2009年08月07日
世に宮澤賢治論なるものは星の数ほど。
ところが「宮沢賢治考」で検索すると「ヤフー」でも「グーグル」でも、吾が“山猫合奏団Blog”の「宮澤賢治考」が、なんとTOPに出てきます。びっくりです。「宮沢賢治」だけで検索しては、箸にも棒にも引っかからないのに。要するに、賢治を論じている方々は掃いて捨てるほどいらっしゃるが、賢治について「考えている」人はほとんどいないということなのでしょうか。
ともかく責任重大? いやいや、私たちは、まともに賢治を論じる能力など持ち合わせていないのだし、だからあくまで至極私的に賢治を考えるのみ、きっとそれでいいのです。
そういえば本コラムを担当しているはずの楠氏は、相変わらずいっこうに顔を出しません。何故でしょう。たぶん、忙しい楠さんは、賢治のことなんか考えている暇がないんだろうな。楠氏は、賢治についていくらでも論じることができると豪語しました。それならばと、このコラムの執筆を頼んだのですが、ちょっと早まったみたい。文筆を生業としている人たちでない限り、頭に沈殿している想念を拾い上げて文章にするというのは、とっても億劫な作業なのでしょう。たとえ論じる能力があったとしても、その能力が実際の文章を生み出すために使われるには、全く別の動力が必要なのだと思います。
きっと、簡単に文章にすることができるのは、たった今考えていること、今この時の頭の中に浮遊して動いている想いだけ。
ここに、世の中に氾濫するブログというものの秘密があるように思います。
ちょっと気にかかるあの人の、昨日か、一昨日くらいまでの呟きを、今日のうちに覗いてみて、おんなじ心持ちになって考えてみたりする。そうすると、単調な「私」の毎日が、ほんの少し潤ったような気分になって、とっても嬉しくなる、ということ。
ところで僕は、このところ訳あって、毎日毎日宮澤賢治のことを考えています。ということは、「宮澤賢治考」という「ブログ」を担当するには、今の僕は、まさに適任者ということかな。
でも、その日限りのブログなどは、やっぱりどうしても書く気にならない。
というわけで、ちょっとアカデミックに。(ちっとも私的じゃないですねえ。)
「セロ弾きのゴーシュ」は1925年(大正15年)賢治29歳の作とされています。ふたつ違いの妹、最愛のトシを失って3年目。翌1926年には、賢治は農学校の教師を辞め、羅須地人協会を設立し、そして楠氏の大好きな「農民芸術概論綱要」を書きます。
でも、「セロ弾きのゴーシュ」が発表されることはありませんでした。書き始めてから10年近く、1933年(昭和8年)の死の直前まで、賢治は推敲を重ねていたらしい。
(当たり前の話ですが、ブログとは大違いですね。)
さて僕は、この先も訳あって、毎日毎日宮澤賢治を考えることになるでしょう。ブログなるものは書きたくないのですが、僕には賢治のような才能も堪え性もないので、きっと考えたことのいくつかを、この「宮澤賢治考」という「ブログ」で、吐き出すことになりそうです。
次回は、賢治のチェロのことを、ブログ風にお届けします。
ところが「宮沢賢治考」で検索すると「ヤフー」でも「グーグル」でも、吾が“山猫合奏団Blog”の「宮澤賢治考」が、なんとTOPに出てきます。びっくりです。「宮沢賢治」だけで検索しては、箸にも棒にも引っかからないのに。要するに、賢治を論じている方々は掃いて捨てるほどいらっしゃるが、賢治について「考えている」人はほとんどいないということなのでしょうか。
ともかく責任重大? いやいや、私たちは、まともに賢治を論じる能力など持ち合わせていないのだし、だからあくまで至極私的に賢治を考えるのみ、きっとそれでいいのです。
そういえば本コラムを担当しているはずの楠氏は、相変わらずいっこうに顔を出しません。何故でしょう。たぶん、忙しい楠さんは、賢治のことなんか考えている暇がないんだろうな。楠氏は、賢治についていくらでも論じることができると豪語しました。それならばと、このコラムの執筆を頼んだのですが、ちょっと早まったみたい。文筆を生業としている人たちでない限り、頭に沈殿している想念を拾い上げて文章にするというのは、とっても億劫な作業なのでしょう。たとえ論じる能力があったとしても、その能力が実際の文章を生み出すために使われるには、全く別の動力が必要なのだと思います。
きっと、簡単に文章にすることができるのは、たった今考えていること、今この時の頭の中に浮遊して動いている想いだけ。
ここに、世の中に氾濫するブログというものの秘密があるように思います。
ちょっと気にかかるあの人の、昨日か、一昨日くらいまでの呟きを、今日のうちに覗いてみて、おんなじ心持ちになって考えてみたりする。そうすると、単調な「私」の毎日が、ほんの少し潤ったような気分になって、とっても嬉しくなる、ということ。
ところで僕は、このところ訳あって、毎日毎日宮澤賢治のことを考えています。ということは、「宮澤賢治考」という「ブログ」を担当するには、今の僕は、まさに適任者ということかな。
でも、その日限りのブログなどは、やっぱりどうしても書く気にならない。
というわけで、ちょっとアカデミックに。(ちっとも私的じゃないですねえ。)
「セロ弾きのゴーシュ」は1925年(大正15年)賢治29歳の作とされています。ふたつ違いの妹、最愛のトシを失って3年目。翌1926年には、賢治は農学校の教師を辞め、羅須地人協会を設立し、そして楠氏の大好きな「農民芸術概論綱要」を書きます。
でも、「セロ弾きのゴーシュ」が発表されることはありませんでした。書き始めてから10年近く、1933年(昭和8年)の死の直前まで、賢治は推敲を重ねていたらしい。
(当たり前の話ですが、ブログとは大違いですね。)
さて僕は、この先も訳あって、毎日毎日宮澤賢治を考えることになるでしょう。ブログなるものは書きたくないのですが、僕には賢治のような才能も堪え性もないので、きっと考えたことのいくつかを、この「宮澤賢治考」という「ブログ」で、吐き出すことになりそうです。
次回は、賢治のチェロのことを、ブログ風にお届けします。
(臨時担当:高山正樹)



