山積みされた課題。
解放の時代から、解放されたものによる思考の時代へ。だが「身体的知力」は「言葉」に匹敵する言語を持ち得るのか。
一週間前の自分に言ってやりたい事がたくさんある。しかし奴は聞く耳を持たず、今の俺の言葉のほとんどを理解しないだろう。
(しかし本当のところどちらが正しいのか、それが判然としないということも問題なのだが。)
“He is not what he was.”(「彼は昔の彼ならず」太宰治)

ある事柄に関する〈センス〉に就いて。それは真理認識の為の有利な条件だが、同時に重大な誤謬を犯す危険の種でもある。

書けば書くほど嘘になる。嘘を書きたくはないく。だから捻り出してまで書こうとは思わぬ。
絶望、デカダンスの誘惑、そいつを振り切って「まだ自分のものであるはずの高潔さにとどまるために」
…それこそ嘘っぱちだ。
絶望に見合った「深さ」から、未だ僕は遥か遠い所にいる。あいも変わらぬ「深奥さ」に対する憧憬。

〈統一の意志〉のためのメモ。
“本質的発見”への道程
[精神(精霊)《混沌》]→[中間項《統一への過程》]→[《統一》=《知的混沌》]
中間項におけるバランス=個性。
「あまりに多く経験し過ぎる事」の【絶望】を超えて。