09/03/23 : 《1983年7月14日のノート》
カテゴリ: 《過去のノート》
「作品はあるがままに額面どおり受けとるべきで、デカルト流の機械的論理の適用はあきらめた方がよい。その直接的な映像は合理的裏付けなしに、映像自体が、十分語るのである。」
(ミシェル・コルヴァン)
「まぎれもない象徴は、むろん形象される思想の形態に対する、そのものずばりの精神の執着から生じる。それは断じて解釈ではないのだ。また解釈されることも断じてありえない。」
(マルセル・レイモン)
岩淵達治氏は不条理演劇の作家たちについて「存在の不条理を、条理や論理的思考を意識的に放棄することによって表現する」という。
意識的に放棄しようとする主体は、はたして論理なのか、あるいは分裂以前の存在なのか。
「意識的に放棄する」ことと「無意識のうちに放棄している」ことの違いは何なのか。
演劇は、結局のところ「言葉」の呪縛から逃れられないということの表現なのか。
あるいはまた、音楽家や画家の意識は、言語から解放されているのだろうか。
《統一の意思のために》
ある対象に対して、あるいはある状況に対して、概念であるはずの「美」や「愛」を、実体あるものとして感じるためには「知的能力」が必要である。《統一の意思》の論理に照らしていえば、「美」及び「愛」を感知する「知的能力」が、他の「知的能力」によって妨げられない(否定されない)ことが、「美」「愛」の顕在化の条件である。結局のところ、「美」や「愛」だからといって特権を与えられているわけではなく、各々の「知的能力」の相対性に影響されるという一般的な法則に支配されているということである。
《統一の意思》の論理でいえば、「その場に応じた価値観」を敢えて比較の俎上に乗せて、さらに高い知的レベルの形成を目指す。つまり相対的でしかない「知性」を、知性の総体=絶対的知性に構築することが可能なのだという理念を、原初的欲求群もまた信じているのである。
しかし、現実的な問題点として、具体的場面においては、「知性(欲求)」の対立は、「折り合い」をつけられればそれでいいというような対処療法的な解決を期待される課題として立ち現れてくるために、結果、「知性・感情・欲求」の構成要素の一部が抑圧され、無意識の領域へ隠されてしまうことであった。本来、理念としては、「知性・感情・欲求」は分析細分化され、そして全ての要素は再構築されることを期待されていたはずなのである。
その解決は、抑圧された要素を、何度でも再認識し、様々な対立を作り出し、そして再構築作業を無限に繰り返すことで、限りなく「絶対的知性」へ志向する以外に方途はない。確かにそれはひとつの絶望の認識ではあるが、中間者としての人間という現実を受け入れれば、理念として機能するのである。
理念として、最終的にたどり着くであろう状態こそ、あらゆる身体器官、さらに「第一物理」における「知的混沌」である。
「美」および「愛」は、だが特別である。
「美」および「愛」は、「知的混沌」への道程における個人的限界(あるいはその類似状況)の昇華的表象なのである。
但し、「美」や「愛」に関係する対立は、往々にして「欲求」対「理性」(無意識であれば「リビドー」対「超自我」)という単純な形で現れるであろうということである。
その時、「欲求(リビドー)」を純粋に(無条件)に、あらゆる対立から解放することによって、言い換えれば「統一の意思」による盲目的全面的「人格」の付与によって、「第一物理」の「知的混沌」という最終的状況が啓示されうる場合があるのだ。まさに「不条理」である。
ただ、いつでも我々は、次のことを認識していなければならない。
「啓示」は、たとえ「知的混沌」の鏡であったとしても、常にその一要素でしかないということ。また、無条件的な解放を前提にしているために、対立を内包せず、また表現もされていないということである。これらは、極めて「モラル」の問題でもある。つまり、理性の抑圧である。
(ミシェル・コルヴァン)
「まぎれもない象徴は、むろん形象される思想の形態に対する、そのものずばりの精神の執着から生じる。それは断じて解釈ではないのだ。また解釈されることも断じてありえない。」
(マルセル・レイモン)
岩淵達治氏は不条理演劇の作家たちについて「存在の不条理を、条理や論理的思考を意識的に放棄することによって表現する」という。
意識的に放棄しようとする主体は、はたして論理なのか、あるいは分裂以前の存在なのか。
「意識的に放棄する」ことと「無意識のうちに放棄している」ことの違いは何なのか。
演劇は、結局のところ「言葉」の呪縛から逃れられないということの表現なのか。
あるいはまた、音楽家や画家の意識は、言語から解放されているのだろうか。
《統一の意思のために》
ある対象に対して、あるいはある状況に対して、概念であるはずの「美」や「愛」を、実体あるものとして感じるためには「知的能力」が必要である。《統一の意思》の論理に照らしていえば、「美」及び「愛」を感知する「知的能力」が、他の「知的能力」によって妨げられない(否定されない)ことが、「美」「愛」の顕在化の条件である。結局のところ、「美」や「愛」だからといって特権を与えられているわけではなく、各々の「知的能力」の相対性に影響されるという一般的な法則に支配されているということである。
《統一の意思》の論理でいえば、「その場に応じた価値観」を敢えて比較の俎上に乗せて、さらに高い知的レベルの形成を目指す。つまり相対的でしかない「知性」を、知性の総体=絶対的知性に構築することが可能なのだという理念を、原初的欲求群もまた信じているのである。
しかし、現実的な問題点として、具体的場面においては、「知性(欲求)」の対立は、「折り合い」をつけられればそれでいいというような対処療法的な解決を期待される課題として立ち現れてくるために、結果、「知性・感情・欲求」の構成要素の一部が抑圧され、無意識の領域へ隠されてしまうことであった。本来、理念としては、「知性・感情・欲求」は分析細分化され、そして全ての要素は再構築されることを期待されていたはずなのである。
その解決は、抑圧された要素を、何度でも再認識し、様々な対立を作り出し、そして再構築作業を無限に繰り返すことで、限りなく「絶対的知性」へ志向する以外に方途はない。確かにそれはひとつの絶望の認識ではあるが、中間者としての人間という現実を受け入れれば、理念として機能するのである。
理念として、最終的にたどり着くであろう状態こそ、あらゆる身体器官、さらに「第一物理」における「知的混沌」である。
「美」および「愛」は、だが特別である。
「美」および「愛」は、「知的混沌」への道程における個人的限界(あるいはその類似状況)の昇華的表象なのである。
但し、「美」や「愛」に関係する対立は、往々にして「欲求」対「理性」(無意識であれば「リビドー」対「超自我」)という単純な形で現れるであろうということである。
その時、「欲求(リビドー)」を純粋に(無条件)に、あらゆる対立から解放することによって、言い換えれば「統一の意思」による盲目的全面的「人格」の付与によって、「第一物理」の「知的混沌」という最終的状況が啓示されうる場合があるのだ。まさに「不条理」である。
ただ、いつでも我々は、次のことを認識していなければならない。
「啓示」は、たとえ「知的混沌」の鏡であったとしても、常にその一要素でしかないということ。また、無条件的な解放を前提にしているために、対立を内包せず、また表現もされていないということである。これらは、極めて「モラル」の問題でもある。つまり、理性の抑圧である。