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生きているうちに〈何か〉を残しておきたいと思った。1994年の春のことである。退院して自宅に戻った僕は、まっすぐに書庫へと向かった。薄暗い三畳ほどの小部屋の、将棋倒しの駒のように危なっかしく並べられた本棚。
「どこかに、昔のノートが収まってあるはずだ」
そして一番奥の錆びたスチール製の本棚から、黄ばんだ大学ノートを見つけ出した。

その日から僕は、そのノートに書きなぐられた一字一字を、遺書を認めるかのようにワープロで打ち始めたのである。毎日毎日、何かにとり憑かれたかのように。
やがて僕は、ワープロの文章の冒頭に「前書き」を付け足してみた。〈子供たちへの手紙、そのプロローグ〉という表題つきの「前書き」。

その時から、もう僕は6年も生き延びたのだが、古いノートを新たな〈ノート〉としてテキストデータに起こす作業は、「死」に捉えられて切迫した気持ちが薄れてしまった今も、何故かやめる事ができずにいる。ただ、今の僕は、この〈ノート〉を「子供たちへの手紙」という呪縛から解放してやろうと考えはじめている。
〈ノート〉から、「子供たちへの手紙」という意味合いがなくなったということではない。未完のものに表題をつけることに嫌気がさしたのだ。

そうなのだ、確かに呪縛から解放されたいのだ。どうやら僕は、少しばかり未来があると勘違いできるほどには回復したということらしい。まだまだ総括するには早すぎる。そして急いでいる。今までにはなかったほどに。

僕は〈子供たちへの手紙のプロローグ〉を一括削除しようと考えたのだ。だが、そういうことなのだろうか、僕が削除したいのは「子供たちへの手紙」という「表題」であって、子供たちに向けて「遺書」を残しておきたいと、六年前の僕が切実に思ったという過去の事実を消したいわけではない。

「今」とは、連続した過去の延長にしかない。[A]から[B]へ。何故[B]に到ったのか、その理由は[A]を削除してしまっては見えなくなる。[B]へと向かうことにした必然性を常に自分に納得させること、それは[A]という〈過去〉を削除してしまってはきっと叶わない。「過去」を知らなければ「今」を理解することなど決して出来ない。急いでいるのに、いや急いでいるからこそ過去を捨ててはならないのだ、と思い込んでいる。

削除しようと考えたのは〈プロローグ〉だけではない。「昔のノート」を新しい〈ノート〉に移行しながら、1994年の僕は居たたまれなくなって、いくつかの〈自己解釈〉を〈ノート〉に付け加えてみたのだが、そんな〈自己解釈〉こそ不要な装飾物だと思った。だから、過去だけを語る死んだ〈自己解釈〉のすべてをいったん消去した。そうして、あらためて「昔のノート」を読み返してみた。すると、1994年の僕は消え去り、そして、「昔のノート」に残された「過古」も、ひどく朧であった。

結局、〈自己解釈〉も、〈プロローグ〉と同様に削除しないことに決めた。だがそれは、〈自己解釈〉が「過去の自分」を正しく説明しているからではない。「今」と「未来」が「過去」によって補完されているように、「過去(過古)」もまた、より新しい「過去」によって彩られているものなのだということに気づいたからだ。それは、時代の権力者が歴史の真実を都合よく書き変えてしまうというような話しとは全く無関係な、「過去」と「未来」の区別が無意味となった彼岸の、時間の概念を空間に取り込んだ「想念の森」のことなのである。
(2000/3/24)


「愛について、決して急がぬ事。」
そうではない。どんなに急ごうにも、どうにも急げなかった。僕を取り巻く世界の、どこを凝視しても、「愛」など、存在してはいなかった。
お前は、急ぐべきだったのだ。こうなる前に。
(1994/5/28)



