«Prev || 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 || Next»

11月20日金曜日: 知花昌一と西山正啓

※本記事は新ブログへ移行するにあたって若干の改稿を加えました
 ⇒新記事はこちらから

Bar“土”では、今日からこんな上映会をやっています。
西山正啓監督の“知花昌一沖縄読谷平和学”
null  ・・・⇒【PDFで開く】
今日の沖縄タイムスにその記事が出ていました。
朝刊か夕刊かって? 愚問です。今年の3月から、夕刊は廃止されました。
null ⇒【大きな画像で見る】
結構でっかい記事です。

パラダイス通りから土のある路地に潜り込むと、それらしき人たちとすれ違います。
ああ、青年座の飲み会がお開きなのかな……
土の扉を開けると、案の定、制作の紫雲さんがお勘定の最中です。顔見知りの方々と言葉を交わして、最期に津嘉山さんと挨拶して、カウンターに座りました。

「儀間さんは」
「バスの時間があるから帰りました」
「残念」
「青年座は打ち上げもココでやるって?」
「どうかな、でも津嘉山さん気に入ってくれたみたいで嬉しいなあ」
「津嘉山さんが涙を拭いたおしぼり、どうしたの」
「洗わないでとってあるさ」

青年座の飲み会は上映を終えたあとからのはずだから、上映会が終ってずいぶん時間が経っているはず、でもお店の中は、その熱気が、まだ残っているような感じでした。

カウンターの向うでは、今日の主人公、知花昌一さんと西山正啓監督がグラスを傾けながらゆんたくしています。何やらコアな話しが聞こえてくる。

日の丸焼き捨て、象の檻。お名前はよく存じています。内ゲバのことは定かではありませんが。今は読谷村の議員さん。何我舎(ぬーがやー)という民宿も経営。想像していたよりもずっと体のでっかい方でした。
ごうさんが書いた「知花昌一のこと」

お二人のゆんたくにお邪魔させてもらいました。とはいうものの、結構酔っていて、話しの細部までよく憶えていないのが情けないのですが。
「左翼」、「右翼」。最近の「ネトウヨ」「ネトサヨ」なる納豆のような軟弱な輩のことではなく、しかし右左の単純なカテゴリーでは語り尽くせない情念の如き思索。知花さんの通って来た過去は、きっと大きな体でなければ歩く事の不可能な道だったに違いないと、僕はひとり妄想していたのです。
きっと同じことが津嘉山正種という役者にも当てはまる。だが、その体の大きな津嘉山さんが、森口豁氏のフィルムを見て嗚咽したのだ。
「映像の力ですね」といった僕に、
「いえ、記録の力ですよ」と、西山さんは言われました。
津嘉山正種氏が嗚咽した日

記念に。左、知花昌一さん。右、西山正啓監督。
null
「ねえ、ごうさん。日の丸ない? 日の丸バックにして撮りたいんだけれど」
酔っ払いのアイデアとしては面白い。
だが、そんなもの(?)、あるわけない。
null
10ヶ月ぶりの“じんじん”です。
 ⇒前回“じんじん”に行った日の記事4ヶ月ぶりの儀間進さんです。
 ⇒前回、宇夫方が儀間進さんにお会いした日の記事null
そして2ヶ月前、宇夫方路が“儀間進のコラムを読む”那覇チームの皆さんとお会いしました。前回は6名のメンバーのうち2名でしたが、その後メンバーが1名増えて、今日はその7名のうち4名の方が集まってくださいました。僕は皆さんと初対面です。
 ⇒前回2名の方と宇夫方がお会いした時の記事
実際に儀間進さんのコラムを読んで録音するのは少し先になりそうですが、その準備段階として、とてもステキな広がりが見えてきました。
沖縄語を話す会の國吉眞正さんにも、大変お世話になっています。今日のところは、その全てをミステリーということにしておきますが、近日中に、色々な発表ができると思っています。

それにしても、今日はわたくし高山正樹が喋りすぎました。まずは僕の知っている大好きな儀間さんを、どうしても皆さんに伝えたくて仕方が無かったのです。本当は儀間先生がいらっしゃるのだから、儀間さんご本人のお話をたくさん聞けばよかったのに。
 ⇒わたくし高山正樹が儀間進さんのことを書いた文章

しかし、やっぱり今日も儀間進さんは儀間進さんでした。
「訛っている言葉なんてない。みんな同じ言葉なんですよ」
ややもすると首里や那覇の言葉が正しいといいたくなる、それを笑顔でたしなめる儀間さん。それは儀間さんのエッセイそのものです。

