ゴーシュの畑からトマトをとってお土産に持ってきた三毛猫、こいつはオスなのかメスなのかということも謎ですが、ともかくゴーシュは、今までその大きな三毛猫を五、六ぺんみたことがあるということについて、なんで五、六ぺんなのかというおはなしを前回しました。
続いてやってきたのはカッコーです。
(ちなみに、ドイツの南部地方の古い方言では、カッコウのことを“Gauch”というらしい。“ゴーシュ”は、この“Gauch”から作った名前だという説もあるのです。)
ゴーシュはドレミファを教えてくれとしつこくいうカッコーに、こう答えます。
「うるさいなあ。そら、三べんだけ弾いてやるから、すんだらさっさとかえるんだぞ」
なんで三べんなんでしょう。これもなんだか納得がいかない。一度で十分でしょうに。
ところが、何度も声を出して読んでいるうちに、あることに気がついた。
そら、さんべんだけひいてやるから、すんだら、さっさと、かえるんだぞ
このSの発音の並びが、実に気持ちがいいのです。そう思ったら、さんべん以外にはないじゃないですか。さんべんの次はさんじゅっぺんまでSの音は出てこないのですから。
いかん。完全に罠にはまっている。
おまけ。
ネズミの親子の最後の場面。
「こどもをさきにたててでていきました」のててでての並びも気持ちいいんだよねえ……
ネズミの親子の場面の謎は、また次回。
続いてやってきたのはカッコーです。
(ちなみに、ドイツの南部地方の古い方言では、カッコウのことを“Gauch”というらしい。“ゴーシュ”は、この“Gauch”から作った名前だという説もあるのです。)
ゴーシュはドレミファを教えてくれとしつこくいうカッコーに、こう答えます。
「うるさいなあ。そら、三べんだけ弾いてやるから、すんだらさっさとかえるんだぞ」
なんで三べんなんでしょう。これもなんだか納得がいかない。一度で十分でしょうに。
ところが、何度も声を出して読んでいるうちに、あることに気がついた。
そら、さんべんだけひいてやるから、すんだら、さっさと、かえるんだぞ
このSの発音の並びが、実に気持ちがいいのです。そう思ったら、さんべん以外にはないじゃないですか。さんべんの次はさんじゅっぺんまでSの音は出てこないのですから。
いかん。完全に罠にはまっている。
おまけ。
ネズミの親子の最後の場面。
「こどもをさきにたててでていきました」のててでての並びも気持ちいいんだよねえ……
ネズミの親子の場面の謎は、また次回。
(楠さん、僕はあくまで代理だよ:高山正樹)
9月12日の勝央文化ホールと9月15日天神山文化プラザの各公演の画像をアップしました。
(勝央では爆笑小道具シリーズもご覧になれます!)
それぞれのブログ記事からどうぞ……
勝央文化ホール(9/12)
⇒http://lince.jp/lince/acorns_history/shouou…
天神山文化プラザ(9/15)
⇒http://lince.jp/lince/acorns_history/tenjinyama…
(勝央では爆笑小道具シリーズもご覧になれます!)
