五月のアルテリッカの公演のために作曲中の“オツベルと象”ですが、本日全体の2/3の第一稿ができました。

この作品は三つの部分に分かれています。

タイトルが、おのおの、「第一日曜」、そして「第二日曜」そして、まるでゴーシュの最後の六日目の晩と、飛ぶように、いきなり第三、第四を飛ばして、「第五日曜」に飛んで、とてもシュールな最後の一行に向かって話は進みます。

今日書きながら、ふと思ったことがあります。

“どんぐりと山猫”が僕の処女作なのですが、それは、学生時代の修了演奏会(1981年)のためにかいたものです。(大学は演劇専攻でしたが、専攻科というのを作曲で一年すごし、その修了演奏会だったのです)

それ以降、次回作は書くぞ、と何度も言ってきてはいて、間はかなりあきましたが、2005年に偶然ながら、二つの宮沢賢治原作の作品、“セロ弾きのゴーシュ”と“注文の多い料理店”を書きました。

この取り合わせは全くの偶然でしたが、共通しているのは、「他人に頼まれて書いた」ということです。

それから今までの間にはいくつかの大きな作曲はありますが、山猫合奏団のためというのなら、それ以来の4つめのレパートリーになります。

それが、社会人になってからは、自発的に書いた最初の作品になるということです。

思えば、“どんぐりと山猫”を書いた後、自分の中で次に賢治の作品を書くなら、これと決めていたことを思い出しました。

なんで、“オツベルと象”なのか、

それは、一つに、僕の賢治に出会った最初の作品であること。
(たしか中学校の教科書で出会った)

そして、たまたま僕が書いた三つの作品には無い、文体のグルーブというか、独特の韻の踏み方があること、これはこれまでに書いたどの作品にもないスタイルで書けるという、確信があったからです。

余談ですが、僕は中島敦氏の「名人伝」もそのうち書きたいと思っていますが、それはまったく文体のリズムという意味では同じ感じを持っています。

この間、FMつやまのための録音を久しぶりに山猫合奏団のメンバーのうち四人があつまってやりましたが、賢治についていろいろ脱線しながらも語り合っている間に、どうして自分は賢治の研究者でもなく、ファンでもないのに、こうも賢治にふれているのかと考えたら、実におこがましいのだけど、作曲している段階、これは聴衆の皆さんの前にでているときにはもうすでに希薄になっていることなのですが、テキストを前にして頭に音楽を鳴らしていると、不思議なことに、「音楽をつけて欲しい」という感じが作品から勝手に自分に降りかかってくると思えてしまうのです。

今回のスタイルは、まだこの先大幅な変更があるかもしれませんが、今のところ、音楽は最初から最後まで鳴りっぱなしです。

これは、“どんぐりと山猫”にも“セロ弾きのゴーシュ”にもない。

“注文の多い料理店”はすこしそれっぽいところがあるが、それよりも、徹底的に、オペラの様に、台詞の裏には全部音楽が流れています。

これが凶と出るか吉と出るかはまだわかりません。

その「鳴りっぱなし」というこころは、なぜなのかというと、今までの作品の中には、たまに、歌にはしてないけど、言葉のリズムと音楽を合わせているところが僕の作品には見受けられ、その部分を、キャッチフレーズとして、「音楽と言葉の化学反応」と我々は自称しているのですが、それを完全に徹底したのがこの作品です。

つまり、賢治の書いた文章、台詞はすべて今回、音符にしました。

役者には自由には語らせません(爆)

僕にはこの作品のテキストが、はっきりリズム読みをするように読めてしまうからです。

そこで問題になるのが、日本語の五七五の調子のことです。

こんなはんぱな数だけど、読むときは、人によって違うかもしれないが、おのおの休符をくっつけて、結局は五拍子七拍子ではなく、四拍子で韻を踏むことがおおいのではないでしょうか。

でも、会話では、その休符は無く、結構この不規則なグルーブが面白かったりするです。

僕がこの作品でやっていることは、両方の拍子が入り乱れています。

ですから、音楽だけ聴くととても、不安定に聞こえるけど、言葉のリズム(まあこれが僕が読んだものという限定がはいってくるけど)からすると実に自然に聞こえる(はず)です。

今度の月曜日に、初めての読み合わせがあり、役者二人と演奏家二人も集合します。

そうそう、今回の編成は、実に奇妙な編成です。

チューバとジャズ・ベース、もちろん、アコースティック・ベースですが、それと、ピアノという妙に低音の編成です。

チューバには、白象のキャラクターを演じて貰います。

ベースには言葉のリズムを立てるための重要な舵取りをしてもらいます。

ピアノは、全体の色彩をハーモニーで包むことになっています。

まあ、あとは、ト音記号より上の音はピアノしかないからね。
語り手二人も男だからト音記号の音域よりはかなり低い声だし、これは女の人が読まない様がリアルだとはおもいますから。

作曲する身としては、自分の作品がまずお客さんの耳に入る前にリハーサルで実際の音になる瞬間は、この世でもっとも興奮する瞬間になるのです。

まあ今度の月曜日はまだ楽器は持ってきて貰わないので、それはまだお預けだし、あと1/3(第五日曜)のクライマックスが白紙状態なので、もう少しかかりますが、、、。

“どんぐりと山猫”では、その年齢で頭の中で聞こえていたいろんなスタイルの音楽を、見本市の様にした作品でした。

“セロ弾きのゴーシュ”では、明らかに作品の中で「音楽」を演奏する場面につけたので、“どんぐりと山猫”のような心象風景の音楽をどこにどうつけるかという悩みはまったくなく、中には自分が以前書いた音楽でお蔵入りになったものを復活させたりしたので、ある意味、自分の書いた音楽のカタログの様なことになったものです。

そして、“注文の多い料理店”では、母親には以前から言われていたのですが(爆)、なぜ僕の作品には「歌」がないのか、とせっつかれていたことを、実現したというか、高山正樹の歌唱力が結果的には一番生きた作品になりましたが、作品のなかで、ずっとしつこく同じモティーフ、コードをベースに山猫の張り紙を歌にして、すべてが変奏曲の様なものですから、それまでの作品のような場面場面での変化を敢えて封印したスタイルで書きました。

そして“オツベルと象”は、Jazzの要素がベースにあり、完全に言葉が歌のパートと同じように楽器になっています。

ですから、役者というよりは、ラップ・ミュージシャン楠定憲と高山正樹になるかんじでしょうか(爆)

でも、もしかしたら、これは邦楽の流れに近い結果になるかもしれないと密かには思っているのです。

そうそう、今まではあまり女の人を想定した作品を書きませんでしたが、この記事の内容とは別に、宇夫方路女史、そして、ラ・フォンテーヌの寓話、そして雪だるまですばらしいデビューをしてくれた、ソプラノの人見共女史の二人で、山猫合奏団の「女子部」も立ち上がることが決定されています。

僕が山猫合奏団ではないところで書いた、それこそ女の人を想定した「幻冬のうた」というのもあるし、今年はピアノを弾くより作曲を沢山する決意であります。

今年もよろしくお願いします。