「永訣の朝」より…
こんどは こたに わりやの ごとばかりで
くるしまなあよに うまれてくる
(今度は、こんなに私のことばかりで、兄さんが苦しまないように 生まれてくる)

1922年、24歳という若さで死んでいった賢治とふたつ違いの妹トシ、賢治の最大の理解者であり、また賢治の最愛の妹であったトシさんは、花巻高等女学校の音楽教論にヴァイオリンを習っていました。
(この教論がトシの初恋の人だという話もあるのですが、今日のところは、そのことはお忘れくださいませ。)
トシさんのヴァイオリンは、やはりスズキ製で、明治40年当時10円。賢治のチェロの、10分の1以下の値段でした。

遺品となってしまったトシのヴァイオリンは、賢治によって花巻農学校の生徒に貸与され、以後ずっとそのままになっていました。
賢治がチェロを購入したのは1926年ですから、トシのヴァイオリンと賢治のチェロは、長らく一度も同じ場所にはあったことはありませんでした。

それが1995年の12月、調布の久泉清之氏の工房で賢治のチェロが修復されていたまさにその時、その久泉さんの工房に、トシさんのヴァイオリンも持ち込まれて修復されることになったのです。
トシさんが亡くなってから73年、賢治がこの世を去ってからは62年、長い年月を経て、ふたつの楽器が久泉さんの元ではじめて出会い、しばらくひっそりと寄り添うように置かれていた、その光景を想像すると、なんだか胸が熱くなってくるのです。

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当時の工房は、今はもうありません。上の画像も、もちろんトシさんのヴァイオリンではありません。しかしふたつの楽器を修繕した久泉さんが、今度のお芝居で使うチェロを直してくださったのだと思うと、なんだかとっても不思議な気がします。

現在、賢治のチェロとトシさんのヴァイオリンは、花巻の賢治記念館に、仲良く展示されています。
(引き続いての担当:高山正樹)



“セロ弾きのゴーシュ”は、不思議なミステリーに満ちています。どうやらそれは、ゴーシュが宮澤賢治の分身だということに原因があるみたい。
その賢治(=ゴーシュ)を、来月、僕は演じます。

声優の藤井つとむさんからお借りしたチェロですが、ちょっと直さなければいけないところがあって、大島純氏に紹介してもらった久泉清之さんの工房へ伺いました。
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「職人さんだから気難しいかも…」と大島君。さらに、宮澤賢治愛用のチェロをメンテナンスした方らしいという情報まで。ちょっと緊張して呼び鈴を鳴らしたのですが、ところがどっこい、ドアを開けて顔を出した久泉さんは、とても穏やかで気さくな方でした。

宮澤賢治は、1926年(大正15年)にチェロを購入しています。スズキ製のチェロの最高級品で、大正15年当時170円だったらしい。賢治は120円で買ったということですから、中古だったのかもしれません。いずれにしても、今のお金にして百万円を軽く越える買い物であったようです。
常に農民と共にありたいと願っていた賢治ですが、賢治の恵まれた境遇は、岩手の農民たちとは、やはりかけ離れていたというべきでしょう。賢治の作っていた野菜はトマトやキャベジ。当時としては、まだまだ珍しい贅沢な西洋野菜でした。
しかし、だからこそ賢治は、深く悩み、身を捨てて農民の中に飛び込んでいこうとしたのだと思うのです。

賢治のチェロのことを、思い切って久泉清之さんに聞いてみました。
賢治生誕100年記念のコンサートのため、それまではガラス細工を扱うようにして、花巻の賢治記念館に飾られたあった門外不出の賢治のチェロが使われることになりました。そこで1995年の12月、久泉さんに修復の依頼がきたのだそうです。
賢治のチェロは丹精込めて作られたもので、大正時代、国産としてはこれ以上ない精一杯のいい楽器だったと教えてくださいました。
「でも、どんないい楽器でも、鳴らしてあげなければ死にます。」

