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楠定憲がまた消え失せてから久しい。
このままだと、また干からびてしまう。

そこで、先日の井の頭自然文化園で見つけた“どんぐりと山猫”。ただの埋め草。物語順は無視。

りす。
井の頭自然文化園の看板

やまねこ。
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やっと見つけたショボイ滝。
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きのこの楽隊。
きのこのオブジェとトロンボーンを抱えた楠定憲

どんぐりと栗の木と馬車別当と一郎と楠定憲は行方不明。

次回作予告。
白い象のオブジェ

おまけ。
花子さん。
花子のアップ

楠定憲は白い象によってオツベルと共に川へ突き落とされてしまったのかもしれない……
楠定憲と白い象


オノマトペonomatopeeフランス語
オノマトペイアonomatopoeia英語

擬音語・擬態語
 
賢治作品の大きな特徴にこの擬声語の使用があります。そんなわけで山猫合奏団で上演している作品にどのくらい擬声語が使われているか読み返してみました。
言語の専門家からは間違ってるよと言われるかもしれませんが、とにかく数えてみました。

 「どんぐりと山猫」 36語を55回
 「セロ弾きのゴーシュ」 46語を70回
 「注文の多い料理店」 20語を33回

読なら10分程度、少し長めの「ゴーシュ」でも20分くらいで読めてしまう短い作品のなかになんともうまいぐあいに使っているのでした。たとえば「どんぐり」のなかで私の好きな場面で「まわりの山はみんなたったいまできたばかりのように【うるうる】もりあがってまっ青なそらのしたにならんでいました」というのがあります。なんとも青空の下の気持ちよさが倍増するような気がしませんか。

こんなのもあります。山猫の登場のところで「そのとき、風が【どうと】吹いてきて草はいちめん波だち…」とあるのですが、これが「そのとき、強い風が吹いて来て…」となっていてはいきいきとした自然の動き変化が身近に感じられないように思います。人と動物や自然の関係を考えさせる賢治の作戦なのかもしれません。

11月21日(土)・12月12日(日)に「どんぐりと山猫」を演ります。詳しくはm.a.p.after5をごらんください。
くす さだのり


ちょいと訳あって賢治作品のいくつかを読んでいたのですが、読んでいるうちに「あれ俺は読んでない語っている」と思ったのです。
黙読をしていても自分に自分が語っているようで、声に出してみると誰もいないのに物語を伝えようとしているのです。
ひょっとすると賢治は書いているのではなく、語っていたのではないかと思ってました。それは賢治の仕掛けではないかとも思ったりしていたのですが、賢治についての関係書をめくっているとき「賢治童話は一種の語りの世界であってしかもその語り口の素晴らしさといったら類をみない」というのを目にしました。
賢治批判を書いている人でしたが、この点だけは「賢治は天才だ」と認めてましたね。

そう賢治は自らが語っていたのだ。語られるように、彼の発する言葉のつらなりはつねに音になって空間を飛んでいるように仕組んでいたのだ。
昔アングラ劇をやっていたころ賢治の詩を元にして構成された芝居をやったことがあって俳優たちの「声」の出し方が独特だったなあ。思い出した。

以前宮沢家の宗旨換えのことを書きましたが、浄土真宗から日蓮宗に改宗したのは賢治の死後18年経ってからでした。生前と思って書いてしまいました。ごめんなさい。


昨日の夕方高山正樹氏がゲスト出演する朗読の舞台を観て(聴いて)きました。
山猫合奏団の情報ブログに今回の出演への経緯が書かれていましたが、実におもしろい20分余りのステージでした。

落語のネタを“語る”いうユニークな試みゆえにアプローチのむつかしさを思います。

ところで昨今の読み聴かせをはじめ朗読ばやりはどうなんでしょう。読むというのをお手軽に感じているのでしょうか。
ちなみに「口」の語源は「神への祈りの文である祝詞を入れる器の形」(白川 静)で、人の口の形ではないらしい。つまり語るその人の考えていることや向かう方向が映しだされるものなのです。

