【関東圏】
10月18日(日)朝5時20分からテレビ朝日
番組紹介の詳細は民間放送教育協会のホームページをご覧ください。でも、放送の一週間前にならないと番組内容などアップしないみたいだけれど。
⇒民間放送教育協会のホームページ
他の地域の「生きる×2」の放送予定などはこちらからどうぞ。
⇒テレビ朝日の「生きる×2」のページ
さあ井上真喜ちゃん、11月は“おきなわおーでぃおぶっく”「儀間進のコラムを読む」のディレクター、よろしくね。
お疲れの真喜ちゃんと別れても、宇夫方路の沖縄の夜はまだまだ終わらないのでした。だってここ、パラダイス通りが近いんですもの……
今日は牧志にある「青島(ちんたお)食堂」に来ました。
ちなみに100店シリーズの「昼ごはん夜ごはん」でも紹介されています。
⇒http://www.ownmap.jp/100series/lunch_and_dinner…
このお店の一押しの水餃子と、真喜ちゃん一押しのトマトと玉子の炒め物と、お腹を空かせた私が食べたかったひき肉かけご飯(魯肉飯)と、坦々麺と似ている麺(坦ズン麺)を注文しました。(空腹の私に歯止めは利かないのです。)
ここは真喜ちゃんがまだ沖縄に旅行者として来ていたころによく訪れたお店、でも沖縄に住むようになってからは、真喜ちゃんも今日が始めて。なぜ遠ざかっていたかというと、看板が新しくなって「カフェ」という文字が書き加えられていて、それがソコハカとなく怪しさを醸し出して、それで何となく入れなくなったのだとか。
たしかにソフトドリンクのメニューが増えてはいる。
「でも他は昔のマンマだ。よかった。おいしい。」
皆さんも是非行ってみてください。
ちなみに100店シリーズの「カフェ」には紹介されてません。
今日はお酒抜き。なぜならカフェだから、というのは冗談、真喜ちゃん昨日までとっても忙しくてお疲れだったから。
なぜ忙しかったのかというと、又吉健次郎さんのドキュメンタリーTV番組のディレクターをしていたから。
又吉健次郎さんの仕事を残したいと、フリーのディレクター井上真喜が2年前にテレビ局に出していた企画、それが忘れたころに動き出す、こんなこともあるんですね。又吉さんは沖縄タイムス賞を受賞したし、時代が又吉健次郎を発見したということなのかな。
そういえば、自分の仕事を画像で残そうとしているという話を、又吉さんから聞いていましたっけ。
⇒その時の記事を読む
沖縄屈指の名カメラマンが撮影して下さって、映画のように美しい画像が撮れました。
又吉健次郎さんの作ったジーファー(簪)を挿すために、琉球結髪の第一人者小波則夫さんが沖縄民謡の第一人者大城美佐子さんの髪を結う、そんな場面もあって、それは見逃せない貴重な画像です。
又吉健次郎さんが語る飄々とした言葉の数々、でもそれらの言葉は、実は深いところで、又吉さんのたったひとつの思いにつながっていたのだということが、この番組の制作を通じてわかったと真喜ちゃん。そんなミステリーの謎解きは番組の最後で、だから今日は内緒です。
番組は「生きる×2」。副題が「琉球金細工・最後の職人」。
放送予定は…
【沖縄】
10月10日(土)朝5時45分からRBC
10月11日(日)朝5時30分からOTV
【関東圏】
10月18日(日)朝5時20分からテレビ朝日
番組紹介の詳細は民間放送教育協会のホームページをご覧ください。でも、放送の一週間前にならないと番組内容などアップしないみたいだけれど。
⇒民間放送教育協会のホームページ
他の地域の「生きる×2」の放送予定などはこちらからどうぞ。
⇒テレビ朝日の「生きる×2」のページ
さあ井上真喜ちゃん、11月は“おきなわおーでぃおぶっく”「儀間進のコラムを読む」のディレクター、よろしくね。
お疲れの真喜ちゃんと別れても、宇夫方路の沖縄の夜はまだまだ終わらないのでした。だってここ、パラダイス通りが近いんですもの……
9月26日土曜日: ずっとウチナーグチを学んでいくために
那覇空港からモノレールに乗って、いきなり今回の旅のメインイベントです。
昨年の那覇市のカルチャーで、比嘉光龍(バイロン)さんのウチナーグチの講座を受講していた方々が、“おきなわおーでぃおぶっく”の企画、「儀間進さんのコラムを読む」の読み手として、この度、手を上げてくださったのです。
総勢6人ほどのメンバーの内、今日はお二人の方にお会いしました。
久茂地の寿山(ジュザン)という古い喫茶店にて。

米須美津さんと當間みえさんです。

お亡くなりになった當間さんのお父様は、一切ウチナーグチを使われることはありませんでした。お母様も御同様、でもお父様が亡くなってからは、やっとウチナーグチでお話をされるようになったのだそうです。
お二人とも聞くことはある程度できるのだけれど、話すことができない、それで市民講座を受けてみようと思い立った、でも、9月から11月の3か月間、やっぱりそんな短期間でマスターできるものではありません。
