今日はひとつ結論めいたことを書いてやろう。なるほど僕は勘違いしていたのだ。絶望は、もっと前から坦々と僕の中にあった。そうだ、絶望とは坦々としたものなのだ。だから、こんなものは絶望でも何でもありゃしない。こいつはたんなる淋しさだ。そして、僕はいつも誰かと、その淋しさを分かち合いたいと、ずいぶんと甘ったれた希望を抱いていたんだ。そうして、幾度、僕は負け犬として塒へ戻って来たことか。もういいだろう。帰ろう、あの懐かしい〈坦々とした絶望〉の世界に。

そうして、そこで僕は何を考えようか。肉体と精神の関係、しかし今度は肉体に拘束された精神についてではなく、精神を肉体に還元する可能性について考えるのだ。それは、言葉が肉体を持ちながら、なお自由であり得るかという表現の問題でもあるのだ。何故そんなことを考えるのか。僕は書くことを通じてふたつのことを知ったのだ。絶望は表現されることによってのみその名を変えること、言葉は肉体を持って初めて力を得ること。そして残された課題は〈自由〉であるということ。そのことに気付かせてくれたあの人に感謝しよう。

だが〈坦々とした絶望〉へ戻っていくなどと言う前に、お前はその〈坦々とした絶望〉とやらを疑ってみるべきではないのか。〈坦々とした絶望〉こそ、お前の〈甘ったれた淋しさ〉そのものではないのか。いや、そんなふうに概念の世界に閉じこもる前に、お前は、今ここでやり残した事はないのか。