とはいうものの、書かれたものを読むにしろ映像・所作・絵はたまた音にするにしろその振る舞いを構想するのがいいんだな。

それにしても昨日の不入りは何だ。さみしい。実にさみしい。朗読は人のこころを明るくするものなのに。

くす さだのり
 ロシアの文豪レフ・トルストイの民話集(有名なのは「イワンの馬鹿」)の中に「人は何で生きるか」という貧乏な靴職人の一家と神様から三つの課題を解いてこいと人間世界にやって来たダメ天使のでてくる作品があります。人が生きていくうえで大切なことは何かを述べている物語です。その中でいちばん大切なのは「愛」なのだそれも人の心に湧き出て来た「愛」であり、「思いやる心」であり、実際に手を差し伸べることでありその心はみんなの中にあるのですと結んでいます。
 トルストイは敬虔なキリスト教信者だからこういう作品を書いたのだと言われるかもしれませんが、トルストイは当時のロシア正教を痛烈に批判しついには破門をされています。そんな彼が本当に伝えたかったことは何か?想像をめぐらせるしかありません。
 わたくしめはこの「人は何で生きるか」を参加している「劇団あとむ」で劇化しています。このところ上演する機会が多くありがたいです。劇化が決まり最初読んでいるときなんとか「わかろう」としていたんだけどある時ふと「おもしろみ」を感じたのです。それはこれは「なぞなぞ」ではなかろうかと。それともうひとつ「そうなんだよね」という言葉が浮かんできました。深刻ぶって考えてもなーんにも気づけない。それより特別のことではないみんなの中にもあることなのさ、それを解くのさ。と思ったら実におもしろくなりました。

 賢治さんは浄土真宗を信仰していた宮沢家を日蓮宗に改宗させるほど法華経を深く信仰していました。作品の中(雨ニモマケズ、春と修羅等々)にもそれはあらわれています。それよりも賢治さんの何事に対してでも懸命に関わる行動はある種のおもしろみを感じてしまいます。懸命さよりもそのの先にある楽しみや喜びこそが大切なんだよと本当は言いたかったのではと思ってしまいます(農民芸術概論綱要、ポランの広場等)。
 なんとなくトルストイと賢治は遠くないと思っているので書こうとしたけどダメでした。そのうちに。

 ところで「二匹の竜」という賢治の書いた作品のこと知っている方がいらっしゃいますか?そんなのないよでも結構です。教えて下さい。

 
 
先日芝居を観た。出演者は20歳代の若者が10名位。
戦争をゲームに置き換えて命や友情の大切さを伝えようとし、そのことの大切さを若者らしく一途に演じていた。
見終わった後に違和感があった。若いもんのやることは云々というようなおじさんの小言ではない。
「何だこれは!」というような、言い換えれば観るものの心の平衡を失わせるショックがあまりないのが違和感の答えである。言い添えておきますが、公演は好評だったそうです(知人談)。

賢治の物語の言葉にはそれが多分に感じられるのだ。ニーチェ曰く「血をもって書け。そうすれば君は知るであろう、血が精神であることを」 それも感じるのだ。おどろおどろしい話ではないよ。
おそらく賢治は気づいていたんだろうね、感じたことの立体化・肉体化の大事さを。

山猫合奏団のおもしろさ、新しさはここにある。
みなさん、観に来て感じてそしてGoodsを買って下さい。

では「らたまいしゅう」
楠定憲です。

宮澤賢治考についての約束をお知らせをします。
毎週末に書きます。

やいのやいのの声が多くてね。
(表題をクリックすると、コメントが付けられます。)

先月、6月22日、銀座の箸やさんで見つけた猫(?)です。
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 ⇒その日のM.A.P.after5の記事
しかし、猫ねえ……。
まあ猫なんでしょうけどね。セロ弾きのゴーシュに出てくる大きな三毛猫とは言いがたい。
むしろ小太鼓のバチを持っている狸に近い。
いやいや、それよりもネズミのお母さんだな、この表情は。
少なくともカッコーではありませんな。

