5月31日土曜日: 《1983年の僕を1994年の僕が解釈する:2》
カテゴリ: 《過去を解釈する》
調べてみた。
アルトーがシュールレアリスムの旗手ブルトンに会ったのが1924年、カミュがその「手帖」を書き始めたのが1935年。10年前の僕は、何故そんな古いものを振り回していたのか。
僕は、60年代の幻想の中にいた。花園神社の境内に設営されたテント、取り囲む機動隊に対峙する俳優たちと満員の観客、なんと素敵な時代なのだろう。僕は不幸にもその時代を知らない。知らぬからこそ、聞かされるその夜の出来事は、僕の中で伝説になった。例えばその花園神社の芝居にこそ、時代を動かす可能性があったのではないか。それを司るアンチテーゼとしての肉体の力。幻想かもしれぬ。だが、それは僕の夢と重なっていたのだ。僕にとって、依然60年代演劇は芝居の〈あるべき理想〉だったのか。
しかし、その理想は時代と不可分であった。時代が変われば成立しない理想であった。状況劇場にも、天井桟敷にも、もうかつての肉体の力などなかった。何故か。瀕死の理性を倒すのに、もう特別な力など必要なかったのである。アンチテーゼの役割を失った肉体は、僕にとって、もう魅力などなかった。だから、60年代の演劇は、依然僕の〈理想〉でもあったのだが、乗り越えるべきものでもあったのだ。正確に言えば、依然理想であったからこそ乗り越えるべきものだったのである。 問題は、如何に乗り越えるべきか。だが、それこそが五里霧中であった。
時代の〈敵〉は得体の知れないものに変貌し、その身を隠していた。つまらぬ時代だと思った。そして、敵のはっきりしていた60年代という時代を羨んだ。
しかし、時代を動かし変えることが夢だとして、その夢の叶わぬ時代を恨むとはどういうことか。夢は、置き去りにされている。それは、きっと夢に対する裏切りなのだ。僕は自分の夢を裏切っていた。
要するに、動かし変えた後の、あるべき時代の姿が見えなかったというだけのことなのである。それでもなお動かし変える事が夢だとはどういうことか。「反抗のための反抗」とは少年の甘えである。それを自覚したからという訳でもないのだが、芝居を仕事とし、芝居に夢を託さなくなってから、その時すでに何年も経っていた。
僕に、本当に夢があったのだろうか。あったような気がする。そして芝居を選んではみたが、やりたい芝居が見つからなかった……、何のことはない、個人的な才能の欠如を、僕は甘ったれて時代の所為にしたという事なのか。そうかもしれない。時代を読み、時代に乗るのも才能ならば、まさにそれはその通りなのだろう。そんな才能ならいらぬ、そして、今日のこの日のこの観客以外に伝える相手を持たない芝居の、時代とともに変わらざるをえぬ〈軽薄な風貌〉と、薄れあるいは歪められやがて消滅する〈曖昧な記憶〉の運命に、僕は虚しさを感じた。本当は、それこそが芝居であったのに。
そうして、いつか僕は、時代を越える普遍的なものを求め欲していた。
前世紀まで〈普遍の真理=神〉は生きていた。合理主義もまた一つの〈神〉であった。が、世紀末の思想は〈神〉を疑い、やがてあらゆる〈神性〉を否定した。新たな〈神〉となったマルクスも、結局その威光を失った。もはや〈神〉など、どこにも存在しない。それを僕も信じていたし、誰もがその事を知っているのだと思った。しかし、前世紀までの哲人たちが如何に切実に〈神〉を必要とし、世紀末の「超人」たちが如何に苦悩に満ちて〈神〉を殺したか、あれだけ世界を震撼させたマルクスのテキストとはなんだったのか、いったいどれだけの人が、それらについて語れるというのか。
いくら神が死んだとしても、本来人間とは、何かしら普遍的なるものを信じねば生きられぬものではないのか……。
君たちの中にも、まだ神がいるのではないか。その神の顔を、薄暗い光の中でよく眼を凝らして見てみれば、君たちが殺した大きな神の面影を、そこに見つけるのではないのか。
僕は、初めて哲学を知りたいと思った。60年代を越えるためにも、ただ漠然と〈普遍的なるもの〉を求めている情けない自分を越えるためにも、かつての哲学を知る事が必要だと思ったのである。
