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去る5/25と26に、喜多見の事務所で、「東京ニャイト倶楽部」の録音をしました。
なかなか皆さん忙しく、楠定憲氏は地方公演のために欠席。

先日白石准の新作、“オツベルと象”で参加してくれたJazz Bassの稲垣護氏が25日、そして白象の象徴、Tubaの古本大志君が26日、今回は彼らの紹介と、彼らの人生を変えた曲と題してお気に入りの音楽を持参してもらいました。

放送日が決まったらまた広報します。
稲垣氏録音風景
FMつやま録音古本


投稿したことはtwitterに反映されるし、その投稿はすなわち山猫合奏団のtwitterにも反映するから、ここに投稿もするが最近は白石准は白石准のmain blogの方にしています。

それぞれ投稿した時にこちらにもお知らせをすればよかったのですが、ちょっとさぼってました。

http://juninho.blog16.fc2.com/blog-category-122.htmlが“オツベルと象”のカテゴリです。

だんだん完成に近づいています。

5/1に皆さんの耳に届くまでにどれほどの紆余曲折があるか、楽しみです。
いろんな“オツベルと象”を聴くことが出来るのは面白いです。

今作曲中の“オツベルと象”には、賢治独特なのか、その時代の流行の表現なのか、耳で聞くことを前提にして作曲していると??と思う言葉遣いが多い。

象の鳴き声グララアガア、そして寝台については僕のメインページに書いたが、まあその二つは首をひねる種類のものではなく、前者は賢治独特の擬態語(onomatopée)であり、後者はBedという言葉が一般的でなかったのかもしれないし、敢えて寝台と言葉を選んだのかも知れないから意味が不明ということにはなってない。

しかし、このtitleの言葉遣いはとても重要な台詞だけに、一瞬意味を図りかねる(はかり、はこの字で良いのかな)ような表現なので、違和感を感じながら書いているところです。

普通は、「ぼくはずいぶん(な)眼にあってる」と来るように思います。

ずいぶん、という言葉は、あとに「と」も着きますね。

「ずいぶんと老けたね」とかが多いし、そういう助詞(かな)が無いときは、「ずいぶん上手になった」とか「ずいぶん久しぶりだね」というのはあるけど、「ずいぶん眼にあってる」というのは少なくとも僕には良く分からない表現だ。

上手とか老けるとか状態を表す言葉が後につくなら、助詞が着かなくても全く問題ないのだ。

しかし「眼」という言葉にはたしかに、「辛い眼」、そうまさに、もしこれが「ぼくはずいぶん辛い眼にあってる」だと完璧に判るが、「いい眼を見る」という意味もあるから、もしかしたら「ずいぶん良い眼にあってる」という表現も成り立ちそうで、「眼」にはこの場合にあるような、「酷い状態」というのがもともとあるようには思わないから違和感を感じるのです。

miss printかなと思って二種類見たが、片方は「ずいぶん眼にあってゐる」で、もう片方は「ずいぶん目にあってる」だ。漢字の違いと旧仮名遣いの違いだけでどちらも助詞はない。

まあこの表現はそのまま譜面に記すが、ちょっと心の中で首をひねりながら演奏することでしょう(爆)

作曲家なら誰でも、譜面の「絵」がそれを演奏する人にどう伝わるかということについて、音そのものだけではなく、とても気にするものです。

それは、詩人が、その言葉をひらがなでかくか、漢字で書くか、あるいはカタカナ、アルファベットという選択肢の中から、しかも、どこで句読点を打つか、また何処で改行するか、もしかしたら、出版の際は、どのくらいの大きさの文字でどんなフォントを使うかということにとても悩むのに似ています。

“オツベルと象”の作曲は最終章の途中で止まっています。

なぜかというと、この数日間はその前の部分の「譜面面(ふめんづらと読みます)」を色々変えてい観たり戻したりまた違う書き方をしたりしているからです。

たぶん、どんな譜面にしても、Tubaの古本君と僕はそこから読み取る内容がすぐにわかるのですが、他の人たちは、僕らに比べたら音符にべらぼうに慣れているというわけではないのです。

専門的に書くと、言葉が7つ連なってそれを一つの小節にはめ込んだ場合、
7/8拍子で表記した方が良いか、
4/4で最初に一つ8分休符を入れた方がいいか、
3/8+4/8と分けた方が良いか(あるいは4/8+3/8)、
あるいは一小節の中で(3/8+4/8を)一つにして区分けした方が良いか、