それぞれのブログ記事からどうぞ……
勝央文化ホール(9/12)
⇒http://lince.jp/lince/acorns_history/shouou…
天神山文化プラザ(9/15)
⇒http://lince.jp/lince/acorns_history/tenjinyama…
2009年に続き、2010年の川崎・しんゆり芸術祭に山猫合奏団の参加が決定しました。
⇒「川崎・しんゆり芸術祭2009アルテリッカしんゆり」の記事
2010年。5月4日今回の演目は“セロ弾きのゴーシュ”
開演時間は未定です。
会場は2009と同じ、昭和音楽大学北校舎第1スタジオ。
音楽的にはこちらの希望する会場にはならなかったのですが、むしろ事務局側が、言葉にとっての条件を考慮され、響きすぎる会場を避けられたようです。作品が知られてくると、観客の皆さんが期待するもの、求めるものに大きく影響されてもいきます。こちらとしてどうしても譲れないことをどこに置くのか、それは今後考えるべき大きな課題となってくるのでしょう。
今まで我々は、あくまでも音楽を念頭に置いて活動をしてきました。その中で、ゴーシュの役をチェリストが演ずることも、楽長役を作曲者自身が演ずることも、音楽ファンは、意外性のある贅沢なオマケとして、ふっと微笑んでくださってきたと思うし、その肩から力の抜けた感じを、演ずる側も敢えて企ててきたとも言えます。
しかし我々は、2010年のしんゆり芸術祭で、新たな場所へ一歩踏み出してみようと決意しています。
台詞を憶えること。劇的に暗譜すべき音楽は、もちろん暗譜しなければならないということ。
これは、今までの仕事に暗記するという面倒な努力が付け加わるというような単純なことではありません。今までの読むという行為は、宮澤賢治の言葉を、分析し解釈し、その論理を冷徹に提示することでした。しかし暗記するということは、輸血された血液を、拒絶反応を乗り越えて自分の血として再生させることです。
例えば「怒鳴る」。
読む行為は「怒鳴っている」ということを、必要ならば怒鳴って見せることで、客観的に伝えること(これもなかなか難しい作業ですが)、しかし演ずるなら、まさに怒鳴らなければらない。「~と怒鳴りました」というような演技では、誰も納得などしてくれません。ただ怒鳴ればいい、しかしこれは、単純ですがちっとも簡単ではありません。
「読む」と「演ずる」とは、質的に全く違う作業なのです。
ゴーシュを演ずるチェリスト大島純は、きっと「演ずる」という未知の世界で、悪戦苦闘することになるでしょう。
その結果、ゴーシュに命が吹き込まれれば、相手する動物たちも、今までのように、ひとり勝手なソロの演技は許されません。目の前のゴーシュという存在を、対話する相手としてきっちりと捉えて、となれば動物たちは、相手役であるチェリストが、ゴーシュであることを、逆照射するように徹底的に要求することになるのです。
もはや語り手も、今までのように、テキストの中に小さく閉じ篭っていることはできません。ゴーシュと動物たちのダイナミックなやり取りを、最大限の集中力を持って注視し、どのように語れば劇的世界の時間をコントロールすることができるのか、細部にわたって極めて高度な技量が必要になります。
そしてその時、演ずることで生まれるドラマと、白石准の音楽との間に、どのような対決が起こり始めるのでしょうか……
勝央からアンケートがようやく届きました。過去の公演記録の記事に、そっくりそのまま追記紹介しました。
⇒勝央文化ホール“セロ弾きのゴーシュ”の記事
その中で、音楽的にはとても好意的な感想をたくさんいただきました。
しかし言葉については、聞こえずらかったというようなマイナスのご意見も届きました。逆に、プラスの具体的な感想はあまり見られませんでした。トータルで考えると、送っていただいたアンケート結果は、音楽の感想としては嬉しいが、ドラマの感想としてはとても貧弱なものです。
(聞こえずらかったことについては、客観的に聞きながらオペレートする専門の音響技師が不在だったという要因が大きく影響しています。もちろんそれはホールの責任などではなく、我々の側の問題です。しかし、照明等も含めて、求められるものを実現するためには、報酬の設定が大きな壁であるということも、主催してくださる方々には是非ご理解いただきたいとも思うのです。)
2010年しんゆり芸術祭での我々の(無謀な?)挑戦は、ドラマとしての深い感想を獲得することなしには成功とはいえないでしょう。
さてさて、いかがなりますことやら。なにぶん年齢も年齢なので、いままでの通り、緩ーく行こうよってなことになることも、大いに考えられますが。