しかしそれは、〈普遍的なる哲学〉〈普遍的なる精神〉〈普遍的なる言葉〉など決して存在しないのだという事を、哲学と、精神と、言葉によって、改めて確認する作業になるのであろうと、僕は初めから殆ど絶望的にそう思い込んでいた。
アルトーがシュールレアリスムの旗手ブルトンに会ったのが1924年、カミュがその「手帖」を書き始めたのが1935年。10年前の僕は、何故そんな古いものを振り回していたのか。
僕は、60年代の幻想の中にいた。花園神社の境内に設営されたテント、取り囲む機動隊に対峙する俳優たちと満員の観客、なんと素敵な時代なのだろう。僕は不幸にもその時代を知らない。知らぬからこそ、聞かされるその夜の出来事は、僕の中で伝説になった。例えばその花園神社の芝居にこそ、時代を動かす可能性があったのではないか。それを司るアンチテーゼとしての肉体の力。幻想かもしれぬ。だが、それは僕の夢と重なっていたのだ。僕にとって、依然60年代演劇は芝居の〈あるべき理想〉だったのか。
しかし、その理想は時代と不可分であった。時代が変われば成立しない理想であった。状況劇場にも、天井桟敷にも、もうかつての肉体の力などなかった。何故か。瀕死の理性を倒すのに、もう特別な力など必要なかったのである。アンチテーゼの役割を失った肉体は、僕にとって、もう魅力などなかった。だから、60年代の演劇は、依然僕の〈理想〉でもあったのだが、乗り越えるべきものでもあったのだ。正確に言えば、依然理想であったからこそ乗り越えるべきものだったのである。 問題は、如何に乗り越えるべきか。だが、それこそが五里霧中であった。
時代の〈敵〉は得体の知れないものに変貌し、その身を隠していた。つまらぬ時代だと思った。そして、敵のはっきりしていた60年代という時代を羨んだ。
しかし、時代を動かし変えることが夢だとして、その夢の叶わぬ時代を恨むとはどういうことか。夢は、置き去りにされている。それは、きっと夢に対する裏切りなのだ。僕は自分の夢を裏切っていた。
要するに、動かし変えた後の、あるべき時代の姿が見えなかったというだけのことなのである。それでもなお動かし変える事が夢だとはどういうことか。「反抗のための反抗」とは少年の甘えである。それを自覚したからという訳でもないのだが、芝居を仕事とし、芝居に夢を託さなくなってから、その時すでに何年も経っていた。
僕に、本当に夢があったのだろうか。あったような気がする。そして芝居を選んではみたが、やりたい芝居が見つからなかった……、何のことはない、個人的な才能の欠如を、僕は甘ったれて時代の所為にしたという事なのか。そうかもしれない。時代を読み、時代に乗るのも才能ならば、まさにそれはその通りなのだろう。そんな才能ならいらぬ、そして、今日のこの日のこの観客以外に伝える相手を持たない芝居の、時代とともに変わらざるをえぬ〈軽薄な風貌〉と、薄れあるいは歪められやがて消滅する〈曖昧な記憶〉の運命に、僕は虚しさを感じた。本当は、それこそが芝居であったのに。
そうして、いつか僕は、時代を越える普遍的なものを求め欲していた。
前世紀まで〈普遍の真理=神〉は生きていた。合理主義もまた一つの〈神〉であった。が、世紀末の思想は〈神〉を疑い、やがてあらゆる〈神性〉を否定した。新たな〈神〉となったマルクスも、結局その威光を失った。もはや〈神〉など、どこにも存在しない。それを僕も信じていたし、誰もがその事を知っているのだと思った。しかし、前世紀までの哲人たちが如何に切実に〈神〉を必要とし、世紀末の「超人」たちが如何に苦悩に満ちて〈神〉を殺したか、あれだけ世界を震撼させたマルクスのテキストとはなんだったのか、いったいどれだけの人が、それらについて語れるというのか。
いくら神が死んだとしても、本来人間とは、何かしら普遍的なるものを信じねば生きられぬものではないのか……。
君たちの中にも、まだ神がいるのではないか。その神の顔を、薄暗い光の中でよく眼を凝らして見てみれば、君たちが殺した大きな神の面影を、そこに見つけるのではないのか。
僕は、初めて哲学を知りたいと思った。60年代を越えるためにも、ただ漠然と〈普遍的なるもの〉を求めている情けない自分を越えるためにも、かつての哲学を知る事が必要だと思ったのである。
