前略。
お久しぶりでございます。ほぼひと月ぶりですなあ。
相変わらず、なかなか先へ進まないご様子。「ほんとうのこと」に、あまりにもこだわり過ぎていらっしゃるようで。

あなたのお好きな儀間進オジイは、たしか二つの負い目があるとおっしゃったのではないですか?あなたは、そのうちの「戦争体験がない」という、ひとつめの負い目だけは語ったが、しかしふたつめの負い目についてはどうしようかと躊躇している。このまま進まぬ物語に付き合わされるのはかなわない、だからオイラが代わって発表しましょう。ばっさりと。

儀間進氏曰く
「私には負い目がふたつあります。ひとつは戦争体験がないこと、そしてもうひとつは、琉大文学をクビにならなかったことです。」

どうです? すっきりなさったのでは? そんな怖い顔でオイラを見ないでください。あなたはmixiという、開かれてるんだか内輪なんだかよくわからない場所の、「沖縄の独立を考える」なる「コミュ」とかなんとかいうところに、既にこんな文章を書き込んでいらっしゃるではありませんか。

《mixiへのコメント》
「アイヌ」という言葉は、本来「人間」という意味であったと記憶しています。「シサム(隣人)」である大和と出会うまで、「アイヌ」にとっての他者は、多分「自然」であったのだと思うのです。「アイヌ」にとってのアイデンティティーは、偉大なる他者としての「自然」を鏡にして、そこに自分たちの姿を写し出すことによって、確かに成立していたのではないでしょうか。「人間」という名のアイデンティティーです。
ところが「不幸(?)」にも「シサム」と出会ってしまった時から、「シサム」という他者の名前は、「シャモ」という憎しみを帯びた言葉に変貌し、元来人間を意味した「アイヌ」という言葉は、「シャモ」と区別された「自ら」を規定する呼び名となったのです。
僕は、「沖縄」を考える時、いつも普遍的な地表に導かれていってしまいます。人が、他者と出会い、そして理解し合うとはどういうことなのか。「わたし」は「あなた」を本当に理解できるのだろうか、というふうに。
新川明氏の反復帰論はご存知でしょうか。彼は沖縄独立論者として自分が規定されることに異を唱えます。「独立論」の先には、結局、国家が存在するから。新川明氏は、遠い遠い彼方に「国家」という枠組みのない世界を見据えて、今現在、沖縄はどうあるべきかを、模索し続けてこられたように思うのです。
一方で、新川明とは対極にいる作家・大城立裕氏と、今僕は仕事をさせていただいています。大和の言葉で、基地内で開かれる「カクテル・パーティー」の親善の欺瞞を告発し、沖縄に始めて芥川賞を齎しました。氏のあり方もまた、我々がとやかく言うことの出来ない、沖縄のひとつの選択であったのだろうと思うのです。
50歳にして、今僕は、たくさんの沖縄の方々と出会い、たくさんの勉強をさせてもいただいています。
そうして今、僕は、妻の故郷である「沖縄」を通して、僕のなかの「大和」を、問い続けているような気がするのです。
(2008/10/18)


あなた様がこの書き込みをされた途端、それまで盛り上がっていた議論が、ピタリとストップしてしまいました。あなたのお言葉は、いつも周りに冷や水を浴びせて沈黙を生み出します。それは「ほんとうのこと」と関係があるのでしょうか。それとも…

新川明氏は、琉大文学を「クビ」になった方。儀間進氏は、今も時々新川明氏とお会いになるという…

これについてはオイラの出番はここまで。この後の続きはお任せいたします。

そして、もうひとつのほんとうのこと。誰にも言えないほんとうのこと。それは言わぬが花、それこそはミステリーということにして、もういい加減に先へお進みになられることを期待しております。

お誕生日、おめでとうございます。誰も祝ってくれないあなた様への、オイラのお祝いのメッセージでした。
えへへ…