09/03/25 : 《1985年1月22日のノート》
カテゴリ: 《過去のノート》
キルケゴールを読んでいると、彼の言葉を援用してそこらに転がっている気に入らぬ事どもをあれこれと色々批判してみたくなる。だがキルケゴールの根本にある「厳格な態度」に従えば、物事を安易に批判することは許されない。
ならばいたって厳密に、芥川の自殺における「ぼんやりとした不安」のキルケゴール的分析だとか、ポーやドストエフスキーの「あまのじゃく」を自由と涜神の関係において述べるなんていうのはどうだろう。いや、やはりそれはそれでキルケゴールの言うところの「真剣さ」を欠いている。
ともかく、「新たな閉鎖性」を生み出すことになるようなキルケゴールの利用の仕方は控えること。
まずは僕自身の思考を、《閉鎖性》というキーワードで批判してみる……。
なんのことはない。僕は結局キルケゴールを使って全く実のない詭弁を弄しているだけ、それこそ「厳格」でもなければちっとも「真剣」でもない……。
どこまでも「閉ざされた」一人よがりの世界。
ならばいたって厳密に、芥川の自殺における「ぼんやりとした不安」のキルケゴール的分析だとか、ポーやドストエフスキーの「あまのじゃく」を自由と涜神の関係において述べるなんていうのはどうだろう。いや、やはりそれはそれでキルケゴールの言うところの「真剣さ」を欠いている。
ともかく、「新たな閉鎖性」を生み出すことになるようなキルケゴールの利用の仕方は控えること。
まずは僕自身の思考を、《閉鎖性》というキーワードで批判してみる……。
なんのことはない。僕は結局キルケゴールを使って全く実のない詭弁を弄しているだけ、それこそ「厳格」でもなければちっとも「真剣」でもない……。
どこまでも「閉ざされた」一人よがりの世界。