しかしそれは、〈普遍的なる哲学〉〈普遍的なる精神〉〈普遍的なる言葉〉など決して存在しないのだという事を、哲学と、精神と、言葉によって、改めて確認する作業になるのであろうと、僕は初めから殆ど絶望的にそう思い込んでいた。
(1994/5/27)
5月24日土曜日: 《1983年の僕を1994年の僕が解釈する》
カテゴリ: 《過去を解釈する》
【1983年の自己を解釈する】
哲学は、「二元論」を克服したのだろうか、今の弱った僕には、それを調べる気力がない。ただ、およそあらゆる二元論的思考を超えることが、どうやら現代哲学の課題の一つであるらしいと、何かで、読んだような気がする。あるいは、読書からしばらく離れていた間に、僕のうかがい知らぬ思想の先端というような場所で、それはもう克服されつつあるのかも知れない。しかし、やっぱりそれは、決して容易な事ではないだろうと思う。西洋哲学の伝統の呪縛か、デカルトを恨んでも始まらない。デカルトの罪ではないのだ。脳の回路がオン・オフのインパルスに支配されている限り、二元論の克服とは、どこか宇宙の別の星から、人間を解釈するような、そんな難事業ではないか。とはいうものの、あの頃の僕の拘っていた「肉体と精神の対立」とやらは、今となっては余りに黴臭い文庫本のように見える。1983年の〈時代の知性〉は、そんな古めかしい二元論にいくらこだわっても不毛な議論しか生まない事を熟知していて、だから奇抜な対処療法を開発して肉体と精神の和解を成立させて、あるいは「肉体と精神の対立」など元々どこにも存在していなかったかのように軽々と街に浮遊していた。と、僕は思い込んでいた。そうした〈スタイル〉は、十年経った今よりも、あの頃ずっと〈流行っていた〉ように思うのだ。しかし、あの頃の僕は、その〈流行〉から取り残されていた。
僕は、カミュの言葉を好んでノートに書き写していた。例えば……。
「言葉に寄せる信頼、それが古典主義だ。だがその信頼を維持するために、古典主義はまったく慎重に言葉を使う。言葉を信頼しない超現実主義はそれを乱用する。」
書き写しながら、僕は何を思っていたのか。「言葉」を信頼する古典主義者を擁護するカミュに僕は同意していたのではない。「言葉」に対して信頼を失っている事においては、僕も当時の〈新しい時代〉に影響されていた。しかし信頼していないものを使うのなら、なおさら慎重であるべきではないのか。カミュも〈新しい時代〉の〈新しい知性〉の軽々しさに対して反感を持っていた、と僕は思った。そういうカミュの言葉を、僕は僕の武器にしたかったのである。
「性欲はなにものにも導かない。それは不道徳ではないが非生産的だ。なにかを生み出そうと思わぬ時代には、性欲にふけることもいい。だが貞潔さのみが個人的な進歩に結び付いている。」
「性欲が勝利であるような時代もある。道徳的な戒律から性欲が解き放たれる時がそうだ。だがすぐにそれは敗北にいたる。そして唯一の勝利は、今度は性欲自体の征服だ。つまりそれが貞潔ということだ。」
ここでもまた、カミュの言う「貞潔」に何かを感じたのではなかった。「貞潔」ばかりでない。例えば「意志」だとか「愛」だとか、そういう事に対して何かを言うためには、ポジティヴな何かが必要なはずだった。だがそれを持たぬ僕は、結局「意見なし」であった。僕は単に「肉体」を信用していなかったのに過ぎない。そうして、ただカミュの言葉を借りて「肉体的現代」を罵ってみただけなのだ。要するに、あの頃の僕は、何も信じてなどいなかった。
「言葉」とは「精神」の謂である、と僕は単純に考えた。「言葉」を疑うのなら「精神」もまた疑われなければならない。だから、僕にとって「信じられない」という点において「精神」も「肉体」と同等だった。同等であるべきだった。ところが、「時代の知性」といわれる「精神」は、同等であるべき「感性」に〈従属〉してしまっている、と僕には感じられた。そして、軽々しく「肉体」を崇めている、と僕には見えた。それは「精神」の「精神」自身に対する裏切りであり「精神」の自己欺瞞に他ならぬ、と思った。
