「いかなる人といえども、哲学者ほど幸福にはなり得ない。」(ヴォルテール)

 ショウペンハウエルは自分の幸福のために「厭世的な精神」へと逃げたにすぎない。彼は「厭世的な精神」を唱う「最高の精神的労作」とやらを仕上げ、それによって幸福を手中にしたのだ。
 だが誰もが「厭世的精神」によって救済されるとは限らない。

 「悠々たるかな天壌、遼々たるかな古今、五尺の小躯を以て、この大をはからむとす。ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチィーに価するものぞ。万有の真相は唯一言にて悉す。曰く『不可解』この恨みを懐いて、煩悶終に死を決す。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安ある無し。始めて知る、大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを」

 「大いなる楽観」が幸福と近しいものだとしても、藤村操は哲学者になれずに身を投げた。
 一方、晩年のショーペンハウエルは、毎晩豪華な食卓を囲み、高級なワインに酔いながら、自らの哲学を声高に語ったという。

 「自分の嗜好をひとつの哲学に仕立て上げること、しかもほとんど常にその嗜好をわかたない人々を軽蔑する哲学に仕立て上げることはきらいだ。」(サガン)

 しかし、あのソクラテスですらこう言ったのではなかったか、「僕が自分の言うことを真実だと思わせようと努力しているのは、この僕自身に対してなのだ」と。ましてや俗人のショーペンハウエルは、毎晩飲んだくれることで酒神ディオニソスをなだめ、辛うじて自分のアポロンの秩序を信じていられたのかもしれぬ。サガンよ、そう思えば哲学者も哀れではないか。

 「人間の幸福と不幸のこれらの一切のものの物質的基盤は、肉体的な快楽か肉体的な苦痛かである」。
「尤も人間は純粋に知的な享楽、極めて無邪気な遊戯乃至または日常の会話から始めて最高の精神的労作に至るまで多くの段階を含んでいる」。
「意志は段階的に現象化せられるものであり、それぞれの他の段階のものを犠牲にして生きている」。

 ショーペンハウエルは何を犠牲にして酒を飲んでいたのか。
 僕はといえば、哲学者にはなれず、身投げも出来ず、何も犠牲にせず。善でも悪でもなければ、それは馬鹿である。