「はいさい」。沖縄の挨拶としてよく知られた言葉です。しかし女性は「はいさい」とは言わない。「はいたい」が正解。そのことも、コアな沖縄フリークたちには常識になりつつあります。でも、この日、儀間さんは教えてくださいました。女性が「はいたい」というのは、首里や那覇あたりでのこと。ちょっと北に行けば男も女も「はいさい」と言っています。
(もちろん、これにも注釈があります。北部でも、「はいさい」と「はいたい」を言い分けるところもある。どちらの方が多いかは定かではありません。)
さらに田舎へ行けば「さい」も言わずに「はい」だけ。
「まるで英語のようだ」
ウチナーグチは一筋縄ではいかない、と、ますます気が引き締まります。たとえば、と僕は思うのです。「沖縄の標準語」ということを、慎重に考えてみるのはどうだろう。首里という政治・文化の中心地。那覇という街の経済の力。沖縄芝居の心。先日会ったうるま市のおばあさんのように、日本の標準語と、沖縄の標準語と、そして自分の間切りの言葉と、とりあえず三つの言葉を勉強してみるというのはどうだろう。
うるま市のおばあさんに会った日のこと
(でも、それには異論があるでしょう。宮古や石垣などは全く別の言語なのですから。使われている音韻さえ違う。首里や那覇の言葉に関わる人たちが、それぞれの地域はそれぞれでおやりなさいというのは簡単です。しかし、首里や那覇だからできるという状況もあるのではないでしょうか。たとえば鹿児島県の奄美はどうするのだろう。沖縄県の条例からは漏れてしまう。間切りが違えば言葉が違う沖縄。いったいどうすればいいのか。このことはいずれ考えたいと思います。)

昼間、大城立裕さんに「新沖縄文字」について話したことを、僕は儀間さんに報告しました。
「驚きました。こんな若造の意見をきちんと聞いてくださり、ご自分にはなかった視点だということを認めてくださった。大城さんは、とても柔軟な頭脳をお持ちだということを、あらためて感じました。」
儀間さんはそれに対して、次のように答えられたのです。
「そうですね。彼のそういう柔軟さのことを、一番分かっているのは、僕だと思うんだ。」
その言葉に、僕は鳥肌が立ちました。
あの琉大文学時代にあったこと、それは調べれば調べられます。ここで僕が書くことは控えましょう。そのかわり、「社長とは呼ばないで」という怪しげなブログに書いた文章ふたつ、どうかお読みください。
 ⇒儀間進氏の「ほんとうのはなし」(儀間進氏のひとつの負い目)
 ⇒三太郎からのバースデーカード(儀間進氏のふたつ目の負い目)
そして、今まで儀間さんが話されたユーモアたっぷりの大城立裕氏のことを、きっといつかここでお話できる日が来るだろうと、確信したのでした。

今日も、じんじんのマスターが、こんな差し入れをしてくださいました。
null
マスター、いつもありがとうございます。

そして、この日初めてお会いした皆さま。今日はちょっと遠慮してご紹介を控えましたが、もしお許しいただけるのなら、次回は是非とも皆さん一人ひとりのウチナーグチに対する熱い思いをご紹介させていただきたいと思っています。

宜(ゆた)さる如(ぐとぅ)御願(うにげ)ーさびら

» 続きを読む

津嘉山正種さんの涙に触れて、なんだかみんなちょっと高揚していて、でもそれは後から来た人にとっては迷惑な話。だから今日はもうややこしいはなしはやめよっと。

カウンターに座っている男性は、ちょっと似てるけど津嘉山さんではありません。津嘉山さんはもうとっくにお帰りになりました。Yusuke氏が紹介してくれたBanちゃんです。よく見ると、津嘉山さんとはやっぱり全然似てません。
null
Yusuke氏によると、会社の金使って遊びまくっているとんでもない奴だそうです。
Banちゃんは、会社のお金でアメリカ行って好きな釣りやって、こんな本まで書いちゃいました。
null  
左の「アメリカの竹竿職人たち」という本は、残念ながら現在amazonでは品切れです。右の御本でよろしければ、共著ですが買えます。
今は、会社のお金で一年の半分くらい沖縄にいて、南国生活を謳歌しています。そうして、横スクロールの、不思議なブログを書いています。
Tokyo/Naha Chromatic
(横スクロールも、慣れると悪くない。そういえばminaki君のサイトも横だっけ…)

null
ご出勤した大西君、語っているごうさんには全く頓着せずに、まずPCを立ち上げて土のブログを、書きはじめました。これが日課なのでしょうか?
大西君は本当の沖縄に興味あるのかな、なんて思ったりして。
でも、本当の沖縄って何だ?