一方、この日、僕が持ち込んだチェロは、お借りしていながら失礼な話ですが、左程に値段の高い楽器というわけではありません。しかし久泉さんにとっては、そんなことは全く関係ないことのようでした。この楽器も、使い込んであげればいくらでもいい楽器になる、そうおっしゃる久泉さんは、どんな楽器もみんな同じように愛しんでいらっしゃるのだとお見受けしました。
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こんな素敵な方に調整してもらえるなんて、君も幸せだね。後は、僕がしっかり鳴らしてあげるだけ、うーん、頑張んなきゃなあ。

そしてさらに、久泉さんは、どうぞブログに載せても結構ですよと、こんな写真を貸してくださったのです。
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賢治のチェロの、S字の穴です。
そこから覗くと、「Masakichi,Suzuki」のラベルの上に、青色の絵の具で書かれた賢治のサイン。
1926、K.M.
実はこれ、今度の芝居の台詞にもあるのです。
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もう、びっくりです。

ところが、びっくりすることは、これだけじゃなかった!
でも、それは、次回のおはなし……
(本日の担当:高山正樹)
世に宮澤賢治論なるものは星の数ほど。
ところが「宮沢賢治考」で検索すると「ヤフー」でも「グーグル」でも、吾が“山猫合奏団Blog”の「宮澤賢治考」が、なんとTOPに出てきます。びっくりです。「宮沢賢治」だけで検索しては、箸にも棒にも引っかからないのに。要するに、賢治を論じている方々は掃いて捨てるほどいらっしゃるが、賢治について「考えている」人はほとんどいないということなのでしょうか。

ともかく責任重大? いやいや、私たちは、まともに賢治を論じる能力など持ち合わせていないのだし、だからあくまで至極私的に賢治を考えるのみ、きっとそれでいいのです。

そういえば本コラムを担当しているはずの楠氏は、相変わらずいっこうに顔を出しません。何故でしょう。たぶん、忙しい楠さんは、賢治のことなんか考えている暇がないんだろうな。楠氏は、賢治についていくらでも論じることができると豪語しました。それならばと、このコラムの執筆を頼んだのですが、ちょっと早まったみたい。文筆を生業としている人たちでない限り、頭に沈殿している想念を拾い上げて文章にするというのは、とっても億劫な作業なのでしょう。たとえ論じる能力があったとしても、その能力が実際の文章を生み出すために使われるには、全く別の動力が必要なのだと思います。

きっと、簡単に文章にすることができるのは、たった今考えていること、今この時の頭の中に浮遊して動いている想いだけ。

ここに、世の中に氾濫するブログというものの秘密があるように思います。
ちょっと気にかかるあの人の、昨日か、一昨日くらいまでの呟きを、今日のうちに覗いてみて、おんなじ心持ちになって考えてみたりする。そうすると、単調な「私」の毎日が、ほんの少し潤ったような気分になって、とっても嬉しくなる、ということ。

ところで僕は、このところ訳あって、毎日毎日宮澤賢治のことを考えています。ということは、「宮澤賢治考」という「ブログ」を担当するには、今の僕は、まさに適任者ということかな。
でも、その日限りのブログなどは、やっぱりどうしても書く気にならない。

というわけで、ちょっとアカデミックに。(ちっとも私的じゃないですねえ。)
「セロ弾きのゴーシュ」は1925年(大正15年)賢治29歳の作とされています。ふたつ違いの妹、最愛のトシを失って3年目。翌1926年には、賢治は農学校の教師を辞め、羅須地人協会を設立し、そして楠氏の大好きな「農民芸術概論綱要」を書きます。
でも、「セロ弾きのゴーシュ」が発表されることはありませんでした。書き始めてから10年近く、1933年(昭和8年)の死の直前まで、賢治は推敲を重ねていたらしい。
(当たり前の話ですが、ブログとは大違いですね。)