結局鳴って聞こえてくるものは同じでも、表記によって演奏者がどう感じるかでやっている意味合いは根本的に変わってしまいます。

実際にやったことは、
5/4になるところを、5/8と5/8に分けたり(結局足し算すると音符がはまる量は同じなのだが、言葉のグルーブが5つでまとまっているから)、
3/4でずっと言っても良いが、小節の中が3つの音が二つ連なっている部分だけ6/8にしたり、
それがすごく時間がかかってしまっているのです。

以前に僕が、フランス歌曲を朗読したらどうか、と提案したとき、その意味が最初上手く伝わらず、練習の最初のちんぷんかんぷんなあの空気(爆)が忘れられず、自分のブログにも、客を納得させるより共演者を納得させる方が難しい、と書いたことがあるけど、今回もそういうことにならないように、譜面を見たときに、判りやすく整理できるようにしたいとはできるかぎり思っていて、それをどちらでも良さそうなときにどうするか、決定するのに恐ろしく時間がかかる。

しかも、第一日曜日と第二日曜日は、譜面ソフトの定番、Macintosh用のFinaleの最新版、2011で書いてしまったのだが、これが、言葉が増えてくるととたんに重くなり、酷い動作で、小節に入るだけで30秒以上待たされ、音にカーソルをあてるだけでまた同じくらい待たされ、削除なり書き加えるとそれでまた数十秒待たされ、本来なら1時間でできる仕事が5時間ぐらい待たされているのだが、それより古いヴァージョンでは開けないので(xmlで可能かなと思ったが、やっぱり正確に転写できなかった)、最終章の第5日曜日は、一世代古い2010で書いているのだが、これがとてもさくさく書ける。

今もなんでこの記事を書こうかとおもったかというと待たされているからだ(爆)、そろそろ大丈夫かな。

rehersal@龍谷寺20110217
今日は語り手チームと僕で第五日曜の途中までの部分を練習しました。

すごい集中力が必要な作品であることが判り、今までの僕の作品のなかでもっとも重厚で激しい音楽であることがわかりました。

まだ全員で音を出したことがないので、早くそれを聴いてみたいです。
龍谷寺の山門で

昨日(2011/01/24)“オツベルと象”の最初のリハーサルが行われたので、その模様を写真付きで書きました。
http://juninho.blog16.fc2.com/blog-entry-1996.html


五月のアルテリッカの公演のために作曲中の“オツベルと象”ですが、本日全体の2/3の第一稿ができました。

この作品は三つの部分に分かれています。

タイトルが、おのおの、「第一日曜」、そして「第二日曜」そして、まるでゴーシュの最後の六日目の晩と、飛ぶように、いきなり第三、第四を飛ばして、「第五日曜」に飛んで、とてもシュールな最後の一行に向かって話は進みます。

今日書きながら、ふと思ったことがあります。

“どんぐりと山猫”が僕の処女作なのですが、それは、学生時代の修了演奏会(1981年)のためにかいたものです。(大学は演劇専攻でしたが、専攻科というのを作曲で一年すごし、その修了演奏会だったのです)

それ以降、次回作は書くぞ、と何度も言ってきてはいて、間はかなりあきましたが、2005年に偶然ながら、二つの宮沢賢治原作の作品、“セロ弾きのゴーシュ”と“注文の多い料理店”を書きました。

この取り合わせは全くの偶然でしたが、共通しているのは、「他人に頼まれて書いた」ということです。

それから今までの間にはいくつかの大きな作曲はありますが、山猫合奏団のためというのなら、それ以来の4つめのレパートリーになります。

それが、社会人になってからは、自発的に書いた最初の作品になるということです。

思えば、“どんぐりと山猫”を書いた後、自分の中で次に賢治の作品を書くなら、これと決めていたことを思い出しました。

なんで、“オツベルと象”なのか、

それは、一つに、僕の賢治に出会った最初の作品であること。
(たしか中学校の教科書で出会った)

そして、たまたま僕が書いた三つの作品には無い、文体のグルーブというか、独特の韻の踏み方があること、これはこれまでに書いたどの作品にもないスタイルで書けるという、確信があったからです。

余談ですが、僕は中島敦氏の「名人伝」もそのうち書きたいと思っていますが、それはまったく文体のリズムという意味では同じ感じを持っています。

この間、FMつやまのための録音を久しぶりに山猫合奏団のメンバーのうち四人があつまってやりましたが、賢治についていろいろ脱線しながらも語り合っている間に、どうして自分は賢治の研究者でもなく、ファンでもないのに、こうも賢治にふれているのかと考えたら、実におこがましいのだけど、作曲している段階、これは聴衆の皆さんの前にでているときにはもうすでに希薄になっていることなのですが、テキストを前にして頭に音楽を鳴らしていると、不思議なことに、「音楽をつけて欲しい」という感じが作品から勝手に自分に降りかかってくると思えてしまうのです。