講座が終わってからも、何とかウチナーグチの勉強を続けていきたい、光龍さんにも相談をしてみたのですが、なかなかいい方法が見つからず、行き詰っていたところ、私たちM.A.P.の企画をお知りになったようです。
とりあえず勉強を再会するための、ひとつの目標になると喜んでくださいました。
私たちはこの“おきなわおーでぃおぶっく”の企画が、参加して下さった方々にとって個々さらに勉強を続けていくきっかけになってくれればいいと考えていました。しかし、ウチナーグチをめぐる色々な現状を知れば知るほど、ウチナーグチを守ろうという機運はとっても盛り上がっているのだけれど、そしてウチナーグチに関わる「イベント」もたくさんあるのだけれど、本当に学びたい人たちが継続的に学べる環境が、色々な面において整っていないということにも気づかされてきました。
今、私たちは、「儀間進氏のコラムを読む」という企画が、こうしたイベントの一つに埋もれてしまってはいけないのではないかと思い始めました。そうして私たちは、この“おきなわおーでぃおぶっく”の企画の先に、継続的にウチナーグチを学びたいと考える方々の受け皿を、何とかして作っていきたいと考えています。
その意味で、東京の「沖縄語を話す会」が、20年以上も地道な活動を続けてこられたことを、心から尊敬します。そして、M.A.P.がその「沖縄語を話す会」と繋がりがもてたことを、あらためてとっても嬉しく思っているのです。
米須さん當間さんはじめ、まだお目にかかっていない皆様、どうやったらウチナーグチの勉強を続けていけるのか、一緒に一生懸命考えていきましょうね。
どうぞよろしくお願いいたします!
この後、井上真喜ちゃんと待ち合わせ。
最近進出してきたジュンク堂書店前にて。

そして「儀間進氏のコラムを読む」沖縄チームの録音の打合せ。
ところで真喜ちゃん、去年エイサーを習った。米須さんたちが参加したのと同じ那覇の市民講座。だから真喜ちゃん、米須さんたちと面識があるそうです。
真喜ちゃんのことは、次の記事にて、あらためて。
ところで真喜ちゃん、M.A.P.after5にしょっちゅう登場するので、この際「井上真喜」のサブカテゴリーを作っちゃいました。真喜ちゃんファンの方々は、そちらからどうぞ。
昨年の那覇市のカルチャーで、比嘉光龍(バイロン)さんのウチナーグチの講座を受講していた方々が、“おきなわおーでぃおぶっく”の企画、「儀間進さんのコラムを読む」の読み手として、この度、手を上げてくださったのです。
総勢6人ほどのメンバーの内、今日はお二人の方にお会いしました。
久茂地の寿山(ジュザン)という古い喫茶店にて。
米須美津さんと當間みえさんです。
お亡くなりになった當間さんのお父様は、一切ウチナーグチを使われることはありませんでした。お母様も御同様、でもお父様が亡くなってからは、やっとウチナーグチでお話をされるようになったのだそうです。
お二人とも聞くことはある程度できるのだけれど、話すことができない、それで市民講座を受けてみようと思い立った、でも、9月から11月の3か月間、やっぱりそんな短期間でマスターできるものではありません。
講座が終わってからも、何とかウチナーグチの勉強を続けていきたい、光龍さんにも相談をしてみたのですが、なかなかいい方法が見つからず、行き詰っていたところ、私たちM.A.P.の企画をお知りになったようです。
とりあえず勉強を再会するための、ひとつの目標になると喜んでくださいました。
私たちはこの“おきなわおーでぃおぶっく”の企画が、参加して下さった方々にとって個々さらに勉強を続けていくきっかけになってくれればいいと考えていました。しかし、ウチナーグチをめぐる色々な現状を知れば知るほど、ウチナーグチを守ろうという機運はとっても盛り上がっているのだけれど、そしてウチナーグチに関わる「イベント」もたくさんあるのだけれど、本当に学びたい人たちが継続的に学べる環境が、色々な面において整っていないということにも気づかされてきました。
今、私たちは、「儀間進氏のコラムを読む」という企画が、こうしたイベントの一つに埋もれてしまってはいけないのではないかと思い始めました。そうして私たちは、この“おきなわおーでぃおぶっく”の企画の先に、継続的にウチナーグチを学びたいと考える方々の受け皿を、何とかして作っていきたいと考えています。
その意味で、東京の「沖縄語を話す会」が、20年以上も地道な活動を続けてこられたことを、心から尊敬します。そして、M.A.P.がその「沖縄語を話す会」と繋がりがもてたことを、あらためてとっても嬉しく思っているのです。
米須さん當間さんはじめ、まだお目にかかっていない皆様、どうやったらウチナーグチの勉強を続けていけるのか、一緒に一生懸命考えていきましょうね。
どうぞよろしくお願いいたします!