さて僕は、この先も訳あって、毎日毎日宮澤賢治を考えることになるでしょう。ブログなるものは書きたくないのですが、僕には賢治のような才能も堪え性もないので、きっと考えたことのいくつかを、この「宮澤賢治考」という「ブログ」で、吐き出すことになりそうです。

次回は、賢治のチェロのことを、ブログ風にお届けします。
(臨時担当:高山正樹)


楠定憲氏が、相変わらずいっこうに姿を現さないので、高山正樹が忍び込んでこれを書いている。

最近、iTunes Shop内で、我が山猫合奏団の“セロ弾きのゴーシュ”と“どんぐりと山猫”のカテゴリーが、ほんとにクラシックでいいのかというような話しが持ち上がっているらしい。

実はこれは、音楽ではないカテゴリー、例えばオーディオブックのようなものが、音楽関係のジャンルとは全く別のシステムや状況の上に成り立っているというiTunesの事情にも原因があるらしいのだが、そのあたりの政治的な問題は、いずれM.A.P.after5情報あたりでこっそり御披露することとして、ともかくここらで一度、山猫合奏団における宮沢賢治と白石准の力関係を、論理的に考察してみようかと思い立った。

さて、ではどこのスペースを使って開陳しようか。高山のわけのわからない理屈なら「社長とは呼ばないで」でやっとけと言われそうであるが、あそこじゃあ誰も読んでくれない可能性が高い。従って楠氏の不在を利用して、しばらくここをお借りしようかと考えた。
(楠さん。帰ってくる気があるなら、遠慮なくいつでもどうぞ。)

さて、宮沢賢治と白石准の力関係と言っても、どちらの名前をメインにして宣伝すればCDが売れるかというような、そんな下世話なことではない。だいいち、そんなことならば、勝負は始めから分かり切っている。

もうひとつ。なぜ文学vs音楽という対比にしなかったのかというと、山猫合奏団の作品群において、文学の要素の全てを宮澤賢治が抱えているわけでもないし、また音楽的要素の全ての責任を、白石准が負っているわけでもないという、至極あたりまえの事情を、再確認したいがためである。宮澤賢治の言葉が音楽的であることは間違いないのだから。

古くから白石准を知る読者の方々にしてみれば、今さらというお話なのだが、白石准は、そこいらの音楽家に比べて、遥かに口数が多い。「饒舌な音楽」というような文学的表現をしているわけではない。文字通り、能書きが多いのである。
「何にも言うことはない、僕の音楽がすべてを語っている」
などというカッコのいい台詞を、白石准の口から聞こうとしても、それは絶対に不可能である。よく言えば、白石准は、聴き手にとって大変に親切な作曲家なのである。
(まれに、というかちょくちょく、迷惑な音楽家である場合もあるのだが。)

ともかく、その真髄を確認して頂くために、白石准のサイトの古い記事から、特に顕著なものをご紹介したいと思う。そこで白石准は、自作“どんぐりと山猫”について長々と語っている。
驚くべきは、それにくっついた47個のコメント(その中にはもちろん白石自身のコメントも含まれるが)である。事のきっかけは音楽だったはずなのに、いつしか白石准の音楽そのものはどこかに置き去りにされ、白石准の言葉の罠に引っ掛かった者たちのおしゃべりだけが、萱の森に鳴り響き続ける……。

もしかすると、我々の“どんぐりと山猫”は、やっぱりオーディオブックにカテゴライズされるべきものなのか!と、あくまでクラシックに拘る僕を不安にさせるのである。
ともかく、まずはご覧あれ。

http://juninho.blog…
(コメントは下から時系列に並んでいますので注意。)

