楠定憲氏が、相変わらずいっこうに姿を現さないので、高山正樹が忍び込んでこれを書いている。

最近、iTunes Shop内で、我が山猫合奏団の“セロ弾きのゴーシュ”と“どんぐりと山猫”のカテゴリーが、ほんとにクラシックでいいのかというような話しが持ち上がっているらしい。

実はこれは、音楽ではないカテゴリー、例えばオーディオブックのようなものが、音楽関係のジャンルとは全く別のシステムや状況の上に成り立っているというiTunesの事情にも原因があるらしいのだが、そのあたりの政治的な問題は、いずれM.A.P.after5情報あたりでこっそり御披露することとして、ともかくここらで一度、山猫合奏団における宮沢賢治と白石准の力関係を、論理的に考察してみようかと思い立った。

さて、ではどこのスペースを使って開陳しようか。高山のわけのわからない理屈なら「社長とは呼ばないで」でやっとけと言われそうであるが、あそこじゃあ誰も読んでくれない可能性が高い。従って楠氏の不在を利用して、しばらくここをお借りしようかと考えた。
(楠さん。帰ってくる気があるなら、遠慮なくいつでもどうぞ。)

さて、宮沢賢治と白石准の力関係と言っても、どちらの名前をメインにして宣伝すればCDが売れるかというような、そんな下世話なことではない。だいいち、そんなことならば、勝負は始めから分かり切っている。

もうひとつ。なぜ文学vs音楽という対比にしなかったのかというと、山猫合奏団の作品群において、文学の要素の全てを宮澤賢治が抱えているわけでもないし、また音楽的要素の全ての責任を、白石准が負っているわけでもないという、至極あたりまえの事情を、再確認したいがためである。宮澤賢治の言葉が音楽的であることは間違いないのだから。

古くから白石准を知る読者の方々にしてみれば、今さらというお話なのだが、白石准は、そこいらの音楽家に比べて、遥かに口数が多い。「饒舌な音楽」というような文学的表現をしているわけではない。文字通り、能書きが多いのである。
「何にも言うことはない、僕の音楽がすべてを語っている」
などというカッコのいい台詞を、白石准の口から聞こうとしても、それは絶対に不可能である。よく言えば、白石准は、聴き手にとって大変に親切な作曲家なのである。
(まれに、というかちょくちょく、迷惑な音楽家である場合もあるのだが。)

ともかく、その真髄を確認して頂くために、白石准のサイトの古い記事から、特に顕著なものをご紹介したいと思う。そこで白石准は、自作“どんぐりと山猫”について長々と語っている。
驚くべきは、それにくっついた47個のコメント(その中にはもちろん白石自身のコメントも含まれるが)である。事のきっかけは音楽だったはずなのに、いつしか白石准の音楽そのものはどこかに置き去りにされ、白石准の言葉の罠に引っ掛かった者たちのおしゃべりだけが、萱の森に鳴り響き続ける……。

もしかすると、我々の“どんぐりと山猫”は、やっぱりオーディオブックにカテゴライズされるべきものなのか!と、あくまでクラシックに拘る僕を不安にさせるのである。
ともかく、まずはご覧あれ。

http://juninho.blog…
(コメントは下から時系列に並んでいますので注意。)

本日のところは、これにて「白石准と宮沢賢治の形而上学」の第1回を終了いたします。
なお第2回の配信予定は、今のところ全く未定です。