この後、井上真喜ちゃんと待ち合わせ。
最近進出してきたジュンク堂書店前にて。
そして「儀間進氏のコラムを読む」沖縄チームの録音の打合せ。
ところで真喜ちゃん、去年エイサーを習った。米須さんたちが参加したのと同じ那覇の市民講座。だから真喜ちゃん、米須さんたちと面識があるそうです。
真喜ちゃんのことは、次の記事にて、あらためて。
ところで真喜ちゃん、M.A.P.after5にしょっちゅう登場するので、この際「井上真喜」のサブカテゴリーを作っちゃいました。真喜ちゃんファンの方々は、そちらからどうぞ。
8月 2日日曜日: 小禄の目白
私、高山正樹は、6月20日の記事にコメントをつけ、そこでおきなわおーでぃおぶっくの“儀間進のコラムを読む”という企画に関して、次のように書きました。
「儀間さんの視点は、首里を飛び出し、大和の田舎から奄美、果てはいわゆる『先島』にまで及んでいます。この儀間さんの実に奥行きのあるコラムの下に、どうしたらたくさんの若者が集まってくれるのか、毎日毎日、切実に考えています。」
このことについて、もう少し説明したいと思います。
儀間進さんのコラム「うちなぁぐちフィーリング」および「語てぃ遊ばなシマクトゥバ」で扱っているのは、沖縄で標準語的な役割を果たしている首里の言葉が中心です。儀間さん自身が首里の御出身ですから、そうなるのは当然でしょう。でも首里の言葉をメインの食材にして出来上がった料理は、冷静に首里を見つめ、さらには首里以外の地域にも気を配り、結果、重層的な奥深い味付けになっています。
単なる地域の比較にとどまらず、沖縄全体を地理的・歴史的に俯瞰する視点によって、儀間さんのコラムは優れた沖縄社会学としても読み応えのあるものになっているということを、お伝えしたかったのです。
儀間さんは、「首里だらぁ」という言葉について、あるコラムの中で次のように書いています。
「(この言葉は)首里ン人(スインチュ)が口にするものではない。ためしに『沖縄語辞典』を調べてみたがなかった。士族たちが、働きもせずに、だらりと日を暮らしているからともいわれ、首里ことばが悠長で、ゆったりしていることから、ともいわれるが、いずれにしても、悪口であることにかわりはない。色が生白くて、生活能力のない街育ちの首里ン人への侮蔑である。」
続けて「ンムニー カディン 首里ン人」の説明が始まるのですが、これ以上はネタバレ、もうじきデータ配信されますので、携帯電話からでもダウンロードしてお聞きください。
また、先日の沖縄語を話す会で、こんな話を聞きました。那覇空港の東に小禄という地域がありますが、その小禄の言葉は汚いと、那覇や首里から差別されているというはなし。小禄では犬の鳴き方も違うらしい。
船津好明さんによると、あの伊波普猷でさえ 「小禄の目白」という文章で、小禄の言葉の汚さに言及しているというのです。
僕はそれがどうしても読みたくて、宇夫方女史におきなわ堂へ寄った時に探してくれるように頼んだのです。そして7月22日に届いた本がこれです。

伊波普猷全集第十巻。
「小禄の目白」は次のように始まります。
「子供の時分、大人たちにつれられて、目白を捕りに能く大嶺辺に出かけたものだが、その為に小禄に行つたことはつひ一度もなかった。といふのは、小禄の方言は語調が悪いので、目白も自然その影響を受けて、音がだみてゐる、といふ理由からであった。」
たとえ本当に小禄の語調が悪かったとしても、まさかそれがメジロの鳴き声に影響するとは思えません。
そういえばもう40年も前のことでしょうか、僕の母方の田舎は千葉の佐倉あたりなのですが、鳥モチやカスミ網を仕掛けて、小さな野鳥を捕獲し(もう時効ということでお許しを)、その泣き声を楽しんでいました。若い鶯には、その鳥籠に黒い布切れをかぶせ、それを優秀な鳥の籠の傍に置いて鳴き声を憶えさせていたのを、子供心に不思議な思いで眺めていた記憶があります。
佐倉あたりの言葉は、とても汚ないという評判でした。しかしそれが鶯の鳴き声を乱したという話など、もちろん聞いたことはありません。
そんなことよりも、佐倉の言葉は汚いというような会話は、田舎の人たちとよく笑いながらしていたし、それでもって誰かを傷つけたというようなことは全くなかったように思うのです。(本当は違うのでしょうか。)
それが沖縄の小禄ということになると、どうしてこれほど気にかかるのでしょう。
ともかく、伊波普猷の「小禄の目白」が書かれたのは昭和14年という昔のこと、今はもうそんな差別はないと思いたいものです。
でも、沖縄語を話す会で、少しナイーブな話を聞きました。
現在の首里と小禄はどちらも行政的には那覇市ですが、東京にある那覇の人たちの集まりには、久しく首里や小禄の出身者は参加していませんでした。しかし同じ那覇市だからと、首里や小禄の人たちに参加を薦めたときのはなしです。