コーヒーブレイクでした。

……って、この「宮澤賢治考」、ずっとブレイクなんですけどね、楠さん。

ゴーシュの畑からトマトをとってお土産に持ってきた三毛猫、こいつはオスなのかメスなのかということも謎ですが、ともかくゴーシュは、今までその大きな三毛猫を五、六ぺんみたことがあるということについて、なんで五、六ぺんなのかというおはなしを前回しました。

続いてやってきたのはカッコーです。
(ちなみに、ドイツの南部地方の古い方言では、カッコウのことを“Gauch”というらしい。“ゴーシュ”は、この“Gauch”から作った名前だという説もあるのです。)
ゴーシュはドレミファを教えてくれとしつこくいうカッコーに、こう答えます。
「うるさいなあ。そら、三べんだけ弾いてやるから、すんだらさっさとかえるんだぞ」
なんで三べんなんでしょう。これもなんだか納得がいかない。一度で十分でしょうに。
ところが、何度も声を出して読んでいるうちに、あることに気がついた。

ら、んべんだけひいてやるから、んだら、っさと、かえるんだぞ

このSの発音の並びが、実に気持ちがいいのです。そう思ったら、さんべん以外にはないじゃないですか。さんべんの次はさんじゅっぺんまでSの音は出てこないのですから。

いかん。完全に罠にはまっている。

おまけ。

ネズミの親子の最後の場面。

「こどもをさきにたててでていきました」のててでての並びも気持ちいいんだよねえ……

ネズミの親子の場面の謎は、また次回。
(楠さん、僕はあくまで代理だよ:高山正樹)

やっと現れた楠氏ですが、きっとまた当分の間、来ないでしょうから、またしばらく高山正樹が。あいも変わらず“セロ弾きのゴーシュ”、その謎について。

「ホーシュ君か」

ホーシュ君って誰だ?
呆けたゴーシュ。自虐的にゴーシュが叫んだ言葉、なんて穿った読み方をしてみたりしたが、ドストエフスキーじゃあるまいし、賢治にはやっぱり似合わない。
いろんな人が「ホーシュ」の謎を解明しようとしたが、結論からいうと、さっぱりわからなかったということ。それでかまわないってんだから、神様になってしまえばなんでもありってことらしい。

ところが、すうと扉を押してはいって来たのは、いままで五、六ぺんみたことのある大きな三毛猫でした。

なんで「五、六ぺん」なんだろう。だが、一度「五、六ぺん」だと思ってしまうと、「五、六ぺん」以外にはありえないと思えてくるから不思議である。
(押して入る扉ってどんなのだろう。内開きのドアなんてめったにないが。)

ゴーシュの畑からとった半分熟したトマトをさも重そうに持っています。

三毛猫のこれ見よがしの感じを、「さも」というたった二文字の副詞で片付けてしまうあたり、なかなかのお手並み、賢治の文章は、そういう表現に満ち満ちている。

そう思ってしまうと、全ての言葉に重層的な意味を託しているのではないかと、もう罠だらけなのだ。

「半分熟したトマト」
実にそうなのだろう。でも、まだ熟していないトマトを取ってしまったというネガティブなことを問題にするとき、「半分熟した」という形容はどうなんだろう。「まだ半分しか熟していない」なら分かるのだが。はたして、実際の局面で、こんな言い方をするだろうか。

途端に僕は、僕の常識の通用しない異界へと誘い込まれてしまうのである。
(再び担当:高山正樹)

続く……

9月16日福島県の昭和村という小さな村にいました。芝居の公演で村の公民館にいたのですが、今も目に焼き付いてはなれないのが村の風景なのです。舞台も無事に終え片付けのために搬入口のドアを開けたときに目にした、青い空、木々の緑、稲穂の黄金、吹き渡る風。美しい。このコントラストはなんだ。日本の風景がある。もちろん田んぼには人の手が入っているのですが、その他は自然のまんまそのまんま。いやなことがあっても思い出すだけでちょいとおちつくのです。(写真がなくてごめんなさい)
自然との共生をさかんに言うが、これだけさんざんぶっ壊しといていまさら何を言うかと思う。自然とはこの地球上で連綿とつながれてきた事象のことです。
ぶっ壊すことがよくないのは、自分も知らぬ間に自分をじつはぶっ壊しているのです。自分をぶっ壊す心のないことが大事なのではないでしょうか。自分が在るとはどういうことなのか。

