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カテゴリ: 《過去のノート》
当時の我が駒場高校において、不法にも煙草をふかす生徒どもは、120円の〈ハイライト派〉と大枚150円の〈ショッポ派〉に別れていた。〈ハイライト派〉はバンカラを気取り、〈ショッポ派〉はこだわりを強調した。〈ハイライト派〉の流れを汲む過激なチェーンスモーカーの〈ピー缶〉に憧れもあったが、ピー缶を腰にぶら下げて歩くことは、さすがに高校生には無理だった。その代行としての〈ロングピース〉という選択は、どこかカッコつけ過ぎでイヤラシかった。その他にもポピュラーな煙草として〈セブンスター〉なんてのもあるにはあったが、しかしそんな甘ったるい煙草を吸う奴などはいなかった。もしもそんなものを吸っていたりするやつがいたら、軟弱者と蔑んで遊んでなんかやらなかったに違いない。

しかし、やがて高校生活もその終わりが見えてきたころ、その〈セブンスター〉を吸う堕落者が現われ始めたのだ。その多くは、今まで煙草など吸うことのなかった真面目な生徒たちであった。彼らは「健全」に「一歩一歩」成長して、ようやく「大人」になろうとしていたのである。けれども決して冒険しない彼らがまず始めに体験する煙草は、当然のことに当時の最も軽い煙草である〈セブンスター〉だったのだ。かわいいものではないか。
ところがである。ところが驚いたことに、〈ハイライト派〉や〈ショッポ派〉から脱落して、〈セブンスター〉を吸う者たちが出てきたのである。そしてその数は徐々に増えていった。何故そんなことになったのか、今だによくわからない。きっとそれが時代の流れというやつなのだ。
しかし〈セブンスター〉を吸う者がいくら増えても〈セブンスター派〉などは出来なかった。なにしろ彼らには〈セブンスター〉を吸うことに何の主義も主張も無かったのだから。ただ軽いというだけのこと、それが証拠に、やがて〈マイルドセブン〉などという情けない煙草が新発売されると、彼らは挙ってそれに切り替えたのである。

時は流れ、煙草を吸って悪がきを装っていた我々の仲間たちひとりひとりに、日本国家から法的に喫煙が許可されていった。その頃、巷では煙草の害についての喧伝がなされるようになっていた。嫌煙運動などという聞くもおぞましい魔女狩りも始まった。気がつくと、〈ハイライト派〉も〈ショッポ派〉もすっかり解体していた。かつて〈ハイライト派〉に属していた僕も、とっくに〈マイルドセブン〉を吸うようになっていた。
「金がないからさ、親父の煙草を失敬するんだ」
そういって、堕落を貧乏のせいにして自己正当化した。決して親父に金を出してもらってるんじゃない。盗んでいるのだ、そういって突っ張っていたが、たまに自分で金を出して買う煙草も〈マイルドセブン〉だった。

そうして、ついに恐るべき時がやってきたのだ。煙草を止める仲間が出現したのである。もはやそんなやつを「仲間」と呼べるのだろうか、などと嘆いている暇もなく、禁煙の輪は拡がり続け、久しぶりに集まったりすると、喫煙者は僕だけという絶望的な状況が、度々僕を襲うようになった。
「何故だ!」
僕は、思わず叫びたくなることがある。不健康に美学を感じていた僕らの時代、あの素晴らしき日々はどこへいったのか!

ある日、こんなことを言った奴がいる。「まだ煙草なんか吸ってるの、はやらないよ」
《てめえ、誰に向かってモノ言ってやがるんだ! てめえはドアホか! てめえは流行で煙草止めたのか! 煙草やめれば女にもてるとでも思っていやがるのか! 鏡にテメエのその腑抜けた面を写して見やがれ!》
確かに、俺だって〈マイルドセブン〉にまで堕落してはいる。そいつは認める。しかし俺は、どうしても宣言せずにはいられなかった。
「俺は、死ぬまで、絶対に煙草を止めない! 煙草吸って、死んでやる!」

明日に続くのだ!!

カテゴリ: 「アイヌ」のこと
過去のノートの、1985年の8月26日に記した文章の後に、何をどう反省したのか、「特筆すべきことが無かった」はずの一週間の出来事を、僕は箇条書きにメモしている。

22日 新潟泊
23日 小樽へ
24日 積丹半島神威岬、特筆すべき美しさ
生うに丼、1300円、特筆すべき旨さと値段
    余市ニッカウ井スキー、試飲、蛇足
25日 札幌入

そして、さらに続けて、躊躇したような乱雑な書き込み。

19日 萱野茂「アイヌの碑」、自画自賛、駄作、あくまで読み物として

当時の僕に、正しい批評眼があったとは思えない。そんな僕の勝手な落書きを、ここで無責任に公開することは、もしかすると許されることではないのかもしれないが、これはあくまでも自らの未熟を報告するためのこと、どうかご容赦いただきたい。
いわゆる「観光アイヌ」としても働き、長老のアイヌ式の葬儀を、参列者からの白い目の中で記録し、失われていくアイヌの民具を買い集め、それらを展示する資料館を建設し、そういうふうに単純に並べてみれば、もしかするとアイヌの同胞たちから批判されかねない半生の、その苦労を綴るその語り口を、当時の僕は「自画自賛」と感じ、読み物としては「駄作」だと規定したのである。
萱野氏の半生に横たわる「ほんとうの出来ごと」に対して想像力を働かせることをせずに、「自画自賛」としか感じ取ることができなかった僕に非があることは間違いない。