ごうさんお薦めの、とっておきの泡盛。
null
でも僕は、こんな上等シマーを飲んでいるウチナーンチュを見たことがありません。
まあ、本当の沖縄がどうだからどうしろなんてことを言う必要もないわけで。
今日は恒例のチーズの日です。
前回のチーズパーティーの記事
null
オーナーのごうさん、ブログ用に写真を真剣に撮ってますが、大西君がその気にならなければお蔵入りでしょうな。
能書き読みながら最高に旨いチーズをつまみにワインを飲む。
null
沖縄で、世界のチーズを食って何が悪い?
シマーもオリオンビールも飲まずに、那覇のわけのわからんバーでワインを飲んでどこが悪いんじゃ?
あれ、今日はもうややこしい話はやめようと思ってたのに。

まあまあまあ……
null null
「フンだ」。「フーンだ」。

Banちゃんは、数日後のモアイの為に、チーズを買って帰ることにしました。

» 続きを読む

11月19日木曜日: 内間安男と津嘉山正種

森口豁さんの“人類館”のフィルムがどうしても見たい。高山正樹の我がままを、Bar“土”のごうさんが森口さんに繋いでくれた。そうして実現した、たった一人のための上映会。
見れなかった前回の上映会のこと

その話を青年座に連絡したら、津嘉山正種さんが是非見たいといっているという連絡が来た。幸喜さんにも知念さんにも、青年座の方から連絡してもらうことにした。結局、幸喜さんは仕事、知念さんは体の具合で来られなかったけれど。

津嘉山さんが来ることを伏せて、上映会の告知をしてみたが、結局他には誰も来なかった。

約束の時間、パラダイス通りへ出てみた。案の定、遠くの方で、紙切れを持った津嘉山さんが、きょろきょろしていた。僕は大きく手を振った。津嘉山さんはこちらを見て、ちょっと笑った。

null

カウンターで、生ビールを飲んで森口さんを待った。
「オリオンはないんですか」
「ありません。エビスだけです。」
「沖縄では、地元のオリオンを飲むことにしているのだが」
「メンテナンスが悪いんです。生ビールのサーバーは毎日洗わなければならないのはもちろんですが、週に一度くらいはメンテナンスに来てもらわなければならない、それなのに、いくら頼んでも来てくれなかった」
「アサヒ系列になってからそうなったの」
「いえ、その前からです」
「それはいけないですね。コマーシャルの話があるのだが、考えなくちゃいけないな」
「津嘉山さんが上に言ってくれれば変わるかもしれない」

(高山君、こんなこと、書いていいの)
(それで変わってくれればいい。変わってほしいから書くのです。)

2Fギャラリーにて
「沖縄の18歳」と、「一幕一場・沖縄人類館」の2本。

上映が終わって、宇夫方路が明かりをつけても、津嘉山さんは、しばらく振り返ることはなかった。

左から、関りえ子、土のオーナーごう、津嘉山正種、森口豁、高山正樹。
null
その車座を、宇夫方路が撮っている。

null
あの日、腕組みをして微動だにしなかった男が、調教師を演じた内間安男という男を褒めた。
「内間がいたから、この芝居ができたのだろう」
微動だにしなかったこと
その日の《表》の記事

津嘉山さんは、「人類館」をひとりで演じることの苦労を語った。泣けて泣けて仕方がない。しかしあまり泣いてしまうと、調教師役ができなくなる……、そう言った津嘉山さんの目から涙があふれた。
ごうさんの差し出したタオルで、津嘉山さんは涙をぬぐった。
「なんで俺は泣くのかなあ」

null
「津嘉山さんは、何故この芝居をひとりでやろうと思ったのですか」
ある時、津嘉山さんは、東京の役者たちと沖縄の芝居をしたことがあった。津嘉山さんは方言指導も兼ねていた。稽古の最中、他の役者の言葉ばかりが気になった。稽古が終ると
「なんでネーネー(二回目のネーが下がる)というのかなあ、なんでネーネー(限りなく平板)と言わんかなー」
人類館をやりたいと思った時、やれる役者を東京で探すのは無理だと思った。
「ひとりでやるしかなかった」

