8月27日水曜日: 《1986年12月11日のノート》
カテゴリ: 《過去のノート》
「生物の進化」「人類の進歩」……。
空虚な言葉だ。これらの言葉は、結局過去の歴史以外何も語ってはいない。
「人類の幸福」……。
考えてみればこいつもよくわからない。幸せだったりそうでなかったりするのはひとりひとりの人間であって、「人類」が幸福になるわけではない。
絶滅していった動物たち、彼らにもかつて幸福だった時代があったのだろうか。きっとあったに違いない。しかし彼らは絶滅した。すると、かつての幸福だった彼らの時代は無意味だったのか。絶滅した彼らは、類として不幸だったとでもいうのか。
進化は幸福をもたらすのか否か。ひとつの環境により適応するために、いわばその世界でより幸福に暮らすために進化し特殊化した生物の多くは、その後の急激な環境の変化に追いつけずに絶滅した。きっと、進化と幸福とはとことん無関係なのだ。
ひとつ……。
アイヌ。自らの身勝手な「幸福」のために彼らを「滅び」の崖淵へ追いやりながら、今になって尊敬の念をもって狩猟民族の世界観に学ぼうとはいったいどういうことか。学んで、そして「幸福」を捨てて滅びの運命から逃れようとでもいうのか。森の神が我々を呪う。「おまえたちなど、幸福に押し潰されて滅びてしまうがよい。」
強がりニーチェに対する反論として、いいもの見つけた。芥川龍之介「闇中問答」。
「ツァラトストラのどういう死を迎えたかはニイチェ自身も知らないのだ」
ふたつ……。
猿は森に留まり人間は草原に降り立った。「人間は革新、猿は保守、人間は革命によって猿から分かたれた」と魯迅は言ったが、人間は何に向かって進化し進歩しようとしているのか。ただ猿は変わらず人間は変わったというだけのこと。またこうも魯迅は言った。「中国の社会に変動がないために、昔を慕う哀詩もうまれなければ、斬新な行進曲もうまれないわけであります。」
するとだ。重要なのは進化ではなく、変化なのだ。変化が人間の感情を揺り動かす。そして新たな感情を呼び起こす。感情とはすばらしいものなのだ。感情を持つことは幸福なことなのだ。たとえそれが不幸な感情だとしてもである。
なんとも、あぶなっかしい連想ゲームである。
空虚な言葉だ。これらの言葉は、結局過去の歴史以外何も語ってはいない。
「人類の幸福」……。
考えてみればこいつもよくわからない。幸せだったりそうでなかったりするのはひとりひとりの人間であって、「人類」が幸福になるわけではない。
絶滅していった動物たち、彼らにもかつて幸福だった時代があったのだろうか。きっとあったに違いない。しかし彼らは絶滅した。すると、かつての幸福だった彼らの時代は無意味だったのか。絶滅した彼らは、類として不幸だったとでもいうのか。
進化は幸福をもたらすのか否か。ひとつの環境により適応するために、いわばその世界でより幸福に暮らすために進化し特殊化した生物の多くは、その後の急激な環境の変化に追いつけずに絶滅した。きっと、進化と幸福とはとことん無関係なのだ。
ひとつ……。
アイヌ。自らの身勝手な「幸福」のために彼らを「滅び」の崖淵へ追いやりながら、今になって尊敬の念をもって狩猟民族の世界観に学ぼうとはいったいどういうことか。学んで、そして「幸福」を捨てて滅びの運命から逃れようとでもいうのか。森の神が我々を呪う。「おまえたちなど、幸福に押し潰されて滅びてしまうがよい。」
強がりニーチェに対する反論として、いいもの見つけた。芥川龍之介「闇中問答」。
「ツァラトストラのどういう死を迎えたかはニイチェ自身も知らないのだ」
ふたつ……。
猿は森に留まり人間は草原に降り立った。「人間は革新、猿は保守、人間は革命によって猿から分かたれた」と魯迅は言ったが、人間は何に向かって進化し進歩しようとしているのか。ただ猿は変わらず人間は変わったというだけのこと。またこうも魯迅は言った。「中国の社会に変動がないために、昔を慕う哀詩もうまれなければ、斬新な行進曲もうまれないわけであります。」
するとだ。重要なのは進化ではなく、変化なのだ。変化が人間の感情を揺り動かす。そして新たな感情を呼び起こす。感情とはすばらしいものなのだ。感情を持つことは幸福なことなのだ。たとえそれが不幸な感情だとしてもである。
なんとも、あぶなっかしい連想ゲームである。
(1986/12/11)