是非とも皆さんのご意見も伺いたいものです。
⇒「川崎・しんゆり芸術祭2009アルテリッカしんゆり」の記事
2010年。5月4日今回の演目は“セロ弾きのゴーシュ”
開演時間は未定です。
会場は2009と同じ、昭和音楽大学北校舎第1スタジオ。
音楽的にはこちらの希望する会場にはならなかったのですが、むしろ事務局側が、言葉にとっての条件を考慮され、響きすぎる会場を避けられたようです。作品が知られてくると、観客の皆さんが期待するもの、求めるものに大きく影響されてもいきます。こちらとしてどうしても譲れないことをどこに置くのか、それは今後考えるべき大きな課題となってくるのでしょう。
今まで我々は、あくまでも音楽を念頭に置いて活動をしてきました。その中で、ゴーシュの役をチェリストが演ずることも、楽長役を作曲者自身が演ずることも、音楽ファンは、意外性のある贅沢なオマケとして、ふっと微笑んでくださってきたと思うし、その肩から力の抜けた感じを、演ずる側も敢えて企ててきたとも言えます。
しかし我々は、2010年のしんゆり芸術祭で、新たな場所へ一歩踏み出してみようと決意しています。
台詞を憶えること。劇的に暗譜すべき音楽は、もちろん暗譜しなければならないということ。
これは、今までの仕事に暗記するという面倒な努力が付け加わるというような単純なことではありません。今までの読むという行為は、宮澤賢治の言葉を、分析し解釈し、その論理を冷徹に提示することでした。しかし暗記するということは、輸血された血液を、拒絶反応を乗り越えて自分の血として再生させることです。
例えば「怒鳴る」。
読む行為は「怒鳴っている」ということを、必要ならば怒鳴って見せることで、客観的に伝えること(これもなかなか難しい作業ですが)、しかし演ずるなら、まさに怒鳴らなければらない。「~と怒鳴りました」というような演技では、誰も納得などしてくれません。ただ怒鳴ればいい、しかしこれは、単純ですがちっとも簡単ではありません。
「読む」と「演ずる」とは、質的に全く違う作業なのです。
ゴーシュを演ずるチェリスト大島純は、きっと「演ずる」という未知の世界で、悪戦苦闘することになるでしょう。
その結果、ゴーシュに命が吹き込まれれば、相手する動物たちも、今までのように、ひとり勝手なソロの演技は許されません。目の前のゴーシュという存在を、対話する相手としてきっちりと捉えて、となれば動物たちは、相手役であるチェリストが、ゴーシュであることを、逆照射するように徹底的に要求することになるのです。
もはや語り手も、今までのように、テキストの中に小さく閉じ篭っていることはできません。ゴーシュと動物たちのダイナミックなやり取りを、最大限の集中力を持って注視し、どのように語れば劇的世界の時間をコントロールすることができるのか、細部にわたって極めて高度な技量が必要になります。
そしてその時、演ずることで生まれるドラマと、白石准の音楽との間に、どのような対決が起こり始めるのでしょうか……
勝央からアンケートがようやく届きました。過去の公演記録の記事に、そっくりそのまま追記紹介しました。
⇒勝央文化ホール“セロ弾きのゴーシュ”の記事
その中で、音楽的にはとても好意的な感想をたくさんいただきました。
しかし言葉については、聞こえずらかったというようなマイナスのご意見も届きました。逆に、プラスの具体的な感想はあまり見られませんでした。トータルで考えると、送っていただいたアンケート結果は、音楽の感想としては嬉しいが、ドラマの感想としてはとても貧弱なものです。
(聞こえずらかったことについては、客観的に聞きながらオペレートする専門の音響技師が不在だったという要因が大きく影響しています。もちろんそれはホールの責任などではなく、我々の側の問題です。しかし、照明等も含めて、求められるものを実現するためには、報酬の設定が大きな壁であるということも、主催してくださる方々には是非ご理解いただきたいとも思うのです。)
2010年しんゆり芸術祭での我々の(無謀な?)挑戦は、ドラマとしての深い感想を獲得することなしには成功とはいえないでしょう。
さてさて、いかがなりますことやら。なにぶん年齢も年齢なので、いままでの通り、緩ーく行こうよってなことになることも、大いに考えられますが。
是非とも皆さんのご意見も伺いたいものです。
やっと現れた楠氏ですが、きっとまた当分の間、来ないでしょうから、またしばらく高山正樹が。あいも変わらず“セロ弾きのゴーシュ”、その謎について。
「ホーシュ君か」
ホーシュ君って誰だ?