ある芝居を、沖縄の連中とやったことがある。朝10時の稽古開始なのに、昼過ぎても集まらない。いつも早く来る役者は決まっているので、いつも同じところの稽古ばかり。「なんで時間通りに来れないかー」と聞くと「歯医者があってさー」。
蜷川幸男の芝居で稽古に遅れたら大変。稽古初日から立ち稽古だから、それまでにみんな台詞を入れてくる。
「そんな稽古を沖縄でやったら、三日で役者はみんなやめるね」

津嘉山さんは、この後予定が入っていてケツカッチンだったはずなのに、一時間も長くいて、あわてて帰っていった。

ちなみに、宇夫方路の踊りの先生で、高山正樹のカミサンの親友である関りえ子はミーハーであることが判明した。
null

ごうさんの携帯が鳴った。
「ビール代を払うのを忘れました」
「いえいえ宇夫方が払うと言っているから大丈夫です」
おい、ごう、そんなこと言ってない。
「やった、津嘉山さんの電話番号ゲット!」
ごうさんも、ミーハーであった。
(文責:高山正樹)
[subcate.人類館]
[subcate.Bar土]
《そういえば…》
人類館の初演で辻の女性を演じた北島角子さんは、とっても若くてかわいいのでした。
栄町の市場の中、6月に来て以来の4度目の“生活の柄”です。
生活の柄の看板
でも、「生活の柄」のカテゴリーは作りません。なぜなら、お店の方と一度も話ししたことがないから。これはM.A.P.after5が、自らに課しているルールです。
今日あたりは、下のカウンターで飲めばよかった。色々と繋がりがあるのだから。2階の座敷で飲んでいるかぎり、きっと進展はないだろうなあ、と、壁のくらげに目をやる高山正樹でした。さて。
null
「生活の柄」という名前についても、マスターと話しをしていないので、これまでM.A.P.after5では適当にお茶を濁してきたのですが、きっと山之口貘の詩から取ったのに違いない。

歩き疲れては
夜空と陸との隙間にもぐり込んで
草に埋もれては寝たのです
ところかまわず寝たのです

高田渡が歌っていましたっけ。


null
はたして、次はいつ? それまで中の泡盛が残っているわけないよね、長池さん。
店を出ると、赤いライトの中に隠れる女。いつものことなのだけれど、今回の旅では妙に気になる。辻の女のこと。もう新宿あたりじゃあ見なくなったなあ。残念ながらカメラを向けることはできませんでした。

西岡さんと“ななしん屋”へ。
null
ななしん屋はカウンターしかないから、じゃなくてママがステキだから、ちゃんとカテゴリーがあるのです。

「西岡さん、なんだかとってもきれいになったね。何かあったのかな」
「おじさん、余計なことは言わないの」
「作品が変わるかもしれないな」

土を出た時はもう12時をまわって27日になりました。でも、ここのところなかなか時間が取れなくてご無沙汰の“ななしん屋”にどうしても顔を出していかなきゃね。

ママは相変わらず外国映画の女優さんのようです。
null
私と高山正樹の、影の三線の先生なのです。

3人組のお客様がいらっしゃいました。
null
みなさんそれぞれ旅行会社にお勤め。以前は同じ会社で、今でも時々会って、こうして飲みに行くのだそうです。
ということは商売敵? 会社の壁を越えた密談? そんなことはないのだろうけれど、波風立たないように、お名前だけは伏せておきましょうか。

一番向こう側の素敵なXさんが他のおふたりを“ななしん屋”に連れて来られました。
手前のNさんは、最近東京の会社から石垣島へ移動したばかり。石垣島に遊びに来たときは連絡くださいと名刺をいただきました。
真ん中のKさんは東京の旅行会社に勤務。伺ったら私が育った家の駅をはさんで反対側にお住まい。「神社のそばです」「じゃあホワイト餃子の近く?」「そうそう」、なんてローカルな話題にすっかり盛り上がってしまいました。ここでお会いしたのも何かの縁、今後何かご協力いただけるようなことはないでしょうか。

旅行のプロが訪れるのだから、やっぱりこの“ななしん屋”には魅力があるんですよね、きっと。
お店の隅には、渋い糸巻きがそっと飾ってありました。
null
何度も来ているのに、なぜだか今まで気がつかなかった……
ところで、これって、「かせ(かし)」?、それとも「かき(かき)」?、じゃなくて「わく」なの? このあたりがよくわからないんだよね。どなたか教えてください。
「かせかけ」のことを読む

さあ、明日も忙しい。早く寝なくっちゃ、って、もう2:00だよーん。


沖縄に来た時は連絡する、それがBar“土”のごうさんと交わした約束。だから羽田で飛行機に乗る直前、ごうさんにメールしました。そしたら「今夜なら那覇にいる」との返信が来た。ということで、真喜ちゃんとの食事を終えて、金城君を誘って“土”へ行きました。