「小禄」は、やっと「那覇」の仲間入りができると喜んだ、しかし「首里」はいい顔をしなかった、そして今でも首里の人たちは「すいの会」で活動しているとのこと。
ちなみに「すいの会」の「すい」は純粋の「粋」の字を充てているのだそうです。
首里(スイ)や揃(ス)リィ揃(ジュ)リィ 那覇(ナーファ)なあはいばい
首里ン人はいつも揃って連れだち、那覇ン人は離ればなれ…
「儀間さんの視点は、首里を飛び出し、大和の田舎から奄美、果てはいわゆる『先島』にまで及んでいます。この儀間さんの実に奥行きのあるコラムの下に、どうしたらたくさんの若者が集まってくれるのか、毎日毎日、切実に考えています。」
このことについて、もう少し説明したいと思います。
儀間進さんのコラム「うちなぁぐちフィーリング」および「語てぃ遊ばなシマクトゥバ」で扱っているのは、沖縄で標準語的な役割を果たしている首里の言葉が中心です。儀間さん自身が首里の御出身ですから、そうなるのは当然でしょう。でも首里の言葉をメインの食材にして出来上がった料理は、冷静に首里を見つめ、さらには首里以外の地域にも気を配り、結果、重層的な奥深い味付けになっています。
単なる地域の比較にとどまらず、沖縄全体を地理的・歴史的に俯瞰する視点によって、儀間さんのコラムは優れた沖縄社会学としても読み応えのあるものになっているということを、お伝えしたかったのです。
儀間さんは、「首里だらぁ」という言葉について、あるコラムの中で次のように書いています。
「(この言葉は)首里ン人(スインチュ)が口にするものではない。ためしに『沖縄語辞典』を調べてみたがなかった。士族たちが、働きもせずに、だらりと日を暮らしているからともいわれ、首里ことばが悠長で、ゆったりしていることから、ともいわれるが、いずれにしても、悪口であることにかわりはない。色が生白くて、生活能力のない街育ちの首里ン人への侮蔑である。」
続けて「ンムニー カディン 首里ン人」の説明が始まるのですが、これ以上はネタバレ、もうじきデータ配信されますので、携帯電話からでもダウンロードしてお聞きください。
また、先日の沖縄語を話す会で、こんな話を聞きました。那覇空港の東に小禄という地域がありますが、その小禄の言葉は汚いと、那覇や首里から差別されているというはなし。小禄では犬の鳴き方も違うらしい。
船津好明さんによると、あの伊波普猷でさえ 「小禄の目白」という文章で、小禄の言葉の汚さに言及しているというのです。
僕はそれがどうしても読みたくて、宇夫方女史におきなわ堂へ寄った時に探してくれるように頼んだのです。そして7月22日に届いた本がこれです。
伊波普猷全集第十巻。
「小禄の目白」は次のように始まります。
「子供の時分、大人たちにつれられて、目白を捕りに能く大嶺辺に出かけたものだが、その為に小禄に行つたことはつひ一度もなかった。といふのは、小禄の方言は語調が悪いので、目白も自然その影響を受けて、音がだみてゐる、といふ理由からであった。」
たとえ本当に小禄の語調が悪かったとしても、まさかそれがメジロの鳴き声に影響するとは思えません。
そういえばもう40年も前のことでしょうか、僕の母方の田舎は千葉の佐倉あたりなのですが、鳥モチやカスミ網を仕掛けて、小さな野鳥を捕獲し(もう時効ということでお許しを)、その泣き声を楽しんでいました。若い鶯には、その鳥籠に黒い布切れをかぶせ、それを優秀な鳥の籠の傍に置いて鳴き声を憶えさせていたのを、子供心に不思議な思いで眺めていた記憶があります。
佐倉あたりの言葉は、とても汚ないという評判でした。しかしそれが鶯の鳴き声を乱したという話など、もちろん聞いたことはありません。
そんなことよりも、佐倉の言葉は汚いというような会話は、田舎の人たちとよく笑いながらしていたし、それでもって誰かを傷つけたというようなことは全くなかったように思うのです。(本当は違うのでしょうか。)
それが沖縄の小禄ということになると、どうしてこれほど気にかかるのでしょう。
ともかく、伊波普猷の「小禄の目白」が書かれたのは昭和14年という昔のこと、今はもうそんな差別はないと思いたいものです。
でも、沖縄語を話す会で、少しナイーブな話を聞きました。
現在の首里と小禄はどちらも行政的には那覇市ですが、東京にある那覇の人たちの集まりには、久しく首里や小禄の出身者は参加していませんでした。しかし同じ那覇市だからと、首里や小禄の人たちに参加を薦めたときのはなしです。
「小禄」は、やっと「那覇」の仲間入りができると喜んだ、しかし「首里」はいい顔をしなかった、そして今でも首里の人たちは「すいの会」で活動しているとのこと。
ちなみに「すいの会」の「すい」は純粋の「粋」の字を充てているのだそうです。
首里(スイ)や揃(ス)リィ揃(ジュ)リィ 那覇(ナーファ)なあはいばい
首里ン人はいつも揃って連れだち、那覇ン人は離ればなれ…
7月20日月曜日: 愛すべき儀間進オジイ(失礼?)