本日のところは、これにて「白石准と宮沢賢治の形而上学」の第1回を終了いたします。
なお第2回の配信予定は、今のところ全く未定です。

生まれつき盲目の人が絵を描いている。風景画を。海の絵だった。鳥も飛んでいた。
筆は使わずに指で色を重ねていた。描き上がった絵を見たが、まさに海辺の景色である。
テレビ番組だったので、見た方もいらっしゃるでしょう。
絵も上手いし、すごいなあと思いつつ見るのをやめてしまったのですが、どうしてそんなことが可能なのかと思ってしまったのですよ。
彼(男性でした)は視覚での記憶は全てにおいてないわけです。なのに・・

以前読んだ佐治晴夫さん(理論物理学者)のエッセイのなかに全盲の方から聞いた話があったのをおもいだしました。引用します。
「白い杖を持つのは他者に目が不自由であることを知らせるためで、杖なしでも歩けます。」
佐治氏は驚かれたのですが、続けて曰く
「まわりの空気の流れの変化を全身で感じとることから周囲の状況がわかるのですよ。」

不思議です。がそれはわたしが自然現象に鈍感になっているからそう思ってしまうのでしょう。
宮澤賢治の「心象風景」は「わかる」ことよりも「感じる」ことと再確認するしだいです。
リズムを感じ・色彩を感じ・大きさを感じ・ドキドキを感じ・不思議を感じ・温度を感じ、それを楽しみ表す。
鈍感でいることは不幸な世界をつくってしまうような気がします。
(楠 定憲)
 

オツベルと象
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(神楽坂の公園にて)
シューマン作曲「トロイメライ」を聴いた。「子供の情景」全曲を聴こうと探したのだがCDが見つからなかったのですが、幸い「トロイメライ」の入っているピアノ演奏集がありました。いろんな作曲家の曲が入っています。    
高山氏からのコメントもあって、ひさしぶりにちょいと聴いてみようかと思い立ち、かけてみたのですが、聴いているうちにこのタイトルがうかびました。

たとえ話は人間が物語る時のおおいなる手段?方法?言葉がうかばない。いずれにしろ想像と不可分であるでしょう。
グリム、イソップ、アンデルセン、小川未明、名のある作家だけでなく、昔話や民話や夢の話などほとんどがたとえ話のようにおもえます。
たとえ話が子供じみているとか子供の世界だけの読み聞かせだなどとおもっていると大間違い。
イソップは知恵の宝庫だし、アンデルセンは人生(生死)とはなにかを考えさせてくれます。
むつかしいことはわかりませんが、仏の教えもそれにあたるのではないかと。
まあそんなわけで宮沢賢治にはいきつきませんでしたが今日のところはご容赦を。
(楠 定憲)



高山正樹のグチ…
楠氏と電話などで話すと、すぐにも記事を投稿するようなことをノタマウので、そんじゃあよろしくねと電話を切るのですが、一向に音沙汰なし。その繰り返しです。で、結局わたくし高山正樹が、こうしてちょっかいを出すことになるわけですなあ。もう、おまえさんのややこしいはなしなんか聞きたくない、ごもっともでございますが、ちょいとご容赦を。

宮沢賢治の、「小岩井農場」の一節です。

 これがじつにいいことだ
 どうしようか考えているひまに
 それが過ぎて滅くなるということ

まさか、そんなこと目論んでいるわけじゃないよね、楠さん。
それから、こんなのもあります。

 世界ぜんたい何をやっても間に合わない
 その親愛な近代文明と
 新な文化の過渡期のひとよ
 (雨中謝辞)

時間が無いんですよね、楠さんにも、そして、僕にも。
僕は、ちょっと気になって、そっと掌を眺めてみたのです。

 ところがおれのてのひらからは
 血がまっ青に垂れている
 (空明と傷痍)

こいつはえらいことだ、そうして僕は、なぜ僕の血が青くなってしまったのか、その原因をご教授願おうと、宮沢賢治さんを訪ねたのですが、逆に、山猫合奏団の皆様への宿題を頂いてきてしまったのです。
それは、「作品第1003番」であります。

