僕は本当の生活というものを知らないのかもしれません。しかし僕は、真理を見極めるために、一生、生活などしたくないと思っていました。考えてみれば妙な話です。生活するために信ずる何ものかが必要だった、だから信ずるに足る真理が欲しかった、つまり生活するためにこそ真理を追い始めたはずなのに、僕は戦う前に敗北しています。結局今の僕は、生活したくないというだけの、ただの呆け者なのかもしれません。
 だが、そんなふうにいくら反省したところで、やっぱり真理はないのだから、つまり生活が可能になるわけではありません。相変わらず、真理を見極めようとする事と生活する事とは両立不可能に思えるのです……。

 「彼は持って生まれた性格と今日まで受けた教育とに煩わされて、とうの昔に大切な、信ずるという機能を失っていた。まして実行する勇気は、容易に湧いてはこなかった。したがって世間に伍して、目まぐるしい生活の渦の中へ、思い切って飛びこむことができなかった。だから彼はその限りで、広い世間から切り離された孤独を味わうべく余儀なくされた。」(芥川竜之介「路上」)

 なるほど、信ずるものがあって、はじめて〈生活〉は可能なのでしょう。だが、信じられる真理などない。けれど、信ずる事において真理が不可欠というわけではないらしい。ならば、人は何をどのように信じているのでしょうか。
 「信じるところに現実はあるのであって、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」(太宰治「津軽」)
 「化かすと云う事と、化かすと信ぜられると云う事との間に、果してどれ程の相違があるのであろう。」「我々の内部に生きるものを信じようではないか。そうして、その信ずるものの命ずるままに我々の生き方を生きようではないか。」(芥川龍之介「貉」)
 芥川は、貉が化かすと本当に信じていたのでしょうか。僕にはとてもそうとは思えない、つまり、何もかもが信じられないのです。