5月12日火曜日: 樺美智子のこと

カテゴリ: 書斎で書くこと
深川の天ぷら屋で、落語の公演のチラシを置いてもらえないかと店の御主人と話をしていた。カウンターでは初老の紳士がひとり、昼間っからアナゴあたりを肴に一杯やっている。
「ちょっとそのチラシ、見せてくれないか。僕は落語が好きでねえ」
天ぷら屋の御主人によると、どこかの会社の社長さんらしい。
「東大の落研でね…」
さり気なく、東京大学出身であることを匂わせた。
60年安保闘争の賑やかだったある日のこと、その日は寄席に行くつもりだった。しかし、お前はデモに参加せずに落語なんぞを聞きに行くのかと批判され、優柔不断にもデモに参加した。あの時、屈せず断固寄席に行くことを選んでいたら、今頃落語家だったに違いない…
そんなわけはない。だが、話としては面白い。
「カンバがね…」
話は揺れる。
「カンバ」とは、あの女子東大生、樺美智子のことである。
彼女は、1960年6月15日、全学連のデモ隊が国会に突入、その際、死亡した。警官隊に虐殺された、と報道されたが、その真偽は定かではない。
紳士が口にした「カンバ」を、樺美智子と分かって聞いていたのは、きっとこの僕だけだったに違いないのだが、話の進行には何の支障もなかった。「カンバ」は単なる「彩り」か「くすぐり」。「カンバ」が何者かなんて大して重要なことではない。当の紳士も、この僕が樺美智子を知っていながら話を聞いているとは思ってもいなかったのだろうし、そんなことはどうでもよかったのだろうと思う。

しかし、僕にとってはそうではなかった。奥浩平氏は樺美智子についてこう語った。
「(樺美智子は)自然に、またはそうならざるを得なくてああなったのであって、マルクス主義者になろうと思ってなったのではない」
25年くらい前、僕はこの一文に、しばらく脅かされていたということを憶えている。自然に死んだわけではあるまい。22才という若さで、樺美智子は、永遠にマルクス主義者となった。本当は、その先に様々な人生の岐路があったはずなのに。

《自然に何者かになってしまう》
考えれば考えるほど、僕にはその言葉が、色々な意味において、とても恐ろしいことに思えたのである。

初老の紳士にとって、あの1960年は、ほんとうはどういう年だったのだろうか。まさか、落語を諦めた年だった、なんてことではあるまいと思うのだが……



3月11日水曜日: 死に到る方便

カテゴリ: 書斎で書くこと
アイヌについて、「記憶の中の現実も、できる限り、書き添えてみようと思う」と、そう宣言してから、もう20日も経ってしまった。
だが、それがどうしたというのか。いったい、こんなややこしい独り言を読んでいる人などいるわけないのだから、宣言を守ろうが破ろうが、どうということもないだろう。

ただ書くことによってのみ、なんとか自分を支えていた時期があった。狂うかも知れぬという恐怖に、書かなければ死を選ぶしかないと、思い込んでいたことがあった。そこから逃れるためにのみ書き続け、そしてどうにか現実の手前まで這い出してきていたのである。しかし、というか、だからというべきか、あの頃、「アイヌ」は未だ方便であった。そんな失礼な話は無い。

今、再び書かねばならぬ事態になって気づいている。現実は、未だ僕にとって、やはり何ものかのための方便なのではないか。「生」は、何か永遠なるものへ到る道程の、単なる方便にしか過ぎないのではないか、と。

「生」に対して、なんとも失礼な話である。



1985年の夏の《旅のノート》を、二風谷の手前まで公開してきて、そこですっかり止まってしまっている。この先をどのように続けようか、ずっと迷っていたのである。

たった一日の二風谷の事を、僕は今でも鮮やかに思い出すことができる。しかし当時の僕は、その日の出来事を具体的に書き記しておくことができなかった。それから四半世紀を隔てて、怪しげなブログなるものでその日のことを書こうとしているわけなのだが、さてどうしよう、当時のノートをそのまま公開するのか、あるいは今も鮮やかに残る記憶を元に、改めて書き綴るほうがいいのか。

アイヌの芝居の初演は翌年の1月、そして夏には、二風谷公演を行うことになる。それまで、さらにはその翌年の87年まで、僕は延々とアイヌについて書き続けている。しかし、その殆どが詰まらぬ観念ばかりで、やはり具体的なことは至極簡単にしか書き残していない。出会った現実を、ことさらにちっぽけなこととして処理してしまおう、それによってそれまでの自分が傷つけられないようにというような、当時の僕の「あり方」が見えてくる。だが、今振り返って考えるに、やはり重要だったのは、僕が実際に経験したひとつひとつの具体的な「現実たち」であったはずなのだ。

もうそろそろ、始めなければならない。
とりあえず、無味乾燥な当時のノートを、そのまま転記してはみるが、記憶の中の現実も、できる限り、書き添えてみようと思う。

沖縄へたどり着くまでには、まだ一年半の時間が必要なのである。


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