おきなわおーでぃおぶっくの“儀間進のコラムを読む”の制作がいよいよ始められそうです。
そのご報告をするために、儀間進さんとお会いしました。
17:00
儀間先生はパソコンをお持ちではないので、最近高山正樹が書いた儀間先生についての記事やウチナーグチの記事などをプリントアウトしてお持ちしました。
(ちなみに儀間先生は携帯電話も持っていらっしゃいません。そういうものは持たない、インターネットのようなものもやらないと心に決められたそうです。高山がそれを聞いたら、きっと羨ましがります。)
「拝啓、儀間進先生」の記事に目を通された儀間さんは、「ずいぶん買いかぶられたなあ」と、照れたように笑っていらっしゃいました。
また、沖縄のお年寄りのことを、何と呼べばいいのかについて、比嘉光龍(ばいろん)さんに質問してお答えを頂いた記事「光龍さんからの回答」を読んだ儀間先生、いわく「こんなこと聞かれたら僕は困っちゃうなあ」。
沖縄のお年寄りを「オジイ」とか「オバア」とか、近頃のネットやテレビ、ガイドブックなどでは、みんな普通にそう呼んでいます。でも、これはウチナーグチではありません。いわゆるウチナーヤマトグチです。光龍さんの論を借りれば、ウチナーヤマトグチは一種のスラング、正式の場で使われる言葉ではないということになります。
(ウチナーグチとウチナーヤマトグチの違いについても、いずれきちんと高山正樹がお話しするはずです。)
最近、沖縄の市場などで、初対面のお店のおばあさんに、気易く「オバア」と声をかけるような観光客もいるのだとか、さすがにそれは失礼ですよねえ。
ウチナーグチで「おじいさん」「おばあさん」と言う場合、士族と平民で言い方が違います。おじいさんについては光龍さんの記事にも書きましたが、士族が「たんめー」、平民が「うすめー」です。おばあさんは士族が「ぅんめー」で、平民が「はーめー」。ちなみに士族でも一番上の王族では「はんじゃんしーめー」と言います。
(※今回「ぅんめー」の表記は、光龍さんがインターネット等で使われているものに従いました。)
もちろん、今の沖縄に、琉球王朝時代の階級制度があるわけではありませんが、ご自分の家系がどういうものか意識している方もたくさんがいらっしゃるようです。光龍さんは、できることならばまず相手の方がどう呼ばれたいかを確かめるのがいいとおっしゃいます。
また、沖縄語を話す会の國吉さんは、「たんめー」、「ぅんめー」でいいのではないかというご意見でした。
おじいさんやおばあさんの呼び方ばかりではありません。沖縄語の敬語は、相手がどういう身分・立場かを把握して、厳密に使い分けられなければなりません。言葉によっては発音も違います。士族だけが使う音韻さえあるのです。(これもそのうち高山正樹がお伝えします。)
儀間さんから興味深いお話しを伺いました。王朝ともっともゆかりのある首里のはなしです。
敬語の使い分けは、特に平民が敏感。自分の身分に不相応な敬語で話しかけられるとザワザワと鳥肌が立って、じんましんが出る人もいる。(これは儀間さんのユーモアでしょうか。)
上流階級の人は少々のことは気にしない。特に王族ぐらいに高い身分になると、どんな言葉にでもニコニコと受け答えらされる方が多いのだとか。
ところが、士族でも中流階級ということになると、自分のステータスを守らなければならないから言葉にうるさい。士族に対する礼を失した言葉には見むきもしないという人もいる。
「“たんめー”に向かって“うすめー”といったらつむじ曲げますからねえ」
儀間さんは、こういうことが完全になくなるのには、あと100年かかりますとおっしゃいました。
「ジジイやババアではまずいけれども、僕はオジイやオバアでいいと思うのだけれどねえ」
儀間さんはそうおっしゃって、私たちの大好きな笑顔を浮かべられたのでした。

おい、立ち話かよ……
そのご報告をするために、儀間進さんとお会いしました。
17:00
儀間先生はパソコンをお持ちではないので、最近高山正樹が書いた儀間先生についての記事やウチナーグチの記事などをプリントアウトしてお持ちしました。
(ちなみに儀間先生は携帯電話も持っていらっしゃいません。そういうものは持たない、インターネットのようなものもやらないと心に決められたそうです。高山がそれを聞いたら、きっと羨ましがります。)
「拝啓、儀間進先生」の記事に目を通された儀間さんは、「ずいぶん買いかぶられたなあ」と、照れたように笑っていらっしゃいました。
また、沖縄のお年寄りのことを、何と呼べばいいのかについて、比嘉光龍(ばいろん)さんに質問してお答えを頂いた記事「光龍さんからの回答」を読んだ儀間先生、いわく「こんなこと聞かれたら僕は困っちゃうなあ」。
