2011年01月24日
いよいよ“オツベルと象”の楽譜が、まだ途中までですが上がってきました。それを実際の音にして確認する作業を行いました。

チューバの古本大志君とベースの稲垣護さんも参加してくださいました。
この日の合わせの報告は、白石准が自分のブログに書いていますのでそちらに任せましょう。
⇒http://juninho.blog16.fc2.com…
その後、M.A.P.がプロデュースする東京奏楽舎と、合同の新年会を行いました。

(宇夫方路撮影)
今後の新しい展開が楽しみになってきました。
その後、白石准、楠定憲、高山正樹のいつものおっさん三人と、もっとおっさんの稲垣護さんとでもう一軒。
白石准は、今度の“オツベルと象”を、今までの中で一番の傑作にするのだと、いつにも増してテンションが高いのです。メートルも上がる(古い?)、それに比例して血糖値を血圧も上がる。ダメだよ、ゆっくり飲まなきゃさあ。倒れるのは、“オツベルと象”を書き上げてからにしておくれ。
いつしか白石准はスヤスヤ。
それからは、白石准抜きで、ゆったりとした音楽談義が始まりました。稲垣さんがジャズの世界に足を踏み入れることになった頃のハナシ。楽器なんか弾けないのに、員数合わせで呼ばれたバンドのアルバイト。でも、そこで一生の仕事と出会ったのですから、人生って不思議です。
やがて白石准にお迎えがやってきました。