といいながら、「駄作」などと言い放ったのと同じ間違いを、再び犯すかもしれないと恐れつつ、僕は今、萱野茂氏の「アイヌの碑」について、こう思っている。
萱野さんは、離れていった愛する同胞たちに向けて、必死に弁解していたのではないだろうか。「これが僕の本当の気持ちだったのだよ」と。
そう思って改めて「アイヌの碑」を開くと、やさしい文体で書かれてはいるのだが、僕はそのいたるところに深い悲しみを見つけ、涙なしに読み進めることが出来ないのである。

実際にお会いした萱野茂氏が話した「日本語」は、氏の著作の言葉とは全く違い、独特に滞り、独特に躓き、決してネイティブな「日本人」が扱う日本語とは思えなかった。何故そうだったのか、僕は、一生忘れ得ぬ萱野さんの「独特な声」を思い出しながら、いつかゆっくりとそのことについて考えてみたいと思っている。

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11月18日火曜日: 岐路

カテゴリ: 社長のつぶやき
子どもが大きくなり、芝居だけではどうにも食えないことに気がついて、そうして始めた仕事が忙しくなって、なかなか芝居が出来なくなった。

それでも四年ほど前、殺人的に忙しい仕事の合間をぬって稽古を重ね、舞台に立った。
自分から出てもいいよなどと言っておきながら、実際に出演を打診されると、結構迷った。アマチュアのサークルで芝居をやるわけではない。仕事帰りにちょっと稽古に参加するというわけにはいかない。プロなら、稽古以外の時間に、やっておかなければならぬことがある。
当時、まだ法人ではなかったが、仕事の量は、今と変わらなかった。そして、あらゆる業務で、最終的に僕が関わらなければ片がつかないという状況であった。むしろそういう状況を変えるためにこそ、芝居に出るのも悪くないのではないか、そうみんなに言われて、出演を決めた。

はたして、結果はどうであったのか。

朝、誰よりも早く事務所に入った。稽古にぎりぎり間に合う時間まで机に向い、促されて慌てて飛び出した。少し体を絞る必要もあったから、稽古場まで自転車で通った。3時間程度の稽古を終えると、そそくさと稽古場を出て、夜の町を事務所に向かって自転車のペダルを踏んだ。事務所に戻れば、やらなければならない仕事が山積みになって待っていた。

世間を風刺する演出家は、世のおじさんたちを、ポンチ絵のように語った。親会社のサラリーマンたちの顔が浮かんだ。全くもってその通りだとほくそ笑む自分と、素直に受け入れることのできない歳とった自分が共存していた。

一方、事務所ではどうだったのか。納品期日に間に合うかどうかの瀬戸際だというのに、延々と喫煙して談笑する者たちに苛立った。やはり俺がいなければケリがつかないのだろうかというふうに。

きっとその時から、僕は住み慣れた芝居の世界からも、アルバイトの延長のようだったビジネスからも、はみ出してしまったのだと、今にして思うのである。
僕はあの時、どちらかを捨てるべきであったのかもしれない。しかしそれができなかった。捨てたいのはビジネスであった。しかし、生きていくためには、ビジネスがどうしても必要であった。


もはや〈本郷〉にも学生運動など無く、ましてや〈駒場〉の近くの高校に〈政治的〉な何かがあろうはずもなかった。ただ民青の残党がどぶ鼠のように活動しているだけ、だが、というより、だからこそ、《サークル》のような〈甘ったるい〉ものじゃなく、〈尖った〉《徒党》を組まねばならぬと思った。しかし挫折した。僕らの〈主張〉に「君たちの言う事はよく分かるが、受験が近いからね」と答える連中、こいつらに〈過激な〉政治的言葉など無力だと思った。だが、〈主張〉などあったのだろうか。「僕らのやるべき事は政治ではない」と僕は言った。挫折したからそう言ったのではない。こんなこと、はじめからわかっていたはずだ、と僕は思っていた。
(1994/5/28)




カテゴリ: 沖縄の、こと
昨日書いた過去が、物語の始まりのエピソードなのではない。
昨日書いた過去について、ことさら何かを注釈するつもりはない。ただ、あの頃の自分自身の在りようを思い出している。
元々、公開するつもりのなかったその日のノートを昨日公開したのは、その日あったもうひとつの、何故か書き残すことをしなかった出来事の記憶を、鮮明にしたかったがためなのである。

4日前の日記で、思い切ってその方のお名前を公開してしまったわけだから、いまさら妙な小細工はしない。
あの日、その場所に劇団員が何名くらいいたのか、よく憶えてはいないが、「アイヌ」の文化について説明をしてくださっていた民族学者の姫田忠義氏が、わりと唐突に(と僕は記憶しているのだが)、その中にいた一人の女性を目ざとく見つけて、こう言った。

「そこのあなた、あなた沖縄の人だよねえ」
そして姫田氏は、彼女に苗字や生まれた場所などを聞いた。
「いいねえ、沖縄の人は。僕はね、沖縄の人が大好きなんだ」

細かいやり取りの記憶はないが、ただ俯く彼女の横顔を忘れてはいない。
最後に姫田氏は、十分な親しみを込めて、「ちょっと、色、黒いけどね」と、そう言って笑った。

姫田氏がどうのこうのというつもりは毛頭ない。
貴重な記録映像を目当てに氏の研究所を訪れる方は、当時たくさんいらっしゃったのだろうから、こんな小さな昔のエピソードを、今の氏が憶えていらっしゃるとも思えない。それをここで、ほとんど誰も読みに来ないような「ブログ」とはいうものの、ご紹介してしまったことについては、どうかお許しいただきたいと思う。ただ僕は、沖縄から出てきて間もない若い女性が、皆のいる中で評されて、どんな気持ちで俯いていたのか、それを、誰にというわけでもなく、想像してみて貰いたいと思うのみである。

この時の女性が、今の僕の子供たちの、大切な母親なのである。


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