 色のついた硝酸がご用ですか…
 …いいえ、わたくしの精神がいま索ねて居ますのは
 第六交響楽の水に落ちた木の陰影の濃度を測定する
 青い試薬がほしいんであります…

さて、どうなりますことやら。
(2008/10/5:高山正樹)
「音を楽しむ雑記帖」というカテゴリーを開設しました。
音楽に関するコラムです。なるべくなら「へー」という感じの記事をお届けしたいと思っているのですが、はたしていかに。
執筆者は山猫合奏団メンバー。
ただ、みんな気分が乗らないと書いてくれない、どうなりますことやら。

ということでしたが、いっこうに記事は増えず、音楽門外漢の高山ではいかんともし難く、一方楠氏担当の宮澤賢治考の方もなかなか更新ママならずということで、「音を楽しむ雑記帖」のカテゴリーは閉鎖、記事は楠氏の「宮澤賢治考」に間借するということにいたしました。
あーあ、音楽色を強めようって思ったんだけどなあ…
(2008/9/16:高山正樹)



「雨ニモマケズ」は賢治の亡くなる2年前(1931年昭和6年)に彼の手帳にかかれていた詩ですが、この手帳は賢治の死後見つかったもので、中にはこの年の9月から11月にかけて書き留められた数編の詩が入っています。
ちなみに「雨ニモマケズ」は11月3日の日付が書かれています。

9月には肺の病気が再発し、東京からの帰郷を余儀なくされ、10月には東北・北海道が冷害のため大凶作となってしまうという状況のなかで、人はどう生きればいいのかを考えたのでしょう。満州事変も起こった。

この詩を読むとき賢治自身また社会情勢を知ってしまうと、どうしても口調が重くなるのはいたしかたないのかもしれませんが、ある時この詩を元気に声をだして読んだ人の話を聞いたことがあります。
なるほどと思いました。人を元気にし力づけようとする人間になりたいと考えているならば本人に生気がなくてどうする。魚屋の売り声がいきいきしてないとだーれも買う気にはならんでしょう。
賢治さんが聞いたら怪訝な顔をするか?いやしない。、
なぜなら人が生を喜び合っている姿をよしとしているからである。(農民芸術概論綱要からそう感じる。)

賢治さんの理想。「さういふものになりましょう」ではなくワタシハナリタイなのである。
(楠 定憲)
はじめまして、楠 定憲(くす さだのり) です。
ブログというものに初めて寄稿します。
これまで何びとのブログを見たこともなかったのですが、まさか自らが書き込むとは・・・。さて
思い出すのは小学校3年生のときのこと、3才年上の姉の持っていた宮沢賢治集のページをめくったのが最初でした。小学生むけだったのでしょう、漢字の少なかったのをおぼえています。
姉は一生懸命なにかを暗記しているようでした。
それが「雨ニモマケズ」という詩であると知ったのはまもなくのことでした。雨や風、北とか南とか夏や冬という言葉がグリグリと耳にねじこまれるようで、デクノボウはへんな言い方だなあと思い、ソウイウモノニワタシハナリタイにはあれ?っとしたのですが、とにかく私の最初のミヤザワケンジでした。
ソウイウモノニワタシハナリタイ 賢治考第一歩の一節です。


《高山正樹による「宮澤賢治考」のプロローグ》
(「音を楽しむ雑記帖」が寂しく閉鎖されたため、記事をこちらに移しました。楠さん、お邪魔しまーす。ああ、若葉荘を思い出す。注:若葉荘とは、30年前、白石、楠、高山が住んでいたアパートの名前である。)


宮沢賢治の“セロ弾きのゴーシュ”で、ゴーシュが毎晩練習している水車小屋に最初に訪れた三毛猫が、ゴーシュに向かって「ひいてごらんなさい」とリクエストした曲は、ロマチックシューマン作曲の“トロメライ”でした。

