08/06/11 : 《1983年7月22日のノート》
カテゴリ: 《過去のノート》
パスカル「パンセ」
「人間の誤謬の一番おもしろい原因は、感性と理性の戦いである。」(断章82)
「理性と感性とは争って欺き騙し合う。」(断章84)
「二つの極端。理性を排除すること、理性をしか受け入れぬ事。」(断章253)
「理性の最後の歩みは、理性を超えた事物が限りなくあるということを認めることである。」(断章267)
「理性にとって、理性の否認という事ほどふさわしいものはない。」(断章272)
「理性と情念との間に行われる人間の内部の戦い。
もし人間が情念を持たず理性だけを持っているとしたら……
もし人間が理性を持たず情念だけを持っているとしたら……
しかし人間はいずれをも持っているために、戦わないでいることが出来ない、なぜなら一と戦うことによってしか他と平和を保つことはできないのであるから。それ故人間 は常に分立し、自己に逆らう。」(断章412)
「理性と情念との間のこの内的闘争は、平和を望んだ人々を二派に分けた。一は情念を捨てて神となることを望み、他は理性を捨てて野獣となることを望んだ。しかしいずれも叶わなかった。理性は依然としてとどまり、情念の卑小と不正をとがめ、理性を捨てる人々の憩いをかき乱すのであり、また情念は情念を捨てようと望む人々のうちに依然として活発に存在するのである。」(断章413)
「真に我々を知ることができるのは、理性の傲慢なる活動によってではなく、反って理性の素直な服従によってである。」(断章434)
そこから「愛」への道程。パスカルにとってはたった一歩の距離でも、信仰に縁なき者には隠されている道。
パスカルは「神を知るがゆえに心から神につかえる人々」と「神を知らぬがゆえに神を捜し求める人々」(断章194)について語ったが、「神を知らぬ人」が「神を捜し求める」ようになるまでの道程は明らかではない。
きっと、そうではない。隠れているのは、道ではなく、別の顔を持つ無数の「神」なのではないか。
その神は、君たちの、すぐ隣にいる。
(断章233)「賭け」について。
(断章460)三つの秩序「身体」「精神」そして「意志」。
(断章475)固有の意志とその幸福について。
(断章793)三つの秩序「身体」「精神」そして「愛」。
「人間の誤謬の一番おもしろい原因は、感性と理性の戦いである。」(断章82)
「理性と感性とは争って欺き騙し合う。」(断章84)
「二つの極端。理性を排除すること、理性をしか受け入れぬ事。」(断章253)
「理性の最後の歩みは、理性を超えた事物が限りなくあるということを認めることである。」(断章267)
「理性にとって、理性の否認という事ほどふさわしいものはない。」(断章272)
「理性と情念との間に行われる人間の内部の戦い。
もし人間が情念を持たず理性だけを持っているとしたら……
もし人間が理性を持たず情念だけを持っているとしたら……
しかし人間はいずれをも持っているために、戦わないでいることが出来ない、なぜなら一と戦うことによってしか他と平和を保つことはできないのであるから。それ故人間 は常に分立し、自己に逆らう。」(断章412)
「理性と情念との間のこの内的闘争は、平和を望んだ人々を二派に分けた。一は情念を捨てて神となることを望み、他は理性を捨てて野獣となることを望んだ。しかしいずれも叶わなかった。理性は依然としてとどまり、情念の卑小と不正をとがめ、理性を捨てる人々の憩いをかき乱すのであり、また情念は情念を捨てようと望む人々のうちに依然として活発に存在するのである。」(断章413)
「真に我々を知ることができるのは、理性の傲慢なる活動によってではなく、反って理性の素直な服従によってである。」(断章434)
そこから「愛」への道程。パスカルにとってはたった一歩の距離でも、信仰に縁なき者には隠されている道。
パスカルは「神を知るがゆえに心から神につかえる人々」と「神を知らぬがゆえに神を捜し求める人々」(断章194)について語ったが、「神を知らぬ人」が「神を捜し求める」ようになるまでの道程は明らかではない。
きっと、そうではない。隠れているのは、道ではなく、別の顔を持つ無数の「神」なのではないか。
その神は、君たちの、すぐ隣にいる。
(断章233)「賭け」について。
(断章460)三つの秩序「身体」「精神」そして「意志」。
(断章475)固有の意志とその幸福について。
(断章793)三つの秩序「身体」「精神」そして「愛」。