覚えにくい宮澤賢治の文章、その報告の第二弾です。

「明け方近く思わずつかれて楽譜をもったまま、うとうとしていますと」

この「思わず」がわからないのです。
普通に考えると、「思わずうとうとした」のだと思うのですが、そういうふうに聞こえるように読むことは、なかなか難しい。つまり、このセンテンスの中で、「思わず」と「うとうとした」の位置が、頭と最後でちょいと遠すぎるのです。

朗読好きのおばさま達が、このセンテンスを、その意味をきっちり分析することなく、雰囲気だけで読んだりすると、たいがい、「思わずつかれて」、「楽譜をもったまま」、「うとうとして」というふうに、三つの塊で語られることになります。(無理やり音楽的に説明すればミド・ミド・ミドって感じかな。)確かに、そういう風に読むと、なかなか気持ちがいい。聞き手も耳に心地よく、まどろみの中に沈んでいくということになります。さらに少しばかりお上手な方なら、「思わずつかれて」が一番音程的に高く、「楽譜をもったまま」が中くらい、そして「うとうとして」が最も低音で収まるように読む。ソミ・ファレ・ミド。(厳密にいうと、この後まだ文章が続くので、完全に収まってはダメなので、ソミ・ファレ・ミレ…。)それができればさらに気持ちがよく、観客も眠らずに聞いてくださるかもしれません。

しかしながら、音的に感じがよいことと、意味がちゃんと伝わることとは全く別問題、「思わずつかれて」「楽譜をもったまま」「うとうとして」という読み方では、いずれにしろ「思わず」は「疲れた」を修飾するということになってしまいます。
もしもこの言葉の並びで、「思わずうとうとした」ということを伝えたいと思えば、「思わず」から「うとうとした」までをひとかたまりにして、一番高い音から、なだらかに音程を下げつつ読まなければなりません。ラ・ソファミレド(「思わず」と「つかれて」を切り離すために「思わず(ラ)」と「つかれて(ソ)」の間に短いブレークを入れる)。音域も広く、長い息を使うことも不可欠です。

意味を伝えることだけを考えるなら、このセンテンスは、とても燃費が悪い。例えば、「つかれて楽譜をもったまま思わずうとうとして」というふうに、言葉の並びを変えれば、ずっと楽になります。さらにいえば、論理を伝える文章としては、こちらの方がきっと優れている。つまりこの組み替えた文章は、「思わず疲れた」とか、もしかすると「思わず楽譜をもった」とか、そういう誤解を与える余地のない明確な文章なのですから。つまり、賢治の文章が音楽的だとかなんとか、そんなのはクソ食らえで、賢治の文章は極めて悪文だ、だからとても覚えにくいのです……

さて、宮澤賢治が我々を悩ますのはここからなのであります。
果たしてゴーシュは、本当に「思わずうとうとした」のでしょうか。「思わずうとうとした」じゃあ、あんまり普通過ぎて、つまらない。もしかすると、「思わず疲れた」というのが正解なのではないだろうか…

毎晩、夜通しチェロを弾き、仮に殆ど寝ていないとすれば、疲れるのは当たり前。しかしそれほど練習すれば疲れるという至極あたりまえのことを、ゴーシュは全く考えもしなかった。だから、疲れたことが、ゴーシュにとって思いもよらぬことだったのではないか。
「思わず疲れた」
想像してみてください。自分の肉体すら忘れて、ひたすらにセロを弾き続ける鬼気迫るゴーシュの姿を。それが朧ながらも見えたとき、たった10日間で、見違えるように上達するというような、あり得ない出来事を、読者は納得することが出来るのではないでしょうか。

いったん「思わず疲れた」という論理を受け入れてしまえば、賢治の文章も容易に覚えられるようになります。論理的に語るということに大変厳しい演出家ふじたあさや氏は、さてこの僕の試みについて、どう思うかな。
もう少し、じっくり考えてみようと思っています。

どうも宮澤賢治の罠に、まんまとはめられているようです。
(煮詰まってきた:高山正樹)