グーグルを使って「トロメライ」を検索すると、「もしかしてトロイメライ」と注意してくれます。
ヤフーだと、「トロイメライ ではありませんか?」とご丁寧なお言葉。
ましてやロマチックシューマンなどという作曲家は存在しません。
正解は、言わずと知れた(と、クラシック通の方ならおっしゃるでしょうが)ロベルト・アレクサンダー・シューマンのトロイメライです。

ドイツの作曲家、R・A・シューマンは、20代の終わり、1838年に「子供の情景」という小品集を作曲しました。その7曲目が、“トロイメライ”です。

 1:異国から
 2:珍しいお話し
 3:鬼ごっこ
 4:おねだりする子供
 5:みたされた幸福
 6:大変なこと
 7:トロイメライ
 8:暖炉のそばで
 9:木馬の騎士
 10:きまじめ
 11:こわいぞ
 12:眠る子供
 13:詩人のお話

「トロイメライ(Träumerei)」はドイツ語の「トラウム(夢、英語のドリーム)」の派生語で、「夢を見ること」、つまり「夢想に耽る」とか「空想する」といったような意味があります。

シューマンは生涯で8人の子供を持つことになるのですが、シューマンがピアニストのクララと結婚したのが1940年ですから、1838年のシューマンにはまだ子供がありませんでした。
余談ですがシューマンの8人の子供の人生は様々です。8人目の子供はシューマンが天才と認めて見出したブラームスの子ではないかと、晩年のシューマンは疑っていたようです。
子供の自殺、自らの自殺未遂と精神病などなど、46歳の若さで亡くなるまで、結婚後のシューマンの一生は決して幸せなものではなかったのかもしれません。しかしそれだけに、子供が大好きだった若きシューマンが、まだ見ぬ子供を夢想して作曲したトロイメライの限りなく美しい旋律は、シューマンの生涯を知れば知るほど聞く者の心を打つのです。

小品集「子供の情景」は演奏するだけなら決して高度な技巧は必要ではなく、むしろ易しい。けれども、「聴かせる」演奏をしようとしてその構造などを分析しはじめるととても複雑、つまり第一印象とは大違いで、トロイメライのいい演奏をするのは容易なことでないらしいのです。きっと、技術でごまかせないからこそ、その分、ピアニストの心がむき出しにされてしまうのかもしれませんね。

後にシューマンは「子供の情景」について、こどものための曲ではなく、大人のために作曲したのだと言っています。

宮沢賢治は、どんな思いで「ロマチックシューマン作曲のトロメライ」という小道具を“セロ弾きのゴーシュ”の中に持ち込んだのでしょうか。
(最近の山猫合奏団では「シューミャン」とか「トロミャライ」とか三毛猫に言わせてウケを狙っていますが。)
「夢」、「へたくそ」、「子供」、そして「おとな」。
なんだか、色々な想像が湧いてきませんか。

でもこの先は、楠定憲氏の持ち場、そのうち書いてくれるでしょうから、それをゆっくり待ちましょう。
(2008/8/28:高山正樹)



楠定憲氏の宮沢賢治に関する考察の連載が、いよいよ08年8月25日から始まります。連載といっても無精者の楠氏のことだから、きっと不定期。でもちょっと楽しみですね。
文章だけじゃなくて、イメージ画像なんかも貼り付けてくれちゃったりすると、とっても素敵なんですが、楠さんには似合わないかなあ。
ちなみに、御紹介が大変遅れましたが、楠さんは「くすのき」さんではなく、「くす」さんです。

追伸。
25日じゃなくて、26日からになりました。やっぱり?
要するに、いきなり不定期です。
追々伸。
27日からの予定になりました。ごめんなさい。
楠氏曰く「すまんすまんすまん」

そして2008年8月27日
喜多見の事務所にて、ブログの書き方講座の後・・・
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ついに連載開始。更新頻度は不明。
「宮沢賢治考」第一回は「45年前の宮沢賢治さん」です。

おまけ:
このあと、こんなとこに行って遊びました。


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