2007年の8月31日から9月9日まで、「沖縄の金細工~うしわれようとするわざ・その輝き~」という展覧会が、浦添市美術館で開催されました。
(余談ですが、実はこの時、又吉健次郎氏が宇夫方隆士氏に、ぜったい詩画集の展覧会をやったほうがいいと、乗り気ではない隆士氏に代わって、浦添美術館の空いている日を押さえてしまったのです。それがきっかけで、隆士氏は沖縄タイムスの新聞小説の挿絵を描くことになり、我々M.A.P.は隆士氏を通じて、沖縄タイムスの文芸部長さんから大城立裕氏を紹介いただきました。なんだか不思議。)

8月28日付けの「沖縄タイムス」に、この展覧会を紹介する記事が掲載され、そこには次のような一文がありました。
「琉球では、金銀を扱う金細工(クガニゼーク)、錫・銅を扱う錫細工(シルカニゼーク)の金工職人がいた」
もしかすると、浦添市美術館に行けば、何かわかるかもしれない、そう思って訪ねてみました。
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その時のチラシをコピーしてくださいました。
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他にも、又吉健次郎さんの工房の案内や名刺などもファイリングされていましたが、それらには「カンゼーク」と書かれてありました。
「なぜカンゼークではなく、クガニゼークとしたのですか」
「この時の展覧会は、又吉さんだけではなく、クガニゼーク全体を紹介する企画だったので」
僕の問いの立て方がまずかったのかもしれませんが、なんとなく意外なお答えでした。それまで、漠然として、「カンゼーク」という大きなくくりのなかの一分野が「クガニゼーク」なのかもしれないと思い始めていたのに、お答えの印象はその逆です。でも、それは要するに、カンゼークについての見解が定まっていない、というか、「カンゼーク」の言葉にこだわることに大した意味はないという感じなのです。

今回の旅で、「カンゼーク」の本質にどうしてもたどりつけないもどかしさがどんどん増大してきています。しかし、もしかすると、僕の求める明確な答えなどハナから無かったのではないか、ここに至って、そんな風に思えてきました。「カンゼーク」の原点を求めても、そんなものは初めから存在しない。「カンゼーク」という言葉は、廃藩置県以後の大きな変化の中で生まれてきた、比較的新しい言葉なのではないか。「金細工」と書いて「カンゼーク」と読むのは、元来のウチナーグチでは考えにくいけれど、大和の感覚を通すと、「クガニゼーク」より、一見自然で、かつ沖縄風に聞こえてきます。

さて、この僕の推測は正しいのかどうか、まだ調べる本もある、聞ける人もいます。
もう少し、「カンゼーク」の影を、追ってみようと思っています。


《又吉健次郎さんはクガニゼーク》
展覧会のチラシにある文章です。
「琉球では金をクガニ、銀をシロカニまたはナンジャ、銅をアカカニ、錫をシロカニと呼んでいます」
また別の箇所では「金銀を扱う黄金細工(クガニゼーク)、錫・銅を扱う錫細工(シルカニゼーク)」とある。この矛盾はどういうことなのでしょう。なんだかいくつかの資料から切り取って貼り付けたかのよう。
さらに文章は続きます。
「(クガニゼーク・シルカニゼーク)の金工職人は、鉄を扱う鍛冶職人とは異なる系譜で技を伝えてきました。」
このことが正しいとするのなら、「カンゼーク」が鉄を扱う鍛冶屋のことだと元来の意味が生きている限り、やはり又吉健次郎さんは「クガニゼーク」でなければならないとも思うのです。

《沖縄タイムス記事「沖縄の金細工~うしわれようとするわざ・その輝き~」より》
「(琉球の金工職人は)鉄を扱う鍛冶や琉球漆器職人と同時期の16世紀後半には存在していたことが、『球陽』や家譜資料の文献資料で確認できる」
「琉球の金属技術は、古琉球期から近代まで、脈々と生きてきた世界」だが「近代以降、そのほとんどの技術は途切れている」
それは「技術を支える需要と生産の柱であった王府使用の品々が注文されなく」なったから。
「王府組織でその役割が、明確であった芸術文化ほどその断絶は深い」
「現在、金属工芸で継承されている技術は、銀を主体とした素材で指輪、房指輪、簪などの装飾品が中心」
「数人の金細工職人が作る簪や指輪などの装飾品の多くは、琉球舞踊の踊り手たちや個人の需要に支えられて製作されている」