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10月20日月曜日: 普遍から個性へ

カテゴリ: 「アイヌ」のこと
昨日、11月19日付の朝日新聞。
81年に亡くなった民俗学者、宮本常一氏の記事。
彼の著作のほとんどは、記憶やメモを頼りに書かれたエッセー風なもので、事実誤認も多く、きちんとした研究論文としては使えない、それが学会の評価なのだという。だが、「文献ではさぐりあてられないものがたくさんある」、そう語る宮本常一氏が、歩いて見て聞いて集めた膨大な「情報」、特に10万枚という写真は、今、貴重な「材料」として注目を集めているのだ、という記事。

自戒を込めて。
書斎の中でたどり着いた結論の危うさ。だが一方で、見たり聞いたりした経験は、「読む」よりもはるかに重いので、数少ない偏った経験をもって全体を語ってしまう間違いもままあることだ。論敵から見れば、意図的に都合のよい例だけを持ち出している、ということになる。
守るべきは結論ではない。結論を導き出す元となった材料を、結論から切り離して、今一度見つめ直してみること、加えて、新しい材料にも謙虚であること。頑なになってしまった脳みそにとっては、なかなか困難な仕事に違いないのだが。

この記事の中に、懐かしい名前があった。民族文化映像研究所所長、姫田忠義さんである。氏は、この記事に寄せて、宮本常一さんとの出会いについて書いている。姫田さんのやってこられた数々のすばらしい仕事の原点は、宮本さんとの出会いにあったのだということを、この記事を読んで、初めて知った。
もう20年以上も前のこと。アイヌの芝居を作るにあたって、姫田さんの研究所に伺って見せていただいた熊祭りの映像は、今も鮮明に僕の記憶の中に残っている。
だが、その日のもう一つの記憶が、この「ブログらしきもの」の、ほんとうの物語の始まりなのである。

いくつかのアイヌのエピソードを綴ってからでないと、「沖縄のこと」にたどり着けないと、そのように何度か書いてきた。それは、「材料」をスッ飛ばして、今僕が考えている結論だけを語るのでは、伝えたいことが伝わらない、言い換えれば、「物語」として成立しないということなのだ。ところが、その材料たるエピソードを語るということが、どうもやっかいなのである。

僕は、この「ブログらしきもの」に、よほど著名な方以外については、その素性がわかるようなことを載せるつもりはなかった。しかし、それではいっこうに話を先に進められないという事態に至って、ここのところ腕組みして首を傾げる毎晩だった。
(この記事は10月20日の日付になっているが、実際に公開したのは11月の10日。ずいぶんと躊躇していたものだ。)

1985年の夏、それまで、「精神現象学」だ、「資本論」だ、グロトフスキだと読み耽っていた。その頃の僕は、ナショナリズムの真反対の地点にしか終着駅はないと思い込んでいた。普遍的な人格、それを獲得することの希望と絶望について、ひたすら考えていた。民族などという人間を区別する禍々しき概念を、人類が完全に捨てることになる遠い未来を、僕は夢想していたのである。だから、その頃の僕の「過去のノート」は、昔の夢想家たちという登場人物と、僕自身の身勝手な対話だけで、ほとんど事足りていた。