今回のスタイルは、まだこの先大幅な変更があるかもしれませんが、今のところ、音楽は最初から最後まで鳴りっぱなしです。

これは、“どんぐりと山猫”にも“セロ弾きのゴーシュ”にもない。

“注文の多い料理店”はすこしそれっぽいところがあるが、それよりも、徹底的に、オペラの様に、台詞の裏には全部音楽が流れています。

これが凶と出るか吉と出るかはまだわかりません。

その「鳴りっぱなし」というこころは、なぜなのかというと、今までの作品の中には、たまに、歌にはしてないけど、言葉のリズムと音楽を合わせているところが僕の作品には見受けられ、その部分を、キャッチフレーズとして、「音楽と言葉の化学反応」と我々は自称しているのですが、それを完全に徹底したのがこの作品です。

つまり、賢治の書いた文章、台詞はすべて今回、音符にしました。

役者には自由には語らせません(爆)

僕にはこの作品のテキストが、はっきりリズム読みをするように読めてしまうからです。

そこで問題になるのが、日本語の五七五の調子のことです。

こんなはんぱな数だけど、読むときは、人によって違うかもしれないが、おのおの休符をくっつけて、結局は五拍子七拍子ではなく、四拍子で韻を踏むことがおおいのではないでしょうか。

でも、会話では、その休符は無く、結構この不規則なグルーブが面白かったりするです。

僕がこの作品でやっていることは、両方の拍子が入り乱れています。

ですから、音楽だけ聴くととても、不安定に聞こえるけど、言葉のリズム(まあこれが僕が読んだものという限定がはいってくるけど)からすると実に自然に聞こえる(はず)です。

今度の月曜日に、初めての読み合わせがあり、役者二人と演奏家二人も集合します。

そうそう、今回の編成は、実に奇妙な編成です。

チューバとジャズ・ベース、もちろん、アコースティック・ベースですが、それと、ピアノという妙に低音の編成です。

チューバには、白象のキャラクターを演じて貰います。

ベースには言葉のリズムを立てるための重要な舵取りをしてもらいます。

ピアノは、全体の色彩をハーモニーで包むことになっています。

まあ、あとは、ト音記号より上の音はピアノしかないからね。
語り手二人も男だからト音記号の音域よりはかなり低い声だし、これは女の人が読まない様がリアルだとはおもいますから。

作曲する身としては、自分の作品がまずお客さんの耳に入る前にリハーサルで実際の音になる瞬間は、この世でもっとも興奮する瞬間になるのです。

まあ今度の月曜日はまだ楽器は持ってきて貰わないので、それはまだお預けだし、あと1/3(第五日曜)のクライマックスが白紙状態なので、もう少しかかりますが、、、。

“どんぐりと山猫”では、その年齢で頭の中で聞こえていたいろんなスタイルの音楽を、見本市の様にした作品でした。

“セロ弾きのゴーシュ”では、明らかに作品の中で「音楽」を演奏する場面につけたので、“どんぐりと山猫”のような心象風景の音楽をどこにどうつけるかという悩みはまったくなく、中には自分が以前書いた音楽でお蔵入りになったものを復活させたりしたので、ある意味、自分の書いた音楽のカタログの様なことになったものです。

そして、“注文の多い料理店”では、母親には以前から言われていたのですが(爆)、なぜ僕の作品には「歌」がないのか、とせっつかれていたことを、実現したというか、高山正樹の歌唱力が結果的には一番生きた作品になりましたが、作品のなかで、ずっとしつこく同じモティーフ、コードをベースに山猫の張り紙を歌にして、すべてが変奏曲の様なものですから、それまでの作品のような場面場面での変化を敢えて封印したスタイルで書きました。

そして“オツベルと象”は、Jazzの要素がベースにあり、完全に言葉が歌のパートと同じように楽器になっています。

ですから、役者というよりは、ラップ・ミュージシャン楠定憲と高山正樹になるかんじでしょうか(爆)

でも、もしかしたら、これは邦楽の流れに近い結果になるかもしれないと密かには思っているのです。

そうそう、今まではあまり女の人を想定した作品を書きませんでしたが、この記事の内容とは別に、宇夫方路女史、そして、ラ・フォンテーヌの寓話、そして雪だるまですばらしいデビューをしてくれた、ソプラノの人見共女史の二人で、山猫合奏団の「女子部」も立ち上がることが決定されています。

僕が山猫合奏団ではないところで書いた、それこそ女の人を想定した「幻冬のうた」というのもあるし、今年はピアノを弾くより作曲を沢山する決意であります。

今年もよろしくお願いします。

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