やっと現れた楠氏ですが、きっとまた当分の間、来ないでしょうから、またしばらく高山正樹が。あいも変わらず“セロ弾きのゴーシュ”、その謎について。

「ホーシュ君か」

ホーシュ君って誰だ?
呆けたゴーシュ。自虐的にゴーシュが叫んだ言葉、なんて穿った読み方をしてみたりしたが、ドストエフスキーじゃあるまいし、賢治にはやっぱり似合わない。
いろんな人が「ホーシュ」の謎を解明しようとしたが、結論からいうと、さっぱりわからなかったということ。それでかまわないってんだから、神様になってしまえばなんでもありってことらしい。

ところが、すうと扉を押してはいって来たのは、いままで五、六ぺんみたことのある大きな三毛猫でした。

なんで「五、六ぺん」なんだろう。だが、一度「五、六ぺん」だと思ってしまうと、「五、六ぺん」以外にはありえないと思えてくるから不思議である。
(押して入る扉ってどんなのだろう。内開きのドアなんてめったにないが。)

ゴーシュの畑からとった半分熟したトマトをさも重そうに持っています。

三毛猫のこれ見よがしの感じを、「さも」というたった二文字の副詞で片付けてしまうあたり、なかなかのお手並み、賢治の文章は、そういう表現に満ち満ちている。

そう思ってしまうと、全ての言葉に重層的な意味を託しているのではないかと、もう罠だらけなのだ。

「半分熟したトマト」
実にそうなのだろう。でも、まだ熟していないトマトを取ってしまったというネガティブなことを問題にするとき、「半分熟した」という形容はどうなんだろう。「まだ半分しか熟していない」なら分かるのだが。はたして、実際の局面で、こんな言い方をするだろうか。

途端に僕は、僕の常識の通用しない異界へと誘い込まれてしまうのである。
(再び担当:高山正樹)

続く……