今日の“土”は、2階のギャラリーで「森口カフェin那覇」というイベントが開催されていました。元日本テレビの沖縄特派員でもあったジャーナリストの森口豁(かつ)さんが制作した映像作品を鑑賞し、その後、森口さん御本人を囲んでゆんたく(おしゃべり)するという企画です。今回はその第2回目、題して「人類館の舞台に立つ青年の足跡をたどるドキュメント」。

森口豁さんは1937年生まれ。森口さんがテレビ番組のために制作したドキュメンタリーは29本にのぼります。少ないですか? いえいえ、どれもこれも重い題材ばかり。そんな企画を中央のテレビというメディアに供給し続けることがどれほど大変なことであったか、想像するに難くありません。

この夜の「森口カフェin那覇vol.2」では、その中から、演劇集団「創造」の伝説の舞台、「人類館」の初演で調教師役を演じた内間安男さんを追い続けた『沖縄の十八歳 』シリーズの中から3本が上演されました。

第一作の「沖縄の18歳」は、沖縄の「祖国復帰」に先立つ1966年の作品。当時コザ高校の3年生だった一人の少年に焦点を当てたドキュメンタリーです。復帰を望んでデモにも参加するその少年の名は内間安男。
「熱い長い青春・ある証言から」(1972年)では、高校卒業後タクシーの運転手となった内間青年の目を通して、復帰しても何も変わらない沖縄の苦しみを見つめていきます。
まさかこの青年が、それから数年後、「人類館」の舞台に立つことになろうとは、森口さんはもちろん、内間さん自身だって知る由もありませんでした。
そして1978年、内間安男というひとりのウチナーンチュを、自分と重ね合わせるように追い続けた森口豁は「一幕一場・沖縄人類館」を制作します……

“人類館”の作者・知念正真氏の思いに関する記事
“人類館”初演時の台本についての記事

是非ともこの三作目を見たかったのですが、遅れて“土”に行ったバチが当ったのでしょうか、映像のトラブルがあって上映順が変わり、残念ながら第二作しか見ることが出来ませんでした。

上映が終わると、静かなゆんたくの時間。
森口豁さんです。
森口豁さん
まず森口さんのお話があって、そのあとお客さんから森口さんへの質問があったり、やがて森口さんの映像に触発された皆さんは、それぞれいろいろな思い出話を話し始めました。

復帰の頃、佐藤栄作首相が沖縄に来た時、歓迎のために振る日の丸を作るのが小学校の宿題だったという女性、復帰から6年経った1978年の7月30日(いわゆる「ナナサンマル」の時)、車がそれまでの右側通行から左側通行に変わったため、海へ行く道の右側にあった釣具店が、帰り道になってしまってたくさん廃業したというお話をされた男性、どれもこれも興味深く聞かせていただきました。

皆さんのいろいろな話を聞いていたら、やっぱり3本とも見たかった、見なきゃいけなかった、という気持ちになりました。
ねえごうさん、今日はちょっとお客さん少なかったから、11月に津嘉山正種さんの「人類館」が“国立劇場おきなわ”で上演されるはずだから、その時また来るから、それにあわせてもう一回この作品の上映会をやってくれないかなあ。国立劇場のお客さんにも宣伝してさあ。
津嘉山正種「人類館」沖縄公演のこと

イベントが終わって、久しぶりにごうさんと話をしました。
“土”のギャラリーでの様々な企画は、最近沖縄で密かに話題になっている、でも採算を考えると大変らしい。そりゃそうだよね、お客さんからお金取らないんだもん。

帰り際、ごうさんが「これ読んで」と壁に貼ってある詩を指差しました。
9.11の時に書いたんだって。
ちょっと長いけど画像を載せちゃおう。
null

「ここのギャラリーでさ、何かやりたいことがあったら、早めに企画出してよ」
わかった。そうだよね、真剣に何か考えようと思っています。そのときは、よろしくです。
null

でも、宇夫方路の夜は、まだ終らない……
(報告:宇夫方路、執筆:高山正樹)
次の記事へ

» 続きを読む

“Bar土”がランチを始めたことは知っていました。100店シリーズの「昼ごはん夜ごはん」にも掲載されました。となればなんとしても行かねばなるまい、というわけで、沖縄に着いた日にごうさんに電話をしましたが、その時は繋がりませんでした。
そうしたら、昨日の夜になって、ごうさんの方から電話がかかってきました。
※お昼の土は9月をもって終了しました。残念。(9/30追記)