小林秀雄の習作「ベルグソン論」(出版されていない)の文章の一部を読む機会があっておもしろいなと思ったところを本人の許可もなく紹介します。
 「童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もがよくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう」
童話が直接の経験から生まれたものでもなく、フィクショナルな表現にもかかわらず、目にみえないものにもかかわらずどうして「日常の生活に直結している」と感じるのでしょうか。
たぶん私たちが生きているということがすでに不思議なことと思うと、なんだかわかる気がします。

今日はここまで。
(楠定憲)
だから、“オツベルと象”だってば…
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9/14津山市作陽保育園にて)
第一弾を見る

覚えにくい宮澤賢治の文章、その報告の第二弾です。

「明け方近く思わずつかれて楽譜をもったまま、うとうとしていますと」

この「思わず」がわからないのです。
普通に考えると、「思わずうとうとした」のだと思うのですが、そういうふうに聞こえるように読むことは、なかなか難しい。つまり、このセンテンスの中で、「思わず」と「うとうとした」の位置が、頭と最後でちょいと遠すぎるのです。

朗読好きのおばさま達が、このセンテンスを、その意味をきっちり分析することなく、雰囲気だけで読んだりすると、たいがい、「思わずつかれて」、「楽譜をもったまま」、「うとうとして」というふうに、三つの塊で語られることになります。(無理やり音楽的に説明すればミド・ミド・ミドって感じかな。)確かに、そういう風に読むと、なかなか気持ちがいい。聞き手も耳に心地よく、まどろみの中に沈んでいくということになります。さらに少しばかりお上手な方なら、「思わずつかれて」が一番音程的に高く、「楽譜をもったまま」が中くらい、そして「うとうとして」が最も低音で収まるように読む。ソミ・ファレ・ミド。(厳密にいうと、この後まだ文章が続くので、完全に収まってはダメなので、ソミ・ファレ・ミレ…。)それができればさらに気持ちがよく、観客も眠らずに聞いてくださるかもしれません。

しかしながら、音的に感じがよいことと、意味がちゃんと伝わることとは全く別問題、「思わずつかれて」「楽譜をもったまま」「うとうとして」という読み方では、いずれにしろ「思わず」は「疲れた」を修飾するということになってしまいます。
もしもこの言葉の並びで、「思わずうとうとした」ということを伝えたいと思えば、「思わず」から「うとうとした」までをひとかたまりにして、一番高い音から、なだらかに音程を下げつつ読まなければなりません。ラ・ソファミレド(「思わず」と「つかれて」を切り離すために「思わず(ラ)」と「つかれて(ソ)」の間に短いブレークを入れる)。音域も広く、長い息を使うことも不可欠です。

意味を伝えることだけを考えるなら、このセンテンスは、とても燃費が悪い。例えば、「つかれて楽譜をもったまま思わずうとうとして」というふうに、言葉の並びを変えれば、ずっと楽になります。さらにいえば、論理を伝える文章としては、こちらの方がきっと優れている。つまりこの組み替えた文章は、「思わず疲れた」とか、もしかすると「思わず楽譜をもった」とか、そういう誤解を与える余地のない明確な文章なのですから。つまり、賢治の文章が音楽的だとかなんとか、そんなのはクソ食らえで、賢治の文章は極めて悪文だ、だからとても覚えにくいのです……

さて、宮澤賢治が我々を悩ますのはここからなのであります。
果たしてゴーシュは、本当に「思わずうとうとした」のでしょうか。「思わずうとうとした」じゃあ、あんまり普通過ぎて、つまらない。もしかすると、「思わず疲れた」というのが正解なのではないだろうか…