〈肉体と精神の二者択一〉という単純な図式にとらわれながら、肉体の優位に不満を持つ僕は、振子が揺れるように「精神」の側に寄りそっていった。しかし、「精神」の確固たる概念など何ひとつ持ち合わせぬ僕は、「精神」の中に、結局「言葉」しか見つける事ができなかったのである。僕にとって「精神」とは、相変わらず「言葉」のことであった。だが、やはり相変わらず、「言葉」は不信にまみれていた。それでも、糸口は「言葉」しか無かった。「言葉」によって、不信の複合体=「精神―肉体」について、つまり「人間に対する不信」について、〈慎重に〉〈誠実に〉報告する事、僕に出来る事はそれしか無かった。
「精神か肉体か」という黴臭い〈問い〉、つまるところその問いが、極めて幼稚であったというだけの事なのだろう。しかし、僕はどうしてもそれに躓かずにはいられなかった。はたしてそれが〈誠実〉な態度であったのかどうか、ともかく、苦しんではいたのだ。苦しみながら、「肉体」に敵対して「肉体」から離れた「言葉」、「肉体」と同様に信じてなどいない「言葉」を弄んだ。そして、苦しさから逃れるためにのみ、僕は〈書くこと〉を続けた。そうして書き続けながら、実は僕自身の肉体と精神こそがますます対立し分裂していったのである。
(なるほど、ならば不信の対象はこの僕自身であるべきだったのだ。)
「言葉」という閉ざされた世界でうめき声をあげる僕の精神は、僕自身の肉体を捨てて顧みなかった。肉体から遊離した精神は孤立し、五感から切り離された精神にはもう風を感じる力が無かった。そうして僕の失ったものは、生活、友人、風景……、それは数限りなかった。
(1994年5月26日)
「いつか人類が完全な健康をとりもどし、肉体と精神のあいだに平和が回復されたならば、そして肉体と精神が本来の調和によって結ばれたならば、キリスト教がその両者のあいだにうちこんだわざとらしい闘争はもうだれにも理解されなくなるだろう。自由な選択によっておこなわれた抱擁からうまれたよりしあわせな、より美しい世代は、歓喜の宗教によって人生を謳歌するようになり、地上のあらゆる快楽を悲しくもあきらめ、あたたかい、色彩にとんだ官能性を抹殺することによって色青ざめて、まるで冷たい幽霊のようになってしまった祖先のことを悲哀をこめて微笑するだろう。そうわたしは断言する。われわれの子孫はわれわれよりも美しく、よりしあわせになるだろうと。なぜならわたしは進歩を信じている。わたしは人類はしあわせになるようにさだめられているのだと信じている。」(ハイネ「ドイツ宗教 哲学史考」)
哲学は、「二元論」を克服したのだろうか、今の弱った僕には、それを調べる気力がない。ただ、およそあらゆる二元論的思考を超えることが、どうやら現代哲学の課題の一つであるらしいと、何かで、読んだような気がする。あるいは、読書からしばらく離れていた間に、僕のうかがい知らぬ思想の先端というような場所で、それはもう克服されつつあるのかも知れない。しかし、やっぱりそれは、決して容易な事ではないだろうと思う。西洋哲学の伝統の呪縛か、デカルトを恨んでも始まらない。デカルトの罪ではないのだ。脳の回路がオン・オフのインパルスに支配されている限り、二元論の克服とは、どこか宇宙の別の星から、人間を解釈するような、そんな難事業ではないか。とはいうものの、あの頃の僕の拘っていた「肉体と精神の対立」とやらは、今となっては余りに黴臭い文庫本のように見える。1983年の〈時代の知性〉は、そんな古めかしい二元論にいくらこだわっても不毛な議論しか生まない事を熟知していて、だから奇抜な対処療法を開発して肉体と精神の和解を成立させて、あるいは「肉体と精神の対立」など元々どこにも存在していなかったかのように軽々と街に浮遊していた。と、僕は思い込んでいた。そうした〈スタイル〉は、十年経った今よりも、あの頃ずっと〈流行っていた〉ように思うのだ。しかし、あの頃の僕は、その〈流行〉から取り残されていた。
僕は、カミュの言葉を好んでノートに書き写していた。例えば……。
「言葉に寄せる信頼、それが古典主義だ。だがその信頼を維持するために、古典主義はまったく慎重に言葉を使う。言葉を信頼しない超現実主義はそれを乱用する。」
書き写しながら、僕は何を思っていたのか。「言葉」を信頼する古典主義者を擁護するカミュに僕は同意していたのではない。「言葉」に対して信頼を失っている事においては、僕も当時の〈新しい時代〉に影響されていた。しかし信頼していないものを使うのなら、なおさら慎重であるべきではないのか。カミュも〈新しい時代〉の〈新しい知性〉の軽々しさに対して反感を持っていた、と僕は思った。そういうカミュの言葉を、僕は僕の武器にしたかったのである。