そんな時、「アイヌ」の芝居をやらなければならなくなった。
「日本」という「普遍を装った民族」に対峙する「アイヌ」という個性の存在は、僕を憂鬱にするに十分だった。

普遍なる人など存在し得ぬならば、否定されるべきは個性ではなく普遍ではないか。
価値あるものとは、普遍などではなく個性ではないのか。

僕は初めて、まともに隣人の顔を見た。

物語の始まりのエピソードは、また後日、嘘っぱちの日付で書く。



カテゴリ: 《過去のノート》
1994年5月2日
《手術後初の転移再発の有無を調べる検査の結果を聞いて》
去年の1993年の1月のこと。川崎市の三十五歳検診で、僕の肺に影があることがわかった。所見は〈要経過観察〉。今回の僕の腎臓癌の手術を担当した医師は、その僕の胸の影を、手術の前から気にかけていた。腎臓癌の多くはまず肺に転移する。この影は、既に腎臓から転移してしまった癌の影ではないか……。腎臓癌と肺の転移部位の関係は微妙で、その片方をいじると、もう一方が動きだすということがままあるという不思議。そう聞いていたから、手術後最初の胸部CT検査の結果が出るのを、僕は未決囚のように待っていたのだ。
その〈判決〉が今日〈下った〉。問題の肺の影の正体は依然不明だが、その大きさは直径5ミリで手術前と変わらず。〈無罪〉か〈執行猶予つき〉か。ともかく大きな難関をひとつ越えたような気がして、ひとまず安堵する。血液検査の結果も異常無し。したがって、今のところ再発防止の為の抗癌剤投与の必要はなし、それがなりよりうれしい。今日はこれで、久々にゆっくりと眠れるかもしれない。


1994年5月26日
ひと月ずっと、ワープロを打ち続けている。
いくら打ち続けても、古いノートは、どこまでも〈稚拙な観念の亡霊〉の戯言が続いている。
しかし、今の僕がそこからどれ程成長しているというのか。なるほど幽霊ならば、転生でもして生まれ変わらぬ限り成長などしないだろう。振り返れば過去はすぐそこにある。僕は、その頃の「僕」をいまだ否定し得ない。というより、何も変わっていないのだと思う。過去の自分を解釈すると云いながら、その実、今の自分を改めて発見しているらしい。ならば、解釈し否定されるべきは、現在の自分なのではないかと、ノートを写せば写すほどその思いが募ってくる。


カテゴリ: 子供たちへの手紙
愛する子供たちへ
ずっと父さんは穴ぼこに落ち込んでいました。
毎日、お芝居という仕事はしていたけれど、現実は夢のようでした。
ただただ書物とだけ交渉をもち、自分の心の中だけを覗いて過ごしていました。
もちろん好き好んでそうしていたわけではありません。そんな自分に嫌気がさしてもいました。早く穴ぼこから抜け出したかった。そのためにこそ書物が必要だとも思っていたのです。しかし読めば読むほど、蟻地獄のように逆にその穴ぼこに捕らえられてゆきました。
そんな父さんを救ってくれたのが「おきなわ」なのです。

このノートは、父さんがどうやって「おきなわ」に導かれて穴ぼこから出て行ったかの記録でもあります。読んで、君たちはどう思うのだろう。「おきなわ」を知ってもなお、グルグルと迷い続ける父さんについて、でも弁解するつもりはない。ただ父さんは、きっと心から感謝していたのです。

何かの〈きっかけ〉があって〈傍観者〉になったのではない。だいたいが〈傍観者〉になったのかどうか、それが定かでないし、それまで〈傍観者〉でなかったのかというと、それもよくわからない。つまり、何が変わったというわけではないのだ。きっと、〈傍観者〉という〈言葉〉をどこからか拾ってきて、いいもの見つけたとばかりに、都合よく使い始めただけのことなのだ。確かに、直截的に語ろうとすると、いらつく現実が〈谷底〉にはたくさんあったから、〈傍観者〉というレッテルを自らに貼りつけて、〈山のてっぺん〉で蟄居した振りをして、読書三昧の生活を正当化することができれば、すこぶる楽だったに違いない。少なくとも表面的には。
(1994/5/31)
時系列で読む


「愛」など、どこにも無かった。だから、「苦しさ」の感覚だけが辛うじて僕の「精神」を「肉体」につなぎ止めていたものだった。その「苦しさ-肉体」を媒介として、「風景-外界」と交信し得る可能性が僕にもあった。しかし、「苦しさ」までも手放してしまった僕は、外部との通路を、完全に失ったのである。僕はそれに気づいていたのか。いや、そうではない。「愛」や「苦しさ」以外にも、世界と交渉する手段はいくらでもあるのだという事を、僕は知っていたのか。きっと気づこうとせず、知ろうとせず、甘えていたのではなかったか。



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