宮沢賢治の文章は極めて覚えにくいのです。
(ふじたあさや先生は、その原因を、10年近い歳月をかけて推敲に推敲が重ねられていて、同一の流れの中で文章が書かれていないためだとご教授くださいましたが、確かにおっしゃるとおり、でも、どうもそれだけではなさそうなのです。)

「セロ弾きのゴーシュ」より、始めからカッコーの場面まで、覚えにくい文章を列挙してみました。

「ドレミファを教えてまでいるひまはない」
(「ドレミファまで教えているひま」とか「ドレミファを教えているまでのひま」なら覚えやすいのですが、「教えてまでいるひま」って、変な並びの言葉だと思いませんか?)

「君には困るんだがなあ」
(「君には困っている」とはよく言いますが…)

「表情ということが」
(「表情が」でいいでしょうに、「表情ということ」って何なのでしょう…)

「悪評をとるようなことでは
(なんだかなあ、「悪評をとっては」とか「悪評をとるようなことになっては」とかにしませんか…)

「みんなも気の毒だ」
(「へ」の意味がわかりません)

「家
(「~に」の方が適切と思われる箇所の殆どを、何故か賢治は「~へ」にするのです)
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ひるすぎになるといつも出て行っていたのです」
(「いつもひるすぎると出て行ったのです」じゃあダメなのかしらん)

「赤くならないやつ」
(要するに「赤くないやつ」ですよね。なんで「も」が必要なのでしょうか…)

行ってしまえ
(猫はたった今来たのです。「帰れ」の方がしっくりきませんか?「どっかに行ってしまえ」とでも言ってくれたら、納得するのですが…)

「一時も過ぎ、二時過ぎて
(「二時も過ぎても」って、普通は添削対象です)

「何時かもわからず弾いているかもわからず」
(僕なら「何時かもわからず弾いているのかもわからず」に直します)

「ばかなまねをいつまでしていられるか
(ゴーシュは「いつまでしていられるのかなあ」なんて穏やかに考えているのではありません。「いつまでもこんなことしちゃいられねえんだよ」とイライラしているのですが…)

「夜があけるじゃないか」
(「夜が明けそうですね」としんみり東の空を眺めているみたいですが、これもまた「はやくしねえと夜が明けちまうぞ」って怒鳴っているのです)

「がらんとなった窓のあと外へ飛び出した」
(「窓枠ごと外した後のでっかい穴から」っていうことなんですけどね…)

もうどこまでもまっすぐに飛んで行って、とうとう見えなくなってしまいました」
(この「もう」はどの言葉にもかかっているのでしょうかな。賢治さん、どうか教えてください……)

古典芸能でもないかぎり、舞台の台詞を歌のように最初から節(ふし、イントネーション)を付けて覚えるのは禁物です。そんなことをすると、嘘っぱちの臭い芝居が出来上がるのは目に見えています。だから俳優は、まずきっちりと言葉の論理を押さえる作業から始めるのですが、宮沢賢治のテキストは、それを頑なに拒んでいるみたい。
賢治にとって重要なのは、論理ではなく音であったなどと、ありがちな結論でおしまいにしてしまうのは簡単ですが、その程度の認識で宮沢賢治を声に出して読むと、ひどく薄っぺらなカラオケ大会にしかならないでしょう。
宮沢賢治の作品が、ここまでたくさんの人々を惹きつけて止まないのは、賢治の文章の微妙な論理的「揺れ」とその「違和感」が、魅惑的な「謎」として、読者それぞれの前に立ち現れるからなのです。
しかし国語の教科書に書いてあるようなロジックしか受け入れることのできない思考回路では、「謎」は「謎」のママ、何の化学変化も起こすことはありません。そんな役者は、賢治の作品を丸暗記して「歌う」こと以外には何もできないのです。

もし、俳優が表現者であるというならば、まずは自らの脳を解放して、賢治の晦渋な論理と徹底的に格闘しなければならないはずなのです。その時、宮沢賢治の文章の「揺れ」は「可能性」に変質し、重力のない広大な宇宙に充満するエーテルの感触が、実は「違和感」の正体であったことを知るのです。

(冒頭のあさやさんの論ですが、賢治の文章において、単一単純なテンポの時間の流れから解放された複数の宇宙的時間=リズムが、まるでバッハの音楽ように、重層的に鳴り響く理由の一つだと思うのです。)

なーんちゃってね。ともかく、賢治の文章がなかなか頭に着床しないということなのです。
こんな文章を書いている暇があったら覚えろですって? 違うんですよねえ、そんなことしたら、カラオケ大会になってしまうということを言いたいわけなのです。
おわかりいただけますでしょうか。

おっと、あさや先生の、鼻で笑っているお顔が見える……。
(しばらく愚痴る:高山正樹)