呆けたゴーシュ。自虐的にゴーシュが叫んだ言葉、なんて穿った読み方をしてみたりしたが、ドストエフスキーじゃあるまいし、賢治にはやっぱり似合わない。
いろんな人が「ホーシュ」の謎を解明しようとしたが、結論からいうと、さっぱりわからなかったということ。それでかまわないってんだから、神様になってしまえばなんでもありってことらしい。
ところが、すうと扉を押してはいって来たのは、いままで五、六ぺんみたことのある大きな三毛猫でした。
なんで「五、六ぺん」なんだろう。だが、一度「五、六ぺん」だと思ってしまうと、「五、六ぺん」以外にはありえないと思えてくるから不思議である。
(押して入る扉ってどんなのだろう。内開きのドアなんてめったにないが。)
ゴーシュの畑からとった半分熟したトマトをさも重そうに持っています。
三毛猫のこれ見よがしの感じを、「さも」というたった二文字の副詞で片付けてしまうあたり、なかなかのお手並み、賢治の文章は、そういう表現に満ち満ちている。
そう思ってしまうと、全ての言葉に重層的な意味を託しているのではないかと、もう罠だらけなのだ。
「半分熟したトマト」
実にそうなのだろう。でも、まだ熟していないトマトを取ってしまったというネガティブなことを問題にするとき、「半分熟した」という形容はどうなんだろう。「まだ半分しか熟していない」なら分かるのだが。はたして、実際の局面で、こんな言い方をするだろうか。
途端に僕は、僕の常識の通用しない異界へと誘い込まれてしまうのである。
続く……
「ホーシュ君か」
ホーシュ君って誰だ?
呆けたゴーシュ。自虐的にゴーシュが叫んだ言葉、なんて穿った読み方をしてみたりしたが、ドストエフスキーじゃあるまいし、賢治にはやっぱり似合わない。
いろんな人が「ホーシュ」の謎を解明しようとしたが、結論からいうと、さっぱりわからなかったということ。それでかまわないってんだから、神様になってしまえばなんでもありってことらしい。
ところが、すうと扉を押してはいって来たのは、いままで五、六ぺんみたことのある大きな三毛猫でした。
なんで「五、六ぺん」なんだろう。だが、一度「五、六ぺん」だと思ってしまうと、「五、六ぺん」以外にはありえないと思えてくるから不思議である。
(押して入る扉ってどんなのだろう。内開きのドアなんてめったにないが。)
ゴーシュの畑からとった半分熟したトマトをさも重そうに持っています。
三毛猫のこれ見よがしの感じを、「さも」というたった二文字の副詞で片付けてしまうあたり、なかなかのお手並み、賢治の文章は、そういう表現に満ち満ちている。
そう思ってしまうと、全ての言葉に重層的な意味を託しているのではないかと、もう罠だらけなのだ。
「半分熟したトマト」
実にそうなのだろう。でも、まだ熟していないトマトを取ってしまったというネガティブなことを問題にするとき、「半分熟した」という形容はどうなんだろう。「まだ半分しか熟していない」なら分かるのだが。はたして、実際の局面で、こんな言い方をするだろうか。
途端に僕は、僕の常識の通用しない異界へと誘い込まれてしまうのである。
(再び担当:高山正樹)
続く……



