昨日、11月19日付の朝日新聞。
81年に亡くなった民俗学者、宮本常一氏の記事。
彼の著作のほとんどは、記憶やメモを頼りに書かれたエッセー風なもので、事実誤認も多く、きちんとした研究論文としては使えない、それが学会の評価なのだという。だが、「文献ではさぐりあてられないものがたくさんある」、そう語る宮本常一氏が、歩いて見て聞いて集めた膨大な「情報」、特に10万枚という写真は、今、貴重な「材料」として注目を集めているのだ、という記事。

自戒を込めて。
書斎の中でたどり着いた結論の危うさ。だが一方で、見たり聞いたりした経験は、「読む」よりもはるかに重いので、数少ない偏った経験をもって全体を語ってしまう間違いもままあることだ。論敵から見れば、意図的に都合のよい例だけを持ち出している、ということになる。
守るべきは結論ではない。結論を導き出す元となった材料を、結論から切り離して、今一度見つめ直してみること、加えて、新しい材料にも謙虚であること。頑なになってしまった脳みそにとっては、なかなか困難な仕事に違いないのだが。

この記事の中に、懐かしい名前があった。民族文化映像研究所所長、姫田忠義さんである。氏は、この記事に寄せて、宮本常一さんとの出会いについて書いている。姫田さんのやってこられた数々のすばらしい仕事の原点は、宮本さんとの出会いにあったのだということを、この記事を読んで、初めて知った。
もう20年以上も前のこと。アイヌの芝居を作るにあたって、姫田さんの研究所に伺って見せていただいた熊祭りの映像は、今も鮮明に僕の記憶の中に残っている。
だが、その日のもう一つの記憶が、この「ブログらしきもの」の、ほんとうの物語の始まりなのである。

いくつかのアイヌのエピソードを綴ってからでないと、「沖縄のこと」にたどり着けないと、そのように何度か書いてきた。それは、「材料」をスッ飛ばして、今僕が考えている結論だけを語るのでは、伝えたいことが伝わらない、言い換えれば、「物語」として成立しないということなのだ。ところが、その材料たるエピソードを語るということが、どうもやっかいなのである。

僕は、この「ブログらしきもの」に、よほど著名な方以外については、その素性がわかるようなことを載せるつもりはなかった。しかし、それではいっこうに話を先に進められないという事態に至って、ここのところ腕組みして首を傾げる毎晩だった。
(この記事は10月20日の日付になっているが、実際に公開したのは11月の10日。ずいぶんと躊躇していたものだ。)

1985年の夏、それまで、「精神現象学」だ、「資本論」だ、グロトフスキだと読み耽っていた。その頃の僕は、ナショナリズムの真反対の地点にしか終着駅はないと思い込んでいた。普遍的な人格、それを獲得することの希望と絶望について、ひたすら考えていた。民族などという人間を区別する禍々しき概念を、人類が完全に捨てることになる遠い未来を、僕は夢想していたのである。だから、その頃の僕の「過去のノート」は、昔の夢想家たちという登場人物と、僕自身の身勝手な対話だけで、ほとんど事足りていた。

そんな時、「アイヌ」の芝居をやらなければならなくなった。
「日本」という「普遍を装った民族」に対峙する「アイヌ」という個性の存在は、僕を憂鬱にするに十分だった。

普遍なる人など存在し得ぬならば、否定されるべきは個性ではなく普遍ではないか。
価値あるものとは、普遍などではなく個性ではないのか。

僕は初めて、まともに隣人の顔を見た。

物語の始まりのエピソードは、また後日、嘘っぱちの日付で書く。