沖縄のお年寄りを「オジイ」とか「オバア」とか、近頃のネットやテレビ、ガイドブックなどでは、みんな普通にそう呼んでいます。でも、これはウチナーグチではありません。いわゆるウチナーヤマトグチです。光龍さんの論を借りれば、ウチナーヤマトグチは一種のスラング、正式の場で使われる言葉ではないということになります。
(ウチナーグチとウチナーヤマトグチの違いについても、いずれきちんと高山正樹がお話しするはずです。)
最近、沖縄の市場などで、初対面のお店のおばあさんに、気易く「オバア」と声をかけるような観光客もいるのだとか、さすがにそれは失礼ですよねえ。
ウチナーグチで「おじいさん」「おばあさん」と言う場合、士族と平民で言い方が違います。おじいさんについては光龍さんの記事にも書きましたが、士族が「たんめー」、平民が「うすめー」です。おばあさんは士族が「ぅんめー」で、平民が「はーめー」。ちなみに士族でも一番上の王族では「はんじゃんしーめー」と言います。
(※今回「ぅんめー」の表記は、光龍さんがインターネット等で使われているものに従いました。)
もちろん、今の沖縄に、琉球王朝時代の階級制度があるわけではありませんが、ご自分の家系がどういうものか意識している方もたくさんがいらっしゃるようです。光龍さんは、できることならばまず相手の方がどう呼ばれたいかを確かめるのがいいとおっしゃいます。
また、沖縄語を話す会の國吉さんは、「たんめー」、「ぅんめー」でいいのではないかというご意見でした。
おじいさんやおばあさんの呼び方ばかりではありません。沖縄語の敬語は、相手がどういう身分・立場かを把握して、厳密に使い分けられなければなりません。言葉によっては発音も違います。士族だけが使う音韻さえあるのです。(これもそのうち高山正樹がお伝えします。)
儀間さんから興味深いお話しを伺いました。王朝ともっともゆかりのある首里のはなしです。
敬語の使い分けは、特に平民が敏感。自分の身分に不相応な敬語で話しかけられるとザワザワと鳥肌が立って、じんましんが出る人もいる。(これは儀間さんのユーモアでしょうか。)
上流階級の人は少々のことは気にしない。特に王族ぐらいに高い身分になると、どんな言葉にでもニコニコと受け答えらされる方が多いのだとか。
ところが、士族でも中流階級ということになると、自分のステータスを守らなければならないから言葉にうるさい。士族に対する礼を失した言葉には見むきもしないという人もいる。
「“たんめー”に向かって“うすめー”といったらつむじ曲げますからねえ」
儀間さんは、こういうことが完全になくなるのには、あと100年かかりますとおっしゃいました。
「ジジイやババアではまずいけれども、僕はオジイやオバアでいいと思うのだけれどねえ」
儀間さんはそうおっしゃって、私たちの大好きな笑顔を浮かべられたのでした。
おい、立ち話かよ……
(宇夫方路の報告を元に、高山正樹が宇夫方路のフリして書きました。)
7月19日日曜日: 沖縄のあいさつ
【「イチョーミセーミ」と「ヰチョーミシェーミ」】
儀間進さんの「シマクトゥバ」連載20年の特集記事が沖縄タイムスに掲載されたことは先日ご紹介しました。
⇒http://lince.jp…
今日から、宇夫方路女史は沖縄出張、帰るまでにタイムスに寄って、新聞を貰ってくる予定にしていました。でも、それよりも一足先に、昨日、沖縄語を話す会の國吉さんから記事のコピーを頂くことができました。

僕たちの大好きな儀間さんの笑顔は、少しも変わらずに健在です。
このインタビュー記事の中で、儀間進さんは、ご自分が日常で触れてきた言葉を連載で取り上げてきたと語っていらっしゃいます。
ちょうど今、儀間さんの初期の文章を読み直しています。そしてたくさんのことをあらためて教えていただいているのですが、今日はその中から、「沖縄のあいさつ語」というエッセイについて、お話ししたいと思います。
このエッセイの中で、儀間さんは、沖縄には毎朝家族同士で挨拶を交わすという習慣がないと述べ、琉球大学の石川清治先生が語られた面白いはなしを紹介しています。
「ある小学校で、お父さん、お母さんに朝のあいさつをしましょう、という事で実践をした。子供たちは家庭で毎朝あいさつをする。一日目、朝起きて、おはようございますと声をかけたら、お母さんがびっくりした。お父さんは眼鏡を落としそうになった。一週間ほどたったある日、お母さんはカシマサヌヒャー(うるさい)と怒鳴った。お父さんはワカトーン(わかっとる)といった。」
さらに儀間さんは、それに続けてこう書くのです。
「よくわかるのだ、そのお父さん、お母さんの気持ちが。(中略)他人行儀な、おはようございますよりも、眼をこすりこすり寝床から台所にやってきて、ごはん まあだ? ときくほうがずっと自然なのだ。」