「携帯のデータが飛んじゃってさ。今、沖縄にいるの?」
「明日帰るけど」

帰りの飛行機の時間は19:30。じゃあ4時頃なら会えるねということで、今日、特別に早い時間から店を開けてくれて、ごうさんが出てきて待っていてくれました。
null

特別に、食事も出してくれました。
null

ごうさんがM.A.P.after5に初登場した時、ごうさんは「のんさん」でした。「のんさん」が「のんさん」を辞めたという話は聞いていないので、きっとまだ「のんさん」でもあるのでしょうが、表の世界での通り名は「ごうさん」のようです。

ごうさんは、最近、読谷に引っ越しました。夜のお店の営業は大西君に任せて、しばらく自分はお昼だけ出てきていたようですが、それも今は人に任せてしまいました。
ごうさんはいろいろと考えているようです。読谷で土を耕すこと。また“Bar土”での企画も盛りだくさんで、そのたんびにごうさんはお店に出てきて遊んでいるようです(失礼)。
大西君によると、“Bar土”は、今、沖縄で何かと注目されているのだそうです。でも、いったいどういう種類の人たちに注目されているのかなあ……

どんな催しを企画しているのかは、“Bar土”のブログでも覗いてください。
例えば、あの「日の丸事件」の知花昌一さんが、島唄を歌っていたり……
http://tsuchi2009.ti-da.net…
ちなみに、僕は知花昌一さんについて、ちょっとだけ書いたことがあります。
http://lince.jp/mugon/okuba…

ごうさんが知花昌一さんと初めて会った時に、知花さんから聞いた話を、ごうさんは「mixiという場所」で書いています。mixiという閉じられたところだけじゃもったいないから、ここに転載させていただくことにしました。
(まあ、ここで紹介しても、どれほどの方に読んでいただけるものか、あやしい限りですが、少なくともここは署名入りで全世界に公開しているわけで、それが、理念としてmixiとは違うのだと言いたい訳です。あれ、でもそういえば、ごうさんのほんとうのなまえ、知らないや。)

【沖縄通信 No.4】(from ごうさん)
あれは、高校国体が始めて沖縄に呼べると喜び、沖縄中で盛り上がってたんですね。
開催県は全ての種目にエントリー出来るので、必ず総合優勝出来るんですよ。
沖縄を総合優勝させることによって、大和に対する劣等感を払しょくさせ、自信をつけせるチャンスだったんです。
読谷村もその会場の誘致に懸命で、やっとその夢が実現する運びになりました。

しかし、大きなネックになったのが、国旗掲揚でした。

読谷村では4カ所で集団自決しているんですね。
僕が調査した「チビチリガマ」では85人が死に、83人が集団自決です。
そのうち12歳以下の子供が47人を占めています。
とても自分で死ぬことはできないわけで、その子たちは、お母さんに殺されたのです。
調査していて「あなたたちにはわからないかも知れないけど、当時はそういう教育だったんだよ」という話をある生き残った母親から聞きました。
降伏するくらいなら自決せよという軍国主義教育が母性さえ奪ったんだと思います。
沖縄戦は実は戦争が終わった後の9月7日まで散発的戦闘が続きました。
“最後の一兵まで戦闘せよ”と指令されていたからです。沖縄は、米軍の本土上陸を長引かせるために、まさに捨て石にされたのです。
また、戦闘の最中の5月に出た日本軍指令で、沖縄語をしゃべった者はスパイとみなして処刑されました。
こうした日本軍による住民虐殺や集団自決の象徴となったのが日の丸・君が代です。

当時、読谷村は村長も日の丸掲揚に反対していたし、議会でも日の丸強制反対決議を採択していたんですね。
国体のソフトボールの会場でも当初は掲揚しないことになっていた。
しかし、日本ソフトボール協会の会長が「日の丸・君が代をやらないのなら国体を他府県に移す」と言って紛糾したんです。
話し合いを重ねて妥協案が決まりました。
普通、旗のポールは5本だけど、6本目のポールを作って、その端っこに日の丸を立てる。
その反対側の端っこには非核宣言の旗を立てる。
メーンポールには国体旗を立てるというのが妥協案で開会式前日までこれで決まっていました。