毎晩、夜通しチェロを弾き、仮に殆ど寝ていないとすれば、疲れるのは当たり前。しかしそれほど練習すれば疲れるという至極あたりまえのことを、ゴーシュは全く考えもしなかった。だから、疲れたことが、ゴーシュにとって思いもよらぬことだったのではないか。
「思わず疲れた」
想像してみてください。自分の肉体すら忘れて、ひたすらにセロを弾き続ける鬼気迫るゴーシュの姿を。それが朧ながらも見えたとき、たった10日間で、見違えるように上達するというような、あり得ない出来事を、読者は納得することが出来るのではないでしょうか。

いったん「思わず疲れた」という論理を受け入れてしまえば、賢治の文章も容易に覚えられるようになります。論理的に語るということに大変厳しい演出家ふじたあさや氏は、さてこの僕の試みについて、どう思うかな。
もう少し、じっくり考えてみようと思っています。

どうも宮澤賢治の罠に、まんまとはめられているようです。
(煮詰まってきた:高山正樹)


宮沢賢治の文章は極めて覚えにくいのです。
(ふじたあさや先生は、その原因を、10年近い歳月をかけて推敲に推敲が重ねられていて、同一の流れの中で文章が書かれていないためだとご教授くださいましたが、確かにおっしゃるとおり、でも、どうもそれだけではなさそうなのです。)

「セロ弾きのゴーシュ」より、始めからカッコーの場面まで、覚えにくい文章を列挙してみました。

「ドレミファを教えてまでいるひまはない」
(「ドレミファまで教えているひま」とか「ドレミファを教えているまでのひま」なら覚えやすいのですが、「教えてまでいるひま」って、変な並びの言葉だと思いませんか?)

「君には困るんだがなあ」
(「君には困っている」とはよく言いますが…)

「表情ということが」
(「表情が」でいいでしょうに、「表情ということ」って何なのでしょう…)

「悪評をとるようなことでは
(なんだかなあ、「悪評をとっては」とか「悪評をとるようなことになっては」とかにしませんか…)

「みんなも気の毒だ」
(「へ」の意味がわかりません)

「家
(「~に」の方が適切と思われる箇所の殆どを、何故か賢治は「~へ」にするのです)
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ひるすぎになるといつも出て行っていたのです」
(「いつもひるすぎると出て行ったのです」じゃあダメなのかしらん)

「赤くならないやつ」
(要するに「赤くないやつ」ですよね。なんで「も」が必要なのでしょうか…)

行ってしまえ
(猫はたった今来たのです。「帰れ」の方がしっくりきませんか?「どっかに行ってしまえ」とでも言ってくれたら、納得するのですが…)

「一時も過ぎ、二時過ぎて
(「二時も過ぎても」って、普通は添削対象です)

「何時かもわからず弾いているかもわからず」
(僕なら「何時かもわからず弾いているのかもわからず」に直します)

「ばかなまねをいつまでしていられるか
(ゴーシュは「いつまでしていられるのかなあ」なんて穏やかに考えているのではありません。「いつまでもこんなことしちゃいられねえんだよ」とイライラしているのですが…)

「夜があけるじゃないか」
(「夜が明けそうですね」としんみり東の空を眺めているみたいですが、これもまた「はやくしねえと夜が明けちまうぞ」って怒鳴っているのです)

「がらんとなった窓のあと外へ飛び出した」
(「窓枠ごと外した後のでっかい穴から」っていうことなんですけどね…)

もうどこまでもまっすぐに飛んで行って、とうとう見えなくなってしまいました」
(この「もう」はどの言葉にもかかっているのでしょうかな。賢治さん、どうか教えてください……)

