08/09/18 : 《1984年1月24日のノート》
カテゴリ: 《過去のノート》
「ロオラン曰く、芸術の窮まる所無限の静なり。プウサンを見よ。ミシェルアンジュのごとき未だしと。また年長じていよいよゲエテの大を知る」
と成瀬語る。芥川それを聞きて
「しごくもっともなり」
と「我鬼窟日録」に記す。
それより半世紀隔てて我それを読み、そしてそれをここに写す。これこそ文学の糞の糞。ついに糞集めの道極めて世捨て人となるか。
性懲りも無く…
「落莫たる人生も、涙の靄を透して見る時は、美しい世界を展開する。お君さんはその実生活の迫害をのがれるために、この芸術的感激の涙の中へ身を隠した。」
「この涙は、人間苦の黄昏のおぼろめく中に、人間愛の灯火をつつましやかにともしてくれる。」(「葱」芥川竜之介)
まどろみの中で…
読書に疲れて眠りについたのは、もう東の空が白み出した頃だったろう。だから昼近い強い日差しに起こされても、僕はまだ朦朧として寝床に横になっていた。すると、あのお君さんが部屋のドアを開けて入ってきた。二言三言ことばを交わしたのだろうか。お君さんは、書棚に並んだ僕の蔵書の背表紙を順繰りに調べ始めた。何とはなしに、僕も彼女の視線を追っていた。フローベル、ストリンドベリ、漱石、そして芥川、……新しい作家のものは一つもない、……と、お君さんが快活な声をあげた。
「あたしの大好きな本がみんなあるわ。特に『不如帰』なんか、もう何度も読んで、それでいていつでも泣いてしまうんですのよ。」
何も不思議な事ではない。「不如帰」も「藤村詩集」も「松井須磨子の一生」も、「新朝顔日記」も「カルメン」も、お君さんが好きだということは、「葱」を読んで前から知っているのだ。だからこそ、読んで君を理解するために買いおいてあるのだ。
〈ははあ、彼女は、まだ「葱」を読んでいないのだな、お君さんのこと、あんなにたくさん書いてあるというのに〉
そのお君さんは「不如帰」を手にとってパラパラと頁をめくっている。
〈いやそうじゃない、お君さんは死ぬまで「葱」など読まないのだろう。彼女の人生には、数冊の名作さえあれば、それで十分なのだ。〉
ふと、お君さんはもうその姿を消していた。
「俊寛」芥川龍之介……
「涙に透かして見れば、あの死んだ女房も、どのくらい美しい女に見えたか」
だが……
「わたしはあなたに慰められるよりも、笑われるほうが本望です。」
そして俊寛はとうとう吹き出した。
「葱」との違い。涙の芸術の嘘。
と成瀬語る。芥川それを聞きて
「しごくもっともなり」
と「我鬼窟日録」に記す。
それより半世紀隔てて我それを読み、そしてそれをここに写す。これこそ文学の糞の糞。ついに糞集めの道極めて世捨て人となるか。
性懲りも無く…
「落莫たる人生も、涙の靄を透して見る時は、美しい世界を展開する。お君さんはその実生活の迫害をのがれるために、この芸術的感激の涙の中へ身を隠した。」
「この涙は、人間苦の黄昏のおぼろめく中に、人間愛の灯火をつつましやかにともしてくれる。」(「葱」芥川竜之介)
まどろみの中で…
読書に疲れて眠りについたのは、もう東の空が白み出した頃だったろう。だから昼近い強い日差しに起こされても、僕はまだ朦朧として寝床に横になっていた。すると、あのお君さんが部屋のドアを開けて入ってきた。二言三言ことばを交わしたのだろうか。お君さんは、書棚に並んだ僕の蔵書の背表紙を順繰りに調べ始めた。何とはなしに、僕も彼女の視線を追っていた。フローベル、ストリンドベリ、漱石、そして芥川、……新しい作家のものは一つもない、……と、お君さんが快活な声をあげた。
「あたしの大好きな本がみんなあるわ。特に『不如帰』なんか、もう何度も読んで、それでいていつでも泣いてしまうんですのよ。」
何も不思議な事ではない。「不如帰」も「藤村詩集」も「松井須磨子の一生」も、「新朝顔日記」も「カルメン」も、お君さんが好きだということは、「葱」を読んで前から知っているのだ。だからこそ、読んで君を理解するために買いおいてあるのだ。
〈ははあ、彼女は、まだ「葱」を読んでいないのだな、お君さんのこと、あんなにたくさん書いてあるというのに〉
そのお君さんは「不如帰」を手にとってパラパラと頁をめくっている。
〈いやそうじゃない、お君さんは死ぬまで「葱」など読まないのだろう。彼女の人生には、数冊の名作さえあれば、それで十分なのだ。〉
ふと、お君さんはもうその姿を消していた。
「俊寛」芥川龍之介……
「涙に透かして見れば、あの死んだ女房も、どのくらい美しい女に見えたか」
だが……
「わたしはあなたに慰められるよりも、笑われるほうが本望です。」
そして俊寛はとうとう吹き出した。
「葱」との違い。涙の芸術の嘘。