「ボクはうれしい、ボクはがんばる」などといいながら、彼は引きずられて行きました。
「稲垣さん、時間大丈夫ですか」
「まだ、もうちょっと大丈夫みたい」
さらにハナシは深くなっていきます。
白石准は物語にある不在を、音楽で埋めてしまう。
だが高山正樹は、文学から不在を取り除くことなど考えられない。不在のなかにある欠落感こそが文学の価値なのだと考える。だから、高山正樹にとって山猫合奏団の仕事は、芝居とは全く別の作業なのだ。
楠定憲は芝居を職業にしていながら、はるかに音楽に対するリスペクトの方が大きい。楠定憲は、何故か長い「間(ま)」をコントロールすることができない。長い時間を空白のママ耐えていることのできない屈折した役者なのである。楠定憲は、「間」を埋めよう埋めようとするのだ。でも、結果的にその作業は、不在を埋める白石准の志向性と共鳴を起こし始める。
そこで高山正樹は考える。もしかすると、不在が本当の不在であるならば、埋められることを切実に願うのは当然ではないか。「欠落感こそ文学だ」などという理屈は、「真の不在」を知らない文学青年の薄っぺらな感傷でしかない。楠定憲の抱える欠落感の方こそが本物なのではあるまいか。
だとするなら、不在を埋める白石准の音楽が、もしかすると楠定憲を支え続けてきたのかもしれない……
まもなく、日付が変わります。
そして、今年は山猫合奏団が大きく変わる年になるかもしれない、そんな予感のする一日なのでした……。
⇒この日のM.A.P.after5の記事
チューバの古本大志君とベースの稲垣護さんも参加してくださいました。
この日の合わせの報告は、白石准が自分のブログに書いていますのでそちらに任せましょう。
⇒http://juninho.blog16.fc2.com…
その後、M.A.P.がプロデュースする東京奏楽舎と、合同の新年会を行いました。
(宇夫方路撮影)
今後の新しい展開が楽しみになってきました。
その後、白石准、楠定憲、高山正樹のいつものおっさん三人と、もっとおっさんの稲垣護さんとでもう一軒。
白石准は、今度の“オツベルと象”を、今までの中で一番の傑作にするのだと、いつにも増してテンションが高いのです。メートルも上がる(古い?)、それに比例して血糖値を血圧も上がる。ダメだよ、ゆっくり飲まなきゃさあ。倒れるのは、“オツベルと象”を書き上げてからにしておくれ。
いつしか白石准はスヤスヤ。
それからは、白石准抜きで、ゆったりとした音楽談義が始まりました。稲垣さんがジャズの世界に足を踏み入れることになった頃のハナシ。楽器なんか弾けないのに、員数合わせで呼ばれたバンドのアルバイト。でも、そこで一生の仕事と出会ったのですから、人生って不思議です。
やがて白石准にお迎えがやってきました。
「ボクはうれしい、ボクはがんばる」などといいながら、彼は引きずられて行きました。
「稲垣さん、時間大丈夫ですか」
「まだ、もうちょっと大丈夫みたい」
さらにハナシは深くなっていきます。
白石准は物語にある不在を、音楽で埋めてしまう。
だが高山正樹は、文学から不在を取り除くことなど考えられない。不在のなかにある欠落感こそが文学の価値なのだと考える。だから、高山正樹にとって山猫合奏団の仕事は、芝居とは全く別の作業なのだ。
楠定憲は芝居を職業にしていながら、はるかに音楽に対するリスペクトの方が大きい。楠定憲は、何故か長い「間(ま)」をコントロールすることができない。長い時間を空白のママ耐えていることのできない屈折した役者なのである。楠定憲は、「間」を埋めよう埋めようとするのだ。でも、結果的にその作業は、不在を埋める白石准の志向性と共鳴を起こし始める。
そこで高山正樹は考える。もしかすると、不在が本当の不在であるならば、埋められることを切実に願うのは当然ではないか。「欠落感こそ文学だ」などという理屈は、「真の不在」を知らない文学青年の薄っぺらな感傷でしかない。楠定憲の抱える欠落感の方こそが本物なのではあるまいか。
だとするなら、不在を埋める白石准の音楽が、もしかすると楠定憲を支え続けてきたのかもしれない……
まもなく、日付が変わります。
そして、今年は山猫合奏団が大きく変わる年になるかもしれない、そんな予感のする一日なのでした……。
⇒この日のM.A.P.after5の記事
JunShiraishi さんのコメントです。
単なる台本だな。
こう書くと乱暴なら、「読まれるもの」ではなく「聴くもの」としての素材になる。
だから、読むときには、文学の持つ「不在」が人によっていろんな意味を持つからおもしろいのであって、僕はそこの不在を埋めることによって、今度は音楽とテキストが一緒になった後に生まれる「不在」を聴く人に想像してもらいたいと思うのです。
おっしゃるとおり、その隙間を埋めることに大変な快感を持つのであって、それを聴衆には、「これが僕の読書感想文」ですと行ったりする根拠です。
だから、今まで、バレエやスライド、紙芝居(素材は木だったが)と、第三の要素を入れた公演も実験的にありましたが、厳密に言うと、観ている側が(聴いている側)何を観ればいいのかわからなかったと言われたことがあるように、音楽がついたって、その「不在」は僕によって作られるはずなんだと思います。
しかしながら、今度の“オツベルと象”は、今までの作品と根本的に違うのが(まあちょっとだけ“セロ弾きのゴーシュ”は物語の性格上、文学に伴奏を付けるというニュアンスではなかったが)、音楽にテキストをはめ込むというアプローチをしています。
もちろんテキストあっての音楽ではあるけど、テキストが言い表している情景を音楽で表現するというより、音楽が先にあって、テキストがそこで踊らされているという風に作っています。
これがある意味、“どんぐりと山猫”の初演の時に受けた「この音楽は音楽だけで独立してない」という批判に本当の意味で僕が考える「言葉と音楽の化学反応」というものの答えになると確信しています。
他人から見たら、全部白石准の書法が似ていると思われるかも知れませんが、四つのこの山猫合奏団の音楽はすべて顔の違う兄弟だし、この間久しぶりに、人形劇団むすび座のために書いた“ジョディと子鹿のフラッグと”の最終公演を聴いて、僕がなすべき事、そして誇りについて深く考えさせられました。