まずは…
過去の記事を加筆更新しました。
沖縄語を話す会夏の宴(7/4)

一昨日、昨日、そして今日、三段落ちの猫。
なんと無防備な。
籠の外で寝る猫(一郎)
籠から出しても、どうやら君たちは、野良にはなれそうもない。

横目で猫を見て、こいつら幸せなのか不幸なのか、そんなことを考えながら書斎に入る。

ウチナーグチの音韻について、そのうちきちんと体系的にまとめてご説明しますなどと、春ごろ、このブログに書いた。
http://lince.jp/hito/okinawamap…
しかしながら、言語学をきちんと勉強しなければ、なかなか無責任な説明などできないことが分かってきた。

『沖縄語辞典』の「母音音素」の説明の中に、こういう記述がある。
「発音のしかたは大体標準語のそれに近いが、uは円唇母音であり、oは標準語のそれと同じ、ないし、わずかに広めである。」

なんとも厄介である。
円唇母音とは唇を丸くする、要するにちょっと口をとんがらす感じだろうか。ならば「標準語」はとんがらさないのかといえばそうでもない。例えば江戸っ子の無声音、寿司の[su]の[u]は、ほとんど平べったい口のママ出す[u](非円唇母音)だが、関西人が「すし」と言えば、ちょっと粘った有声音の「su]となって、この場合は明らかに円唇母音である。
明石家さんまが「すし食った」と言ったならの記事

沖縄語を話す会の勉強会で、ネイティブな沖縄の方が、ヤマトンチュの喋るウチナーグチは何だか違うとおっしゃっていたが、たぶん、こうしたわずかな違いが、その方の違和感の正体なのだろう。そう思うと、ちょいと絶望的になる。

沖縄語を覚えるのに、なにも言語学など必要ではない。わかっちゃいるが、小生、こういうアプローチをしなければ気がすまない。他にもそういう性質(たち)の人たちが、少数だとしてもきっといるに違いないと、そういう御同輩に満足いただけるような説明をするために、もう少し頑張って勉強してみようと思っている。

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まず、M.A.P.after5うちなーぐち講座《1》の記事をお読み頂きたい。
http://lince.jp/hito/okinawamap/benkyoukai…

ヤコブソンの「一般言語学」の中に、こんな記述を見つけた。
「私が子供のとき見た変化を例にとると、標準ロシア語の母音のパターンに一つの顕著な変化が起こった.無強勢の、特に強勢のある音節の直前の位置で、/e/と/i/の二つの音素は、モスクワで私の祖父母の世代には区別されていた.私どもや、もっと若い世代のことばでは、この二つの音素は、一つの/i/になってしまっている.中間の世代、すなわち私どもの父母の世代では、この区別は任意的である.(中略)たとえばわれわれは、保守的に話すときは昔風のことばを使う.モスクワのロシア語で、私どもの父母の世代は、親しい間のおしゃべりでは、強勢のない/e/と/i/を区別しなかった.二つの音素を融合させてしまうという、新しいやり方をするのは、実際の年齢よりも若く見られるためである.」

ウチナーグチを考えようとする者にとって、実に興味深い記述ではないか。ヤコブソンは、ただ単にエピソードを語っているわけではない。彼はここから、文化の構造の全貌を、言語という地平で解き明かそうとするのである。

例えば、今ここでご紹介する余裕も能力もないが、ヤコブソンの「失語症」に関する考察は、ウチナーグチと大和の言葉の間に起きたダイナミズムを考える上で、極めて示唆に富むように思われる。そこに、個別の歴史という特殊性を重ね合わせた時、失ってはならぬもの、回復しなければならぬもの、変わっていっていいものを峻別する可能性が開けるのではないかとさえ思うのである。

ああ、この書斎に篭っていると、これが会社のブログであることを、すっかり忘れてしまう。頭を冷やして、少しばかり限定的な話をしよう。

やはりヤコブソンの「一般言語学」から。
「発生的には相対的な広さと狭さで対立し、聴覚的にはエネルギーの高度集中と低度集中(集約/拡散)で対立する口蓋母音は、若干の言語ではある位置では[ae](発音記号のaとeのくっついたやつのつもり。)―[e]で、他の位置では[e]―[i]で具現され、したがって、同じ音[e]が、ある位置では拡散の項を具現し、ある位置では同じ対立の他方、すなわち集約の項を具現することになる.双方いずれの位置においても、関係は依然として同一である.二つの開口度、これに対応して二つのエネルギーの集中度(最大度と最少度)が、双方いずれの位置においても対立している.」

ちょいとウチナーグチからズレるかなと思いながら、僕は、書斎の中で、まるでお経のような声を出してみる。
「あ」から「い」に向かってだんだん音を変えていく。しかし、なかなかうまくいかない。なぜなら、「い」に比べて「あ」は、舌の位置が奥の方にあるからだ。そのことを理解して、口の形を変えながら、舌をだんだん前に移していくことを意識するとうまくいく。しかし、その間に「え」の音は聞こえてこない。
今度は、「あ」を発音したまま、まず舌を前の方に移してみる。すると[ae](発音記号のaとeのくっついたやつのつもり)の音になるではないか。そして、この日本語にはない[ae]から「い」に向かってだんだん音を変えようとしてみると、意外に簡単に出来る。舌はそのまま、唇を、ただ横に拡げていけばいいだけである。そして、[ae]の音は、きちんと途中「え」を通過しながら「い」の音にたどり着く。つまり、「え」と「い」は、舌の位置が同じ位置(前)にあるからだ。「あ」から「い」に移動した時は、ショートカットしてしまったために、唇の横の広がりが「え」と同じ時、舌の位置は、まだ「え」よりも奥にあったというわけである。

口を横に拡げる、それはイコール舌の位置が下から上に上がっていくことと同じ(厳密にいえば違うのだが)。要するに、「え」と「い」は近しい関係。「え」の時の舌を、上に上げると「い」になるのだ。「お」と「う」も同じ関係にある。「お」の舌の位置を上げれば「う」になる。これを「上舌化(高舌化)」、」という。ウチナーグチは、かつてこの「上舌化(高舌化)」が起こったというのが定説である。「雨(あめ)」が「あみ」に、「雲(くも)」が「くむ」に。
これを、ヤコブソンが示したロシアの事例([e]→[i])を比較すると、とても興味深い。

それにしても、ローマン・ヤーコブソンの「一般言語学」という本は、20年以上も前に、文化人類学や構造主義の本を読み漁っていた頃に買ったもの、まさか今になってまたこの本を開くことになろうとは。しかし、あまりにも難解に過ぎる。近いうちに、もう少し簡単な言語学の本を、見つけてこようと思っている。でないと、生きているうちにウチナーグチをマスターすることなど絶対にできない。

しかし、こういう性格なのです。許してください。