8月11日月曜日: 《1986年11月30日の頭痛日記》
カテゴリ: 《頭痛日記》
ニーチェを読んで、一夜明けると、僕はニーチェ主義者になっていた。
健康は価値あるものだとニーチェが言う。至極当たり前のようだが、ニーチェが言うとその趣は一転する。健康は不健康を差別する。それが〈自然〉だとニーチェが言えば、健康において劣る者は差別されて当たり前のように聞こえる。知里真志保は〈自然〉の民たる〈アイヌ〉の健康健全だった事を言うが、ならばどうして〈アイヌ〉は和人に差別され追いやられたのか。デズモンド・モリスは面白いが、敗れ弱った民族を正当な人類の進歩から外れたものとして顧みない。
結局〈自然に帰れ〉式の甘ったれた〈自然〉は、ニーチェが笑うような奴隷根性を本能とする畜群の都合のよい偏狭な概念なのであって、本当の〈自然〉はそれとは全く別の相貌を持っているという事なのか。
だからといって、和人の〈自然観〉の方が〈アイヌ〉のそれより正しいと言うのではない。屯田開拓を記念する碑、その背後に隠された〈アイヌ〉の歴史。開拓者が闘おうとした〈自然〉、〈アイヌ〉が共に生きようとした〈自然〉、しかし〈真の自然〉は、そのどちらからも遠く隔たっているのかもしれない。
〈自然〉を制して勝ち誇っているような屯田の歴史も、いつか強烈に覆されるのか。だとしても〈自然〉から反撃されてそうなるのではない。だいたい〈人間対自然〉などあり得ない。人間がこうしている事、それもまた〈自然〉なのだ。巨大な〈自然〉の測り知れぬ営みの中の一部なのだ。いつか人間はそれに気づかされる時が来る。楽観的たろうとする意志に反して気づかざるを得なくなる。
同じように、〈自然〉に帰るというのも無理な話なのだ。人間が〈自然〉以外であるはずなどないのだから。だが祈る事は出来る。というより、祈る事しか出来ないのだ。その意味で〈アイヌ〉の〈自然観〉は屯田のそれよりもはるかに〈真の自然〉を捉えているという事か。〈アイヌ〉の〈自然〉に対する祈りも、今や昔のままではないとしても……。そして、ああ、そしてやはりこれなのだが、僕は無関係なこの頭痛に悩まされる。祈ってこの頭痛が止むのなら、いくらでも祈ってやる。
またニーチェが笑う。超人は何に対しても決して祈る事をしない者なのだと。
健康は価値あるものだとニーチェが言う。至極当たり前のようだが、ニーチェが言うとその趣は一転する。健康は不健康を差別する。それが〈自然〉だとニーチェが言えば、健康において劣る者は差別されて当たり前のように聞こえる。知里真志保は〈自然〉の民たる〈アイヌ〉の健康健全だった事を言うが、ならばどうして〈アイヌ〉は和人に差別され追いやられたのか。デズモンド・モリスは面白いが、敗れ弱った民族を正当な人類の進歩から外れたものとして顧みない。
結局〈自然に帰れ〉式の甘ったれた〈自然〉は、ニーチェが笑うような奴隷根性を本能とする畜群の都合のよい偏狭な概念なのであって、本当の〈自然〉はそれとは全く別の相貌を持っているという事なのか。
だからといって、和人の〈自然観〉の方が〈アイヌ〉のそれより正しいと言うのではない。屯田開拓を記念する碑、その背後に隠された〈アイヌ〉の歴史。開拓者が闘おうとした〈自然〉、〈アイヌ〉が共に生きようとした〈自然〉、しかし〈真の自然〉は、そのどちらからも遠く隔たっているのかもしれない。
〈自然〉を制して勝ち誇っているような屯田の歴史も、いつか強烈に覆されるのか。だとしても〈自然〉から反撃されてそうなるのではない。だいたい〈人間対自然〉などあり得ない。人間がこうしている事、それもまた〈自然〉なのだ。巨大な〈自然〉の測り知れぬ営みの中の一部なのだ。いつか人間はそれに気づかされる時が来る。楽観的たろうとする意志に反して気づかざるを得なくなる。
同じように、〈自然〉に帰るというのも無理な話なのだ。人間が〈自然〉以外であるはずなどないのだから。だが祈る事は出来る。というより、祈る事しか出来ないのだ。その意味で〈アイヌ〉の〈自然観〉は屯田のそれよりもはるかに〈真の自然〉を捉えているという事か。〈アイヌ〉の〈自然〉に対する祈りも、今や昔のままではないとしても……。そして、ああ、そしてやはりこれなのだが、僕は無関係なこの頭痛に悩まされる。祈ってこの頭痛が止むのなら、いくらでも祈ってやる。
またニーチェが笑う。超人は何に対しても決して祈る事をしない者なのだと。