(ドストエフスキー「地下室の手記」)
「賢い人間が本気で何者かになることなどできはしない、何かになれるのは馬鹿だけだ、などと。さよう、十九世紀の賢い人間は、どちらかといえば無性格な存在であるべきで、道義的にもその義務を負っているし、一方、性格を持った人間、つまり活動家は、どちらかといえば愚鈍な存在であるべきなのだ。」
「ぼくが自分を賢い人間とみなしているのは、ただただ、ぼくが生涯、何もはじめず、何もやりとげなかった、それだけの理由からかもしれないのである。」
「もし世の賢い人間の第一の、そしてただ一つの使命が饒舌であるとしたら。つまり、みすみす無の内容を空のうつわに移しかえることでしかないとしたら。」
                     
神は殺された。運命もなければ歴史もない。もう、この「地下室」には何も無い。ただ限りない逆説があるだけだ。カントの名が使われても、それは逆説を引き立たせる香辛料、それ以上の意味はない。ここには弁証法という「不断のプロセス」はあるが、発展は無い。「あまのじゃく」という、〈内容〉の無い人間の〈形式〉があるだけだ。だがそれは、確かに逃れられない人間の真実だ。その逃れられない〈どうどうめぐり〉から逃れるために、ドストエフスキーは〈傍観者〉となって「手記」を書いた。
全ての「生」に共通した内容が唯一「悪」であることに気づいてしまった臆病者は、自殺も出来ずに、そして〈何者でもない傍観者〉となる。しかし〈何者でもない傍観者〉などという曖昧な場所に、人は長く居られない。それでもなお「悪」を嫌う者は、例えば小説家になる。〈傍観者〉から〈饒舌家〉へ。正しくは〈積極的に傍観しようとする傍観者〉から〈饒舌であることに消極的な饒舌家〉へ。あるいは〈誰からも愛されないことを願う真の怠け者〉から〈誰からも愛されようとする偽の怠け者〉へ。

(別役実「象」)
「もう僕たちは何もしてはいけないんです。何かをするってことは、とても悪いことなんです。静かに寝てる事です。」

(サガン「悲しみよ、こんにちは」)
セシルとは、罪悪感を持たぬ十八歳の少女フランソワーズ・サガンの分身。
「アンヌはものごとをはっきりとさせ、父や私だったなら、わざと聞き流してしまう言葉にも意味を与える、といった人だった。」
「そして(彼女は)後でこう言うのよ『私は自分の責任を果たした』なぜって何もしなかったからなのよ。もしもあの人が自分の生まれた境遇から、街の女になったとしたら、それなら彼女は偉いと思うわ」 

語るべきは〈地下室の住人〉に就いて。何も生み出さず、形づくらない芸術家、あるのはただ空想という名の芸術。誰からも愛されようとする饒舌家ではなく、「万人に勝利した」と信ずる、傍観者という名の、真の芸術家の、その可能性に就いて。
しかし……。
 「自分のために愚にもつかぬことまで望めるという権利、自分のためには賢明なことしか望んではならないという義務にしばられずにすむ権利」
「人間がいまだに人間であって、ピアノの鍵盤ではないことを、自分で自分に納得させたいために」
「たとえ行先はどこであろうと、自分の道を切り開いていくものなのだ」
「人類の目的」は「不断のプロセス、生そのもののなかにこそ含まれているのであって、目的それ自体のなかには存在していない」……
シクロフスキーは言う。「これは絶望の分析であって、理想の拒絶ではなかった」と。しかし僕は思う、何もかもが、〈傍観者〉から〈犯罪者〉への、「あさましいただし書き」ではないのか……。
「せめて一人だけでも、現実に生きている実在の人間を持っている必要があった」
〈芸術〉という名の〈殺人〉。〈殺人〉という名の〈芸術〉。

(太宰治「秋風記」)
「ひとことでも、ものを言えば、それだけ、みんなを苦めるような気がして、むだに、くるしめるような気がして、いっそ、だまって微笑んで居れば、いいのだろうけれど、僕は作家なのだから、何か、ものを言わなければ暮してゆけない作家なのだから……」

ところで僕は何者でもない。外の見えぬ地下室から一歩も出ることなく、そのうえ想像力さえ持ち合わせぬこの僕は、〈単なる傍観者〉にすらなれない。この僕の地下室には、たとえ幻覚でさえ「ぼた雪」の降ることなど決してない!

傍観者たる目を持つことが芸術家としての良心だと言いながら、一方で自分の創造する作品によって自己の全的実現を果たすというのはどういうことか。いかなるものも見る者によって違って見える、そしてそれが個性だなどと薄っぺらな事を言うのだろうか。僕はそんな虫のいい芸術家になりたい訳ではない。真の傍観者は、もっと苦渋に満ちているはずなのだ。
(ドストエフスキー「地下室の手記」)
「誇張癖」……「人をたぶらかす行為は、けっこう感傷癖と両立するものなのだ」

そして・・・

(芥川龍之介「文芸的な、余りに文芸的な」)
「地獄は炎の中に『したことの後悔』を広げているように、天国は『しないことの後悔』に充ち満ちている」