そして、たしかに沖縄には紋切り型の「おはようございます」のような言葉はないけれど、朝、「オバア」が起きてくれば「ウーキンソーチー(お起きになりましたか)」というし、もし道で目上の人に出会い、その相手が木陰で休んでいれば「イチョーミセーミ(坐っておいでですか)」と声を掛ける、それが沖縄のあいさつなのだと。
(※「イチョーミセーミ」の表記について、コメントを必ずお読みください。)
この話を國吉眞正さんにしました。すると國吉さんも、自らの幼い頃のお話をしてくださったのです。学校へ行く道々、誰かに会えば必ず声を掛けなければならなかった、たとえば畑で芋を収穫している大人がいれば、「お芋をとっているのですか」という、すると相手からは「学校へいくのかい」と返ってくる。もし黙って通り過ぎようものなら、どこどこのあの子は、口もきかずに通り過ぎたといって大変なことになる。だから沖縄では、ちいさな子供でさえ、いつもアンテナを張って、状況を把握して適切な言葉を捜し、臨機応変に対応していたのですよと。
考えてみれば、朝の9時も過ぎているのに、おはようございますではないでしょう。雨が降っているのにgood morningというのもおかしい。状況によって変わる挨拶の言葉、至極あたりまえのことなのかもしれません。
僕自身のことですが、僕は朝起きると、よくカミサンに、「起きたねー」とか、「起きましたか」とか言われます。そう言われた時の感覚をあらためて思い起こしてみるのですが、別段、特に気になったことはありません。しかし、朝はじめて顔を合わせたら、まずおはようございますのあいさつだろう、という風に、もしかしたら心のどこか奥の方で、そう感じていたのかもしれないとも思うのです。
起きたねー?
起きちゃ悪いのか。
坐っておいでですか?
見りゃわかるでしょう。
学校行くのかい?
この時間に小学生がランドセル背負って歩いていれば、それ以外には考えられないだろう……
「ウーキンソーチー」といえば、文化という伝統が背後で支えていてくれるから、その言葉に託された心もちも自然と相手に伝わるのでしょう。しかし、それをそのままヤマトグチに直訳してしまえばギクシャクする、そんな様々な例を、儀間さんは他のエッセイでもたくさん語ってくれています。
今日、この話を、高校3年になる娘にしたのです。
「あのさ、うちのかあちゃんさあ、朝、よく、起きたねーっていうよなあ。」
「うん」
「あれはね……」
娘は大変面白がって僕の話を聞いていました。
「國吉さんに聞いたんだけどね、毎朝母ちゃんが起きたねーっていうのはさ、あれが母ちゃんの挨拶で、あなたたちをちゃんと気遣っているのですよというメッセージなんだ」
僕は洗濯物を干しているカミサンに聞こえるように、わざと大きな声で話をしました。涙腺の甘い母ちゃんは、その時、きっと涙ぐんでいたのかもしれません。
30年近く、ずっと沖縄のことを考え続けていたのに、言葉についてはなぜかとても無頓着でした。もっと若い頃に、今のように言葉に対する具体的な関心が僕の中に生まれていたらと、ちょっと無念な気持ちもあるのです。
そうして儀間さんは、無味乾燥な共通語と、変わっていく沖縄の言葉の双方へ、たっぷりと皮肉を込めて、このエッセイを結んでいます。
「沖縄口のその場その場に応じたあいさつが消えて、どんな場でも一語ですますことのできる、共通語のさよなら、おはように代わったのも無理もないと思う。型があるというのは、何より手軽で便利であるから」
おきなわおーでぃおぶっくの、儀間進のコラムを読むという企画は、今日ご紹介した「沖縄語のあいさつ語」というエッセイから始めることに決定しました。
《追伸》
昨日、楠定憲氏は自分の家だってそれと同じだったと語りました。いつだって親父は、おお起きたかとしか言わなかった。「おはよう」なんて、家庭で交わした憶えがないと。
さて、これは楠さんの家庭に限ったことだったのか、あるいは彼の故郷、四国の香川全体にいえることだったのか、それは定かではありません……
⇒「沖縄の挨拶」その《2》へ
⇒http://lince.jp…
今日から、宇夫方路女史は沖縄出張、帰るまでにタイムスに寄って、新聞を貰ってくる予定にしていました。でも、それよりも一足先に、昨日、沖縄語を話す会の國吉さんから記事のコピーを頂くことができました。
僕たちの大好きな儀間さんの笑顔は、少しも変わらずに健在です。
このインタビュー記事の中で、儀間進さんは、ご自分が日常で触れてきた言葉を連載で取り上げてきたと語っていらっしゃいます。
ちょうど今、儀間さんの初期の文章を読み直しています。そしてたくさんのことをあらためて教えていただいているのですが、今日はその中から、「沖縄のあいさつ語」というエッセイについて、お話ししたいと思います。
このエッセイの中で、儀間さんは、沖縄には毎朝家族同士で挨拶を交わすという習慣がないと述べ、琉球大学の石川清治先生が語られた面白いはなしを紹介しています。