古典芸能でもないかぎり、舞台の台詞を歌のように最初から節(ふし、イントネーション)を付けて覚えるのは禁物です。そんなことをすると、嘘っぱちの臭い芝居が出来上がるのは目に見えています。だから俳優は、まずきっちりと言葉の論理を押さえる作業から始めるのですが、宮沢賢治のテキストは、それを頑なに拒んでいるみたい。
賢治にとって重要なのは、論理ではなく音であったなどと、ありがちな結論でおしまいにしてしまうのは簡単ですが、その程度の認識で宮沢賢治を声に出して読むと、ひどく薄っぺらなカラオケ大会にしかならないでしょう。
宮沢賢治の作品が、ここまでたくさんの人々を惹きつけて止まないのは、賢治の文章の微妙な論理的「揺れ」とその「違和感」が、魅惑的な「謎」として、読者それぞれの前に立ち現れるからなのです。
しかし国語の教科書に書いてあるようなロジックしか受け入れることのできない思考回路では、「謎」は「謎」のママ、何の化学変化も起こすことはありません。そんな役者は、賢治の作品を丸暗記して「歌う」こと以外には何もできないのです。

もし、俳優が表現者であるというならば、まずは自らの脳を解放して、賢治の晦渋な論理と徹底的に格闘しなければならないはずなのです。その時、宮沢賢治の文章の「揺れ」は「可能性」に変質し、重力のない広大な宇宙に充満するエーテルの感触が、実は「違和感」の正体であったことを知るのです。

(冒頭のあさやさんの論ですが、賢治の文章において、単一単純なテンポの時間の流れから解放された複数の宇宙的時間=リズムが、まるでバッハの音楽ように、重層的に鳴り響く理由の一つだと思うのです。)

なーんちゃってね。ともかく、賢治の文章がなかなか頭に着床しないということなのです。
こんな文章を書いている暇があったら覚えろですって? 違うんですよねえ、そんなことしたら、カラオケ大会になってしまうということを言いたいわけなのです。
おわかりいただけますでしょうか。

おっと、あさや先生の、鼻で笑っているお顔が見える……。
(しばらく愚痴る:高山正樹)



二日後、直ったチェロを受け取りに行きました。

修理代2000円也。自転車のパンク直したってもっと高いのに。
松脂を買いました。M.A.P.after5に写真があります。
http://lince.jp/hito/matuyani…
久泉清之さん曰く「ああ、今日は儲かった」だって。2,000円を1,500円にしてくださって、そんなに儲かるわけないのに。

久泉さんは、カメラを向けるとお逃げになりますが、ちょっと写っちゃった画像が、やっぱりM.A.P.after5にあります。
http://lince.jp/hito/nekodanomi…

その上、久泉さんはこんな本まで貸してくださったのです。
佐藤泰平著「宮沢賢治の音楽」
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実はこの本、大島君も持っていて、山猫合奏団の「セロ弾きのゴーシュ」のCDを著者の佐藤泰平さんに進呈したのだそうです。
さて、ご感想は如何に。
宮沢賢治は断固として宮沢賢治でなければならないという方々には、なかなか受け入れ難いのかも。「法華経の匂いがしないなあ」なんてね。
でも、民衆とともにありたいと願っていた賢治さん御本人が生きていたなら、きっと面白がってくれたと思うのです。そうですよね、トシさん。
(ちなみに、トシさんは宗派に拘ることはありませんでした。その寛容さに、晩年の賢治は、深く影響されたといいます。だからこそ賢治の作品は、法華経を越え、宇宙的拡がりを獲得することができたのかもしれません。)

お借りした本の中からいくつか。

セロ弾きのゴーシュの「第六交響曲」はベートーベンの田園であるというのが研究者の定説だけれど、「トランペットが一生けん命歌っている」ところは、ベートーベンの田園にはないのだそうで。そういえば白石准版第六交響曲の場合はどうなんだろう。

「印度の虎狩」はどうもこれらしい。
印度に虎狩にですって
なんだか、私をスキーに連れてってみたいだなあ。

それから、なんと「トロメライ」があった。さては三毛猫め、このレコードを聞いていたのか。
トロメライのレコード

お芝居が終ったら、久泉清之さんにチェロのメンテナンスをお願いすることに決めました。稽古、本番と、けっこう酷使することになりそうなので。その時、お借りした本をお返しいたします。
久泉さん。ありがとうございました。今後も、どうぞよろしくお願いいたします。
(相変わらずの担当:高山正樹)

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