村としても、がんばったんだし、端っこなら僕は焼くことはしなかった。
日の丸反対の横断幕を掲げるだけのハズでした。
ところが、当日になって協会長が「慣例なんだからメーンポールに立てろ」と強行したんです。
僕は、とっさにスコアボードに上って国旗を降ろし、燃やしました。燃やせば、もう揚げられないと考えました。
ところが、国旗に火をつけても、すぐに消えるんですね。
もう一度火をつけ、燃やすために火をつけた国旗を振りました。
そのことが、後になって、自分の行為を誇示したと見られ、裁判ではより重い刑が科せられる一因にもなったのですが。
スタンドから拍手喝采が起こりました。みんな、読谷村では当然のことと思ってたんでしょう。

その後、ぼくは逃げるつもりはなかったのですが、仲間が車を乗りつけ、逃げるんだ、早く乗れ。
と言うんで、成り行きでその車で家まで送ってもらいました。
家に帰り、妻に事情を話し、改めて警察に出頭しました。

以来、僕は「国賊」だと言われたりしましたが、本当に僕が国賊なら、僕の店はつぶれているハズです。
僕は30年間スーパーマーケットをやってきました。
日の丸を焼いた翌々日から右翼に店を襲撃され冷蔵庫を壊されました。翌年まで営業妨害を受けました。
でも、地域に支持されたから店はつぶれませんでした。
8年間闘って、裁判には負けました(一審で懲役1年執行猶予3年、二審で控訴棄却)けど、大変満足しています。
日の丸が大変な旗だということを全国で話すことができました。
日本人は、戦争で日の丸が果したことについてケジメをつけないとダメですよ。
それで新たに国旗を制定して日の丸が国旗になるのなら構わない。
でも、国旗が国内向けに必要なのでしょうか。旗というのは識別表示の記号であり思想を明示するものです。
船舶に立てたり、在外の大使館に国旗を立てるのは記号として当然です。
しかし、それが国内で自国民に向けて振られる時というのは、国が外へ出て行く意思表示をしている時、すなわち戦争につながると思っています。



M.A.P.としては、知花昌一さんの考えを全面的に支持するものではありません。というか、いかなる立場も主張することはいたしません。
また、ご紹介した文章の事実関係等を検証したわけでもありません。
あくまでも、“Bar土”のオーナーである「ごうさん」が、実際に知花さんとお会いして、そしてごうさんの頭の中に記憶された知花さんの話を、ごうさんが誠実に書き綴った文章があって、それをここに転載させていただきたいと思ったということであります。
(快く許してくださった「ごうさん」に心から感謝いたします。)
null
ありがとう、そしてご馳走さまでした。

とまりんでレンタカーを返却して、空港へ向かいます。
null

インターネットにある膨大な情報、その有効性を疑うものではありません。でもその恐ろしさを、この旅では考えさせられました。
あることを検索した結果、上位100個の記事全てに同じようなことが書かれていたとしたら、それを正しい情報だと信じてしまうのもいたし方ないことかもしれません。そしてその情報を、また自分のブログに書いたりしてしまいます。ところが実は、100個の情報の出所はたったひとつで、異論は101個目に押しやられている、しかし本当はその意見のほうが真実に近いということもよくあるのです。
間違っているかもしれない情報を、正しいものとしてしまうことに加担しないよう、あらためて肝に銘じています。

我々の過去の記事の中にも、安易に書いてしまった文章があるかもしれません。もし気づいたことがおありになりましたならば、是非ともご指摘くださいませ。

この旅の始めの記事から読む。



今日は宇夫方路女史の本番の日です。
チケットと島バナナ
朝食は島バナナ。
でも、まだちょっと早かったみたいで、右側の黄色いところに芯がありました。全部真っ黒になったくらいが丁度食べ頃なんですね。

那覇をぷらぷらしていたら、もうお昼。

昼間のパラダイス通りです。

大東そばを食べに行きました。
大東そば

“サンパウロ”“ななしん屋”
サンパウロとななしん屋

“bar土”への入口。ごうさん不在。
“bar土”への入口

昼過ぎからは土砂降りの大雨。
そんな中、佐喜真美術館へ。
比嘉豊光の写真展開催中。
その関連イベント…
イベントのチラシ

「復帰」以来、沖縄は何が変わり何が変わっていないのか……

第一部・シンポジウム「赤いゴーヤー」からいま・沖縄を視る
第二部・詩の朗読会、川満信一、中里友豪、高良勉が自作の詩を読む。

会場には、新川明氏の姿も見えました。
第一部のシンポジウムについては、色々と思うことあり、でも、このブログで書くことではなさそうです。「社長とは呼ばないで」で書きます。いずれ(?)。
第二部の詩の朗読会は、何としても聞きたかったのですが、残念ながらもう国立劇場へ向かわなければならない時間、後ろ髪ひかれながら、佐喜真美術館を後にしました。