「ある小学校で、お父さん、お母さんに朝のあいさつをしましょう、という事で実践をした。子供たちは家庭で毎朝あいさつをする。一日目、朝起きて、おはようございますと声をかけたら、お母さんがびっくりした。お父さんは眼鏡を落としそうになった。一週間ほどたったある日、お母さんはカシマサヌヒャー(うるさい)と怒鳴った。お父さんはワカトーン(わかっとる)といった。」
さらに儀間さんは、それに続けてこう書くのです。
「よくわかるのだ、そのお父さん、お母さんの気持ちが。(中略)他人行儀な、おはようございますよりも、眼をこすりこすり寝床から台所にやってきて、ごはん まあだ? ときくほうがずっと自然なのだ。」
そして、たしかに沖縄には紋切り型の「おはようございます」のような言葉はないけれど、朝、「オバア」が起きてくれば「ウーキンソーチー(お起きになりましたか)」というし、もし道で目上の人に出会い、その相手が木陰で休んでいれば「イチョーミセーミ(坐っておいでですか)」と声を掛ける、それが沖縄のあいさつなのだと。
(※「イチョーミセーミ」の表記について、コメントを必ずお読みください。)
この話を國吉眞正さんにしました。すると國吉さんも、自らの幼い頃のお話をしてくださったのです。学校へ行く道々、誰かに会えば必ず声を掛けなければならなかった、たとえば畑で芋を収穫している大人がいれば、「お芋をとっているのですか」という、すると相手からは「学校へいくのかい」と返ってくる。もし黙って通り過ぎようものなら、どこどこのあの子は、口もきかずに通り過ぎたといって大変なことになる。だから沖縄では、ちいさな子供でさえ、いつもアンテナを張って、状況を把握して適切な言葉を捜し、臨機応変に対応していたのですよと。
考えてみれば、朝の9時も過ぎているのに、おはようございますではないでしょう。雨が降っているのにgood morningというのもおかしい。状況によって変わる挨拶の言葉、至極あたりまえのことなのかもしれません。
僕自身のことですが、僕は朝起きると、よくカミサンに、「起きたねー」とか、「起きましたか」とか言われます。そう言われた時の感覚をあらためて思い起こしてみるのですが、別段、特に気になったことはありません。しかし、朝はじめて顔を合わせたら、まずおはようございますのあいさつだろう、という風に、もしかしたら心のどこか奥の方で、そう感じていたのかもしれないとも思うのです。
起きたねー?
起きちゃ悪いのか。
坐っておいでですか?
見りゃわかるでしょう。
学校行くのかい?
この時間に小学生がランドセル背負って歩いていれば、それ以外には考えられないだろう……
「ウーキンソーチー」といえば、文化という伝統が背後で支えていてくれるから、その言葉に託された心もちも自然と相手に伝わるのでしょう。しかし、それをそのままヤマトグチに直訳してしまえばギクシャクする、そんな様々な例を、儀間さんは他のエッセイでもたくさん語ってくれています。
今日、この話を、高校3年になる娘にしたのです。
「あのさ、うちのかあちゃんさあ、朝、よく、起きたねーっていうよなあ。」
「うん」
「あれはね……」
娘は大変面白がって僕の話を聞いていました。
「國吉さんに聞いたんだけどね、毎朝母ちゃんが起きたねーっていうのはさ、あれが母ちゃんの挨拶で、あなたたちをちゃんと気遣っているのですよというメッセージなんだ」
僕は洗濯物を干しているカミサンに聞こえるように、わざと大きな声で話をしました。涙腺の甘い母ちゃんは、その時、きっと涙ぐんでいたのかもしれません。
30年近く、ずっと沖縄のことを考え続けていたのに、言葉についてはなぜかとても無頓着でした。もっと若い頃に、今のように言葉に対する具体的な関心が僕の中に生まれていたらと、ちょっと無念な気持ちもあるのです。
そうして儀間さんは、無味乾燥な共通語と、変わっていく沖縄の言葉の双方へ、たっぷりと皮肉を込めて、このエッセイを結んでいます。
「沖縄口のその場その場に応じたあいさつが消えて、どんな場でも一語ですますことのできる、共通語のさよなら、おはように代わったのも無理もないと思う。型があるというのは、何より手軽で便利であるから」
おきなわおーでぃおぶっくの、儀間進のコラムを読むという企画は、今日ご紹介した「沖縄語のあいさつ語」というエッセイから始めることに決定しました。
《追伸》
昨日、楠定憲氏は自分の家だってそれと同じだったと語りました。いつだって親父は、おお起きたかとしか言わなかった。「おはよう」なんて、家庭で交わした憶えがないと。
さて、これは楠さんの家庭に限ったことだったのか、あるいは彼の故郷、四国の香川全体にいえることだったのか、それは定かではありません……
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