9月16日福島県の昭和村という小さな村にいました。芝居の公演で村の公民館にいたのですが、今も目に焼き付いてはなれないのが村の風景なのです。舞台も無事に終え片付けのために搬入口のドアを開けたときに目にした、青い空、木々の緑、稲穂の黄金、吹き渡る風。美しい。このコントラストはなんだ。日本の風景がある。もちろん田んぼには人の手が入っているのですが、その他は自然のまんまそのまんま。いやなことがあっても思い出すだけでちょいとおちつくのです。(写真がなくてごめんなさい)
自然との共生をさかんに言うが、これだけさんざんぶっ壊しといていまさら何を言うかと思う。自然とはこの地球上で連綿とつながれてきた事象のことです。
ぶっ壊すことがよくないのは、自分も知らぬ間に自分をじつはぶっ壊しているのです。自分をぶっ壊す心のないことが大事なのではないでしょうか。自分が在るとはどういうことなのか。

小林秀雄の習作「ベルグソン論」(出版されていない)の文章の一部を読む機会があっておもしろいなと思ったところを本人の許可もなく紹介します。
 「童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もがよくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう」
童話が直接の経験から生まれたものでもなく、フィクショナルな表現にもかかわらず、目にみえないものにもかかわらずどうして「日常の生活に直結している」と感じるのでしょうか。
たぶん私たちが生きているということがすでに不思議なことと思うと、なんだかわかる気がします。

今日はここまで。
(楠定憲)