国立劇場おきなわ大劇場・・・
玉城流喜納の会、会主・師範・教師お披露目公演
“初華に舞う”

開演は3時から。
受付には宇夫方路の先生の関りえ子さんが。「今踊ってるよ」と言われて急いで客席へ。

第一部の古典は、まるで能のよう、すぐに気が遠くなって、いつしか気を失いました。
(隣に座っていた金城君の「眠いですね」の囁きに起こされました。)
宇夫方路が踊った踊りは「天川」と、初代家元・喜納初子先生が創作した「銭掛の花」という踊り。

第二部は少し賑やか。八木政男さんが進行役、そのウチナーグチは、僕には95%理解不能でしたが、でも、会場をいっぱいにしていたご年配には、大いに受けていました。この年代の方たちの間では、まだまだウチナーグチは生きています。
宇夫方路は「仲島小唄」と「海のチンボーラー」を踊りました。

宇夫方路に、古いお友達のるみさんからお花が届いていました。
宮崎るみ子さんから届いたお祝いのお花

パンフレットのイラストは宇夫方隆士さんが担当。
パンフレットのイラスト
八木政男先生のご紹介。
八木政男先生の掲載写真
いったい何年前の写真を使っているのでしょうかしらん。

最後は、舞台に全員揃って、二代目家元の伊波正江先生と八木政男先生に花束をお渡しして幕、ちなみに、八木先生に花束を渡したのは宇夫方路さんでした。

沖縄の二日目は、M.A.P.としてはちょっと小休止っぽい一日でした。

《おまけ》
かみさんの実家へ。
近頃、「白百合」などというとても泥臭い泡盛が、一部で密かに流行っていたりするようですが、基本的には、最近の泡盛はどの銘柄もずいぶんと飲みやすくなって、どれもこれもあまり変わらなくなってしまいました。35年ほど前、僕が初めて飲んだ泡盛たちは、それぞれみんなとてつもなく癖があって個性を主張していました。
今日、そんな懐かしい味を思い起こさせる実にうまい古酒を飲みました。
古酒の瓶
瓶の裏側にはこんな説明書きが……
古酒の能書き
1956年ということは、52年ものの古酒ですね。
「2000年沖縄サミット各首脳晩餐会で乾杯の音頭に使用」とあります。そういえば2000円札も流通しなかった。あれから沖縄は何も変わってはいません。いや、むしろ閉塞感や絶望感が拡がっているのではないか、そして、とてつもない断絶が、密かに進行しているような気もします。
今日は、実に様々な沖縄を廻りました。
(文責:高山正樹)

旅の続きへ

» 続きを読む

ちょっと“じんじん”に
お披露目公演のご案内のために顔を出して…
null

それから稽古へ。
終ったのは12時近く。

それから疲れた体を癒すために、ホテルに帰る前に生ビールを一杯飲もうかなと、“土”に寄った時には、もう24日の0時半を過ぎていました。

偶然、この日はチーズデー。大阪のしんちゃんこと中村慎一さんが、ふた月に一度くらい、大阪からチーズを担いでやって来るそうです。
毎回種類は違うのですが、今日は13種類のチーズが用意されていました。

そういうことならば、予定のビールを変更して、やっぱりチーズとワインを注文するしかないでしょう。
null
ブルーチーズは苦手なのですが、進められる通りの順番で口に入れると、以外においしく食べられました。
お皿の9時の位置に乗っているのがフランスのクロタンというチーズで、ヤギの乳で作ったチーズです。(沖縄のヤギじゃあないのね。)これのほうがブルーチーズよりずっと臭かった……

しんちゃん&大西君
左の方がしんちゃんです。大阪のちんどんやのサックス吹き。
真ん中がごうさんからお店を任されている兵庫県出身の大西君。

カウンターの中にもう一人、アルバイトの貴恵さんです。
null

金曜日から月曜日まではランチをやっています。こちらはごうさんが担当。
null
というわけで、“Bar土”は、100店シリーズの「昼ごはん夜ごはん」で紹介されているのです。

時間があれば食べに来たいけど、今回も残念ながら無理かな。

(“土”に、生粋のウチナンチュがあんまり来ないというのはどういうことなのかなあと、高山正樹は思っているようですが、貴恵さんはどうなんだろう、今度行ったら聞いてみようかな……)

前回の“じんじん”
前回の“土”
前回の、ごうさん

«Prev || 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 || Next»
高山正樹 Masaki Takayama
人気ブログランキングへ