「性欲はなにものにも導かない。それは不道徳ではないが非生産的だ。なにかを生み出そうと思わぬ時代には、性欲にふけることもいい。だが貞潔さのみが個人的な進歩に結び付いている。」
「性欲が勝利であるような時代もある。道徳的な戒律から性欲が解き放たれる時がそうだ。だがすぐにそれは敗北にいたる。そして唯一の勝利は、今度は性欲自体の征服だ。つまりそれが貞潔ということだ。」
ここでもまた、カミュの言う「貞潔」に何かを感じたのではなかった。「貞潔」ばかりでない。例えば「意志」だとか「愛」だとか、そういう事に対して何かを言うためには、ポジティヴな何かが必要なはずだった。だがそれを持たぬ僕は、結局「意見なし」であった。僕は単に「肉体」を信用していなかったのに過ぎない。そうして、ただカミュの言葉を借りて「肉体的現代」を罵ってみただけなのだ。要するに、あの頃の僕は、何も信じてなどいなかった。
「言葉」とは「精神」の謂である、と僕は単純に考えた。「言葉」を疑うのなら「精神」もまた疑われなければならない。だから、僕にとって「信じられない」という点において「精神」も「肉体」と同等だった。同等であるべきだった。ところが、「時代の知性」といわれる「精神」は、同等であるべき「感性」に〈従属〉してしまっている、と僕には感じられた。そして、軽々しく「肉体」を崇めている、と僕には見えた。それは「精神」の「精神」自身に対する裏切りであり「精神」の自己欺瞞に他ならぬ、と思った。
〈肉体と精神の二者択一〉という単純な図式にとらわれながら、肉体の優位に不満を持つ僕は、振子が揺れるように「精神」の側に寄りそっていった。しかし、「精神」の確固たる概念など何ひとつ持ち合わせぬ僕は、「精神」の中に、結局「言葉」しか見つける事ができなかったのである。僕にとって「精神」とは、相変わらず「言葉」のことであった。だが、やはり相変わらず、「言葉」は不信にまみれていた。それでも、糸口は「言葉」しか無かった。「言葉」によって、不信の複合体=「精神―肉体」について、つまり「人間に対する不信」について、〈慎重に〉〈誠実に〉報告する事、僕に出来る事はそれしか無かった。
「精神か肉体か」という黴臭い〈問い〉、つまるところその問いが、極めて幼稚であったというだけの事なのだろう。しかし、僕はどうしてもそれに躓かずにはいられなかった。はたしてそれが〈誠実〉な態度であったのかどうか、ともかく、苦しんではいたのだ。苦しみながら、「肉体」に敵対して「肉体」から離れた「言葉」、「肉体」と同様に信じてなどいない「言葉」を弄んだ。そして、苦しさから逃れるためにのみ、僕は〈書くこと〉を続けた。そうして書き続けながら、実は僕自身の肉体と精神こそがますます対立し分裂していったのである。
(なるほど、ならば不信の対象はこの僕自身であるべきだったのだ。)
「言葉」という閉ざされた世界でうめき声をあげる僕の精神は、僕自身の肉体を捨てて顧みなかった。肉体から遊離した精神は孤立し、五感から切り離された精神にはもう風を感じる力が無かった。そうして僕の失ったものは、生活、友人、風景……、それは数限りなかった。
(1994年5月26日)
「いつか人類が完全な健康をとりもどし、肉体と精神のあいだに平和が回復されたならば、そして肉体と精神が本来の調和によって結ばれたならば、キリスト教がその両者のあいだにうちこんだわざとらしい闘争はもうだれにも理解されなくなるだろう。自由な選択によっておこなわれた抱擁からうまれたよりしあわせな、より美しい世代は、歓喜の宗教によって人生を謳歌するようになり、地上のあらゆる快楽を悲しくもあきらめ、あたたかい、色彩にとんだ官能性を抹殺することによって色青ざめて、まるで冷たい幽霊のようになってしまった祖先のことを悲哀をこめて微笑するだろう。そうわたしは断言する。われわれの子孫はわれわれよりも美しく、よりしあわせになるだろうと。なぜならわたしは進歩を信じている。わたしは人類はしあわせになるようにさだめられているのだと信じている。」(ハイネ「ドイツ宗教 哲学史考」)